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《ファイル人間》は哲学屋であっても哲学していない
ファイルは 必要に応じて抽斗から(ポケットから)出してくるものであって いかに知識と情報がいっぱい詰まったものであっても《ファイルや抽斗やポケット》が街を歩いていてはおかしいぢゃないですか。 日本人はもともと そのような《理屈人間》を嫌っていて そこから基本的に(生活態度として)自由であった。 このところ その免疫性が弱まって来たのでしょうか? といった疑問を覚えるのですが みなさんはいかがでしょう?
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「お礼」ありがたうございました。 このところ哲学カテゴリへの投稿を減らして、たまつてゐた疑問をあちこちのカテゴリに投稿してゐます。いちばん感じるのは、哲学カテゴリは、bragelonneさんの指摘なさる「自由」が大きいといふことです。これはあくまでも比較しての話ですが、他のカテゴリでは、どうしても定説や常識にとらはれる傾向が強く、おもしろみに欠ける部分があります。もちろん、人によつては、独創的な回答をどんどん投稿して楽しませてくれてゐます。せつかくのコミュニティーサイトなのですから、コピペしてきたやうな回答だけでなく、十人十色のさまざまな見解を聞きたいものです。 以前哲学カテゴリに引きこもるのはなぜか、といふ名質問がありましたが、この自由がその理由のひとつであるのは、まちがひなささうです。 「コピペ」でひとつ言ひたいことがあります。STAP細胞の騒動で、あれだけコピペによる無断引用が日本中で糾弾されたにもかかはらす、ネットのコピペについては、とどまることがありません。このサイトで特に気になるのは、いはゆる「名言」の出典明示がなされないことです。古い言葉には法的責務が課せられないとはいへ、人としての礼儀だと思ひます。回答文が長くなるといふ短所はありますが、文脈を調べたりするのにも好都合です。《ファイル》には、きちんと「出典」といふタグをつけるべきです。パクリは私一人で充分です。
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- NemurinekoNya
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こんにちは。 「論語読みの論語知らず」や「生兵法は怪我のもと」という言葉があるじゃないですか。 知識や情報をいくら集めても、集めるだけじゃ何にもならない。この集めた情報を目的に合わせてうまく使いこなせてこそ、初めて情報や知識は情報や知識としての価値が出てくる。 ☆日本人はもともと そのような《理屈人間》を嫌っていて そこから基本的に(生活態度として)自由であった。 ◇日本人は、元々、理屈っぽいと思うんですよ。 でなければ、和算なんて日本独自の数学を作ることもできなかったでしょうし、和算が庶民のレベルにまで浸透しなかった。 また、日本人は基本的に、筋が通らないこと、曲がったことが大嫌いですしね。 ただ、書物的な知識や理屈は尊重するけれど、それ以上に経験や実際的な知恵を重視するんじゃなかろうかと。 世の中や物事が理屈通りにいかないことを知っているんで。 ☆ このところ その免疫性が弱まって来たのでしょうか? ◇前述した意味でならば、その免疫性は弱まってきているのでしょうね。 ほにゃららイズムという原理主義者が増殖し、世の中に蔓延(はびこ)っているので。
お礼
◇ ただ、書物的な知識や理屈は尊重するけれど、それ以上に経験や実際的な知恵を重視するんじゃなかろうかと。 / 世の中や物事が理屈通りにいかないことを知っているんで。 ☆ この見方は いいですね。単なるプラグマティストではない。という点ですね。 ご回答をありがとうございます。 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ このところ その免疫性が弱まって来たのでしょうか? ◇前述した意味でならば、その免疫性は弱まってきているのでしょうね。 ほにゃららイズムという原理主義者が増殖し、世の中に蔓延(はびこ)っているので。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ けっきょく《原理主義》の問題ですか。《日蓮》類型でしょうか。そう思うと昔からいたことは いたんですね。 テレビなどで ディベートが好きなところもあるようですし。 ◆ (回答No.3) 《ファイル》には、きちんと「出典」といふタグをつけるべきです。 ☆ という指摘もありました。そのようにいつも気をつけているならば 《ファイル人間》になる気遣いはなくなると思われます。
- asisai888
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>そういう場合には ファイルとしての資料を出しただけでは 答えにならない。 >マチガイではないと思うなら やはりその点は 説明するのが ふつうです。 マチガイを説明できないファイルの資料を持ち出してくる場合に限った話をしてるのですか? ファイルの資料でマチガイを説明できる場合を無視する理由が分からないです >でも無条件でやはり答えは 自分の意見としてのべるのが哲学であると考えます 自分の意見がファイルの資料と等しい場合はどうなんでしょうか つまり回答者がファイルの資料で語られてることに同意してるときに 持ち出してくるファイルの資料はそれを作った人の意見であると同時に 回答者の意見でもあると言えるはずです 他の人と意見が被ってるから、後出しの人は自分の意見として認めませんなんてことは言いませんよね? 自分は同意してないくせに他者の意見をファイルの資料として出す場合に限ってるのですよね? だとすればそれは確かに哲学ではないですね ただ、質問への回答であるだけです そしてここは哲学に関する質疑応答をする場ですからそれで全くかまわないと思います
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ マチガイを説明できないファイルの資料を持ち出してくる場合に限った話をしてるのですか? / ファイルの資料でマチガイを説明できる場合を無視する理由が分からないです ☆ いえ。回答者は 一たんそれでよいという回答を寄せるはずです。そのあと 質問者が ん? ちょっと待って これこれの見方をすれば そこにはマチガイがあるのではないか? と問い返す場合もあるというお話です。 ですから マチガイを説明できる場合を無視しないのですけれど。 ★ 自分の意見がファイルの資料と等しい場合はどうなんでしょうか ☆ ひとこと そのように言えばよいはずです。 ★ ~~~~~~~~~~~~~ つまり回答者がファイルの資料で語られてることに同意してるときに 持ち出してくるファイルの資料はそれを作った人の意見であると同時に 回答者の意見でもあると言えるはずです ~~~~~~~~~~~~~ ☆ その旨言うということだと思います。 ★ 他の人と意見が被ってるから、後出しの人は自分の意見として認めませんなんてことは言いませんよね? / 自分は同意してないくせに他者の意見をファイルの資料として出す場合に限ってるのですよね? ☆ いづれにしましても (あ) ファイルは 一般にまだ判断材料までです。 (い) ときには すでに答えのための選択肢が用意されている場合もあります。 (う) まれに すでに答えをも述べている場合があります。 ですから 回答者は (あ-1) そのファイルを提示したあと 自分の意見を述べるか。 (い-1) またはこれこれの選択肢を自分ならえらぶと言うか。 (う-1) または すでに示されている答えと同じであるというか もしくは いや 違っていますというか。 ――こういったケースに分かれると思います。 ★ ~~~~~~~~~~~~ だとすればそれは確かに哲学ではないですね ただ、質問への回答であるだけです そしてここは哲学に関する質疑応答をする場ですからそれで全くかまわないと思います ~~~~~~~~~~~~~ ☆ そうですね。いまは抽象的に話しているので なかなか筋がつかめないかも知れません。 1. 質問への回答であれば すでに何の問題もありません。 2. 質問者が 補足要求をしたりしたとき 回答者は こばむことも自由だという前提で さらに答えると思います。 3. 寄せられた回答の内容について納得の行かないところがあれば 質問者は補足要求と同じかたちにおいて いちおう尋ね返すと思います。もうそれを拒むことも 自由ですが。 4. もっと単純に考えるなら 《質疑応答》として質問者は 一応の納得の行くまで問い続けるというのも 一般にあり得ると思います。それだけのことだと思いますが どうでしょうか。 5. あるいはつまり 回答者の中には 言いっ放しである場合もあるということではないでしょうか。それも 自由であると同時に そのようなファイル提供だけだと 基本的に言えることとしてそれは 哲学していない。と思われるとなると思ったのです。 6. 本人は そのファイル提供で回答となると思ったのでしょう。質問者にしてみれば ファイル提供までであり 回答者の意見はまだ述べられていないと思うでしょう。――ということは 互いに主観で判断しているので なかなかどちらが事実に合った見方かを決めるのは むつかしいでしょうか。 7. ということは 質問者は 去って行った回答者に対して 何も言えない。恨みも何もあり得ないということだと考えられます。 8. その上で 繰り返しになりますが 《哲学する》ということは 自分の意見を明らかにしていることまでをふくむはずだ。とは思います。こういう問題だと思います。
- asisai888
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>《ファイルの情報をありがとうございました。ところで あなたのお考えは >どのようでしょうか?》と問いなおしたい回答が多いように思う。――これでした。 >ところで あしさい888さんは どのようなお考えでしょうか? 問い直せばいいと思います ただ、私はファイルの情報だろうが自分の意見だろうがどっちでもいいと思います というのも、ここは質問サイトであって哲学の議論をする場ではないので、自分の意見か ファイルの情報かを区別する意味がないからです どちらだろうと質問者にとって有益ならば意味のある回答であると言えますから
お礼
ご回答をありがとうございます。 あぁ 問い方を間違えました。 たしかに あしさい888さんには ☆☆ ところで あしさい888さんは どのようなお考えでしょうか? ☆ と問うたところで 答える・答えないはご自由です。 問題は 何らかのかたちで一たん これこれがいまの問題の答えであると回答者が述べたあと 質問者が いや それは こういう問題があるから その別の見方に立てば そういう答えではマチガイとなる。と問い返したあとの問題を言っているのでした。 そういう場合には ファイルとしての資料を出しただけでは 答えにならない。 マチガイではないと思うなら やはりその点は 説明するのが ふつうです。 マチガイであることに説得されたのなら ひとことそう言っておくのが ふつうです。 といった事態についてのお話でした。 でも無条件でやはり答えは 自分の意見としてのべるのが哲学であると考えます。 議論をする場ではないという規約の問題もあります。 そして すでに哲学は 自分の意見を述べるのが 欠かせないという問題もあります。 といったところではないでしょうか。
- a_hona
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おそらく、自分の意見を述べることと、考えていないこととは別であると思われます。 間違いを怖れて自分の意見を言わないということは良くありそうです。 自分の意見を述べることが、たとえその内容が間違っていたとしても、咎められず、寛容に受け止められ、自分にも他人にも良い結果となるような合意形成の場が存在するならば、今よりも自分の意見を述べる人は増えると思います。 リスキーなことはしないというムードは、今も昔も一定層に浸透しているのではないでしょうか。
お礼
ご回答をありがとうございます。 あつかっておられる問題は 簡単だと思います。 ★ 間違いを怖れて自分の意見を言わないということは良くありそうです。 ☆ 見解を述べることを保留しますと言えばよいわけです。 ★ リスキーなことはしないというムードは、今も昔も一定層に浸透しているのではないでしょうか。 ☆ これは 確かに昔はありました。《お言葉を返す》だけで 早く言えば《打ち首》だったわけです。 しかもそのような身分制なる社会情況を必ずしも自分たちのチカラで勝ち取ったのではないという捉え方が頭の中に叩きこまれていますから やはりファイルの作成までをすすんでやったとしても そのあと自分の意見は言わない。 特に社会のクウキにさからうような内容については 見ざる言わざる聞かざるとなる。このクセつまりは危険回避の知恵が 染み透っているのでしょうか。 要するに ★ 一定層に浸透している ☆ というだけであるのに ほかの中間層を成す大部分の人びともが右へ倣えをしている。ということではないかと思われます。 ですから 【Q:日本人はたましいが去勢されているのでしょうか?】 とも質問しています。 ここがロードスですから いまこの質疑応答の場が ★ 自分の意見を述べることが、たとえその内容が間違っていたとしても、咎められず、寛容に受け止められ、自分にも他人にも良い結果となるような合意形成の場 ☆ であるにほかなりません。 ですから おそらく分かっているはずなのです。よって 【Q:日本人はいつまで死んだふりをするつもりか?】 とも問うています。
- asisai888
- ベストアンサー率15% (11/73)
http://homepage3.nifty.com/a-ichik/essay/111016philosophy.pdf http://www.kinokopress.com/mm/gendai02.htm bragelonneさんが問題にしたいのは↑こういうことではないですか?
お礼
あしさい888さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 むかしむかし 都留重人という人が 日本の経済学は 経済学学だと言ったみたいです。その《潮流》がほかの人文科学や社会科学に いまもじゅうぶん《伝統》となっている。ということでしょうか。自然科学のほうでは日本人もがんばっているようなのですが。 わたしは とにかく自分の意見を言ってくれという単純にして横着な要求を持ったまででしたが。 参考サイトから引用しておきます。: ▼ (哲学学に想う) ~~~~~~~~~~~~~ 哲学という学問を対象分野としてその中に専門領域を求めれば,哲学者がいう哲学が専門になる.日本の哲学者は「私の専門はヘーゲルです.・・・西田哲学です」ということが多い.米国で会った哲学者が「私の専門は社会哲学です,・・・公共哲学です」というのと大きく違っている. 2100年10月18日 * この日付けは 何かの暗号だろうか? ▲ (森岡正博:現代日本の哲学をつまらなくしている三つの症候群について) ~~~~~~~~~~ 哲学的問題に自分の頭と自分のことばで取り組み、「哲学」する人、これが本来の哲学者である。哲学者は、自分の抱えている問題あるいは現実に直面し対決する。これに対して、過去の作品としての「哲学」あるいは哲学(学)者について研究する学者のことを、哲学学者と呼びたい。哲学学者は、文献に直面し対決する。 これが学問であろうか。しかし現実には、論文を書くときにまでそれが波及している。たとえば、「カントとともに次の問題を考えてみよう…」とか、「ヘーゲルを手がかりにして次の問題を考えてみよう…」と述べて、全編、カントやヘーゲルからの引用を切り貼りする。要するに自分の頭で問題を考えることを放棄し、カントやヘーゲルに考えてもらっている。うがったみかたをすれば、彼らは始めから、問題そのものについては責任回避ができるような形式で、論文を書いているのである。これを「手がかりにして」症候群と呼ぶことにする。 では、彼らに、「カントがその問題についてどう考えているかはよく分かった。ならば、あなた自身はその問題についてどう考えているのですか?」と問うてみよう。しかし私たちは彼らの論文の末尾に、「我々は以上のような根本問題に直面した。それについてはまた次の機会に論じることとし、ここで筆を置きたいと思う」という文字列を発見するに終わるのみである。次の機会はいつ訪れるのであろうか。ひょっとしてこれは、自分の頭で問題そのものに取り組むことを、永遠に先のばしするという宣言文ではないのだろうか。そして、いわゆる学者たちは、これを暗黙のうちに承認しているのではないだろうか。これを私たちは「次の機会に」症候群と呼びたい。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ありがとうございます。 あらためて確認しますが 質問者の言おうとしていることは 単純です。 《ファイルの情報をありがとうございました。ところで あなたのお考えは どのようでしょうか?》と問いなおしたい回答が多いように思う。――これでした。 ところで あしさい888さんは どのようなお考えでしょうか?
- a_hona
- ベストアンサー率21% (95/444)
オリジナルの始原と、積み重ねによる昇華と、どちらが有用かと言うのは、時と場合でしょうね。両方できるにこしたことはない。 膨大なサンプルから発想のヒントや思索の基礎を学ぶ場合もあるし、逆に、根元的なものに立ち返ろうとして、オリジナルな思念の潮流を捕まえようとすることもあるでしょう。 未来、膨大な知識はネットワークに貯められて、知識を持ち歩く人は少なくなると思います。ちょっとした四次元ポケットを身につけた人々が、場に即して必要な知識をそこから引き出し、話に加える、そんな光景がありそうです。 知識に助けられるのも、埋れてしまうのも、使う側次第と言う気もします。それに、得た知識を消化して身につけるのも容易ではありません。 一方、体感知ともいうべき、経験に基づき構成された知識というものがあって、それを頼りに思索するのも、一つの方法でしょう。 書物の次に、外部記憶装置(コンピュータ)を得て、間接的に他者の体験を集約したものが手に入れられるようになったのは、大きな進歩だと思います。要するに、ファイル人間も、そんな風にして得た知識を再構築した新しい人種の一つで、言わばオリジナルの歩く図書館を建設したようなものといえないでしょうか。それはそれで立派だと思います。 昔は士農工商がありましたし、専門馬鹿しかおらず、ジェネラリストは少なかったと思います。知識人は尊敬されていたんじゃないかな。
お礼
★ オリジナルの始原と、積み重ねによる昇華と、どちらが有用かと言うのは、時と場合でしょうね。両方できるにこしたことはない。 ☆ ええ。そういう問題です。いささか生煮えのまま設問したみたいに思えてしまったのですが そういう問題です。 ご回答をありがとうございます。 そうですね。そうあらためて捉えて考えるに 質問者のはじめの意図は もっと素朴であったとも思っています。 ○ 仮りに《積み重ねによる昇華》としての知識だけだとしても そのとき自分自身としての見解を持っているはずだ。つまりたとえ 蓄積された知識そのものから来る見解のみであったとしても。 ということになります。言いかえると 《オリジナルの始原》であるかどうかを問うのではなく・必ずしもそうではなく こたえとしての自己の見解を示せ。です。 知識や情報をデータとして判断材料として提出しそのまま回答とするのではなく すでに自己の判断であるものを示せ。です。 さらになお勝手に質問者の意図について述べてまいりますが: ★ 未来、膨大な知識はネットワークに貯められて、知識を持ち歩く人は少なくなると思います。ちょっとした四次元ポケットを身につけた人々が、場に即して必要な知識をそこから引き出し、話に加える、そんな光景がありそうです。 ☆ というとき 《場に即して必要な知識を引き出し 話に加える》ことは 大いに有益なことです。しかも この質問の問おうとしたことは そのとき同時にすでに 《自分の意見を明らかにして出せ》ということを言っています。《オリジナル》でなくても そんなことは構わないという前提です。 ★ 一方、体感知ともいうべき、経験に基づき構成された知識というものがあって、それを頼りに思索するのも、一つの方法でしょう。 ☆ ええ。そういった有用な手段の活用と言いますかも示してもらっていますが 問題は――すぐにそちらへ持って行こうとしますが―― 何でもいいからとにかく自分の意見を出せ になります。 ★ 要するに、ファイル人間も、そんな風にして得た知識を再構築した新しい人種の一つで、言わばオリジナルの歩く図書館を建設したようなものといえないでしょうか。それはそれで立派だと思います。 ☆ ここに来て ちょっと質問の趣旨からすると 見解が分かれたように思われます。 言いかえると その《歩く図書館》であることは その段階で・それとしての段階で 立派であるということ これを捉えた上での問題だと理解したわけです。はじめの趣旨としては。 質疑応答の場では 資料やデータを提供するだけではなく 何度も言うように同時に自分の意見を示せ です。 もしそこに参加していながら 自分の意見を出さないとすれば それはまわりまわって理屈屋に近い状態になるのではないか。すなわち 確かに意見を述べるときに相手の意見についての反論を次から次へいろんな資料を出して それではまづい・ダメだと言って 〔反論を〕ならべる。そうしていながら じつは自分の意見を述べようとしない。つまりそういう理屈屋と――ファイル人間は―― おなじような存在だとなりはしませんか? つまり 問答に入る前の段階では 歩く図書館であってよいわけです。それはりっぱです。しかも 対話に入ったなら ファイル人間のままでは 困るのではないですか? そういう素朴な問いでした。 ファイル人間は 秘書として有用で参謀に向いているのかも知れません。がそれでも 民主制における話し合いへの一人ひとりの参加というあり方からは離れているように考えられます。 分かりづらかったかと思いますが 質問趣旨としては そういうかたちになっています。どうでしょうかねぇ。
こんばんは。カーリダーサのページはありがたうございました。 おつしやるとほり、知識の出し入れだけでは、むなしい気がします。 私は《ファイルや抽斗やポケット》に相当するものを持つてゐません。そのことはbragelonneさんもよくご存じのはずです。 したがつて、非難されることなどありません。そもそも出してくるだけの知識がないのです。 このサイトへの投稿もパクリだらけです。以前kanto-iさんの絵本の話を他のカテゴリで使つたことがあります。TANUHACHIさんの「思考の停止」といふ言葉を拝借したこともあります。ただ拾つてきて、使用するだけです。知識の出し入れの必要はないのです。 《ファイル人間》になど、なりたくもありません。
お礼
こんばんは。どうも――おっと まづはご回答をありがとうございます。――どうも極端から極端へ振れて行くクセがお有りではないですか? 奥歯に何も引っかからないのでズバズバ言って行きますが カーリダーサにしても何にしても たくさんの情報をお持ちではないですか。次から次へご見識があふれ出て来るようではないですか。 ですから活用するぶんには 問題はないと考えます。 あるいは一家言あって薀蓄を傾けるのも だいじょうぶだと考えます。 ただし その薀蓄が街をあるいているというようでは 困るのではないでしょうか。ふだんはポケットにしまっておいて欲しい。――いえいえ ちょっと趣旨が違って来ました。 《無為自然》なる看板を掲げたとき この理論が ファイルされているだけではなく その人の顔いっぱいにファイルがあふれている。というような状態になったとしたら それはおかしい。ポケットからいつもいつも 天・道・聖人等々といった理屈が真っ先に出て来るとしたら やはりおかしい。 ううーん。まだちょっと生煮えでしたかねぇ。 ちょっと考えます。
- tiltilmitil
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日本の伝統芸能と呼ばれるものは、膨大な『お約束』を知っていてこそ楽しめるもの。それは『こういう時にはこうなるもの』という理屈の集合であり、日本人が理屈人間を嫌っていたというのは言いにくいでしょう。
お礼
ちるちるみちるさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 質問者の考えを述べます。 ★ 日本の伝統芸能と呼ばれるものは、膨大な『お約束』を知っていてこそ楽しめるもの。 ☆ そうですかねぇ。伝統芸能の全般というわけではないでしょう。 踊りひとつ取っても 何の予備知識なく見ても たのしめます。 それにその《膨大な『お約束』》 いえちょっとしたお約束であったとしても それを知らなければたのしめないのなら 見なければいいわけです。 ★ 『こういう時にはこうなるもの』という理屈の集合であり、 ☆ そんなことくらいなら ただ見ていただけで あとになれば《あぁ あのときは ああいう筋だったんだな》というくらいは分かります。 筋のある芝居等なら おんなじことです。あとからでも十分によくしっかりと分かります。しかもそれは 特別に《理屈の集合》でもなければ いちいち理屈で推して行く話でもないと思います。 わたしは おっしゃっていることが理解できません。 おあいにくでしたが。
お礼
★ 以前哲学カテゴリに引きこもるのはなぜか、といふ名質問がありましたが、この自由がその理由のひとつであるのは、まちがひなささうです。 ☆ ううーん。殺し文句みたいですね。 ご回答をありがとうございます。 ★ このサイトで特に気になるのは、いはゆる「名言」の出典明示がなされないことです。古い言葉には法的責務が課せられないとはいへ、人としての礼儀だと思ひます。 ☆ あぁ。ええ これも気をつけてはいるのですが ややもすると無造作に出してしまいますね。さらに無造作になると 自分の意見であるかのように書いてしまったりするかも分かりません。 ★ 《ファイル》には、きちんと「出典」といふタグをつけるべきです。 ☆ なるほど。そのようにいつも気をつけているならば 《ファイル人間》になる気遣いはなくなると思われます。 《出典》を明らかにしたあと ところでわたし自身は これこれの考えをそれとは別に持っています。と言えるはずだからです。 そうしてそこから ★ これはあくまでも比較しての話ですが、他のカテゴリでは、どうしても定説や常識にとらはれる傾向が強く、おもしろみに欠ける部分があります。 ☆ というときの《定説や常識》を超えて自分自身の見解を述べるようになるなら 言うことなし。でしょうね。 勇気づけてもらったようになりました。 もう少し開いてみています。