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島津久光の行動
幕末の薩摩藩では、斉彬亡き後も久光を国父として久光主導で「文久の改革」を実行したと思うんですが 何をきっかけに、西郷・大久保・小松らの主導にかわったのでしょうか? かなり久光は野心・改革のプランをもっていたのに、なぜ、自分が全面に出ず、西郷・大久保・小松らに幕末の薩摩藩を動かせたんでしょうか? 自分としては、文久の改革、生麦事件までは久光が全面にでてたのに それ以降の薩摩藩の行動が、西郷ら中心の動きみえます。 (もちろん西郷らは久光にかなり気を遣ったと思いますが) 是非、教えて下さい!!
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noname#76238
回答No.1
久光は根っからの殿様なのでもともと自分が主導で行ったのは少なかったはずです。 西郷・大久保にうまく言いくるめられてたと思います。彼らの倒幕運動を「徳川幕府を倒して島津幕府になる」と思っていたようです。 有名な逸話で、大久保らに「いつ俺が将軍になるんだ」と聞いたりとか、倒幕後、西郷に騙されたと思い込み、憎らしくてギュッと噛んだキセルに歯型が残ったとかあります。 維新後もちょんまげスタイルをつらぬき、攘夷の姿勢を崩さなかったそうですから、鉄壁の保守派でしょうね。 質問に沿わなかったでしょうか?
お礼
回答ありがとうございます。 根っからの殿様であったことはそうだと思うんですが 自分を田舎者呼ばわりした西郷と仲が悪かったり 約800兵率いて上洛したり 文久の改革を幕府に突きつけたり 幕政に参加しようとしたり いろいろ薩摩が久光主導で動いていると思うのですが この感覚は勘違いでしょうか?