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前9年、後3年の役が起きたのはなぜですか。

この役が起きた背景を簡単に教えてください。

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  • notnot
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回答No.3

奈良~平安時代にかけて大和政権は、領土拡大のため、北関東から宮城のあたりまで攻め込みます。桓武天皇が国全体の疲弊のため、東北征服を中止し(九州の防人を除いて)国軍を廃止して、蝦夷とは共存の時代に入ります。この間東北では、金・毛皮・馬などを産出して朝廷に献上、また朝鮮と直接交易するなど富を蓄え、それを狙った関東の武士たちが東北進出を図り、源頼義が陸奥の守に任じられて、些細なことを口実に前九年の役が起こされます。後三年の役は#1の書かれた内容でいいと思います。 10年位前だったと思いますが、NHK大河ドラマで「炎立つ(ほむらたつ)」という前九年の役から奥州藤原氏の滅亡までを描いたものがありました。原作の同名小説もあります。 つい最近の新聞で青森で古代の戦闘跡が見つかり、蝦夷内の抗争か、蝦夷と大和政権の戦闘か、どちらか調査中というような記事がありました。

その他の回答 (4)

  • gutoku2
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回答No.5

前九年の役  源頼義が陸奥守としての任期(最終年)の1056年に、地元豪族の安倍頼時の子、安倍貞任が権守藤原説貞の道中を襲った。源頼義は安倍貞任を処罰しようとしたが、安倍頼時が貞任を庇った為、戦争となった。これが源頼義側の言い分。  しかし客観的(利害の無い歴史の傍観者)に見て、任期の最終年に恭順の意を示している安倍氏が突然叛旗を翻すなんて理解できません。少なくとも武勇の誉れが高い源頼義の任期後ならば充分理解できますけれどね。まあ源頼義の悪巧みじゃないでしょうか。  結果は、1063年地元豪族の清原氏を味方に付けた源頼義の勝利。頼義はこの戦争の勝利によって正四位下伊予守になっています。(状況証拠から)頼義が源氏の勢力拡大を目論んで仕掛けた戦争では無いでしょうか。 後三年の役 清原氏の内訌に、源義家が介入した戦争です。 1083年に源義家が陸奥守として着任。その時、清原本家である清原真衡と清原家衡&清原清衡(連合)が対立していた。偶然?通りかかった義家の郎党が真衡側に請われて加担し、この内訌に介入することになる。その後、真衡は急死し、清原家衡も義家に降伏し、義家は真衡の遺領を家衡・清衡に分け与えた。  しかし家衡は遺領の配分に不満を持ち、清衡を襲い妻子を殺した。これに義家は清衡側で参戦。しかし家衡は清原武衡と連合し抵抗。これに対し義家は弟の源義光の救援により最後の抵抗地である金沢柵にて家衡を破る。  これはどう見ても清原氏の私戦なので、義家に対して朝廷からの恩賞はなし(まあ当然ですね)。しかし、義家の家来は手弁当で参戦しているので恩賞がなければ、今後家来が義家に従うメリットはは無し(デメリットのみ)。主従関係を義家側から破棄するということです。そうなっては源氏の名折れ。義家は自分の身銭を切って家来に恩賞を与え、家来からの信頼を集めました。これが後に源氏が天下を取る下準備となるのです。

noname#6587
noname#6587
回答No.4

 こんにちは。  私は源義家に興味があって、WEBで色々調べたりしています。  「この役が起きた背景を簡単に」説明するとしたら、(昔のことは基本的にわからない、が原則ですが)義家は代々、今風に言えばやくざの愚連隊だったわけです。(愚連隊というのは古いかな。)  ブッシュも親子二代、人んちの石油がほしくて難癖つけて暴力で乱入して、フセインの孫まで殺したわけですが、「この役の背景」は古文書よりも現代を見ればわかりますネ。(もっとも、前九年・後三年には後世の絵巻物位しか残ってませんが。)  回答 義家とその親父が強欲だったから。 (大真面目な答えです。因みに、その後の大名などは義家の自称子孫が沢山います。だから悪く言わないのでした。義家に従った関東の豪族共々強欲だった。)

回答No.2

下記のURLを閲覧下さい。

参考URL:
http://www.shokokai-kagawa.or.jp/nio/hassaku/2002/h5.htm
  • ne-rim
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回答No.1

高校で習った程度なので、お答えになるかどうか心配ですが、知っている事を書きます。また、前九年に関しては自信がありませんので、後三年だけ書きます。 ただ、はっきり言えるのは、この頃源氏は1028年の平忠常の乱を筆頭に東国(北の方)への進出を始めました。なので、前九年合戦は源氏の領地拡大のための戦いと考えて良いと思います。 1051~1062年の前九年合戦で、陸奥の豪族安倍氏は、出羽の清原氏の援助を受けた源頼義、義家親子に鎮圧されます。 その際、清原は安倍の妻とその子供(清衡)を連れ帰ってしまいました。 清原は既に妻と子供(実衡)がありましたが、安倍の妻との間にも子供(家衡)ができました。 さて、誰が後継ぎになるか。この権力争いが後三年合戦です。 源氏が清衡を援助し、清衡が勝利。その後清衡は平泉を中心に奥州藤原氏を繁栄させていきました。 ちなみに、清衡がなぜ藤原を名乗ったかと言いますと、安倍の妻、つまり清衡の母親の旧姓が藤原だからだそうです。

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