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他人の言葉で心が傷つくか?
- 他人の言葉で心が傷つくかについて考えてみました。
- 心が傷つかない理由や、傷ついた場合の対処法についても解説します。
- 自己反省も重要であり、相手の言葉に傷つくことは避けるべきです。
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常識と非常識。 常識的に心に傷を付けられるのは・・・ それは自分以外の人、によって。 非常識的には・・・ ブラジュロンヌさん云う処の“傷”、それを付けるのは神仏。 やましさと云う心は神仏の心(或いはそれと同質)。心に具わる“良心”が“やましい心”を糾弾する。 糾弾=傷 ☆ 常識的に傷を受ける心を、非常識的に取り上げると“傷”の内容が違ってくる。
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- kanto-i
- ベストアンサー率30% (180/596)
厳密に言えば、傷は付きませんね。 答えは、それぞれ内に持つものですから。 ただ心のやましさと一括りにはできないように思います。 それと、人を傷つける言葉と傷つきやすいであろう言葉は存在します。 「これを言えば万人必ず相手を傷つけることができる!」と言うとそうでは無いのです。
お礼
こんばんは。ご回答をありがとうございます。 うう。失礼ながら 今回のご回答はわかりづらいですね。 まづ基本は 他人の言葉によっては 心に ★ 厳密に言えば、傷は付きませんね。 ☆ なるご見解であると受け取りました。 その理由として: ★ 答えは、それぞれ内に持つものですから。 ☆ 他人の言葉が 心に入って来たとしても《答え》としては自分自身が考え判断するものであるからという意味でしょうか。 自分の判断によって 傷つくことはあっても その判断がかかわった他人の言葉がなお外から傷つけるようなことはない。自分自身の考えと判断が 他人とおのれの心とのあいだにしっかりと緩衝器としてのように横たわるのだと。――でしょうか? ★ ただ心のやましさと一括りにはできないように思います。 ☆ ん? つまり 《おのれの考えと判断によって内に省みて かつて下したときの判断と考えとが そこからしてマチガイであったと知る。つまり そのときには 自分の心に逆らってでも そのマチガイを実行しようとした。そのとき自分で自分の心に与えた損傷が 想起された》。 とすれば やはり《心のやましさ》によってみづからが傷つく。という結論にみちびかれるのですが どうでしょう? ★ それと、人を傷つける言葉と傷つきやすいであろう言葉は存在します。 ☆ それは たぶん一般的に言って 社会通念として阿呆なら阿呆 馬鹿なら馬鹿といったののしりや軽蔑言葉があるという意味ではないでしょうか? それでもそれは 言葉に罪はなく ただナラハシとして歴史的にも培われて来ている暗黙の取り決めのようなものではないかと考えます。 あるいは 個別の問題としては ☆☆ (趣旨説明欄) 情況が自分にとって必ずしも良くはないときにさらにその思いを必要以上に噛みしめねばならなくさせるような酷い言葉やののしりの言葉などを聞けば まづひとはおどろく。 ☆ といったような《自分の弱点を突きまた抉り出すような具体的な言葉》のことではないかと考えます。 ここでも 言葉には罪はない。のではないでしょうか? そして 基本としていちばん大事だと思われることは そういった《言葉が 心を傷つけるのではない》ということです。《おどろく。きびしい。つらい。ひどい。それを指摘されるとよわい。こまらせられる》等々といった問題だと考えます。 ★ 「これを言えば万人必ず相手を傷つけることができる!」と言うとそうでは無いのです。 ☆ ええ。その趣旨で 上に考えを述べました。 少し分かりづらかったです。
- a_hona
- ベストアンサー率21% (95/444)
>どうでしょう? 意外でした。 私の解釈では、やましさとは良心の呵責のようなものと考えられていました。 嘘をつくことで、胸の動悸が早くなり、呂律が回らなくなり、顔が紅潮すると言った体験を、私はしたことがありません。ですので、やましさ反応と言われるものについて想像するしかないのですが、たしかに、やましいのにも関わらず、強引にそのやましい行為をしたならば、心に傷を受けるというのはあると思います。 しかしながら、自己のやましさ以外のものによっては心は傷付かないというところは、どのように論証されるのでしょうか?自分は悪く無い、やましく無い、ということと、何を言われても平気だ、ということは違うことのように思われるのですが。 逆に、自分は悪くないのに咎められたり、貶められたりすることで、怒り(これは防衛反応と思われますが)が起こったり、傷付いたりするものではないのでしょうか。いじめなどにも、言葉によるいじめは見られるでしょう?ここら辺についてはどう理解されているのでしょうか。
お礼
ご回答をありがとうございます。 まづ ★ 嘘をつくことで、胸の動悸が早くなり、呂律が回らなくなり、顔が紅潮すると言った体験を、私はしたことがありません。 ☆ 特異な存在でいっらっしゃる。というただそれだけですが 留意します。 さてまづ 表題は 他人の言葉で 心が傷つくか? です。そして その《心に傷がつく》のは やましさがある場合だという説明です。 それ以外には いわば外からのチカラやものごとによっては 心は傷つかないのだと。 そして想像によるかたちで ★ たしかに、やましいのにも関わらず、強引にそのやましい行為をしたならば、心に傷を受けるというのはあると思います。 ☆ という一応の共通の前提に立ちました。 ★ しかしながら、自己のやましさ以外のものによっては心は傷付かないというところは、どのように論証されるのでしょうか? ☆ ええっとですね。ですから 《他人の言葉で 心が傷つくか?》という問いになっています。 ★ 自分は悪く無い、やましく無い、ということと、何を言われても平気だ、ということは違うことのように思われるのですが。 ☆ 《わるい・悪くない》にかんしては 《やましくなくても わるい》場合があります。 《何を言われても平気だ》ということにかんしては 《それでも じつは内心はやましさをかかえている》という場合もあります。 問題は 心に欠けをもたらすかのようにウソ・イツハリをおこなうときに その損傷として《心に傷がつく》という命題をもって 《他人の言葉によっては 心は傷つかない》を論証しようとしている。にあります。 ★ 逆に、自分は悪くないのに咎められたり、貶められたりすることで、怒り(これは防衛反応と思われますが)が起こったり、傷付いたりするものではないのでしょうか。 ☆ ここでも《傷つく》とすれば やましさ反応にさからって行動したときすでにそうなった(傷ついた=つまり 自分で自分の心を傷つけた)というひとつの事態をのみここでは問題としています。 ★ いじめなどにも、言葉によるいじめは見られるでしょう? ここら辺についてはどう理解されているのでしょうか。 ☆ 《言葉によるいじめ》であろうとほかの何であろうと 他人の言葉によっては心は傷つくことはない。です。 こういったところでしょうか。 心・やましさ・傷つく。これだけで議論はまわっています。
- a_hona
- ベストアンサー率21% (95/444)
概ね想定された考えが、やはりブラジュロンヌさんから提出されましたが、つまり、ブラジュロンヌさんならこのような受け取り方をするのだろうなと思った通りの展開になったということですが、一つ理解しておかなければならないことがあります。 キーワードとおっしゃるやましさについてです。とくにおのれのやましさと表現されていることについて、もう少し詳しく補足説明を頂きたい。私の理解しているやましさと、言わんとしているやましさが違う可能性があります。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ウソをつく場合です。すでに 胸の動悸ははげしくなり 舌はもつれ言葉がしどろもどろになって顔は赤くなります。これが やましさ反応です。 ひとは このヤマシサに逆らって 考えを決め行動に移す場合もあり得ます。その実行の時点で 心は傷ついた。と捉えます。《やましさのない状態》が 損傷を受けたわけです。つまり 真ん丸お月さんの心が どこか欠けてしまった。 きわめて単純です。どうでしょう?
- frau
- ベストアンサー率28% (56/199)
ご質問者様は人の心は「本当は」傷つかないのでは?という信念があったうえで質問をしているわけですが、問いに対する具体的な考えがわからないのです。「問い」が結論になっているというか…。 でも他の回答へのお礼などを読んでいくうちに、そういうことを主旨としているのではないのかなとも思えてきました。 質問自体については、「魂は傷つかない」というどこかで読んだ言葉を思い出しました。 「魂は傷つかない」という言葉について、私は同感していたのですが、だんだん疑問に思ってきました。 心は魂の一部であるのなら、魂も傷ついている。だから自らの魂を殺す(自死)選択をする人もいるのだなと考えたからです。 でもこのような主旨でもないと思うんですよ。 >その《信頼を寄せたこと》が マチガイであった。 原因を外的に帰属するのではなく、内的に帰属させるということでしょうか。 傷つけた人の悪意ではなく、自分が「そんな奴を信頼してしまった」ということに傷つけられたという原因を求めているのですね。だから「自分がやましくなければ傷つかないはず」と自分に理由を帰属させているのだと思います。 信頼に値する人から傷つけられたということは確かに悲しいです。それは感情であり、誰もが感じるもの。同様、自分が傷つけられた原因への思考もします。そこで「あいつが悪い」とするか「自分が至らなかった」とするかに分かれるそうです(心理学的に)。 >おのれの心のやましさによるのでないなら どうして傷つくことがあるだろうか。 だからこれは、自分に原因を求めるときの心の痛みに代わる自分への激励の言葉だと感じたのです。 回答No.5へのお礼の >やましさまたはその反応は 誰もにとっておのれの言わば良し悪しにかんする判断をおこなうひとつの基準になります。それは 普遍的なことです。 やましいとは『良心に恥じるところがある。うしろめたい。』ということです。 他人に傷つけられたとき、そして他人の非を責めるとき、自分の良心に恥じないから私は悪くないと思えるのは傲慢にもみえますが、自尊心の主張であり、または自己防衛のための考え方でもあるのでしょう。 そうは思っていても一般的には、外的帰属原因を求める傾向があるのではないでしょうか。内的帰属原因の場合、拗ねたりひがんだりすることもあります。他人を責めることができず、また罪の意識があるのなら自傷行為に走る場合もあります。 しかし原因のベクトルを求めるのではなく、深い客観性と分析によって「やましさ」なしに考えられる人もいる。 でも他人に興味や関心がなければ何も傷つかないとは思いますよ、確かに。 それは極論であるので厳密には「他人がした何か」についてですね。 >精神が傷つくことはあり得ない。 実際本当に傷ついているのかという当否はわかりませんし、静止した状態の観念をいうのでもありませんが、私はコントロール可能だと思います。 他人の言動について悩んでいたことに対し、考え方を変えれば心も変わったということということは誰にもあると思いますから。 『他人は変えられない、自分が変わること。すれば他人も変わる』という格言がありますが、前半は正しいが後半は正しくないですよ、他人は本人の意思以外で変えられないから。 でも考え方が変われば心が変わるというのは、私も経験しています。それは過去の反省あってのことです(だから過去を振り向かないことなどという格言については反対です)。 反省するときに当然のことながら「なぜあのとき私はああだったんだろう。こうしなかったんだろう」と自分を責めることもあります。それが「やましさ」なのかもしれません。 だからといってそこにとどまっていれば、自分(も他人も)変わりません。 自分を苦しませているものが客観的に考えて「相手が悪い」ものであれば「やましさ」を感じる必要はないのです。それは変化を求めようとする自分への欺瞞です。 自分の心が成長すれば、自分を悩ますものなどなんとも感じません。これは私の経験から断言できます。 >心なる海の上に波風が立つ ことは、まったくないこともあります。 一瞬でも波風が立つのであれば、それはまだ自分を刺激するなんらかの要因がまだ解消されていないのでしょう。内的帰属原因を求める場合、自分を責めること自体が自己満足で終わるのならば、「やましさ」は自分に対する偽善であると考えました。
お礼
急用があります。 心が傷つくのは おのれの心におけるやましさ〔の実行〕による。ということ そして もし相手が ウソをついたり詐欺をはたらいたりしたとき その非道ないし犯罪行為をとがめる。ということ。 これらふたつのことは それぞれとしての事象であり 互いに両立します。 あとは 補足欄にて。すみません。
補足
ふらうさん あらためまして こんにちは。ご回答をありがとうございます。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~ >その《信頼を寄せたこと》が マチガイであった。 原因を外的に帰属するのではなく、内的に帰属させるということでしょうか。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ そうですし それだけではなく お礼欄に書き込みましたとおり 《外的な帰属》と《内的な帰属》との両方がありうる。という意味です。 ☆☆ (お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~ 心が傷つくのは おのれの心におけるやましさ〔の実行〕による。ということ そして もし相手が ウソをついたり詐欺をはたらいたりしたとき その非道ないし犯罪行為をとがめる。ということ。 これらふたつのことは それぞれとしての事象であり 互いに両立します。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《おのれの心がそれはマチガイだと言って やましさ反応が出ているのにこれに逆らって実行する》なら じつは その時点ですでに 心は傷ついている。と考えます。 相手の言葉が その《やましさ行為を実行したこと》を想起させたとすると その反省において 心が傷つき始めます。 そういう問題だと考えます。 そして 相手の側にしても もしウソ・イツハリがあったり詐欺や中傷があったりするのなら そのことで 相手自身が心が傷くつくはずですし 詐欺などの行為については そのまま倫理的にも法的にも とがめられます。 すなわち ★ 傷つけた人の悪意ではなく、自分が「そんな奴を信頼してしまった」ということに傷つけられたという原因を求めているのですね。 ☆ という考え方は 質問者としては 採りません。もしその信頼の問題にかぎって もっと詳しく説明せよということでしたら けっきょく《信頼を寄せる》という判断・決定が おそらく自分の心に逆らっての実行だった。のではないか? そういう分析になります。つまり やましさが おのが内面にあったという場合です。 要するに 心が傷ついたなら それは おのれの心の中のやましさ・またやばさによる。そのとき 相手もやましさを抱えていて問題があるという場合もありうる。こうなると考えます。 相手の言葉や振る舞いやまたこの場合のやましさによって こちらの心が傷つくことはあり得ない。と考えます。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~ >おのれの心のやましさによるのでないなら どうして傷つくことがあるだろうか。 だからこれは、自分に原因を求めるときの心の痛みに代わる自分への激励の言葉だと感じたのです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ いいえ。この問題は はっきりとそうではないと申し上げねばなりません。 というのも もし《自分への激励の言葉だ》とすればそれは 多少とも心なる海の表面に立つ波風をしづめようとするためのものです。つまり 相手との関係(相手が こちらの心に自己投影して来るという関係現象)において 泡立つというのみですから。つまり 心が傷ついたから自分をなぐさめ励ましているというのとはまるっきり違います。 ★ 自分の良心に恥じないから私は悪くないと思えるのは傲慢にもみえますが ☆ いいえ。構図が違って来ています。この質問で扱っているのは 《心が傷つく》という現象です。《善悪》は また別の問題です。 心は傷つくことはないのだから 《悪くはない》と言えますが つねに同じだとは言えないかも知れません。相手に投げ飛ばされて うしろの人にぶつかった場合が 例となりませんか? 自分はやましくないので心は傷つかないが 後ろの人に迷惑をかけたのだから 自分もわるい。わけです。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~ >精神が傷つくことはあり得ない。 実際本当に傷ついているのかという当否はわかりませんし、静止した状態の観念をいうのでもありませんが、私はコントロール可能だと思います。 ~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ちょっとよく分かりません。心や精神が傷つくかどうかの問題が 意志によってコントロールできるものかどうかにつながっているという見方についてです。 やましさがあったなら 傷つく。そうでなければ 傷つかない。このふたつに一つだと思うのですが。 つまり ★ 他人の言動について悩んでいたことに対し、考え方を変えれば心も変わったということということは誰にもあると思いますから。 ☆ ここにはただちに《心の傷つき》がかかわっているというつながりはないですね。別の問題です。 次も 別の主題であろうと考えます。わるいと言うわけではなく。 ★ 『他人は変えられない、自分が変わること。すれば他人も変わる』という格言がありますが、前半は正しいが後半は正しくないですよ、他人は本人の意思以外で変えられないから。 ☆ 直接に《心の傷つき》とはつながっていないと思われます。 ★ 反省するときに当然のことながら「なぜあのとき私はああだったんだろう。こうしなかったんだろう」と自分を責めることもあります。それが「やましさ」なのかもしれません。 ☆ 確かにそうかも知れません。つまり やましさが直接にかかわっている場合もあるかも知れません。 でも そうではない場合もあります。やましさを感じないふつうのまともな内容の選択肢がふたつあった場合です。 A か B かいづれかを選択するという場合 やましさが関係ないということもあり得ます。 ★ 自分を苦しませているものが客観的に考えて「相手が悪い」ものであれば「やましさ」を感じる必要はないのです。それは変化を求めようとする自分への欺瞞です。 ☆ げんみつにこの質問を問い求めるとすれば この《相手が悪い》場合と言うのは まだそこまでは問うていないと言わねばならないでしょう。 自分の心にやましさがある。ゆえに 心が傷つく。 そして そのとき相手も こちらを裏切るといった反倫理的な行動を採ったとしても そのこととこちらの《心の傷つき》とは 分けて考えるべきである。――こう申し上げて問うています。まだ 焦点をしぼっていただきたいとは思います。(別様に おおきな主題を成すでしょうけれど)。 ★ 一瞬でも波風が立つのであれば、それはまだ自分を刺激するなんらかの要因がまだ解消されていないのでしょう。内的帰属原因を求める場合、自分を責めること自体が自己満足で終わるのならば、「やましさ」は自分に対する偽善であると考えました。 ☆ 主題がすでに発展して行っていますが 触れるようにします。 つまり 《波風が立つ》というのは この質問にかぎっては《やましさが無い場合にも いちどは自省するかたちを採る。そのとき多少は あれっ 間違ったかなという揺らめきをおぼえる》という意味です。これは 自信があっても 確認することがある。と思います。 《自分の心にやましさがあった場合》 《自分を責めること自体が自己満足で終わる》というのは 《おのれのやましさによって〔のみ〕心に傷がついた》ということを認めたあとのことです。そういう問題ですね。 ★ 「やましさ」は自分に対する偽善であると考えました。 ☆ とはならないんぢゃないでしょうか? やましさは 心が傷つくことと一対一に対応していることを示すまでのことです。それを放ったらかしにしたりするのは おのれの意志の問題です。 要するに 傷ついた心を――そしてそれに対応しているやましさを――どう癒すのか? これは また別の問題です。自己満足に終わるのか。対外的に偽善的な対応を採っただけに終わるのか。・・・
- Nakay702
- ベストアンサー率79% (10007/12518)
>他人の言葉で 心が傷つくか? ⇒特にこのサイト内でのやり取りに特化して、個人的な観点から申しあげます。 誰かが私の問いに答えてくれたり、私の回答に対するお礼や補足を書いたりしてくれる場合、内容はどうあれ、まずその行為自体をありがたく思います。つまり、私あてに何かを発信してくれること自体に、ある種の「絶対性」を認めるべきだと考えています。 おっしゃるとおり、たとえその内容が「お粗末」と感じられるような場合でも、さらには「酷い言葉やののしりの言葉」があっても、私の場合、自分の精神が傷つくようなことはありません。ですから、それを批判したり非難したりすることは決してしません。 ただ、感想などを乞われるなら、正直に感じたことや考えたことを相手に伝えるようにします。その場合は、ネガティヴなことであっても、それをオブラートに包むようなことはしません。 誰にでも、その人の観点から見れば、必ず「○○の論理」なるものがあるはずです。「万物は教師」(プルタルコス)とも言います。さらに、たとえその真意が分からず、得るものが何もないと思われても、「罪を憎んで人を憎まず」です。そういう見地から言わせていただくと、例えば「回答ブロック」をする人の気持ちなどは、私には全然理解できません。 このように、人が寄せてくれたものは一切拒まず、常に歓迎していますが、反対に、こちらが発信する立場に立つときは気をつけたいと思うことがあります。こういうサイトで発信する際、我々はいわば匿名性という「ギュゲスの指輪」を手にしていることになります。そういう場面で私は、可能な限り誠実でありたいと思いますが、常に哲人王や悟道者ほど潔癖であり続けることができるかどうかは自信ありません。しかし、少なくとも、そう(誠実)であるように目指したいとは思います。 現実には、「ここまでくれば誠実だ」などというトポスはないわけで(それゆえにユートピア「無い場所」と言われるんでしょうね)、「それを目指す過程中にある」ことを称して「誠実である」と認めていただければありがたいです。 ところで、「決して後戻りしないものが3つある」といいます。それは「投げられた槍、発せられた言葉、逃した好機だ」(中国の俚諺)とのことです。このうち、「発せられた言葉は二度と後戻りしたり消えたりすることはない」を取り出して、このことを頭の片隅にしっかり置いておこうと思います。顔も見ず、声も聞かず、画面上に綴る文字だけでやり取りするこのサイトでは、言葉はそれほどに重いものであるはずでしょうから。 以上、ご回答まで。
お礼
なかい720さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 急いでいて 回答No.10だけが目に入って そこにだけ急ごしらえの返答を書きました。ご了承ねがえればさいわいです。 ★ 特にこのサイト内でのやり取りに特化して、個人的な観点から申しあげます。 ☆ 承知しました。 ★ おっしゃるとおり、たとえその内容が「お粗末」と感じられるような場合でも、さらには「酷い言葉やののしりの言葉」があっても、私の場合、自分の精神が傷つくようなことはありません。ですから、それを批判したり非難したりすることは決してしません。 ☆ 賛同をありがとうございます。 これは 貴重なことと思っています。というのも 数としてこのスレッドでは圧倒的な多数ではないようですが 一般にはそうとう有力な通念ないしナラハシになっている。こう感じているからです。 中ほどのご議論については 争点があまりないようですので。・・・ ★ 「発せられた言葉は二度と後戻りしたり消えたりすることはない」を取り出して、このことを頭の片隅にしっかり置いておこうと思います。顔も見ず、声も聞かず、画面上に綴る文字だけでやり取りするこのサイトでは、言葉はそれほどに重いものであるはずでしょうから。 ☆ これについて 議論を《活性化》するために対立する立ち場に立っての反論を述べましょう。 そんなことはありませんよ。容易にではなくても その過去の一時点での状態や事情や情況について きちんと説明すれば おおよそ心としては分かってくれる場合があり得ます。よ。 時間をさかのぼり 過去に立ち還ることは 相手の人間によっては不可能ではありません。そうではないでしょうか? その意味でも 相手の・つまり他人の言葉によって 心が傷つくということは無い。こういう命題は とうといものであると考えています。この・それとしての《真理》に 人びとは目覚めて欲しいと考えます。
- Y Y(@yy8yy8az)
- ベストアンサー率17% (89/501)
「心なる海の上に波風、、、」を立たせるのは“やましさ”と言う心。 傷はつきません。聖人にでもなろうかと言う程の人でなければ。 心は外からのちからを受けることで傷つきます。 心の内側から傷をつけるのは至難の技。 選ばれた人のみ。
お礼
急いでいて 回答No.10だけが目に入って 急ごしらえの返答を書きました。 わいわいえいとさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 ん? 全体として ん? つまり ★ 心は外からのちからを受けることで傷つきます。 ☆ ほんとうに そうなんですか? つまり ★ 心の内側から傷をつけるのは至難の技。 ☆ これは ひょっとして前項と合わせて考えると 《心の内側から 他人が その心を傷つける》という場合を言っているのでしょうか? ううーん。分からないですね。 趣旨説明としては: 心が傷つくのは 自分がみづからの心に逆らってやましいことを実行するときである。と言っています。 相手からそのことを――直接ではなくても――想起させられて 心が傷つく。つまり 自分の自己背信というべきことで 心が傷つく。のではないでしょうか? ★ 傷はつきません。聖人にでもなろうかと言う程の人でなければ。 ☆ ん? どういうことですか? 《聖人であれば 傷つく》のですか? ★ 選ばれた人のみ ☆ が心が傷つく。ということでしょうか? 何だかよく分かりません。 ★ 「心なる海の上に波風、、、」を立たせるのは“やましさ”と言う心。 ☆ いえ。これは 違います。誤解です。 すなわち やましさが無いなら 心は傷つくことはない。ただし やましさが無くても 多少は――自分の心に省みることがあって ひょっとしてマチガイを侵したのではないかとあやぶむこともありますから―― 《海のおもてに波風が立つほどの心の揺らめきは起きるのだ。と言っています。どうでしょう? なおこの質問の問うところは いわゆる常識に対抗したものです。 たとえば一般によく 《言葉は凶器にもなる。心しなければいけない》というようなことが言われています。 けっしてそんなことはありません。凶器になって心が傷つくとしたら それは すでにその前に自分がおのれの心に逆らってやましいことをおこなっているからだ。こういう議論です。
- 0fool0
- ベストアンサー率18% (134/738)
是 成否は己の内に在り
お礼
0ふーる0さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 ★ 是。 ☆ 賛同をありがとうございます。 ★ 成否は己の内に在り ☆ 《是》なのですから 《成るはずだ》である。それでも成らないのは 原因が《おのれの心の内にある》。ですね。 これまでのいくつかの回答をながめると 《否》の意見もあって 《ジョウシキ》は どの辺にあるのでしょうね。つまりわれわれの見解に立てば 古いジョウシキがまだどこかに強烈な縄張りを持ち続けている。こんな感じがします。 或る種のたたかいでしょうね。 ほとんど何もしないわけですが こういった問い求めをおおやけにしておくことは大事ではないかと考えます。
- Tefu_Tefu
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こんばんは ブラジュロンヌさん 起きてしまいましたので >他人の言葉で 心が傷つくか? 人が傷つくのは 仲間外れにされた時でしょ。誰もが そう言っていた気がしますがね~。 不特定多数の人間から同じように指摘されて 自分が孤立しているように感じた時です。 集団心理て言ったでしょ。 「無知の知」を知り 慈悲、慈愛の心があれば問題ありません。 雑草のように生きていきましょう。 あっ 釈迦に説法でした。失礼しました。
お礼
★ 人が傷つくのは 仲間外れにされた時でしょ。 ☆ なぜですか? てふ_てふさん お早うございます。ご回答ありがとうございます。 ★ 誰もが そう言っていた気がしますがね~。 ☆ 知りませんね。 ★ 不特定多数の人間から同じように指摘されて 自分が孤立しているように感じた時です。 / 集団心理て言ったでしょ。 ☆ 《自分にマチガイやアヤマチがないとき》の問題ですよ? さびしいとか あるいはその仲間たちがいかに思考の程度が浅いかについてあきれるとか そういう反応はあり得ますが 《心が傷つく》ことはあり得ないでしょう。ちがいますか? 《孤立》ったって その人たちが間違って行動しているだけのことです。それに もともとひとは孤独です。 《集団心理》が 阿呆でないとは限りません。 ★ ~~~~~~~~~~~~~ 「無知の知」を知り 慈悲、慈愛の心があれば問題ありません。 雑草のように生きていきましょう。 ~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ん? なあんだ。最初から賛同の一票だったんですか。 考えてみれば けっきょく世の中の・そして職場などのクウキの問題であるようです。 クウキによわい。クウキにさからうことは なお弱い心になり ためらってしまう。 仲間はづれの人に対して思いやろうとするだけでも 躊躇してしまう。自分もはづされるのではないかと。 世の中も学校も職場も この社会はすべて わたしたちのものではなかったのだろうか? どこで行き違いが生じて来ているのか? 《孤立》連合とか《仲間はづされ》同盟とか つくればよいのです。
- a_hona
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ブラジュロンヌさんの答弁を幾らか読んだ上で、私が思うに、論理的に、或いは理想的に解釈し過ぎる傾向があるゆえに、感情とか、心の動きを察知する感覚がズレている、或いは不感症になっているのではないかということがあります。現実的な人の心と言うものについて、見誤り、見損ないがあるのではないか、というものです。 心を大海に喩えられて、漣を傷と喩えられる気持ちもわかりますし、全ての人の心が大海のようであると信じようとすることは一種美しさもあります。しかしながら、それは酔いでもあるように思うのです。現実を精査していない。 苦言を呈しますが、例えば信頼している故に傷付くということが往々にしてあります。 人の罵詈雑言や誹謗中傷を聴いて、胸の辺りが冷たくなったとかそう言うことは人生でありませんでしたか?それは、悲しみに似たような気持ちです。どうでも良いと思っている人に何を言われようとも傷など付きませんが、信頼している人から言われることは良くも悪くも心に響きます。信頼によって心を開いているからではないですか? 心と言う言葉を人格に置き換えてもいいかもしれません。 人は話をする以上、相手のことを幾ばくかは信頼しているのが普通の状態だと思います。そうでなければ言葉が交わせないと思うからです。相手の人間性を認める故に、言葉を交わすことができると考えています。 私には、ブラジュロンヌが、他人の言葉で心が傷付くと言う事実を内心では知っていながら、その知からあえて目を逸らそうとしているように感じられます。自己のやましさという言葉によって、全ての中心軸を自分に、意図的に持って行っているように思います。まるで他者など関係がないかのように。 私には、実際には、ブラジュロンヌさんこそ他人の言葉で傷付くような人なのではないかと思われるのです。 もし、他人の悪意ある言葉や失言に傷付かない心の持ち主がいたとするならば、その人は心健き人なのです。しかし、すべからく全員が、そのような人であるわけではないでしょう。言葉によって(他の人の心も自身の心も)心を護り、直ぐくする人こそが、言葉を巧みに使いこなしているのです。このようなことは容易ではありませんが、心の落ち着きと堪忍が、それを為すのだと思います。 以前、ぶっきらぼうであることは人を傷付けるか?という問いがブラジュロンヌからありましたが、回答は否です。ぶっきらぼうであることは人を傷付ける要因ではありません。悪意と、人の気持ちのわからないこと(無知)が、人を言葉で傷付ける要因であるのです。
お礼
ご回答をありがとうございます。 真逆の内容だと思います。批判は歓迎です。 ★ 人の罵詈雑言や誹謗中傷を聴いて、胸の辺りが冷たくなったとかそう言うことは人生でありませんでしたか? ☆ まだ事情や情況や気持ちについての問題ですが 具体的な議論に入って行くかも知れません。 わたしの答えは そういう場合にはたいてい 怒りを覚えます。《中傷》というのが 象徴的であってそれは 根も葉もないことを言いふらしているということです。根拠が無い。そういう場合は 怒りを覚えます。 そうして その相手は どうしてそんなに阿呆なのかとその阿呆さのあり方について明らかにして知ろうとします。答えが出たなら そのことを伝えてやって もう少し大人になりなさいと言ってやるか。それとも言わずに 放っておくか・つまり去るかします。 すなわち 《胸の辺りが冷たくなったとかそう言うことは》いっさい経験していません。《胸の辺りが冷たくなる》という事態が そもそも 分かりません。 ★ それは、悲しみに似たような気持ちです。どうでも良いと思っている人に何を言われようとも傷など付きませんが、信頼している人から言われることは良くも悪くも心に響きます。信頼によって心を開いているからではないですか? ☆ だとしたら その《信頼を寄せたこと》が マチガイであった。ということでしょう。それだけのことだと考えます。つまり 自業自得です。《信頼を寄せられた人》について 特に問題はないでしょう。 ★ 人は話をする以上、相手のことを幾ばくかは信頼しているのが普通の状態だと思います。 ☆ いいえ。――というふうに わたしの個人的な見解をそのままストレートに出して反応してまいりますが―― わたしは つねに・誰に対しても 信頼関係を前提として相い対します。信頼関係のありうるかたちを自分の内面にすでに想定し前提して と言ったほうが精確でしょうか。 ★ そうでなければ言葉が交わせないと思うからです。 ☆ それは そうと決まっているとも思えませんが ふつうひとは 相手も自分と同じ人間であって信頼を寄せるに足る存在だとのぞみつつ 対面するでしょうね。 ★ 相手の人間性を認める故に、言葉を交わすことができると考えています。 ☆ これは おのれが人間である程度には 相手もそうだと思って話をする。といった内容に採ると分かりやすいでしょう。 ★ 自己のやましさという言葉によって、全ての中心軸を自分に、意図的に持って行っているように思います。 ☆ やましさまたはその反応は 誰もにとっておのれの言わば良し悪しにかんする判断をおこなうひとつの基準になります。それは 普遍的なことです。《自分勝手に意図的にこのやましさ〔反応〕を持ち出している》ということは 決してないと言えるはずです。 なぜなら 心が傷つくのは おのれのこのやましさ反応が出ているのにこれに逆らって 選択肢を選択し意志し行為することによってこそだと考えるからです。 《やましさ〔反応〕》は このいまの議論における鍵語になっています。 ★ まるで他者など関係がないかのように。 ☆ おのれも他者も このやましさ問題にもとづき《心の傷つき》が起きたり起きなかったりするという議論ですから 《他者を置いてきぼりにする》ことは あり得ません。
- kurinal
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B様、こんばんは。 (B様)「「どうして、そうなのか?」という問いが、延々と残る」 アドバイザーが必要なんでしょうか。
お礼
★ (B様)「「どうして、そうなのか?」という問いが、延々と残る」 ☆ わたしがどこかで こう言ったのですね。 こんばんは。ご回答をありがとうございます。 そうですね。 ★ アドバイザーが必要なんでしょうか。 ☆ わたしが設ける質問は だいたい定説や常識をうたがう内容が おもです。 したがってわたしの持論をたたき台として 成否をたづねる。 あるいは 文献や研究史のことで詳しく知りたいと思ってたづねる。 もうひとつは 行先きを決めないで いくつかの答えがありそうな問いを問うてみる。 こういったところです。 このいまの質問は ほかでもなく《常識をうたがうための問い求め》です。 したがって この問いについては ☆☆ (B様)「「どうして、そうなのか?」という問いが、延々と残る」 ☆ という場合には当てはまりません。
お礼
お早うございます。ご回答をありがとうございます。 ★ 心に具わる“良心”が“やましい心”を糾弾する。 ☆ 1. わたしがウソをつきたいと思う。 2. いや 何を思っているのか? と思う心もある。何を血迷ったか。 3. ウソをつこうとさらに思うと 心に騒ぎをおぼえる。心地よくなくなる。 4. これは やましさ反応である。 5. 恥ぢを知る気持ちでもある。 6. 《恥ぢ》は 概念としても持たれる。 7. 恥ぢを知るとき 同じく概念化して 良心の痛みとか呵責とかと言う。 8. やましさ反応が ウソ・イツハリを強行しようとするわが心を糾弾する。 ★ やましさと云う心は神仏の心(或いはそれと同質)。 ☆ 9. やましさ反応が起こるのは ナゾでしょうね。 10. 自分が 意志で起こすものではない。どのように起きるかも知らない。 11. 《良心》は その自由が《信教》のそれと同じ質のものと捉えられることより やましさともども 神仏なるナゾにかかわるかと思われる。 12. 繰り返すなら 良心の呵責は そこにかなり《思考や感性》がかかわっている部分があるかも知れないが それが起こるのは やましさ反応と同じく ナゾだと考えられる。 13. つまり 考えやそうしようと思う努力によって 良心の呵責をおぼえるのとは その発端においては 違う。勝手にナゾがはたらくのである。 14. 人間の自由――意志自由――には これらヤマシサ反応や恥ぢの自覚や責めさいなむ良心などにさからう自由がある。ただ思いとして逆らうだけではなく その思いを行動に移す自由もチカラもがある。 15. 心に傷がつく――心のどこかに欠けが生じる――というのは この《やましさ反応にさからう心とその実行》によって出来る。のだと考えられる。 16. やましさ反応にすなおに従っているとき 心は やすらかである。傷はつかない。 ★ 常識的に心に傷を付けられるのは・・・ / それは自分以外の人、によって。 ☆ 17. これは その《他人》が やましさ決断をして心に傷をみづからがつけていることを こちらが心に受け留めている状態である。その状態から始まる。 18. 相手が・つまりやましさ実践の自由を強行する相手が なおも恥ぢることなく行動をつづけるとき こちらは一般に怒りをおぼえたりあきれたりする。 19. 怒りをおぼえたりするなら その怒りの表情を見せたことだけによってでも 恥ぢを知る姿勢にもとづく共生の社会生活をねがうと相手に伝えたはずだ。 20. この共生のねがいが 相手によって踏みにじられたなら その憤りのさまが あたかも《心の欠け》を覚えた状態に似ていると感じる。 21. これが 《他人の非道な言葉によって こちらの心が傷つく》と――おそらくあやまって――認識される事態である。じっさいのところ・本当のところ 心に傷はついていない。欠けてはいない。 ★☆ 常識的に傷を受ける心を、非常識的に取り上げると“傷”の内容が違ってくる。 ☆ 22. 《ジョウシキ》が間違っている。と問うています。 23. 主体ないし主体性の問題でもある。 24. あるいは ふるいナラハシとしては 相手と自分とが 未分化の状態において起きる錯覚である。主体性が確立されていないという意味である。 25. 《心が傷つく》をめぐる現行のジョウシキは まだ人間になっていない〔状態にある人間が考えた世界認識の一部である〕。 わいわいえいとさん ありがとう。