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「ようだ」と「らしい」の使い分け

ある外国人が「まるで自分が子供の頃に返ったらしい」という文を書きました。 私はこの文の末尾は「返ったようだ」とするのが自然だと思いますが、辞書を見ても明確に説明できる根拠が見当たりません。「まるで」の後続であることがポイントのような気がしますが、本当にそうなのでしょうか。 外国人にはこの点をどのように説明すれば、納得してもらえるでしょうか。 それとも私の考えすぎであって、この文は自然に通じるのでしょうか。

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  • Nebusoku3
  • ベストアンサー率38% (1471/3839)
回答No.2

>「まるで自分が子供の頃に返ったらしい」 は少し変な日本語と思います。何故なら、 「まるで ~のようだ」 とペアで言うのが正しいからです。 「あたかも ~のようだ」 「見た目では ~のようだ」 などと他にもありますね。 事実かどうか不明だが 「そのようにみえる。 そのような感じがする」 場合に 「~のようだ」 を使います。 ●らしい を使う場合は、 「彼は昨日、両親のいる故郷に帰ったらしい。」 の様に人づてに聞いた事を言う場合など100% 確かな情報では無いけど ということを言いたい時に使います。 「彼女は 東大に合格した らしい。」 「彼の両親は既に 亡くなられた らしい。」 この中には およそ50%~80%程度の真実が含まれ、全くのうそではないことを言っています。 ↓ この らしい の部分に ようだ を使うと同じような意味になりますね。 ●ポイントは 頭に 「まるで」 「あたかも」 「見た目では」 の様な言葉がある場合は 後に続くのは 「 ~のようだ」 になります。

Mister0413
質問者

お礼

ご回答、ありがとうございました。 やはり「まるで」などの語がポイントでしたか。関連して同様の語もご教示いただき、勉強になりました。

その他の回答 (8)

  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.9

#4です。 >やはり「まるで」に注目して考えるのが良さそうですね。 : その外国人の方が、どのような意図で、この文を書かれたのか、という基本的な問題があると思います。 「まるで自分が子供の頃に返ったようだ」(比況) 「[どうも/どうやら]自分が子供の頃に返ったらしい」(推量) どちらの意味で書きたかったのか、ということ。 わたしは、「まるで」を使うなら「ようだ」としなければならない理由について述べたつもりです。 「ようだ」が比況の助動詞であるから「まるで」を使う、というのはそのとおりでしょう。 なぜなら、「まるで」というのは、辞書に書いてあるところの「どのような点から見てもほとんど同じであるさま」や「 違いがわからないほどあるものやある状態に類似しているさま」という意味であり、比況に対応している語だからです。 ただ、問題は、わざわざ辞書注釈にある比況という難しい語に置き換えて辞書の語釈を言い換えることではなく、比況に対応している「まるで」を使う場合に、なぜ「らしい」という推量の助動詞を対応させてはいけないのか、という点を説明しないと、その外国の方は納得しないのではないか、ということではないでしょうか。 この意味で「ようだ」と「らしい」の本質的な差異説明は必須だとわたしは思いますけどね。 『比況である場合に、なぜ「らしい」を使ってはいけないのか』という趣旨で本質的な追加質問をされた場合には、わたしの回答を役立てていただければ幸いです。前回の回答内容をまとめると、 『「まるで」というのは、「ほとんど同じである」や「 違いがわからないほどあるものやある状態に類似している」といった話者の断定・判断を述べる副詞であり、これに対応できるのは「ようだ」という『話者の断定・判断』を表わす助動詞であるべきだから。「らしい」は通常『話者の推測・推量』であり判断ではない。』 ということになります。 どのようなシチュエーションでの遣り取りか判然としませんので、すべては質問者さんの裁量しだいでしょう。幾分なりともご参考になればと思います。       

Mister0413
質問者

お礼

追加説明、ありがとうございました。 ぜひ参考にさせていただきます。

  • fxq11011
  • ベストアンサー率11% (379/3170)
回答No.8

>まるで自分が子供の頃に返ったらしい 助詞の使い方です「が」です。 返ったようだ、「ようだ」は自分の感覚です、格助詞・主格「が」で主語・述語になります。 返ったらしい、「らしい」は他から見た感覚、他人の様子、他人から見た自分、したがって、自分が主格の述語に違和感が出る。 「自分は」、ならまだ何とか理解できる、「は」係助詞、うまく言えないが、前の言葉についての説明?めいた内容が続く。 日本語文法の最難関ともいわれる、助詞にかかる問題です。

Mister0413
質問者

お礼

ご回答、ありがとうございました。 お言葉ではありますが、助詞の問題だけで説明しきれることでもなさそうです。

  • 1311tobi
  • ベストアンサー率49% (84/169)
回答No.7

 No.6のkine-oreさんの回答が正しいと思いますが、少し補足します。  まず辞書をひきます。 http://kotobank.jp/word/%E6%A7%98%E3%81%A0?dic=daijisen&oid=18893200 「ようだ」にはいくつかの意味がありますが、下記だけ引用します。  ================引用開始 1 ある事物の性質・状態が他の事物に似ている意を表す。「今日は真夏のような暑さだ」 3 (主に文末に用いて)不確かな、または婉曲(えんきょく)な断定の意を表す。「この機械はどこも故障していないようだ」 ================引用終了  通常、「らしい」と比較される「ようだ」は、「3」の意味です。「ようだ」「らしい」「みたいだ」「そうだ」を比較することも多いようです。  すべて「推量」と考えるのがわかりやすいと思います。「ようだ」は確信度が高いとされますが、この場合、あまり厳密に考えても意味はないでしょう。 「自分が子供の頃に返ったようだ」は「1」と「3」のどちらの意味とも考えられます。  下記のように言葉を加えると違いがはっきりします。 「まるで自分が子供の頃に返った(かの)ようだ」 「どうやら自分が子供の頃に返ったようだ」  前者は「1」(比況)の意味、後者は「3」(推量)の意味です。この場合、後者はSF小説のようですね。  下記のような例文ならもう少しわかりやすいでしょう。 「(その様子は)まるで子供のようだ」(比況) 「(あの人影は)どうやら子供のようだ」(推量)  一方、「らしい」には「推量」の働きはあっても「比況」の働きはありません。「子供らしい」「男らしい」の「らしい」は「接尾語」なので別の話になります。  そのため、「まるで」との相性が悪いのです。 「どうやら自分が子供の頃に返ったらしい」ならさほど不自然ではありません。まだ少し不自然な感じもしますが、それも別の話です。 「推量」の助動詞に関して詳しくは下記をご参照ください。 【「らしい」と「ようだ」をめぐって 独り言です44くらい──日本語教師関連編21くらい※全体公開】 http://1311racco.blog75.fc2.com/blog-entry-825.html

Mister0413
質問者

お礼

詳しいご回答、ありがとうございました。 助動詞の「らしい」には「比況」の働きがない、とは思いつきませんでした。

  • kine-ore
  • ベストアンサー率54% (808/1481)
回答No.6

>辞書を見ても明確に説明できる根拠が見当たりません。  : 辞書を調べるポイントでしょう。 このような<比況の副詞>「まるで」は、「~(の)ようだ」といった「類似の判断」を表わす<比況の助動詞>との呼応関係があります。 (「みたい」や「同様」は「ようだ」のくだけた口語形です。) (「~らしい」は単なる推量・婉曲断定の助動詞ですから「まるで」とはまるで呼応しません。) 「まるで 《副詞》 (イ)《あとに「(かの)ようだ」「みたい」「同様」などの表現を伴って》 (全体的に言って)ちょうど。」(「岩波 国語辞典」) 「まるで 副詞 (3)たとえて言うと。→類語比較 あたかも、さながら、ちょうど。《呼応例》まるで(~みたいだ。~ようだ) 比況の表現。」(「ベネッセ 表現読解国語辞典」)

Mister0413
質問者

お礼

ご回答、ありがとうございました。 どうやらこれが文法的な正論のようですね。

回答No.5

「まるで」が先行していない場合でも、「Aこどものころに還ったらしい」「Bこどものころに還ったようだ」では、Bが適切で、Aは不適切な用法に近いと思います。 「C自宅に帰ったらしい」「D自宅に帰ったようだ」ならば、どちらの用法もあると思います。ただ、同じ意味を示している場合もあれば、意味を変えている場合もあると思います。意味を変えている場合としては、Cは「ある場所から退出している状態から推定して、推定の内容として自宅に帰ったのであろう」と表現し、Dは「自宅に帰っている状態あるいは、自宅に帰宅した状態そのものを、情景として推定、想像している」ことの表現だというケースです。 「………よう」はシーン・外見などの様子を表現する用法として使うこともあるからです。 そこで、「Aこどものころに還ったらしい」「Bこどものころに還ったようだ」を考えた場合、老人が老化が進んで思考言動が幼児的になってしまったケースを表現するとしたら、AでもBでもイイのだと思います。しかし、純真に遊ぶとか、単純な競技などに熱中しときを過ごしている状態を指して表現する場合には、Aではなくて、Bが適切なのだと思います。Bが状況そのものを光景的に表現する用法だからだと思います。 Aは、こどもに還ってしまったという推定の結論を述べる表現なので、このケースでは不適切になるのだと思います。   成人が、自分自身について「こどもに還った」というケースでは、年齢が若返ったとか、身長や筋力など身体が10台前半の状態になったとか、最近獲得した知識や判断力を失って10年前に戻ってしまったというのではなくて、「行動や心のあり方がこども時期に戻ったかのような様相になったのを感じた」ということなのでしょう。 そうであれば、「まるで」や「あたかも」などを先行させない場合でも、表現としては「こどもに還ったよう(に・な・だ)」を使うと思います。 怪我や病気で脳に障害を起こし、記憶や多くの知識を失ってしまったという事実をベースに推定した結論を表現する場合ならば「こどもに還ったらしい」でもイイと思います。しかし、そういうことを自分自身について表現するようなことは通常ないので、「自分はこどもに還ったらしい」とは一般的には言わないでしょう。 高齢者や脳障害を起こしかけた者が、過剰に病識を感じているときには「自分はこどもに還ったらしい」との表現をすることもあるとは思います。

Mister0413
質問者

お礼

ご回答、ありがとうございました。 考えてみると、自分自身のことを第三者的な立場から述べる場合もありますね。

  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.4

おっしゃるように「まるで~返ったらしい」は誤用です。 「らしい」は推量の助動詞ですが、「ようだ」は元来、名詞「様」+断定の助動詞「だ」という注釈があります。 http://www.excite.co.jp/dictionary/japanese/?search=%E3%82%88%E3%81%86%E3%81%A0&match=exact&itemid=DJR_youda_-010 大辞林や大辞泉の語釈を総合すると、 「ようだ」⇒不確かな、または婉曲的な断定。断定することのない遠まわしの判断。 「らしい」⇒推量、または推量に基づく判断。 ということになりそうです。 どちらも「不確かさ」や「推量・推測」という要素を持った言葉ですが、「ようだ」が「推量に基づくものではあるが」、あるいは「不確かではあるが」という注釈つきではあるものの、「断定・判断」を表わす語であるのに対し、「らしい」は「推量」の要素がかなりの比重を占めている語なのだと思います。 たとえば、「向こうから来るのは彼のようだ」は「はっきりしないが彼だと断定して良さそうだ」といったニュアンスになるでしょう。 これに対して「向こうから来るのは彼らしい」は、「はっきりしないが、どうも彼だと思われる」といったニュアンス。 つまり、明らかに、「らしい」のほうが「ようだ」よりも自信のない表現でしょう。 ここで、今回の場合の「まるで」の意味を両辞書で確認してみると次のようになっています。 【(2)どのような点から見てもほとんど同じであるさま。ちょうど。さながら。 「 -嵐のようだ」 「 -子供だ」】 (大辞林) http://www.excite.co.jp/dictionary/japanese/?search=%E3%81%BE%E3%82%8B%E3%81%A7&match=exact&itemid=DJR_marude_-010 【1 違いがわからないほどあるものやある状態に類似しているさま。あたかも。さながら。「この惨状は―地獄だ」「―夢のよう」】(大辞泉) http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/210069/m1u/%E3%81%BE%E3%82%8B%E3%81%A7/ これらの意味を良く見てみると、「まるで・・・」で始まる文は、「・・・だ」「・・・よう(だ)」という断定の意味を含む語に係らないと不自然になることがわかります。 語釈にもあるように、「ちょうど」「あたかも」「さながら」といった意味なので、【話者の判断】を述べる場合に使われるべき副詞だからなのでしょう。 確信は持てないながらも判断を述べる語なので、それを「らしい」のような推量の要素が非常に強い語で締めると不自然になるのだと思います。 蛇足ですが、「まるで」には、後に続く否定的表現の否定の意を強める、というもうひとつの用法もあるわけですが、それについては特に触れません。      

Mister0413
質問者

お礼

ご回答、ありがとうございました。 他の方が述べているように、「らしい」を判断を述べる意味で使うこともあるようですが、それを問題にすると話が混乱してしまうことになりそうです。やはり「まるで」に注目して考えるのが良さそうですね。 言われてみると確かに「まるで」には、後に続く否定的表現の否定の意を強めるという用法もありました。、わざわざ「蛇足」をつけていただいたおかげで、勉強になりました。

noname#212313
noname#212313
回答No.3

>「まるで自分が子供の頃に返ったらしい」  これだと他人事として述べていることになるので、おかしく感じます。例えば、深酒して記憶が飛んでしまい、しかし確かに自分が子供じみたことをやってしまったことが状況から分かり、自分に呆れて言っている、といった状況で言うくらいでしょう。  それがなぜかなのですが、「らしい」ではなく、その古語の「らし」のほうを辞書で引くと分かります。 http://kotobank.jp/word/%E3%82%89%E3%81%97?dic=daijirin&oid=DJR_rasi_-040 >(1)眼前の状況について,その原因である事情を推定する意を表す。 >(2)前にない事柄について推定する意を表す。  眼前か否かに関わらず、自分について、気持ちを含めて述べるのに適した用法ではありません。  これを「ようだ」とするのなら適しており、やはり「よう(様)」を調べると分かります。 http://kotobank.jp/word/%E6%A7%98?dic=daijisen&oid=21140100  多く定義がありますが、「ありさま」ということがこの場合には大事な用法です。「ようだ」を推定とだけすると間違います。それでは「まるで」という言葉と合いません。「ようだ」を推定でも使いますから、そのニュアンスも感じてしまうんですが、「まるで子供のありさまだ」というのが、主に言いたいことであるわけです。  しかし「まるで自分が子どもの頃に返っている」という断定的な言い方を用いず、「ありさま」としてワンクッション置いているので、推定のような婉曲性も感じます。  これが純粋に推定を言いたいときだと、両方とも使えることはよくあります。 「どうやら彼が陰で助けてくれたようだ。」 「どうやら彼が陰で助けてくれたらしい。」

Mister0413
質問者

お礼

古語にもカギがあったのですか。おかげさまでいい勉強になりました。

  • 1paku
  • ベストアンサー率21% (344/1575)
回答No.1

ようだ は、自分の考え。 らしい は、他人のコメントを伝える時などに使うことが多いです。

Mister0413
質問者

お礼

ご回答、ありがとうございました。 多く用いられる場合に限定せず、いろいろな場面に関しても考慮する必要がありそうな気がいたしますので、何か新た誣いことがわかりましたら、またお願いします。

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