※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:過剰な謙虚さ)
過剰な謙虚さと謝罪の過剰さについて
昨今、芸能人がよく使う過剰な「へりくだり」に非常に違和感を覚えています。
たとえば「~させていただいています」「出演させてもらっています」という言い方です。
まるで、芸能界の絶対的法則であるかのよう。
うっかり「出演します」などという言い方を通してしまったら、仲間や視聴者から総攻撃されかねない対処への必死さすら感じさせられます(そのためか、文法的におかしな言い方をしている場合もありました)。
「しています」という言葉からは、意思や自立性、リアリティを感じますが、「させていただいています」「させてもらっています」という過剰な謙虚さからは受動性や消極性を通り越して、卑屈さすら感じさせられます。
確かに彼らの仕事は独りで成功させることは難しいですが、本人の意思や行動が前提であり、さらに自信と誇りをもっていれば「出演しています」で十分ではないかと。
次に、「すみません」という謝罪を使った社交辞令について挙げます。
これは日本人特有の慣習かと思うのですが、なんでもかんでも「すみません」ばかりです。(私もついついそうしてしまいますが、言ったあとで後悔しきりです)
また「すみません、ありがとうございます」と、謝罪と感謝を抱き合わせで言う「過剰さ」もあります。
「すみません」には、いろいろな意味が込められていると思いますが、主に謝罪の言葉としてつかわれる以上、言葉は一種の「呪い」ですから、日本人の卑屈さ(と、私は日本人の特徴のひとつとして定義しております。謙虚さという美徳の裏面です)に拍車がかけられるかと危惧しております。
さらにイヤらしいなと思うのはその謝罪が本心ではなく、むしろ、相手にそれを要求している場合、暗黙の了解として使われるときです。
たとえば相手に何らかの債務があり、債権者が権利を行使する場合。
債権者ですから、一般的マナーとして非常識に、また不法にとりたてることがなければ十分です。
それを前提としながらもなお、「こんな夜遅くに連絡してすみません」と断る時間帯がまだ夕飯前の夕方であるような場合、相手の債務(の遅延)に対する罪悪感を刺激させるためではないか?これは「謝罪という卑屈さ」を用いた責めではないのか?であれば偽善だ、と思うのです。
このような、日常的にあたりまえに用いられているようでありながらの違和感。また直感で「これは正しくないな」などと思うことがありましたら、教えてください。
または一見の美徳が実は不徳であるような事についての事例や考えを述べてください。
お礼
ご回答ありがとうございます。 政治屋さんがいうとますます胡散臭いw 謝罪されることは、自分が何かを被っていることの事実を認識させられます。それが繰り返されれば、みじめになってくる。だから腹が立つのは自然なことと思います。 辞書では「へりくだる」については「相手を敬って自分を低くする。謙遜(けんそん)する」、「謙虚」は「ひかえめでつつましやかなさま。自分の能力・地位などにおごることなく,素直な態度で人に接するさま。」とありますから似て非なるものです。 自分を低く見せる姿勢で相手が立つというのは、力関係が明確で、お互いにその関係性を認め、納得している場合でしょうか。 客の方が偉いなどという気はありませんが、客の方が居心地が悪くなるのは、その過剰さによって卑屈さを感じさているからだと考えています。 モノの対価としてお金を得て、お金の代わりにモノを得るのですから、理屈の上では対等なのですけれどね。 ですから三波春夫の「お客様は神様です」というあの「迷言」は媚びたものなのか、それとも低姿勢のうちに上から目線をしのばせたものなのか。 真に自信がある場合、謙虚さというのはおのずとにじみ出てくると思います。自分を磨きたければ、自分が万能ではないことを知る必要があるからです。それは相手のためではなく、自分のためにもつ余裕のようなものでしょう。