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過剰な謙虚さと謝罪の過剰さについて
- 昨今の芸能人の過剰な「へりくだり」に違和感を覚える。
- 芸能人の言葉からは消極性や卑屈さを感じる。
- 日本人の謝罪の過剰さに卑屈さを感じる。相手に要求される謝罪は偽善だと思う。
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最近テレビを見ていて私もおおいに気になっていました。 「~させていただく」という言い回しは芸能人に限った事ではないと思います。以前、国会議員の後援会を聞いた時の事ですがなにかにつけて「~させていただく」と言うのです。「○○委員会で質問させて頂きました」とか「○○議案を提出させて頂きました」とか。 「君たち国会議員は質問したり、討論するのが仕事じゃないの?なのに『させて頂きました』ってどういうこと?誰に対してへりくだっているの?」と思い、とても聞き苦しい講演だったと感じました。 「当選させて頂きました」とか「合格させて頂きました」なんて言うのもよく聞くけど「自分の実力じゃないのか?」と言いたくなる。もちろん周りのひとの協力があってのことで、それに対する感謝の意を込めているんだろうけど違和感はある。 「説明させて頂きます」とか「○○円お値引きさせて頂きます」なんて言うのもおかしいと思う。なんだかこちらが無理矢理要求しているんじゃないかと思ってしまう。 今の世の中そんな風潮が蔓延しているように感じます。 例えば電車の遅延。電車に乗っていて、緊急停車ししばらく動かない時がある。車内アナウンスで原因を説明するが大概鉄道会社に落ちだが無い場合が多い。それでも「遅れまして申し訳ありません」と言う。一度二度ならいいが、しつこいくらい連呼されると逆に腹立たしくなってくる。 今後、さらにエスカレートすると警察官が極悪非道な犯人に「逮捕させて頂きます」とか、医者が患者に「お注射させて頂きます」という変な世の中になるかもしれないと危惧する今日この頃。
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まことに丁寧な「お礼」ありがたうございます。 >>なにを心配なさっていたのでしょう? 人生おしまひ、のやうな印象を受けたものですから。このあたりが、思想の相違なのでせう。 >>禁句が解禁され、一般的用語として用いられることに、 >>逆転現象が起きていると感じています。 もつとさうなつてほしいと思ひます。 >>ところで「バカ」という言葉は、私は日本人が最も多用している語だと思います。 言はれてみれば、さうですね。さまざまな場面で、いろいろな意味で。ねこさんの質問ページの回答番号33のido-kawazuさんの用例は、笑ひました。便利な言葉です。 ....若いね~ちゃんに上目使いで「ばか!」とか言われたら目じりが下がりデレデレな自分を想像しただけですが。 >>年配の人たちは、「めくら」「つんぼ」「ちんば」などと平気で言ひます。うーん。それもゆゆしきことだとは思います。 うちの親もふくめて、高齢者には、差別用語の意識がないと思ひます。いはゆる人権派の人たちが言葉に罪を着せて、悪い言葉に仕立てあげてゐるやうに感じられます。 >>受け手が差別用語だと受け止めているときには軋轢を生じる可能性があります。 それはありますね。 でも、言葉の言ひ換へをしてもきりがありません。「めくら」を「目の不自由な人」にしても、差別意識があり、それを言葉のせいにするのであれば、「目の不自由な人」といふ表現もそのうち差別用語になつてしまひます。 >>ノンスタイルの井上という芸人は嫌われキャラで、 >>彼のツイッターにはたくさんのフォロワからの心ない言葉が >>寄せられているそうですが、最近そのうまい切り返しが話題になってました 読んでゐないのですが、何か言はれて気に病むよりは、それを楽しんだほうがいいと思ひます。現代人は些細な言葉を気にしすぎではないでせうか。 >>差別はさらなる差別を生む。その差別は人間が作る。人間て…哀しいものですね… さうですね。漱石の話は勉強になりました。 今後とも、御教示よろしくお願ひします。
お礼
>人生おしまひ、のやうな印象 いやぁ鋭いですね。大当たりです。あまりにしんどいですよ、この人生。でも私は大丈夫。心配なさらないでください(笑) >「目の不自由な人」といふ表現もそのうち差別用語になつてしまひます。 そうなんです。不自由という言葉も差別的ではなかと思いながら使っていました。 身体は不自由でも、心は自由の人もいるでしょう。 身体は自由でも心が不自由の人の方が多いと思いますが。 あと「弱者」という言い方やマイノリティとする区分も問題あり、ですがこうなるともうきりがないです。実際の弱者、少数であるのは事実ですし… 「区別と差別」で検索をかけましたら、多くの記事がありました。これは普遍的な問題でしょう。 こちらこそ、今後ともよろしくお願いいたします。
最近の御投稿を拝見して、あの輪廻の質問のときの状態とは違ふやうで、安心してゐます。frauさんは私とはかなり思想が異なるのでせうけれど、その論理展開や、人の心と言語との関係への洞察には、納得させられてゐます。「大言止め」でも何でも、「ひとつならず」(『無名草紙』にでてくる複数)、指摘してください。螺旋階段さんが姿を見せないのは心配なのですけれど。 >>昨今、芸能人がよく使う過剰な「へりくだり」に非常に違和感を覚えています。 私は、ひとの言葉づかひには寛容なほうだと思ふのですが、公共のテレビ、新聞などでは、ある程度、模範になるやうな表現を望みます。frauさんの質問文の用例は、たしかに度が過ぎます。「卑屈さすら感じさせられます」といふ批評ももつともですが、私としては、簡潔な表現をしてもらひたいと感じてゐます。「させていただいています」の側に重点が置かれ、本来の主張の内容が薄れてしまひます。言葉の基本的機能は伝達です。大切な部分が目立つやうな言ひ方をするのが本筋です。 少数ならば、それも個性でおもしろいとは思ひますが、テレビ出演者の多くがさうなつてゐる現状はゆきすぎだと感じてゐます。 >>次に、「すみません」という謝罪を使った社交辞令について挙げます。 これは、単なる挨拶程度の意味ではないでせうか。回答番号1の方と同意見です。私もしよつちゆう言ひます。ただし、状況によつては、frauさんの指摘するとほりのこともあります。さういふときは、いやらしい自分に気づきます。 >>直感で「これは正しくないな」などと思うことがありましたら、教えてください。 先日ねこさんのページに書いたのですが、差別用語とされるものには、むかしから違和感を抱いてゐます。下記回答番号7。 http://questionbox.jp.msn.com/qa8739166.html 言葉は、その状況に応じて、ふさはしいものを選べばよいのであつて、ことさらに禁止してしまふのは理解できません。実質的なことを何もおこなはず、単に言葉の言ひ換へだけですませて、なにか善行をはたらいたやうな気になるのは、むなしい行為におもへます。 年配の人たちは、「めくら」「つんぼ」「ちんば」などと平気で言ひます。それこそが差別用語でないことの証です。それを差別用語にしてしまふ、その心が問題です。悪意のないところに、わざわざ仮想的悪意を作りだすのです。本来ならば、年配の人たちを敬ひませう、と奨めるべきところを、年寄は悪い言葉を使ふからけしからん、などと弾劾します。先に日本語を使用してゐるのは、年配の人たちです。あとから使ひだした者がそれを非難するのは、ヨーロッパからアメリカ大陸に移住して、原住民を差別した人たちと同様です。
お礼
>年配の人たちは、「めくら」「つんぼ」「ちんば」などと平気で言ひます。 うーん。それもゆゆしきことだとは思います。 平気で言うのがどういう心境であるのかは分かりませんが、受け手の心境もありますので。 差別用語とされていなかった場合、差別用語とされても使い手が認めていなかったときには使う際の罪の意識はないでしょう。しかし、受け手が差別用語だと受け止めているときには軋轢を生じる可能性があります。 身体的、心理的になんらかの特徴があるということが少数派であるとき、即、差別の対象になりえます。 「バカ」と違い、「めくら」「つんぼ」「ちんば」などは、明らかな特徴がありますから。 「バカ」と言う発言者には、相手に対する少しの気遣いがないこともない…かもしれない。相手が決定的に傷つかないような、罪の軽い罵り言葉といったらよいでしょうか。 辞書の定義の「バカ」も多様な意味に定義されているので、根拠を表現するにはあいまいすぎる語です。そういう意味では抽象的な言葉です。 だからこそ、これほどまで不特定多数に使い古されているのではないでしょうか。 (ところでノンスタイルの井上という芸人は嫌われキャラで、彼のツイッターにはたくさんのフォロワからの心ない言葉が寄せられているそうですが、最近そのうまい切り返しが話題になってましたが、「バカ」というフォロワに対する『あなたは「馬と鹿」が好きなんですね』という切り返しをみて、少なくとも彼はバカではないなと思った次第です。 また動物を愛する私としては、蔑称として馬と鹿が利用されているの見て憤ります)) 明らかな悪意をもった差別用語ならば論外ですが、単なる区別も、差別として当人が認めてしまうときでもありますから。 (この区別も差別につながる、という意見もあるのですが) 今では「障害者」という文言も、「障がい者」と訂正されて書かれていますよね。たぶん「害」がだめなのでしょう。 でも改めて考えれば、目の不自由な人は、視覚よりも聴覚で認知する方が多いですから、文字よりも「シュガイシャ」という音のほうに敏感になると思うのです。逆もまた然りですが。 また、身体が健康でも、心に不自由さを持っている場合も同じです。 「ニート」「ヒッキー」という記号化は、これだけで差別用語にもなりますし、固定観念化させてしまう。 いずれにしろ「ことば」それ自体が「命そのもの」です。 命に傷つけられて実際の命を絶つ、絶たれるということにも至る。 私が子供のとき、父親と電車に乗っているとき、身体の不自由な方がいました。父はおもむろに「ああいう人はすごく苦労してきた人だ」と耳打ちしてきました。父は露骨な差別主義者ではないですが、なぜわざわざそういうことを言うのだろうか思ったことは光景と共に今でも鮮明に覚えています。 (そういう父親からは、テストの点数が悪かったとき、よく「バカ」と言われ続けましたが、正直深く傷つきましたし、今でもトラウマになっています。 もっとも今では彼らのほうがバカ…いや考えが足りないと思っていますが) 大人になって他人にこの話をしましたところ「自分の親からは(身体の不自由な人を)見るなと言われた」と言っていました。 意識をすることで、相手にも同じことを喚起させてしまうからというのが「見るな」の本意なのでしたら、たぶんこれが正解なのでしょう。 昔、自転車を走らせていたとき、足が不自由で走れない人の前をさーっと追い越しました。並走していた妹が「なんだか悪い気になってしまう」と私も同じように感じていることを聞いたとき、ほっとしました。かといって、自転車を乗り捨てるわけにはいかない。 「お年寄り」に席を譲ったのに怒られるということも、自分は年寄りだと認識させられるからでしょう。そういう年配者もいれば、死にそうなほど疲れている若者の前でピンピンした「年寄り」が、シルバーシートを盾に席を譲れという暗黙に迫る年寄りもいるわけで。 同情は差別を生むと思うのです。 一方で共感は対等性を持ちます。 気遣いを被る側も、渡す側も、同情を与えた、受け取ったと思ってはならないかもしれません。 一方でこの年寄りのように共感を利用する人間もいる… また、身体の不自由さは個性という考え方もありますが、これも「見るな」に通じるところがあると思うのです。 なぜ差別があるかといいますと、そこに恐れを見るからです。 肌の色で差別する人間は、黒人の肌の色に「黒」から連想される「死」をイメージさせられるから。 では黄色人種は?黒よりかはマシだけれど、黒人差別によって白人至上主義になってしまった白人の過剰反応ということでしょうか。 「イエロモンキー」「ジャップ」も日本人への蔑みですが、「イエロモンキー」に反応するのは、人間が猿(動物)を下に見ている証しです。 「ジャップ」については 『元来は単なるJapaneseの短縮形であり、蔑称ではなかった。』 らしいです。続けて 『しかし1900年にロンドンに留学中の夏目漱石が"Jap"と呼ばれて失敬と受け取る記述があり(倫敦消息)、当時すでに蔑称と認識されていたことがわかる。』 とのこと(Wikiからの抜粋)ですが、差別用語を運んだのは、夏目先生だったとは。 差別はさらなる差別を生む。その差別は人間が作る。人間て…哀しいものですね… 話は変わりますが、 >螺旋階段さんが姿を見せないのは心配なのですけれど。 確かに姿を見せてくれませんね。 私がこのサイトを利用してから10年以上経ちました。でもブランクがあって、最近またこのカテゴリをのぞくようになりましたが、常連さんがガラリと変わってましたね。 昔はデカルトがよく引用されていたものですが、最近はキリスト教や仏教ですね。また仏教批判もあったり、たまに違う神様もおられて面白いです。 あと精神世界や人智学カテもあっても個人的にはほしいと思うのですが。そういう方面は哲学カテゴリで聞きづらい。あの世はある?系な質問はほぼ否定されますが、ぢゃあ、否定する根拠は存在するのか?と問いたいですね(笑)
補足
plapotaさん、お久しぶりです。 お返事が長くなりましたので、こちらからお読みください。 >輪廻の質問のときの状態とは違ふやうで、安心してゐます。 えー?なにを心配なさっていたのでしょう?? あの質問のあと、どなたかへの投稿でもplapotaさんが私のことを心配していると書いてあったのを見かけたのですが、質問じたいはおかしなことをテーマにしているつもりはないと思ってますが…はて? 差別用語の回答、拝読しました。 >ことばの表面にとらはれて、事の本質を見失ふことが、いちばん恐ろしいことだと考へてゐます。 同感です。差別用語を意識するがあまり、逆に相手に差別を意識させてしまうのは、 >「させていただいています」の側に重点が置かれ、本来の主張の内容が薄れてしまひます。 ということと同じだと思いました。 もしくは、そんなにへりくだられるほどの大した人間ではないよ、という私が自分に対しての自己否定のためであるかもしれません。 自分もへりくだりすぎるところがあるから、相手にも同じところを見たくないのかなとも思うのです。 それは「そうありたくない自分」ですので、「こうありたい(もっと堂々とふるまいたい)と思う自分」が、投影している相手に「あなたも堂々とふるまって」というように思うのでしょうか…とすれば、私は相手を通して影の自分に叱咤激励をしているのかなぁなどとも考えてたり…。 いや、私が堂々とふるまえた日がきたとしても、それでもやはり、なんでも「すぎる」ということは不自然なことだと思うでしょう。 芸能人の例でいえば、「流行り」のようにも見えるからです。付和雷同しがちなのは、私の日本人の嫌いなところですし。 >悪意のないところに、わざわざ仮想的悪意を作りだすのです。 なるほど。 かつては「キチガイ」が差別用語でした。 しかし最近、この言葉であふれています。ネットなぞはいちばん言いやすいところでしょうし、現実でもね。私もつい口にしてしまいますがw この言葉に限っては、禁句が解禁され、一般的用語として用いられることに、逆転現象が起きていると感じています。 ところで「バカ」という言葉は、私は日本人が最も多用している語だと思います。 他人を褒めるよりも、けなす方が多くなりがちですから、態度はその逆でも自分にしかわからないように本音を吐くときでさえ、相手にもバカといいますし、自己嫌悪に陥るとき、自分が自分に対して吐くセリフも「バカ」という。一億総バカです(笑) 仮に「バカ」ということも差別用語にしようとしたら…対象は一億の日本人、その根拠も容易に見つからない。ということで不可能でしょう。
- kurinal
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こんばんは。 >>「100人前!!」 ってなにが? kurinal様は答えてくれないでしょうねえ。まっ、それがkurinalスタイルでしょうから(笑)」 ご質問中、 >「夕飯前」 という文言に、単純に反応してしまったようです。
お礼
(^^ゞ
- kurinal
- ベストアンサー率10% (128/1195)
frau様、こんばんは。 >「一見の美徳が実は不徳であるような事についての事例や考えを述べてください。」 「100人前!!」とか。
お礼
ご回答ありがとうございます。 >「100人前!!」 ってなにが? kurinal様は答えてくれないでしょうねえ。まっ、それがkurinalスタイルでしょうから(笑)
- kohichiro
- ベストアンサー率21% (306/1447)
昔はなかった「芸能人のなま出演」とかいうやつでしょうか。不思議な言葉ですが、政治家や大学教授、芸術院会員とかになった芸術家が生出演するというのならわかりますが、TVの芸能人はそこで与えられた役目をこなすのが仕事なので、そのひとの生の人柄を見ることなどを本来期待しません。ですから当人が出演できた理由などは別にわたしたちには関係ないと思いますし。 私は素人のなまの感想をTVで聞かされるのが苦痛です(街頭録音などはかなりいじられていると思います)。トーク番組というやつはその最たるものですが、芸能人にも口下手が居て当然だし、そんな番組が下種の見地でぼろをだせ、出せと期待してみているようなのが嫌いです。面白くもなにもない番組です。 要は楽屋裏の有様をわざに見せようことで受けようとする最近のねたのなくなったTVの傾向に関係するひとつの奇妙な傾向をかんじとられているのだろうと拝察いたしました。 >「出演させてもらっています」という言い方 TVの視聴者に対して言っているのでないことは確かなので、本当に奇妙な言葉ですね。たしかになくしてほしいです。 つけたしですが、日本人の敬語、謙譲語、丁寧語一般のシステムについては、私は特に問題はないと考えています。日本人が日本社会を円滑にまわしていくための知恵というようなものが感じられて、もっとこれを国際的に広めていくべきではないかとすら思っていますよ。お互いにいい気分でいられると思うのですが、偽善だとか謝罪という卑屈さ(?)とかいうふうに考えすぎるのもどうかなと私は思います。 私はドライよりもウェットのほうが(どちらかといえば)親しみやすい人間です。いろいろ覚えたり考える手間はかかりますが、お互いに仲良くできれば、多少の手数は必要だと思いますよ。中元とか歳暮とか虚礼廃止?とんでもない、といったことですが。
お礼
ご回答ありがとうございます。 >ねたのなくなったTVの傾向に関係するひとつの奇妙な傾向をかんじとられている なぜそう思うのか分かりません。奇妙な傾向は過剰なへりくだりのことだけであって、くだらない芸人のねた切れなどはどうでもよいことです。 >TVの視聴者に対して言っているのでないことは確か 同感です。やはりなにかそう感じさせますね。 >お互いにいい気分でいられると思う 表層的にはそのいい気分の中に、知ればいやーな気分にさせられる事実が潜んでいるものですから。 >中元とか歳暮とか虚礼廃止?とんでもない ご回答者様は反対派のようですね。 日本は礼節を重んじますが、その「重さ」が負担をとなる場合もある。たとえば何かを贈られれば、お返しをしなければならないということなど。 年賀状も労力や時間、資源の無駄だと思いますし、なぜ元旦に日本国中同時に揃って挨拶をするのか。 礼節はすぎれば、暗黙の同調圧力につながると思います。一見美徳とするところでも、中庸を超えてしまうと不徳となる、ということです。
- 雪中庵(@psytex)
- ベストアンサー率21% (1064/5003)
集団主義的な日本社会において、人間同士の上下関係を 明示化する敬語、謙譲語、尊敬語、丁寧語といったものは、 重要な意味を持つ。 しかし、それが有効に機能するのは、企業内や地域コミュ ニティといった安定して階層化した人間関係の成り立って いる場合である。 不特定多数に発信するマスコミや、一過性の客を相手に 相手にする客商売の場合は、相手との相対的グレードが 分からないので、最上級に持ち上げておいた方が、クレー ムにならないのだろう。 少なくとも「過剰な丁寧さだ」というクレームの方が、「失礼 な物言いだ」というクレームよりも無難だろう。
お礼
ご回答ありがとうございます。 >「過剰な丁寧さだ」というクレームの方 なるほど。クレームのうちに違いありません。 確かに日本語の多様性、複雑さは美しい文化のひとつです。 しかしその企業においても「すみません」が過剰になりすぎているきらいがあるのです。 人間関係の正常な成り立ちというよりも、バランスを保つための過剰ともいえる神経質さが目立ちます。 >相手との相対的グレードが分からない 確かにそうですね。これは日本人の気質でしょう。 不特定多数の一人として受信する場合、私は付和雷同する大勢の中の一人の姿(つまり日本人の美徳を不徳といたすような態度)は見たくないですね。
- nooooo
- ベストアンサー率18% (78/413)
芸能人は不特定多数を相手にしているので、単にめんどくさいから、過剰であっても、へりくだった言い方をしておこうという考えからじゃないですか? 世の中、本当にいろいろな人がいますから。 挨拶の「すみません」は、英語のHi!と同程度の記号であって、あまりそこに意味を考えないほうがいいし必要ないんじゃないかと思います。 偽善であっても、暴力的であるより、丁寧な物言いのほうが平和であって現代的では? 偽善を振り払って、正しい、正しくない、美徳・不徳を言いだすのは、信条の押しつけとなり、それはそれで傲慢であり、新たな対立を生みますし。 哲学的な回答でなくてすみません。←卑屈に言ったけではなく、本心から。
お礼
ご回答ありがとうございます。 >丁寧な物言いのほうが平和であって現代的では? これだけ取り上げれば私も同感です。 >英語のHi!と同程度の記号であって というようなことも、この質問においては自明のことです。 >信条の押しつけ これについては、その可能性もあるという現実論として覚えておきましょう。しかしそこに、二次元的な問題や課題の結論を帰結させるものではありません。 結果が「平和であって現代的」であれば、問題提起は軽々しく扱われてもよいのですか?むしろその過程において、問題における因果は潜んでいるのでは?美徳という名のもとに。 偽善を振り払ったときの事実(あるいは真実)を「あるがままに」知りたいというのが主旨です。そこに感情はありません。回答者様は感情論として受け止めていらっしゃるようですが。 >偽善を振り払って、正しい、正しくない、美徳・不徳を言いだすのは、 偽善を振り払うことをしているのではありません。偽善を考えているだけです。 >信条の押しつけとなり、それはそれで傲慢であり、新たな対立を生みますし。 へ理屈を言いたくはありませんが、ご回答者様が、「信条の押しつけとなる」という結論を述べた時点で、ご自身がそれを体現していることになります。 他者の考えを認めなければならない、という強迫(脅迫)こそ、私にとっては偽善のひとつです。
お礼
ご回答ありがとうございます。 政治屋さんがいうとますます胡散臭いw 謝罪されることは、自分が何かを被っていることの事実を認識させられます。それが繰り返されれば、みじめになってくる。だから腹が立つのは自然なことと思います。 辞書では「へりくだる」については「相手を敬って自分を低くする。謙遜(けんそん)する」、「謙虚」は「ひかえめでつつましやかなさま。自分の能力・地位などにおごることなく,素直な態度で人に接するさま。」とありますから似て非なるものです。 自分を低く見せる姿勢で相手が立つというのは、力関係が明確で、お互いにその関係性を認め、納得している場合でしょうか。 客の方が偉いなどという気はありませんが、客の方が居心地が悪くなるのは、その過剰さによって卑屈さを感じさているからだと考えています。 モノの対価としてお金を得て、お金の代わりにモノを得るのですから、理屈の上では対等なのですけれどね。 ですから三波春夫の「お客様は神様です」というあの「迷言」は媚びたものなのか、それとも低姿勢のうちに上から目線をしのばせたものなのか。 真に自信がある場合、謙虚さというのはおのずとにじみ出てくると思います。自分を磨きたければ、自分が万能ではないことを知る必要があるからです。それは相手のためではなく、自分のためにもつ余裕のようなものでしょう。