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真人間の定義

真人間についてちょっと考えたんですが。 真人間とは幼稚なことや恥じる行いを拒絶する人のことではないでしょうか? 意識してまじめに生きているのではなく拒絶するから自然と真人間になっちゃうのではないでしょうか? 真人間ではない人はそれらの行為を拒絶しないタイプでなんでも平気でやれてしまうのかもしれません。 なので、真人間は常に正しい行いをするのではなく受け入れることが出来るなら時と場合に応じてルールやマナーからそれることもする(自分の中では納得している)そういう人なのではないでしょうか?

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回答No.1

 こんにちは。  問題は カカハリにあると考えます。  そうして自分自身は すでに《真人間》なのですから その潜在性としてのチカラにおいて完全な――あくまで動態としての――姿を現わしています。  どういうことか?  ミラー・ニューロン現象ということがあると言われています。  相手と向き合ってその相手にたいするカカハリの問題としては 相手の思うところやどんな境遇にあるかなどが――ミラー・ニューロンをとおして――分かったときに 果たしてどういう対応をこちらが採るのか。これです。問題は。  胸にいだいていることは ただひとつ。互いに真人間なる動態を生きることです。  そのために ルールやマナーから逸れることもあれば あるいは逆にその規則どおりに故意に振る舞うこともあり得ます。  あるいは 同じようなことですが かえってこちらも相手の思想の貧困な状態に合わせてその貧困さ以上に(つまり 価値判断としては それ以下に)言ってみればハレンチなことを言ったりやったりすることすらがあると考えられます。  これが 人と人とのカカハリ(社会的な共生としての関係性)の問題であり 実際には具体的にマジハリ(互いの交通関係)として現われる問題だと考えます。  ★ 真人間とは幼稚なことや恥じる行いを拒絶する人のことではないでしょうか?  ☆ はっきり言って その相手やその場に合わせて 拒絶することもあれば 逆に大いに恥も外聞もなくたぶん一緒におこなう場合もある。と考えます。一概に決まっていません。  さらにあるいは そういったハレンチなことは 場合によっては する必要が無いと判断したならば 相手を突っぱねるでしょうね。そのへんは 臨機応変です。  相手がつっかかって来たら そのような行為に出るこちらの考えと理由を説明します。  真人間を固定した人間像として・また理念としては捉えないほうがよろしいかと。  重ねて述べるなら  ★ 真人間ではない人はそれらの(幼稚なことや恥じる)行為を拒絶しないタイプでなんでも平気でやれてしまうのかもしれません。  ☆ といった人びとを相手にしたときに それぞれの人に対してどのようにこちらが考え振る舞うのか。この関係性の中身に キモとミソがあります。  もっとも手っ取り早く説明するならば 真人間なるひとは 真人間ではない人にあい対して その《真人間で無さ》を上回る振る舞いにも 自由に 及ぶことがある。その場やその相手の状態に応じて そういう自由度を発揮する。これです。  これが 人間の自由です。

mainas5656
質問者

お礼

一部無神経な発言があったかもしれません。気を付けます。

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回答No.2

「真人間」の定義なんて、人それぞれの物です。 キリスト教徒は「主」の教えを守ること。 イスラム教徒は「アッラー」を尊び、ムハンマドの教えに背かないこと。 ユダヤ教徒は「聖地エルサレム」を死守すること。 それぞれの立場で時には共存共栄し、時には互いに戦争したり侮蔑し合ったり。 三つの宗派が、旧約聖書を共有しています。 仏教徒やヒンズー教徒も、古代インドの世界観、人生観を受け継いでいます。 中華思想も色々ありますが、それぞれ正義の道と信じて生きています。 「信じて生きる」事が、人それぞれの人間性なのでしょう。 真人間とは、信ずる物を持っていて、それを守り抜こうとする人のことかと思います。 人それぞれの正義感の強さとも云えそうです。

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