寛文3年(1663)に将軍家綱が武家諸法度を交付します。
江戸城大広間で林春斎(鷲鳳)が武家諸法度21ヶ条を読み聞かせました。
この法度では、耶蘇宗門の禁止条項が正式に追加されたほか、「不孝」の者処罰条項が加えられました。
また、殉死の禁止が別紙1ヶ条として申し渡されました。
「殉死は古より不義無益の事なりといましめ置といへとも、仰せ出されこれ無き故、近年、追腹共余多(あまた)これ有り、向後左様之存念これあるべき者には、常々其主人より殉死仕らざる様に堅くこれを申し含むべし。若し以来これあるにおいては、亡主不覚悟越度(おちど)たるべし。跡目之息も抑留せしめざる儀、不届に思し召さるべき者也」
殉死は戦国時代の遺風などと言われますが、実際には戦国時代に、殉死の慣習はなかったそうです。
家康の四男松平忠吉が亡くなった際に家臣3人が殉死したのが最初の殉死です。
家康の死に際して殉死した者は一人もいません。
寛永9年(1632)に秀忠が亡くなった場合には、老中森川重俊が殉死しました。
寛永13年の伊達政宗が亡くなった際には15人が殉死しました。
寛永18年の熊本藩の細川忠利の死に対して19人が殉死しましたが、この時起きた事件を描いたのが森鷗外の小説「阿部一族」です。
慶安4年(1651)の家光の死の際には、5人が殉死しました。
殉死は、戦乱がなくなって主君に対する忠誠を行為で表せなくなったため、それが屈折して出てきたものであるという説があります。
殉死の禁止は、主人の死後、従者は殉死することなく跡継ぎの新しい主人に奉公することを義務付けました。これは、主人個人に奉公するのではなく主人の家に奉公することを求めたものです。
大名旗本は、将軍個人ではなく将軍家に奉公することが求められたことになります。
こうした殉死禁止規定にもかかわらず寛文8年に宇都宮藩主奥平忠昌がなくなった際に家臣杉浦右衛門兵衛が殉死しました。
これに対して幕府は、寛文8年8月3日に殉死した杉浦の二人の息子を斬罪、娘婿二人と外孫を追放し、跡を継いだ奥平昌能が殉死を抑制しなかった罪により宇都宮11万石から山形9万石に減封されました。
そして翌々日の8月5には改めて殉死の禁止が厳命されました。
こうした殉死禁止に対する幕府の強い態度により、これ以降殉死はなくなりました。
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