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人間の正しさについて

22歳学生です。 自分の生き方や信念に関して色々考えることが好きでよく考えるのですが、その中で一つ、思ったことがあります。 一般的に言われる「正しさ」(あるいは「間違い」)は、結局人間の好き嫌いに基づいて出来ているものなのではないかということです。 数学などの正しさは「こうであればこうである」と正しさが絶対的なルールによって決められているのでそれは別物とします。そういうものではなく、例えば法などで、なぜ犯罪が裁かれるべきものであるかというのは、結局大勢の人がその犯罪を何らかの形で「不快に思う」からではないかと思うのです。法は大勢の人が不快に思うものを禁じ、罰するものだとしたら、それは「正しさ」に基づくものではなく人間の「感情」に基づくものであると考えました。 そうなると、「正しさ」とは人間の感情を正当化し覆い隠すものになります。本当は、人間の行動は「正しい・間違っている」という次元で考えるのはおかしいのではないでしょうか。つまり人間のする全ての行動は「正しい」...と言ったら語弊を生みますが、つまりは「あってもいい」という結論になるのではないかと思いました。相反する行動であってもです。人それぞれ自分の信念、感情、経験に従って自分が「正しい」「正しくない」と思った行動をする、しかし、それはつまりは自分の感じ方、感性に左右されるものであるということです。 人生に答えはない、とよく言いますが、それと同じことだと思います。 もしも人が己の正しさを信じそれに基づいて行動すれば、当然正しさ同士がぶつかるはずです。自分の正しさを信じ行動することが大切なのかもしれませんが、それはあくまで自分の好き嫌いから起こるものだと理解していないと、正しさの押し付け合いが始まるのだと思います。 そこで、私はこれから自分の行動は全て「あってもいい(間違ってはいない)」と認識することにし、自分の行動がたとえ自分で納得いかないものだったとしても、それは間違っておらず一つのあり方であると考えることにしようと思いました。また、人と考え方が違っても、相手の考え方は間違ってはおらず、ただ自分が嫌いなだけなんだと認識することにしました。 あまり日常的にこのような考えを喋る機会がなく、このような考え方に対して何か批判があればと思い、投稿致しました。

みんなの回答

回答No.11

同感です。 仕事、勉強はしなければならない。しかしその方法にイデア論的正しさはあるのか?とか じゃあ趣味の時間は日本人全員が哲学を学ばなければならないのか?とか。 だから「正しさ」は最低限の決まり事でしかなく、それ以外の事について語れる物では無いと思います。

noname#233797
質問者

お礼

ありがとうございました。ありがとうございました。

回答No.10

No.4.8です 再度お礼を頂戴しました。 今後いろいろお考えになられる際の一助として多少情報を提供させて頂きます。 天皇は統治のための一機関にすぎないというのが憲法学者の共通認識でした。 大日本帝国憲法にも明記されていて大正期までは問題とされていませんでした。 昭和10年に軍部の後押しを得た右翼団体が主体となってこれを否定しました。 以降天皇は神聖にして冒さざるものとされました。 大日本帝国憲法では国家の主権者は天皇であるとされていました。 日本国憲法では主権者は国民であるとされています。 つまり第二次世界大戦の反省などということで天皇の国政への関与を禁じたわけではありません。 人権を侵害することを禁じたのは単にいけないことだからなどという感情論で決められたものではありません。 人権には抽象的な権利と具体的な権利があります。 人権の保護にも法的な保護と法の保護を超えたものがあります。 法的な保護にも保証制度という制度化されたものもあります。 感情や情緒などという個人に依存したもので取り扱われているものではないことをご理解下さい。 命の大切さというのは悲しいとかなんとかという感情ではありません。 命というのはかけがいの無いもので、失えば取り戻すことができません。 命は命によってのみ生み出されます。 命というものは再生も創造もできないものです。 命を礎として人生が成り立っています。 質問者さんの人生を代わりにやってくれる人はいません。 質問者さんの命も人生も質問者さんのものです。 他に代替えはありません。 他の人々も同じです。 殺人罪が難しいのは、個人が個人を殺せば殺人罪ですが、戦争という名がつけばより多くの人をより効率よく敵と言う名の人を殺せば称賛されます。 広島の市民を一瞬にして殺戮した原爆もアメリカでは正当な行為とされています。 原爆を投下した爆撃機は英雄的な行為をしたものの記念として磨き上げられて博物館に展示されています。 アメリカは移民で成り立っている国です。 一方で1964年に公民権法が制定されるまでは人種差別は合法的な行為とされていました。 それまでは日本人を含む有色人種には選挙権などが無かったということです。 アメリカにはWASP( White Anglo-Saxon Protestant)という感情が今も根強くあります。 一般に白人至上主義と言われます。 特に白人エート層を指す場合に使われます。 人は所属する集団で共有する価値観は変わります。 共産主義者は宗教は阿片であると言って退けます。 アメリカ大統領は聖書に手を置いて就任を宣言します。 日本の学校に宗教の時間がないことを欧米の教育者はどのようにして倫理観を教えるのか不思議がります。 アメリカでは州によってはダーウインの進化論を義務教育に携わる教師が教えれば即刻解雇されます。 アメリカ人の約半数が人間は神が作ったと信じています。 キリスト教では愛は崇高なものとされますが仏教では執着心の一つであって滅却すべきものとされています。 浄土真宗は他力本願で阿弥陀仏を念じます。禅宗は自力本願で修行に専念します。 科学的な考え方というのは神の摂理をより良く理解するために考え出された手法です。 現在は自然の摂理と言い換えられています。 コペルニクスは地動説に反対された際に「神はそのような複雑なことは考えない」と言って天動説を退けました。 アインシュタインは相対性理論を確率論者と議論した際に「神はサイコロを振らない」と友人に書き送っています。 法は時には人の命を奪ったり人生をくるわせます。 質問者さんは他人の感情や情緒で人生がくるわされても差支えがありませんでしょうか。 幅広く学ばれて深く考えられるようにして下さい。 尚、議論がされたければtwitterがありますのでそちらをご利用下さい。

noname#233797
質問者

お礼

お礼遅れてすみません!ありがとうございました。

回答No.9

>しかしながら、その判断は全て突き詰めていくと何に基づいているのか?ということを考えると絶対に感情にぶつかるはずです。 感情よりももっと根源的な「力への意志」にたどり着くのではないでしょか。 人間は感情で消化酵素を出すこともできないし、感情で体温を上げることもできませんので、、、、。

noname#233797
質問者

お礼

確かに感情は身体的な感覚から嫌だ好きだと判断しているのだとしたら、そうなるかもしれないですね。ちょっとここまで考えられませんでした。どこまで考えたらよいのでしょうか... 再度の回答ありがとうございますm(_ _)m

回答No.8

No.4です お礼を頂戴しました。 法制度に関して些か誤解があるようですので追加で説明させて頂きます。 主義主張ではありませんので誤解なきように願います。 >それはどんな主義の国でも人の感情によって定められます。 情に基づいて法は決められてはいません。 現実に下記のような例があります。 最近今上陛下が退位したいとお言葉を述べられました。 これに対して関係者は陛下のお気持ちを汲んで退位を認めるのが良いという合意に達しています。 陛下の希望に従って内閣が法案の提出などの行動を起こすのは天皇の国政への関与となることから内閣としては審議しないことになっています。 立法府である国会も同様の考え方で国会審議に入る前に立法の責務がない専門委員会を設けてそこで検討させています。 つまり情で合意したということで法を決めるということはしていません。 アメリカのトランプ大統領が白人至上主義でイスラム教徒嫌いです。 この心情に基づいてイスラム教を奉じる特定の国からの入国を無制限に禁止する大統領令を発令しました。 これに対して裁判所は法に違反するとして大統領令の停止させました。 法に準拠しない大統領令は認められない、入国に関する他の法に抵触している、という理由です。 トランプ大統領の心情など不問として触れていません。 思想良心の自由というのが法で認められています。 好き嫌いで法が定められるのであれば、オレはこの法は嫌いだから従わないということができることになってしまいます。 >例えば人を殺してはいけないという法律は何故できたのでしょうか。秩序を守るためだとして、何故秩序を守る必要があるのか。 秩序が保たれなければ社会が維持できません。 社会が維持できなければ人は生きていけません シリアでは複数の集団が主義主張の違いで殺戮(殺人)を繰り広げていて無秩序な状態になっています。 この状態から逃れて多くの人が難民としてヨーロッッパへ渡っています。 無秩序で社会が維持できるのであれば難民など発生しません。 >その根拠はなんだろうか、そう考えていくと、人が人を殺すのは誰かが悲しく、また自分が怖い、それが根拠になっているのではないでしょうか 法で殺人を禁じているのはこのような根拠ではありません。 命の尊厳を守る為です。 なん人も他者の命の尊厳を冒すことは許されないという考え方に基づいています。 身寄りのない人はいくらでもいます。 悲しむ人が居ない人は殺しても問題が無いとお考えでしょうか 社会に適応できない精神障害の方々を殺害した人間がいます。 人を殺してみたかったと言って殺人を実行した人間もいます。 仕事の不満やSNS上で相手にされなかったことから多数の人を意図的に殺した人間もいます。 いうれも人を殺すことに恐怖など持ち合わせていませんでした。 恐怖心がなければ人を殺しても問題が無いとお考えでしょうか。 死刑は国家権力による殺人だから廃止しろという運動があります。 死刑制度を廃止している国もあります。 これに対して社会秩序を維持する上で必要であるという意見もあります。 これについてどのようにお考えになられますか。 >わたしの考えですとISも容認することになります(わたし個人としては嫌ですが、わたしのこの考え方だとそうなってしまいます)。 法は感情(好き嫌い)で定められるとしておきながら、嫌だけど理屈の整合性を重視すれば容認することになるでは、矛盾していませんか。 仮に質問者さんがISに関する法を定める場合、ISを容認する法を定めますか、定めませんか。 情に従いますか理論に従いますか。 >ここでいう正しさとはこの世の絶対的な基準という意味です 絶対的な基準というのはどのようなものでしょうか。 誰が何時、何処で定めた基準ですか。 現代運用されている法は、相互の影響が大きいことからこの点を重視します。 オレはこれを絶対的な基準だと思っているなどということは通用しません。 他者がそれは絶対的な基準だとは認めないとした場合にどのようにして法を定めますか。 蛇足 当サイトは議論の場ではありませんのでくれぐれもご注意願います。 事務局に削除されます。

noname#233797
質問者

お礼

再度のご回答ありがとうございます!m(_ _)m 議論はダメなんですね、これから気をつけます。今は一応、下に自分の意見は述べますね。 天皇陛下のことですが、私は天皇陛下の御心を汲むという次元の考え方以前に、そもそも天皇が国政に干渉するべきでないというのは第二次大戦の反省からだと思っております(この辺本当に学がないので勉強し直したらだいぶ考え方変わるかもですが汗)。民主的な政治をするために天皇が国政に干渉できないような憲法を作ったということだと思っています。では何故民主的な政治をしなければならないかと言いますと、人権侵害になり、何故人権侵害をしてはいけないかというと、それはいけないことだと思うから、つまり感情から成っているからと思うのです(雑ですけど)。だから、単に天皇陛下の御心に従う判断ができないのは感情がもとになってできた憲法が絶対的なルールになっているからそうせねばならないというだけのことだと思っています。 トランプ大統領の件も同様に、トランプ大統領の心情以前の問題として、憲法ができた時、何故人はその憲法を作ったのかを私は考えています。それは、移民を受け入れないのは人種差別だ(それ以外にももちろんありますが)から、そして何故人種差別がダメなのかというと、同じ人が何故苦しまなければならないかという同情からではないでしょうか。何故法律はできるのか、それは多くの人がそのような感情を共有し、それをもとに秩序を作り上げるためではないのでしょうか。秩序を作るため、というのは感情の次の次元であって、何故秩序を作るのか、と考えをつき詰めていくと感情がもとになっていると思います。 無秩序で社会が維持できないのは当然ですが何故無秩序で社会を維持しないことがダメないのでしょうか。無秩序だと殺人犯罪が蔓延りますよね。何故ダメなのでしょうか。それは多くの人が殺人で命を失いたくないという感情を持っていて、それを叶えるために秩序を作るのではないでしょうか。 また、命の尊厳とは何でしょうか。命を尊重するものだと考えるのは何故でしょうか。何故許されないのでしょうか。それは大切な人を失うのが悲しく辛く人の人生に影を落とすからではないでしょうか。それは感情です。 多くの人は殺人に恐怖心を持っていると思います。人を殺されると悲しいと思っています。だから殺人はいけないと単純に言えばそうなります。それが多数派です。しかし、人を殺してもいいと考える少数派は何故いてはいけないのでしょうか。それは間違っているのでしょうか。何故人を殺してはいけないか、今まで述べて来たように全ては感情が根底にあるので人を殺していい理由も殺してはいけない理由も全て同じ感情という次元から来ています。人を殺してはいけない、というのはそれを多くの人が共有している価値観だから世間でいけないことになるのです。人を殺してはいけないというのは、少数派の意見を切り捨てることと同じです。 死刑に関してはまた別の問題かと思います。冤罪や育った環境のことを考えると死刑は良くないんじゃ?という考えもあるみたいですが、多分そのような考えは死刑は重すぎると考えての理論ですよね。何故重すぎるのかと考えるのでしょうか。何と比べられて重いと判断されるのでしょうか。何をもって重いと感じるのでしょうか。違憲判断で「死刑をもってただちに残虐とは言えない」という文があるのですが、残虐というのは人がどう感じるかですよね。 こんなこと言っておいて死刑に関してあまり考えていなかったのですみません、考えてみますね。 多くの人の感情(多数決)で法が成り立てばそれが秩序になりそれ以外は悪になるので許されない、それだけのことです。ただそれ以外の方が秩序の外にあるからと言って絶対的に間違っているとは言えないということです。法のもとでは間違っているので裁かれるべきです。もちろん、法には秩序を維持するという目的もありますので(法の根拠は多数決の感情ですが)、守られるべきだと思います。 ISに関しては私が多くの人と同じように殺人は身近な人を殺すので悲しいという感情を共有しているので多数決に従いISは許せない(雑ですが)のような法を作ると思います。 絶対的な基準はこの世界にはありませんので多くの人が共有している価値観のもと、法を作ります。奴隷を良しとした時代があればそれに関する法もできますし、時代が進んで多くの人の考え方が変わり奴隷を悪とすれば奴隷を悪とする法律ができる、価値観(感情)の共有の範囲の問題です。 長々とすみません。私のこのような立場は情動主義というものらしいです。それに対する批判もあるみたいなので、それに関してもう一度勉強して出直したいと思います(にしてもこのような場で議論しようとするのはやめますね)。 お付き合いくださりありがとうございますm(_ _)mお気を悪くされていましたらすみません、全然知識がなくただの学生の戯言として見てくださればと思います。きっと、この先もっと長いこと生きていればまた考え方も変わってくるのだろうなと思います。

回答No.7

>例えば法などで、なぜ犯罪が裁かれるべきものであるかというのは、結局大勢の人がその犯罪を何らかの形で「不快に思う」からではないかと思うのです。 法における「正しさ」は社会契約論によって説明されます。 「不快に思う」というよりは「不快である」ことを回避する目的で社会契約が成立します。 詳しくはジョン・ロックの社会契約論で学べます。 >人と考え方が違っても、相手の考え方は間違ってはおらず、ただ自分が嫌いなだけなんだと認識することにしました。 「考え」と「感情」を分別する事を学ぶ必要ありそうですね。 長い人生となることでしょうが、出来るだけ早期に「考え」と「感情」の峻別が可能になると、充実した人生になると思います。

noname#233797
質問者

お礼

考えと感情は社会において分かられるべきと言うことはわかっています。わたしは質問した内容のように考えることによって、人を認め自信を持つようになりたいと考えているだけです。 社会契約論については学ぶ必要はありそうです(´-`; ) 不快であることを回避すると言うのは、その根底には結局不快であるという人間の感情かさがありますよね?そうなるとやはり法の根拠に感情は切れないものなのではないでしょうか。 自分の感情に左右されずに、現実を冷静に分析し選択することは大事だと思っています。社会においてももちろんそうしなければならないと思います。しかしながら、その判断は全て突き詰めていくと何に基づいているのか?ということを考えると絶対に感情にぶつかるはずです。現実を考えると感情と考えは区別するべきですが、結局その成り立ちは感情によって成り立っているのでは、ということを言いたいのです。 回答ありがとうございました!

noname#233797
質問者

補足

誤字ばかりですみません(ノД`)

回答No.6

まず、何が正しいか問う前に、「正しい」とは何かを明確にしましょう。 論理学的には、「正しい」とは二種類あります。 1つには、論理的に成り立っている事。 2つ目は、現実を正確に表現している事。 一般に「正しい」と言う場合、この二者を具有しているものと考えられています。 ところが、不完全性定理において、この二者は両立しないことが明らかとなりました。 即ち、「ある公理系は、不完全(その公理系では証明できない公理の介入)である場合のみ、無矛盾であり得る(Aと非Aを同時に導かない)」という事が、証明されています。 法や正義、善悪などというものは、社会が任意に規定する、相対的なものである事は、もはや常識です。 その上で、人の生きる目的は、「自己の人生を通算した精神的充足量の最大化を指向」であるという“あらゆる外的強制の排除”が、本質的な指向性であると言えます。 しかし、社会性の発達(分業化、組織化)において、それは短絡的な衝動の発露ではなく、自己の生命性の社会的拡張において、「社会への所属における契約としての法」や「低認識による短絡的利己主義の是正としてのモラルや宗教としての善」といった、他律的強制としての「正しさ」が生じる(環境的適応(現実を記述)としての「正しさ」)。 しかし、そこにおける「他律性」は、身体的生存を可能にする意味での「充足量の増大」ではあっても、「強制される」ことによって「自己の意志の達成」としての「精神的充足感」には反する。 そこで、そうした「他律的社会行動(お金や出世を競う)」を、「自律的社会行動(助け合い)」にするための、自己の社会生命性の自覚化=自己の生の社会的拡張の把握による他我=愛が求められる(論理的完全性としての「正しさ」)。 つまり、「好き嫌い(中心)」=最大充足指向に加え、「社会性の発達(外)」「認識の深まり(内)」という、3つの「正しさ」が派生する。

noname#233797
質問者

お礼

すみません、私の中の正しいの定義は「この世で絶対的に正しいこと」となっていました。言葉足らずでした。 すごく面白いお話ですね!むしろ正しさに複数の意味を持たせるのはナンセンスなのでしょうか、それぞれに名前をつけたいレベルですね。 その辺の理論はどのような理論になるのでしょうか。勉強してみたいです(理解できているかもよくわからないほどに難しい話でしたので)。もっと、本を読んで勉強してみたいです。 すごくどうでもいい話なんですが、私は文学部で倫理学哲学コースに進むか迷ったのですが、結局そこには行きませんでした。もう来月四年生になるのですが、、 こんなことなら倫理哲学コースに進みそこで勉強すればよかったです... 回答ありがとうございました!

noname#225485
noname#225485
回答No.5

その通りです。 法律などは社会という集団が潤滑に機能する為に存在します。 その集団の中に身を置く以上それに従うしか無いわけです。 民主主義とは多数決ですから、当然多数の意見が取り入れられる結果となります。 絶対的に正しい事など存在しないし、その逆も然りです。 逆に独裁制は独裁者が絶対となり正義です。 これは独裁者の考えだから判断するのはたった一人の独裁者です。 大勢ではないのです。 自分が何処に身を置くか、どんな組織に所属するかで正しさも間違いも異なってきます。

noname#233797
質問者

お礼

わたしもそのように思います。 だからこの世に「その社会の正しさ」はあっても、それは「この世で普遍でかつ絶対的な正しさ」ではないと思うのです。 だから社会の正しさが絶対的な正しさでなければその社会の正しささえも疑わしいものになると思ったのです。 ありがとうございました!

回答No.4

正誤、善悪、合理、不合理などの判断は全て何等かの基準に基づいて認識されます。 ご質問の文章のみからしますと、質問者さんは個人の基準と集団(社会、組織)の基準を混同されておられるようです。 法というのは社会の秩序を維持する目的で設けられた判断基準です。 どのような秩序がその社会にとって必要かということでその社会に設けられる法が変わります。 例えば、共産主義社会と資本主義社会とでは必要とする秩序が違いますので法が異なります。 集団をどの範囲とするかでも違ってきます。 例えば、一つの国家のみとするか複数の国家を含む集団として考えるかで違ってきます。 個人の基準と集団の基準は異なります。 「私はこれから自分の行動は全て「あってもいい(間違ってはいない)」と認識することにし、自分の行動がたとえ自分で納得いかないものだったとしても、それは間違っておらず一つのあり方であると考えることにしようと思いました。」 とお考えのようですが、 ISに所属する集団や個人は自分たちの行動は正しい行動だと信じています。ISのテロ行動を容認されますか。 自分が自分の基準で判断するのは良いが、他者が他者の基準で判断するのは認めないということでしょうか。 好嫌というのは個人の情に基づく判断です。 個人が物事を判断する際には、理論で判断する場合、情で判断する場合、感性で判断する場合があります。 理論は言葉を使って考えられますが、情や感性は言葉を使いません。 言葉で表現する際に、好きなものは好き、嫌いなものは嫌いとしか言いようがないということはありませんか。 言葉を尽くしても表現し切れないということはありませんか。 情や感性を表現したり他者に伝える手段が表情、仕種、態度、歌舞音曲、絵画彫刻などです。 ボディーランゲイジというのをご存じありませんか。 音楽を聴いたり、絵画を見た際に素晴らしいとしか表現できないことはありませんか。 素晴らしい音楽や絵画はいくらでもあります。 話題になっている音楽や絵画について何を基準にして素晴らしいとしたのかを他者に伝えることができますか。 音楽や絵画などの解説書がありますが、それを読んで直ちにその音楽や絵画を思い描くことができますか。 行間を読む、言外の意を解するという言葉を聞かれたことはありませんか。 言葉だけでは伝えきれなかったものをくみ取れということです。 ある意味で感性で理解しろということです。 集団には個人の情や感性が伝播して広がることによって生じる集団心理と呼ばれるものがあります。 法というのは言葉で表現される範囲のものです。言葉で表現できない情や感性は含まれていません。 法治国家であれば法で集団心理は裁くことができません。 法治国家では集団心理で発生した事象の結果のみを裁いています。 韓国ではこの集団心理が優先されることがあり、結果として「韓国には大統領権限も裁判も超える国民情緒法がある」と揶揄されます。 独裁国である中国や北朝鮮では独裁者の情や感性が優先されます。これを人治国家と呼びます。 長々と書きましたが要は個人と集団(社会、組織、国家、仲間etc)とを峻別してお考えになって下さい。

noname#233797
質問者

お礼

法は秩序の維持のためにするものであるのは承知です。それは目的であり、根拠ではないです。秩序を維持するためには何を根拠に基準を定めるか?それはどんな主義の国でも人の感情によって定められます。そこでは法がいかに異なるかは問題ではありません。どんな法もあらゆる環境や経験に基づいた人の人格や感情から作られたものだからです。 わたしの考えですとISも容認することになります(わたし個人としては嫌ですが、わたしのこの考え方だとそうなってしまいます)。 人がそれぞれの基準で判断することをわたしは容認しています。なぜなら1人1人の行動を人間が正しいかどうか判断することは不可能だからです(ここでいう正しさとはこの世の絶対的な基準という意味です)。 だからわたしの考えもあっていいが、相手の考えもあっていい、お互いの考えが嫌いでもお互いの考えを間違っていると真には指摘できないということです。 個人も集団も同じです。 北朝鮮や中国の場合は情による判断(法)が1人に握られており、日本の場合は国民全員(かは知りませんが)の情によって握られているという違いだと思います。どっちにしても法は人の情を根拠にしてなっています。 個人と集団での規模で勝手にこれは正しいなどと決めてはいけないとは思いますが、とりあえず根底には少人数であれ大人数であれ、人の情からなっているということです。 例えば人を殺してはいけないという法律は何故できたのでしょうか。秩序を守るためだとして、何故秩序を守る必要があるのか。その根拠はなんだろうか、そう考えていくと、人が人を殺すのは誰かが悲しく、また自分が怖い、それが根拠になっているのではないでしょうか。 長々とすみません。 回答ありがとうございます。反抗するつもりはなく、ただ議論したくて...付き合ってくださってありがとうございます!

  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7193/21843)
回答No.3

法などで、なぜ犯罪が裁かれるべきものであるかというのは、結局大勢の人が その犯罪を何らかの形で「不快に思う」からではないかと思うのです。    ↑ 違います。 法が犯罪を裁くのは、社会を維持するためです。 人間にとって社会は必須です。 社会に育たない人間は、二足歩行すら出来ません。 それほど社会は人間にとって必要不可欠なモノなのです。 その社会の秩序を維持する為に法があるのです。 私はこれから自分の行動は全て「あってもいい(間違ってはいない)」 と認識することにし、自分の行動がたとえ自分で納得いかないものだったとしても、 それは間違っておらず一つのあり方であると考えることにしようと思いました。 また、人と考え方が違っても、相手の考え方は間違ってはおらず、 ただ自分が嫌いなだけなんだと認識することにしました。   ↑ 社会の維持にとってプラスなものを正しいと名付け マイナスを間違いと名付けたのです。 だから、正しい、間違っている、というのは己の 主観だけで決めることは出来ません。 このような考え方に対して何か批判があればと思い、投稿致しました。   ↑ 何を持って善とするか悪と定めるか、というのは 昔から色々な人が議論してきましたので、まず それを勉強することをお勧めします。 ワタシの説明は、色々ある説の一つに過ぎません。 また、善悪という概念をどう考えるべきか、にも諸説 あります。 大ざっぱにいいますと、次のようになります。 第一 時代や立ち位置に関係の無い普遍的な善悪が存在する という考え方。 これは、キリスト教のような一神教文化に多い考え方 です。 現代ではロールズの正義論がもっとも有力です。 第二 善悪などは、人間と人間の関係において定まるものであって、 時代や立ち位置を超えた普遍的な善悪など存在しない、と する立場です。 日本など、アジアにはこうした考え方が多いです。 他人の迷惑になることが悪だとか、人の欲することを やってやるんが善だ、なんて儒教的な考え方が これです。

noname#233797
質問者

お礼

すごくわかりやすい説明ありがとうございました。 法は社会を維持するために作られたものであるとわたしも思っています。ただ、その根拠となるものが人間にとって快か不快かで決められているということです。 社会にとってプラスなものを正しいとすると、その基準は人間が多く快いと感じているものであるということではないでしょうか。要するに多数決と言いますか。それを仮に正しいとしているわけですね。 善悪の概念をどうするかは難しいですね...やはりこのようなことを話すにはちゃんと本読まないとダメですね(´-`; )勉強します!

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.2

maemukibot様、こんばんは。 >「人権侵害は何故叫ばれるようになったか、それは人がこんなことは理不尽だ、むごたらしいと、不平等だと、不満を持ったからではないでしょうか? (もちろん私はただ理論的にこんな風に言ってるだけで犯罪も人権侵害も全部良くないと思ってます) それは感情です。 好きか嫌いかとわけることはあまりにも単純なことだとは思いますが。」 小生の学んだ限りですが、 「「人権を侵害するような「権利」の主張」は、認めると大変だ」ということですか。 >「好き嫌いから起こることを正しいと信じて行動するのはあっていいと思います。しかし、それは「正しさ」ではないです。 言葉足らずでしたが、ここでは「正しさ」は「この世で絶対的な基準」だと解しているので、正しさがあり得ないのではないかと思ったわけです。 すみません、なんだかよく分からなくなってしまいました汗」 ・・・人権を侵害しないことが、肝要です。 「「好き嫌い」は正しさではないはずです」というのには、同意です。 >「言葉足らずでしたが、ここでは「正しさ」は「この世で絶対的な基準」だと解しているので、正しさがあり得ないのではないかと思ったわけです。」 ほほう。仰る通りかもしれないですね。

noname#233797
質問者

お礼

おはようございます。また回答してくださったんですね!ありがとうございます! いえ、認めてよいです。単に、その根拠が感情である、というだけのことです。法は法であっていいと思ってます、それが人と人との間の秩序を作っているはずなので。人権を侵害しないことはもちろん肝要なことだとわたしも思っています。

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