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西郷隆盛と西南の役
人や歴史のファクターは単純ではないことはいうまでもありません。 西郷隆盛が、西南の役につながる、話を持ってこられた時、「自分の命を差し上げましょう」という意味内容の返事をしたとのことは聞いています。 そういう応答は 1. 兵を挙げる趣旨に賛成か同情をしたのでしょうか。 2. それは自分の身についても、自己解釈として、不満や不遇などを持っていたということがあり、それも動機につながっているとも理解できるでしょうか? 3. 薩摩藩での西郷隆盛の身分がどういうものか存じませんが、殿様の御庭役とかに就かれたという話です。 この御庭役というのは、藩士の処遇の中ではどんな位置づけなのでしょう。 御庭役とはいったいどんな身分と、職務なのでしょう。 どうかお教えください。
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1. 兵を挙げる趣旨に賛成か同情をしたのでしょうか。 彼が征韓論に固執したところから話が始まるのではないでしょうか。征韓論に固執した理由については正確なところは彼しか知らないわけですが、 1)徴兵制により身分を保証されなくなった士分のエネルギーをどこにもっていくか。 2)維新は焦土の中から国家をつくる精鋭が現れるという彼の理想があったようですが、本来破壊すべき徳川以来の官僚制度に、猟官目的の田舎者が群がり国家を私物化しはじめた。これに対する庶民の怒りをどうするか。 3)李鴻章(清)との対露戦略交渉では、ロシアの南進に対し軍隊として日本の武士を派遣する計画があったこと。 こうしたことが複雑にからみあって、征韓論が破れ、鹿児島に下野した後には、桐野・別府ら私塾暴発もやむなしと諦観していたところはあるのではないでしょうか。 2. それは自分の身についても、自己解釈として、不満や不遇などを持っていた・・・ 西郷という人は、その点については、全く私情というものを排除して考えられる人間であったようです。ただし薩摩士族に対する情とロシアの侵略に対しては驚くほど強い情熱があった。征韓論で下野した際も、「新政府は大久保がいるから大丈夫」と政敵(かつての盟友であるが)に対して、絶大な信頼をよせています。自分自身の不遇に対しては死に場所(韓国で暗殺されるのが希望)を失ったという以外は全く不満はもっていなかったようです。 3. この御庭役というのは、藩士の処遇の中ではどんな位置づけ・・・ これは維新前の幕末の話ですね。この頃の西郷と維新後の西郷は全く別人物のような行動を取ります。ただし、征韓論の骨子は斉彬が持っていたので、影響を受けたのはこの時期かもしれません。御庭役の薩摩の封建制度の中での位置づけは判りませんが、通常郷士は藩主と会って話をする機会はありません。庭掃除という名目であれば顔を合わせるチャンスがあり可能であったのでしょう。それほど斉彬は西郷を見込んだのだと思います。
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- blazin
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現在では色々な解釈がありますけどね、 士族の反乱を何とかしたい政府としては、その士族の旗頭的存在の 西郷を挙兵させて、それを鎮圧する事で改めて政府の力を見せ付けて一気に平定したい気持ちがあったんでしょうね。 その役回りを敢えて引き受けたのが彼だったというだけで。 政府に反旗を翻したのにもかかわらず、彼の身内、兄弟が軒並み明治政府に厚遇されているのを見てもやはり彼自身はその役回りを理解していて政府との取引とは言わないまでも、舞台裏での約束はあったのかもしれないですよね☆
お礼
早速すごいご見解を賜り、えぇっとのけぞるような状況です。 そんなこと聞いたら、私は先祖数百年もこのお穢土というお江戸ですが、薩摩にいる崇拝者は仰天してしまいます。 私がこの南洲西郷の話しに接したのは、55年以上も前の中卒間もないころ、阿部次郎の三太郎でした。 死にいざなわれる、美学的生き方。というご随筆だったと存じます。 一種の思想的憧れの人物とその行動、言動だったのにと、驚嘆しております。 仰せのような筋書きでの解釈では、その後の事象の動きがまことにすっきりと理解はできるのではありますが。 そうかも知れないというより、そういう流れにはなっていて、期待した効果がもたらされてはおりますね。 薩摩の人を納得させるには必要な厚遇、やり方という面を強く見ると、下司的な見方ともいう向きもあるかも知れませんが。
お礼
2. それは自分の身についても、自己解釈として、不満や不遇などを持っていた・・・ ☆ご回答:西郷という人は、その点については、全く私情というものを排除して考えられる人間であったようです。ただし薩摩士族に対する情とロシアの侵略に対しては驚くほど強い情熱があった。征韓論で下野した際も、「新政府は大久保がいるから大丈夫」と政敵(かつての盟友であるが)に対して、絶大な信頼をよせています。自分自身の不遇に対しては死に場所(韓国で暗殺されるのが希望)を失ったという以外は全く不満はもっていなかったようです。 ◎質問者:自分に置き換えての、巷の燕雀てき創造でした。 西郷については今までの知るところの像も、そして人気からも、無欲・無執着・曇りのない方ということは、お説に齟齬しないし、よく納得できます。 ◎質問者:政敵にも拘らず、盟友あった大久保に信頼を置くという大きさもあったのですね。 ◎質問者:薩摩士族のこと、そして、対露侵略対策、そして対アジア問題での出兵論だったという理解もできるのですね。 【李鴻章との対露戦略交渉では、ロシアの南進に対し軍隊として日本の武士を派遣する】 ロシアという土地は、時にアジアにいれることもあっても、やはり欧州文化であり、白人歴史ですね。東アジア同士としては、一致できるはずですよね。そういう線が生かされていけば、シナへのあの悲惨な出兵も別の形になったでしょうね。 3. この御庭役というのは、藩士の処遇の中ではどんな位置づけ・・・ これは維新前の幕末の話ですね。この頃の西郷と維新後の西郷は全く別人物のような行動を取ります。ただし、征韓論の骨子は斉彬が持っていたので、影響を受けたのはこの時期かもしれません。御庭役の薩摩の封建制度の中での位置づけは判りませんが、通常郷士は藩主と会って話をする機会はありません。庭掃除という名目であれば顔を合わせるチャンスがあり可能であったのでしょう。それほど斉彬は西郷を見込んだのだと思います。 ◎質問者:斉彬と西郷のすごい信頼関係なのですね。明治天皇と乃木との関係も少し彷彿としてはきますが。 ありがとう御座いました。
補足
ありがとう御座いました。 1. 兵を挙げる趣旨に賛成か同情をしたのでしょうか。 ☆ご回答:彼が征韓論に固執したところから話が始まるのではないでしょうか。征韓論に固執した理由については正確なところは彼しか知らないわけですが、 1)徴兵制により身分を保証されなくなった士分のエネルギーをどこにもっていくか。 2)維新は焦土の中から国家をつくる精鋭が現れるという彼の理想があったようですが、本来破壊すべき徳川以来の官僚制度に、猟官目的の田舎者が群がり国家を私物化しはじめた。これに対する庶民の怒りをどうするか。 3)李鴻章(清)との対露戦略交渉では、ロシアの南進に対し軍隊として日本の武士を派遣する計画があったこと。 こうしたことが複雑にからみあって、征韓論が破れ、鹿児島に下野した後には、桐野・別府ら私塾暴発もやむなしと諦観していたところはあるのではないでしょうか。 ◎質問者:幕末から、維新、そして明治という時代は、このような、一言(ひとこと)で通り過ぎれない、ものすごいことが同時に、そして次々迫っていたのですね。 征韓論に固執についてのご推察は、そうなのかも知れないと、真によく納得できる下地です。 それにしても猟官とは、人の世の常とはいえ、真にやんぬるかなという思いです。しかしそういうことについて指摘いただき、更に状況が身につまされてきます。焦土の戦略思想については、鉄太郎に託した、勝さんの手紙と、二舟に信頼もしたのでしょうね。