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相模守時頼の母は 二方面への敬語?
この文には「申す+る」がたくさん出てきます。 「守を入れ申さるること」は守と尼に対する二方面への敬語ですよね。 尼と義景の台詞は全て「申され」たと表現されてますが、書き手が尼と義景の両方に敬意を表しているという解釈でよろしいのでしょうか。
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>「守を入れ申さるること」は守と尼に対する二方面への敬語ですよね。 この部分については、おっしゃるとおり「二方面への敬語」(「入れ申す」とは「申す」という謙譲の補助動詞がついて「お入れする」いう意味になります)+(尊敬の助動詞「る」の連体形「るる」)で、「守」に対する禅尼からの謙譲語Iに「禅尼」に対する「筆者」からの尊敬語(る)がくっついたもの。(2) 「松下の禅尼とぞ申しける」の「申す」は「…という名である」の尊敬語となります。(「広辞苑」の説明 その例文「若しこの御中にいろをし坊と申すぼろやおはします」-徒然草)(1) 残りの「申されければ」・「申されければ」・「申されける」はすべて「申す」(謙譲語の形であるが、「言う」と取るべき語)に尊敬の助動詞「る」の連用形「れ」が付いたものとなります。敬意の対象は、(筆者から)発言者(城の介義景か禅尼)となります。(3)(4)(5) 参考(原文) (1)~(5)は「申す」に付けた番号です。 相模の守時頼の母は、松下の禅尼とぞ(1)申しける。守を入れ(2)申さるることありけるに、煤けたる明かり障子の破ればかりを、禅尼、手づから、小刀して切り回しつつ張られければ、兄人の城の介義景、その日の経営して候ひけるが、「賜はりて、何がし男に張らせ候はん。さやうのことに心得たる者に候ふ。」と(3)申されければ、「その男、尼が細工に、よもまさり侍らじ。」とて、なほ、一間づつ張られけるを、義景、「皆を張り替へ候はんは、はるかにたやすく候ふべし。斑に候ふも見苦しくや。」と重ねて(4)申されければ、尼も、のちは、さはさはと張り替へんと思へども、今日ばかりは、わざとかくてあるべきなり。物は破れたるところばかりを修理して用ゐることぞと、若き人に見習はせて心づけんためなりと(5)申されける、いとありがたかりけり。 世を治むる道、倹約を本とす。女性なれども聖人の心に通へり。天下を保つほどの人を、子にて持たれける、まことに、ただ人にはあらざりけるとぞ。 《注》特に「申す」についての説明は、恐らく簡単には受け入れられない可能性があるかも知れませんが、これは「徒然草全注釈下巻」安良岡康作(角川書店)の口語訳を参考にしました。ネット上にはこれをそのまま引き写したかと思われるものもありました。(2)を除いて「申す」を「言う」と訳してあります。 この問題に関するわたしの見解 古文を読むなら先ず「徒然草」からと思われているくらいですが、実はこのような厄介な問題もあるのです。(もっとも、そういうややこしい部分を除けば全体としての意味は割合取りやすいのは確かです)時代が鎌倉時代末期で、室町期に入る前から言語的な大変化が起こりかけていました。平安時代からあった「侍り」とともに「候ふ」という丁寧語も使われ出して、逆に言えば近世語に近づきつつあったとも言えます。
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- OKAT
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その後、いくらか分かったことがあります。 「日本文法大辞典」(明治書院)によると、「(1)申しける」の「申す」は広辞苑の言うとおり「その方の名前などを(人々が)……と申し上げる。今の「申す」とは違って、言われる人を敬う言い方。例 二条の后の、まだ東宮のみやす所と申しける時に(古今集・871詞書)とありますので、(人々がという限定付きで)「申し上げる」と訳するか、「お呼びする」というか、どちらかと考えていいでしょう。 次に(3)~(5)の「申す」は同じく上記の書には、「対話敬語」として、かしこまり改まった会話(勅撰集詞書も含む)に用いて、単に「言ふ」をへりくだり、あるいは丁重にいうもので、主として話し手側の者の動作に用いる。とあります。 これを読んで思ったのは、ここ数年来話題になり始めた「謙譲語II」のことではないかということです。おそらくそうでしょう。この書物が出版されたのが、昭和46年(1971)なのですが、学界では既に定着しつつあったのかという驚きでした。 しかし、この場合は違うようです。「対話敬語」といい、聞き手尊敬というこの種の敬語は、やはり会話文が中心です。 例外的に、詞書きも挙げられていますが、わたしはこれに「手紙」も加えていいと思います。しかし、地の文に出てくるわけだし、誰の誰に対する敬意を表すかという条件からも、「申す」をこれに当てるのは無理だと思います。 したがって、これらの「申す」はやはり「言う」の意味としておきます。
お礼
自分の行為を『言ふ』と表現するだけで若干の謙譲の意味が入ると考えてもいいのでしょうかね。「私が話しました」よりも「私が言った」の方が謙った表現というこで。 勉強になりました。回答ありがとうございました。
- OKAT
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> 口語訳で敬語を無視してしまうのは古文の解釈としては逃げているみたいですよねぇ。くどくど、こってり訳したほうが古文ぽい気がするのです。 「徒然草全注釈下巻」安良岡康作(角川書店)は、「日本古典評釈全注釈叢書」の一部となっています。既刊の「日本古典文学大系」(岩波書店)に対抗するような形で、多くの代表的な文学の評釈書を出しています。研究者が数多くいる中で、特に選ばれて「徒然草」を担当したとなれば、他の研究者からの批判にも耐えなければなりません。「逃げている」ような姿勢はとれるはずもありません。著者のために一応擁護しておきます。 具体的に言えば、「申す」を「申し上げる」と訳すれば話は簡単ですが、ネット上によくあるように訳さず、敢えて「言う」としたのはそれなりの理由があってのことと考えます。その理由に触れた部分をまだ見つけていませんが、わたしが書いたようにこの時代には「申す」は本来の謙譲語から質を変えつつあったということでしょう。 不思議に「申す」が何度も使われるのはこの段以外にはあまりないようですが、使った例はあります。 第百八十六段 …吉田と申す馬乗りの<申し侍りし>は… 訳 「言いましたこと」 第百八十八段 …習ひ侍りにけりと<申し伝えたる>こそ… 訳 「言い伝えている」 第百九十九段 …横川行宣法印が<申し侍りし>は、「唐土は呂の国なり。律の音なし。和国は、単律の国にて、呂の音なし」と<申しき>… 訳 「言いましたこと」 「言いました」 以後は省略。 で、本来の質問文に帰って、(3)(4)(5)の「申さるる」は、平安時代的な使い方に立つと、「申す」は受け手尊敬の謙譲語ですから、身分の低いものの動作に付けて、その動作を受ける人(聞く人)に敬意を表す用法です。身分の上下がはっきりしてこそ使えるわけです。 さて、二人(禅尼と義景)の身分の上下ですが、義景は禅尼の兄ではありますが、禅尼は幕府の執権(実質将軍)の母ですから、本来問題になりません。そんな時は上位の人には「言ひ給ふ」や「のたまう」を使えばいいのです。それを両方に「申さる」を使っていること自体、言葉が変わってしまっているのが分かります。
お礼
『申す』の敬意が低下したので、『申し上げる』が出てきたのでしょうかね。 たいそう勉強になりました。ありがとうございました。
- hakobulu
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#4です。 ネットで他の段も読んでみたのですが、それを踏まえて若干の訂正と補足をさせてください。 1. 広辞苑では、「…という名である」の尊敬語 とされているようですね。 【相模守時頼の母は、松下禅尼とぞ申しける】という文においては、「…という名である」という動作の主体が「相模守時頼の母」なので、その動作に尊敬語を使う、という解釈なのでしょう。一理あると思います。 大辞泉では、3-(ウ)で、 【(ウ)その人の名前・官位などを、人々が…と申し上げる。 「田邑(たむら)の帝と―・す帝おはしましけり」〈伊勢・七七〉】という謙譲語1としての解釈をしています。 これも一理あるかと思います。 わたしは謙譲語2であると述べたわけですが、他の段を読んでいるうちにちょっと自信が無くなってきました。 たとえば、45段では、 【公世(きんよ)の二位のせうとに、良覚僧正(りょうがくそうじょう)と聞えし(きこえし)は、極めて腹あしき人なりけり。 坊の傍(かたわら)に、大きなる榎の木(えのき)のありければ、人、「榎木僧正(えのきのそうじょう)」とぞ言ひける。この名然るべからずとて、かの木を伐られにけり。その根のありければ、「きりくひの僧正」と言ひけり。いよいよ腹立ちて、きりくひを掘り捨てたりければ、その跡大きなる堀にてありければ、「堀池僧正」とぞ言ひける。】 のようになっています。 http://www5f.biglobe.ne.jp/~mind/knowledge/japan/tsuredure014.html おそらく良寛に好感を持っていなかったので尊敬語(あるいは謙譲語1)を使っていないのでしょう。 それは良いのですが、読者に対して敬意を示す気があれば「申しける」などとすべきであるのですが、「言ひける」になっている。他にも「言ふ」が多用されているようです。 ということは、「相模守時頼の母」だから「申しける」と言った可能性が高くなり、謙譲語2というわたしの解釈は怪しくなってきます。 このため『1.、松下禅尼(まつしたのぜんに)とぞ申しける。』については、#5さんの解釈に(尊敬語か謙譲語1かはさておきつつ)同意して、わたしの解釈を撤回したいと思います。 2. 3・4・5の「申された」の用法については、謙譲語2+尊敬語という解釈に特に変わりはありません。 ただ、現代語訳については、#5さんがお示しの「言われました」とするほうが適しているかもしれません。 「言われた」だと、謙譲語2の要素は消えてしまうので不満ですが文意としては特に差し支えのない訳だと思います。 いずれにせよ、「おっしゃる」も「言われる」も「言う」の尊敬語なのですが、「おっしゃる」のほうが敬度は高いとされています。 下記サイトでは、「おっしゃる」には「仰せられる」を対応させています。 22段→口をしとぞ、古き人は仰せられし。 23段→徳大寺大政大臣(おおきおとど)は仰せられける。 http://www5f.biglobe.ne.jp/~mind/knowledge/japan/tsuredure008.html 「申される→言われます」「仰せられる→おっしゃる」とすればすっきりしそうです。(すっきりすれば良いというものではないかもしれませんが)
お礼
最初の「良覚僧正と聞えしは」には申し上げるの意味の全うな謙譲語が使われていますね。でも、その後は「言ひける」です。この違いは悪意の有無なのかというとそうでもなさそうです。榎木僧正の段階ではさして悪意はないですから。 古文は無理に現代語にするなということかもしれないですね。 回答ありがとうございました。
- OKAT
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「申す」の用法の一つに「…という名である」の尊敬語 と広辞苑には書いてあったのですが、では何と訳す? 「松下の禅尼とおっしゃる」か。誰が「おっしゃるのか」? 人々? どうして人々に尊敬語を使う? こんなこと考えると、なんか疑わしくなってきますね。いっそのこと「人々が申し上げる」という謙譲語かも知れない。 というわけで、書いたことがわからなくなってしまいました。 前回紹介した「徒然草全注釈下巻」安良岡康作(角川書店)の口語訳を次に書いておくので参考にしてください。 【口語訳】 相模守北条時頼の母は、松下禅尼と言いました。相模守時頼を自分の所へご招待になった時に、煤に染まっている障子の破れた所だけを、禅尼が、自分の手で、小刀であちこち切りとって、そこだけ新しくお張りかえになったので、その日の準備につとめて、そばに控えていた、兄の秋田城 介、安達義景が、「そのお仕事はこちらへいただいて、某(なにがし)という下僕に張らせましょう。そのようなことに得意な者に御座います」と言われたところ、「その下僕は、この尼の細工よりも、よもやまさりますまい」と言って、やっぱり、障子の一こまずつお張りになったので、義景が、「障子の全体を張りかえます方が、ずっと用意でございましょう。所々張りかえて、新しい所と古びた所と斑でございますのも見苦しゅうございませんか」ともう一度言われたところ、「この尼も、あとではさっぱりと張りかえようと思うけれど、今日だけは、ことさらにこうしておくのがよいのです。物は、破れている所だけをつくろいなおして使うことだと、若い人に見習わせて、注意しようというためです」と言われましたのは、たいへん、世にも珍しい、殊勝なことであった。 政治家が世を治めてゆく上の道理は、自分で倹約することを根本とするのである。この松下禅尼は、女の身ではあるが、聖人の心持と通じている。日本全国を安全に保つほどの人をわが子として持っておられた禅尼は、ほんとうに、なみなみの人ではなかったということである。
お礼
この場合の仰るは名乗るの意味でしょうか。自称しているという解釈で、仰っているのは当人。でも、仰るとおり日度が申し上げているの方が自然な気がします。 口語訳で敬語を無視してしまうのは古文の解釈としては逃げているみたいですよねぇ。くどくど、こってり訳したほうが古文ぽい気がするのです。 回答ありがとうございます。
- hakobulu
- ベストアンサー率46% (1655/3578)
#2です。 >丁寧語は尊敬度合いが低いわけですから、口語訳では無視してしまうとして、345は「おっしゃった」とすればよいのですね。くどくどと訳せば「おっしゃったのでございます」とか「おっしゃいますと」が妥当でしょうか? : おっしゃるように、、345は「おっしゃった」で良いと思います。 ただ、「申された」と訳しても特に間違いとは言えません。 「申す」は基本的に謙譲語2なので、これと尊敬語の「れる」の組み合わせは間違いだとする説もありますが、現状では、どちらも容認の状態に留まっている、と考えて良さそうです。(敬語再入門 156ページより) 「申された」と「おっしゃった」は、どちらも動作主に対する尊敬語ですが、前者は読者への敬意も込められており、後者にはそれが無い、という差異があります。 そこで、これまたおっしゃるとおりで、「おっしゃったのでございます」とか「おっしゃいますと」のようにすると、丁寧語「ます」の存在により、聞き手(読者)への敬意も含めることができ、結果的に謙譲語2と似た意図を表現することになります。 より正確に訳すのであれば、そのようになるのではないかと思います。
お礼
回答ありがとうございます。 つい「いらっしゃいましたら…」を「おられましたら…」と言ってしまったりします。誤用だとわかっているんですが、つい。できれば改めたいものです。ら抜き言葉みたいなもので、「申される」には違和感があります。
- hakobulu
- ベストアンサー率46% (1655/3578)
#1です。 >ネットでは「申される」という口語訳を見かけますが、「申される」がどうにも腑に落ちません。謙譲語プラス尊敬語(二方面への敬語)の場合の口語訳は「申し上げなさる」ですが、謙譲語2(丁寧語)プラス尊敬語となると「仰る」がふさわしいのではと思います。 : 大辞林によると、「申す」の語釈は、 (1)「言う」の謙譲語。動作の及ぶ相手を敬っていう。 「私は田中と-・します」 「父がこう-・しました」 (2)「言う」の丁寧語。聞き手を敬っていう。 などとなっています。 http://www.excite.co.jp/dictionary/japanese/?search=%E3%82%82%E3%81%86%E3%81%99&match=exact&itemid=DJR_mousu_-020 (1)の語釈が「申し上げる」と同じ意味の謙譲語1で、(2)が謙譲語2ということになるのでしょう。 「申される」の場合、シチュエーション次第で、どちらの意味にも解釈可能になります。 「申し上げる」は謙譲語1なので、「申し上げなさる」は、おっしゃるように「二方面への敬語」と特定できると思います。 「申される(の1の語釈の場合)」と「申し上げなさる」は同じ意味になるわけですが、「なさる」を使うほうが敬意の度合いは高い、というのが定説です。 「申される(の2の語釈の場合)」は、謙譲語2(丁重語)プラス尊敬語であり、読者と動作主に対する敬意を表していることになります。(申す相手に対しては特に敬意を示している形にはなっていない) 「おっしゃる」の場合は尊敬語なので、動作主に対してだけ敬意を示しており、読者に対する敬意(謙譲語2=丁重表現)は特に示されてないことになります。
お礼
丁寧語は尊敬度合いが低いわけですから、口語訳では無視してしまうとして、345は「おっしゃった」とすればよいのですね。くどくどと訳せば「おっしゃったのでございます」とか「おっしゃいますと」が妥当でしょうか? 重ねての回答ありがとうございました。
- hakobulu
- ベストアンサー率46% (1655/3578)
184段には「申す」が5箇所出てきます。 1.、松下禅尼(まつしたのぜんに)とぞ申しける。 : この「申す」は「言う」の謙譲語2です。 謙譲語1は自分(側)の動作の向かう(及ぶ)対象に対する謙譲語(敬語)ですが、謙譲語2は聞き手や伝える相手に対する謙譲語(敬語)で、丁重語とも呼ばれるものです。 「松下禅尼(まつしたのぜんに)と言いました」という内容を読者(聞き手)に対して丁重に述べている。 下記辞書の、【(2)「言う」の丁寧語。聞き手を敬っていう。 「昔から『急がば回れ』と-・しますが…」】という用法に該当します。 http://www.excite.co.jp/dictionary/japanese/?search=%E3%82%82%E3%81%86%E3%81%99&match=exact&itemid=DJR_mousu_-020 謙譲語1と謙譲語2については、文化審議会答申<敬語の指針>15~20ページ、26~28ページにわかりやすく述べられていますのでご参考になさってみてください。 http://www.bunka.go.jp/kokugo_nihongo/bunkasingi/pdf/keigo_tousin.pdf 2.守を入れ申さるる事ありけるに、 : この場合の「申す」は下記辞書の、 【(補助動詞) 「お」「御(ご)」を冠した動詞の連用形や動作性の体言の下に付いて,動作の対象に対する敬意を表す。…いたす。もうしあげる。〉】 という用法に該当する補助動詞になると思います。 http://www.excite.co.jp/dictionary/japanese/?search=%E3%82%82%E3%81%86%E3%81%99&match=exact&itemid=DJR_mousu_-020 謙譲語1として機能しており、書き手が松下禅尼の立場に立って、「入れる(招く)」という動作の向かう先である守に対する敬意を表している。 「るる」は尊敬の助動詞「る」の連体形ですから、書き手の松下禅尼に対する尊敬語です。 3.「~さようの事に心得たる者に候ふ」と申されければ、 4.「~見苦しくや」と重ねて申されければ、 5.「~心づけんためなり」と申されける、 : これらの「申す」は、それぞれの話している相手(尼や義景)に対する謙譲語1と考えることもできるかもしれませんが、上記1と同じ用法で「言う」を読者に対して丁重に述べている謙譲語2(丁重語)と捉えるのが自然なように思います。確信はありませんが、あくまでひとつの見解として。 むろん、尊敬の助動詞「る」の連用形「れ」がありますので、それぞれ話し手(尼や義景)に対する敬意は表されています。
お礼
ネットでは「申される」という口語訳を見かけますが、「申される」がどうにも腑に落ちません。謙譲語プラス尊敬語(二方面への敬語)の場合の口語訳は「申し上げなさる」ですが、謙譲語2(丁寧語)プラス尊敬語となると「仰る」がふさわしいのではと思います。 勉強になりました。ご丁寧な回答ありがとうございます。
お礼
謙譲という分別が薄れつつある昨今、『申す』が丁寧程度の意味になってるので、無理に現代語にしようとする考えが間違っているのでしょうか。尊敬と取ると1『禅尼とおっしゃる方がいました』2『尼におっしゃったので』になるので原文が「申されければ」なので、どうにも馴染めないんですね。読者への丁寧語は敬体「です」「ます」程度でしょう。江戸川乱歩の少年探偵団みたいな語り口なのかな。 勉強になります。回答ありがとうございました。