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議論

こんばんは。 「議論」について。 「し尽くした」とは? よろしくお願いいたします。

質問者が選んだベストアンサー

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  • 0fool0
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回答No.2

当事者同士での合意に達した状態 相手や条件が変われば、また始めから

kurinal
質問者

お礼

0foolo様、ご回答ありがとうございます。 「先例」ってのも、あるんです、、、らしいですけど。 ・・・しょうがないのか。

kurinal
質問者

補足

いろいろなスレにおいて、 「その後の、「あーだ、こーだ」」は、まさに「蛇足」と思われますが、 最初の一発目というのは、相当いいですね。 そういう傾向があると思います。

その他の回答 (19)

noname#207067
noname#207067
回答No.10

調べているうちに考え方が変わってきたけれど せっかくなので投稿。ごちゃごちゃしています。 965 Paradhammikānampi na santaseyya, Disvāpi tesaṃ bahubheravāni; Athāparāni abhisam­bhaveyya, Parissayāni kusalānuesī. 異なった他の教えを奉ずる輩をも恐れてはならない。 ――たといかれらが多くの恐ろしい危害を加えるのを見ても。 ――また善を追求して、他の諸々の危難にうち勝て。 969 Paññaṃ purakkhatvā kalyāṇapīti, Vikkhambhaye tāni parissayāni; Aratiṃ sahetha sayanamhi pante, Caturo sahetha paridevadhamme. http://suttacentral.net/pi/snp4.16 智慧をまず第一に重んじて、善を喜び、それらの危難に打ち勝て。 奥まった土地に臥す不快に堪えよ。次の四つの憂うべきことに堪えよ。 ~~~~~~~~~~~~~ 45 “Sace labhetha nipakaṃ sahāyaṃ, Saddhiṃ caraṃ sādhu­vihāri­dhīraṃ; Abhibhuyya sabbāni parissayāni, Careyya tenattamano satīmā”. http://suttacentral.net/pi/snp1.3 もしも汝が、<賢明で協同し行儀正しい明敏な同伴者>を得たならば、 あらゆる危難に打ち勝ち、こころ喜び、気をおちつかせて、かれとともに歩め。 ~~~~~~~~~~~~~~ 965註 危難に――原語parissayāniは古アルダマーガディー語形である。 第四五、九六九詩参照。 ワイド版岩波文庫 ブッダのことば スッタニパータ 中村元 408ページ ~~~~~~~~~~~~~~~ Pāḷi 328 [23.9] Nāga sace labhetha nipakaṁ sahāyaṁ saddhiṁcaraṁ sādhuvihāridhīraṁ, abhibhuyya sabbāni parissayāni careyya tenattamano satīmā. http://www.ancient-buddhist-texts.net/Buddhist-Texts/C3-Comparative-Dhammapada/CD-23-Naga.htm もしも思慮深く聡明でまじめな生活をしている人を伴侶として共に歩むことができるならば、 危機困難に打ち克って、こころ喜び、念いをおちつけて、ともに歩め。 三二八 危機困難――parissayāni. 男性名詞の複数対格である。珍しい形であるが、古い詩句やアショーカ王碑文(西インド発見のもの)の うちには時々見当たる。(Heinrich Lüders: Philologica Indica, S.290.) ブッダの真理のことば 中村元訳 岩波文庫 真理の言葉 訳注 132ページ ~~~~~~~~~~~~~~~ >Upatisa pasine: Sariputta Sutta, Sutta Nipata 955-975. らしいから スッタニパータ第四章サーリプッタ経を調べるつもりだった。 ところが、ダンマパダとスッタニパータの犀の角で同じ詩句があった。 けれど、一部が異なっていたので、調べるのが大変だった。 ダンマパダのガーンダーリーの詩句はないみたい。 犀の角のほうだとこれだろうか?私はわかないので違うかも知れないけれど。 (25a) sayi labhea ṇivago sahayo (25b) sardhacare sas̱ovihari dhiro (25c) (*abhibhuya) sarvaṇi pariṣeaṇi (25d) carea teṇata­maṇa svad(*ima ·) http://gandhari.org/a_manuscript.php?catid=CKM0007 どうなっているんだろう。 parissayāniは、アショーカ王碑文の西インドで発見のものに時々出てくるようですね。 西かあ、微妙。 ~~~~~~~~~~~~~~~ Sace labhetha nipakaṃ sahāyaṃ, Saddhiṃ caraṃ sādhuvihāri dhīraṃ; Abhibhuyya sabbāni parissayāni, Careyya tenattamano satīmā. http://suttacentral.net/pi/mn128#mn128 ~~~~~~~~~~~~~~~ その詩句マッジマ・ニカーヤにまであるのか。 まあ、同じものがあったからといってどうだというわけでもないけれど。 いくつかの詩句がでてくるみたいだ。 Na hi verena verāni, sammantīdha kudācanaṃ; Averena ca sammanti, esa dhammo sanantano. http://www.ancient-buddhist-texts.net/Buddhist-Texts/C3-Comparative-Dhammapada/CD-01-Yamaka.htm ~~~~~~~~~~~~~~~ Pali Texts (PTS) Uparipannasa (Majjhima Nikaya III) majjhima nikāya 128 Upakkilesasutta pdf 158/307 http://www.shemtaia.com/BU/DL/majjhimanikaya.shtml ~~~~~~~~~~~~~~~ suttacentralの犀の角のテキストがPTS版と一部異なっていたところがあったので マッジマ・ニカーヤまで調べたけど、 マッジマ・ニカーヤはnāgoですね。 ダンマパダと共通します。 スッタニパータが特殊なのだろうか。 『スッタニパータ』犀角経第11詩句をめぐって(岸英司名誉教授追悼記念号)The 11th Verse of the Khaggavisana-sutta in the Suttanipata(In Memory of the Late professor Emeritus Hideshi Kishi) http://ci.nii.ac.jp/naid/110006487361

kurinal
質問者

お礼

kazamidori365様、こんにちは。どうも、ありがとうございます。 折角の「ノート」ですが、私では、日本語の部分を辿るより、ありません。 >「智慧をまず第一に重んじて、善を喜び、それらの危難に打ち勝て。」 コレなんかは、まあ、いいと思います。

noname#207067
noname#207067
回答No.9

この回答は意味不明だとは思いますが、 私の回答の自分用のメモ書きですので、すみません。 ~~~~~~~~~~~~~ Magadhi Prakrit It is believed to be the language spoken by the important religious figures Gautama Buddha and Mahavira and was also the language of the courts of the Magadha mahajanapada and the Maurya Empire; the edicts of Ashoka were composed in it.[1] http://en.wikipedia.org/wiki/Magadhi_Prakrit ~~~~~~~~~~~~~ The Ashoka Library http://www2.hf.uio.no/polyglotta/index.php?page=library&bid=14 ~~~~~~~~~~~~~~ 9. Calcutta-Bairāṭ rock inscription (Māghadhī and English) Calcutta-Bairāṭ rock inscription, Māgadhī THE CALCUTTA-BAIRAT ROCK-INSCRIPTION (A) 1 Pr[i]yadas[i] l[ā]jā Māgadhe saṃghaṃ abhivāde[tū]naṃ āhā ap[ā]bādhataṃ ca phāsu-vihālataṃ cā (B) 2 vidite v[e] bhaṃte āvatake h[a]mā Budhasi dhaṃmasi saṃghasī ti gālave caṃ prasāde ca (C) e keci bhaṃte 3 bhagavatā Budhe[na] bhāsite sarve se subhāsite vā (D) e cu kho bhamte hamiyāye diseyā hevaṃ sadhamme 4 cil[a-ṭhi]tāke hosatī ti alahāmi hakaṃ ta[ṃ] v[ā]tave (E) imāni bhaṃt[e dha]mma-paliyāyani Vinaya-samukase 5 Aliya-vasāṇi Anāgata-bhayāni Muni-gāthā Moneya-sūte Upaṭisa-pasine e cā Laghulo-6vāde musā-vādaṃ adhigicya bhagavatā Budhena bhāsite etāni bhaṃte dhaṃma-paliyāyāni ichāmi 7 kiṃti bahuke bhikhu-[p]āye cā bhikhuniye c[ā] abhikhinaṃ sun[e]yu cā upadhāl[a]yeyū cā (F) 8 hevaṃmeva upāsakā cā upāsikā cā (G) eteni bhaṃte imaṃ likhā[pa]yāmi abhipretaṃ me jānaṃtū ti. Calcutta-Bairāṭ rock inscription, English ... (A) The Māgadha king Priyadarśin, having saluted the Samgha, hopes they are both well and comfortable. (B) It is known to you, Sirs, how great is my reverence and faith in the Buddha, the Dharma, (and) the Samgha. (C) Whatsoever, Sirs, has been spoken by the blessed Buddha, all that is quite well spoken. (D) But, Sirs, what would indeed appear to me (to be referred to by the words of the scripture): ‘thus the true Dharma will be of long duration’, that I feel bound to declare. (E) The following expositions of the Dharma, Sirs, (viz.) (1) the Vinaya-samukasa; (2) the Aliya-vasas, (3) the Anāgata-bhayas, (4) the Muni-gāthās, (5) the Moneya-sūta, (6) the Upatisa-pasina, and (7) the Lāghulovāda whic was spoken by the blessed Buddha concerning falsehood,–I desire, Sirs, that many groups of monks and (many) nuns may repeatedly listen to these expositions of the Dharma, and may reflect (on them). (F) In the same way both laymen and laywomen (should act). (G) For the following (purpose), Sirs, am I causing this to be written, (viz.) order that they may know my intention. http://www2.hf.uio.no/polyglotta/index.php?page=fulltext&vid=383&view=fulltext ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 38.There is disagreement amongst scholars concerning which Pali suttas correspond to some of the text. Vinaya samukose: probably the Atthavasa Vagga, Anguttara Nikaya, 1:98-100. Aliya vasani: either the Ariyavasa Sutta, Anguttara Nikaya, V:29, or the Ariyavamsa Sutta, Anguttara Nikaya, II: 27-28. Anagata bhayani: probably the Anagata Sutta, Anguttara Nikaya, III:100. Muni gatha: Muni Sutta, Sutta Nipata 207-221. Upatisa pasine: Sariputta Sutta, Sutta Nipata 955-975. Laghulavade: Rahulavada Sutta, Majjhima Nikaya, I:421. The Edicts of King Asoka an English rendering by Ven. S. Dhammika © 1994 http://www.accesstoinsight.org/lib/authors/dhammika/wheel386.html ~~~~~~~~~~~~~~~~~~

kurinal
質問者

お礼

kazamidori365様、こんにちは。 折角のメモですが、4週間で使えなくなるようです。 一ヶ月と思っていたら、キッカリ「4週間」でした。

  • 0fool0
  • ベストアンサー率18% (134/738)
回答No.8

>・・・んー、将来のこととかも、もっと考えて欲しいかなあ、とか「暫定的に」という表現も、ありましたか。 時間が惜しいなら、急ぎなさい。

kurinal
質問者

お礼

0fool0様、こんにちは。ご回答ありがとうございます。 >「時間が惜しいなら、急ぎなさい。」 私は学生ですか

回答No.7

>「議論」について。「し尽くした」とは? 「採決の時刻になった」ということです。

kurinal
質問者

お礼

Mokuzo100nenn様、ご回答ありがとうございます。 うわ。 「制定法」って。 もしかしたら、「・・・し尽くしてないじゃん!」と言われてしまう可能性をも、 (将来的には、)はらんで居ますね。

noname#209756
noname#209756
回答No.6

現状で思い当たることをすべて論議して、一様熟している状態ではないでしょうか?

kurinal
質問者

お礼

pkuobe99様、こんにちは。ご回答ありがとうございます。 >「現状で思い当たることをすべて論議して、一様熟している状態ではないでしょうか?」 「3日くらい経つと、また違っている」といった可能性は、ありますか?

  • 0fool0
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回答No.5

「先例」は一定の法則に従って答えを出さなければならないシステム内に於いて、有効です。 つまりはそのルールが改定されれば、始めからやり直しです。 「し尽くす」のはあくまでも、時間軸の中に於ける一定の条件内に於いてのみでしか存在しません。

kurinal
質問者

お礼

0fool0様、こんにちは。ご回答ありがとうございます。 >「「し尽くす」のはあくまでも、時間軸の中に於ける一定の条件内に於いてのみでしか存在しません。」 なるほど。 「けりが付く」という表現において、 「その時(は!)、そういうことになりました」と、そういうことでしょうか。 ・・・んー、将来のこととかも、もっと考えて欲しいかなあ、とか 「暫定的に」という表現も、ありましたか。 「何月何日現在」とか。

回答No.4

そこで問題となっている現象の、原理的理解が 充分なされた場合。 (相手の合意や説得とは無関係)

kurinal
質問者

お礼

psytex様、こんにちは。ご回答ありがとうございます。 これはですね。大いに首肯出来る部分もあります。 つまり、「「証明」が成った場合」みたいなことでしょう。 ・・・理系人間ですなあ。

noname#207067
noname#207067
回答No.3

一、歴史的人物としてゴータマ・ブッダ(釈尊)の逝去(北方の伝説によると、世紀前三八三年頃になる)ののちに、 仏弟子たちはその教えの内容を簡潔なかたちでまとめ、あるいは韻文の詩のかたちで表現した。 いずれにしても暗唱の便をはかったものである。ことに教えの内容がひとたび詩の形でまとめられると、 そのまま、大した変更も加えられることなしに、後世に伝えられた。多数の詩のうちには、あるいは ゴータマ・ブッダ自身がつくったものも含まれているのではないか、と考えられる。最初は古マガダ語或いは マガダ語の影響の強のい俗語(東部インド語)の一種でそれがえられていたのであろうが、或る時期にパーリ語に 書きかえられて、現在では、パーリ語聖典のうちに伝えられている。しかしマガダ語の影響を完全に消し去ることは できないで、その痕跡をとどめている。こういう詩あるいは短い文句の集成がいくつも伝わっているが、 『ダンマパダ(法句経)』(岩波文庫『ブッダの真理のことば』)もその一つである。 これらの詩あるいは短い文句は大体アショーカ王(世紀前二六八―二三二年)以前に成立したものである。 それらの集成のうちでも『スッタニパータ』は特に古く成立したものであり、それらの第四章(アッタカ・ヴァッガ)と 第五章(パーラーヤナ・ヴァッガ)とは最も古く成立したと考えられる。 最初のうちはこれらの各章が別々に独立の経典として行われていたが、或る時期に一つの『スッタニパータ』に まとめられたのである。 ワイド版岩波文庫7 ブッダのことば スッタニパータ 中村元訳 岩波書店 435ページ 解説 ~~~~~~~~~~~~~~~~ これとか。マガダ語と書いてあるのに、 okwaveで話題にしても、 多くの人々によって否定されたみたい。 方言、方言うるさかった。

kurinal
質問者

お礼

kazamidori365様。

kurinal
質問者

補足

誰も、いっすね。 そういうことであると、思います。 究極的にはですね「いっすよ」ということです。

  • asisai888
  • ベストアンサー率15% (11/73)
回答No.1

疑問を挟む余地がないってことだと思います

kurinal
質問者

お礼

asisai888様、ご回答ありがとうございます。 >「疑問を挟む余地がないってことだと思います」 議論の内容によるでしょうか。

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