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他人の言葉で心が傷つくか?
- 他人の言葉で心が傷つくかについて考えてみました。
- 心が傷つかない理由や、傷ついた場合の対処法についても解説します。
- 自己反省も重要であり、相手の言葉に傷つくことは避けるべきです。
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常識と非常識。 常識的に心に傷を付けられるのは・・・ それは自分以外の人、によって。 非常識的には・・・ ブラジュロンヌさん云う処の“傷”、それを付けるのは神仏。 やましさと云う心は神仏の心(或いはそれと同質)。心に具わる“良心”が“やましい心”を糾弾する。 糾弾=傷 ☆ 常識的に傷を受ける心を、非常識的に取り上げると“傷”の内容が違ってくる。
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- Y Y(@yy8yy8az)
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「他人の言葉で 心が傷つくか」 もちろん! この“傷”と云う言葉を、曲解?した捉え方をして思考するのが間違い。 ブラジュロンヌさんは「やましさ」という心に傷を付ける刃物が隠されている、と見ているようですがそうだとしてもそれは自身の心(自我)に対しての自己・真我の反応。それも、まれなる極限状態の心理での事。 通常は(常識的には)他者に向ける刃物ではありません。 刃物は、他人の誹謗中傷という言葉。 理研・笹井氏の自殺。 世間の「刃物」で傷つけられての結果でしょう。 世間の非難が無ければ、世間の非難を浴びなければ、自殺はしなかったはず。 笹井氏自身の“やましさ”という心が自身の心に傷を付け、自身を自殺に追い込んだのでしょうか。 そんな純粋な心の持ち主だったんでしょうか。 もし笹井氏に“やましさ”があったとしても、その心が自身を傷つけたのではなく、他者によって“傷つけられて”の、やましさ反応と受け止めるのが「常識」というものです。 「常識」は間違っていますか? ☆ でも、自身の行為に“やましさ”を感じて自身の心が傷つく、と云う捉え方は常識的ではあります。 純粋な心を持つ人ならば・・・。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ 「やましさ」という心に傷を付ける刃物が隠されている ☆ 《やましさ反応》にさからって考えそれを実行するときその心は みづからに逆らったぶんだけ《欠け・または損傷》をこうむった。つまり 自業自得です。 それが 顕在化するのは もっとあとで 何らかのかたちでその《事件》を想起させられたときです。反省したときです。つまりまた そのときは 《心の傷》を確認して その傷の癒えるための《心のたましづめ(魂鎮め)》が成ることを願ってです。 《刃物》ではないですね。 ★ 理研・笹井氏の自殺。 / 世間の「刃物」で傷つけられての結果でしょう。 ☆ あり得ません。どうして自分の心の外にある何かによって その心が損傷をこうむるのでしょう? 胸を開いて心臓を取り出し さあ その言葉なる刃物で切ってみよとでも言ったのでしょうか? もしそのような刃物になるとがめの言葉を誰かが言ったとすれば それは その発言が妥当でないぶんに応じて その発言者のこころが傷つきます。けれども この傷つけは 笹井氏とは 別です。 笹井氏は 自分自身で心にやましさ反応へのさからいをおこなったことがあった。そのときの心の損傷を確認した。ということはあったかも知れません。なかったかも知れません。 それだけのことです。つまり 自死の原因や理由は 分かりません。推測は 自由です。 仮りに ★ 世間の非難が無ければ、世間の非難を浴びなければ、自殺はしなかったはず。 ☆ だったとすれば それは《心が傷ついた》という問題ではありません。ウツになったりした精神状態の問題ではないでしょうか。 こう考えるかぎりで ★ 「常識」は間違っていますか? ☆ と問うならば 間違っていると思います。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ でも、自身の行為に“やましさ”を感じて自身の心が傷つく、と云う捉え方は常識的ではあります。 純粋な心を持つ人ならば・・・。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 誰もが《純粋は心を持つ》ところから出発します。
- 阿加井 凛悟(@neutral)
- ベストアンサー率29% (231/773)
ああなるほど。 わたしは誹謗中傷や罵詈雑言を飛ばされれば 驚いたり混乱したり悲しくなったりして 穏やかではないときがありますが、 しかも最終的に「悲しくなりました」と伝えることもありますが、 それから、まづわたしが曲解や錯覚をしてはいけませんから、 「何をなぜ言われたか分からないのでもう少し説明してください。」 と言うこともありますが、 やましさが無ければ、誹謗中傷や罵詈雑言は受け取りません。 送り主にそのまんま返却します。 もともと送り主のものですから送り主に片付けていただきます。 丁寧なご返事ありがとうでした。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ 中傷 ☆ を受けたら やっかいだと思いますよ。 根拠のない話で けなそうとするわけですから。 つまり そんなことはないということを証明するのは 至難の業ですから。アリバイの証明ですね。 わたしは 高校のときほぼ三年間 あいつ(特定の女性)と出来てるというウワサを流されました。気持ちがあるとは じっさいわたし自身が言ったのですが ここから尾ひれがついて全校に知れ渡ったと言います。 つまり 卒業してから 友だちがおしえてくれました。そういうことになっていたのかと。 知らなかったのだから 何もせずにいましたし 影響も何も受けなかったのですが そう言えば 間接的にはいろんな影響を受けていたということが あとで判明しました。いちばんの例は 学級中から保健委員にされたことです。例の検便係りです。 ウワサは けっこうチカラがあります。と知ったのでした。 何もしないたたかい というのも あるのではないでしょうか。
- 阿加井 凛悟(@neutral)
- ベストアンサー率29% (231/773)
こんばんは、ぶらじゅろんぬさん。お久しぶりです。 傷つくための要素ときっかけは本人が持っているでしょうね。 人は身に覚えのない言葉を発することができませんし、 また身に覚えのない言葉を理解することもできませんから。 その言葉がわたしに引っかからなければ、というか わたしがわたしにその言葉を引っかけることができなければ、 その言葉は流れていくだけです。 しかしわたしは「人は傷つくことがない」とまでは言えません。 やましさを感じることが皆無という人はいないと思うからです。 人間は間違えるということを人間は知っていますから、 「あっ!わたし間違えたかしら…ドキッ!」 と思うことは誰にでもあるんぢゃないかしら。悪意がなくても。 ところで、ビートルズの let it B という曲の中に ♪ when the broken hearted people living in the world agree ♪ という歌詞がありますが、あれはどのように訳しますか。 rose という曲の中に ♪ some say love, it is a razor, that leaves, your soul to bleed ♪ ♪ it's the heart, afraid of breaking, that never, learns to dance. ♪ という歌詞がありますが、あれはどのように訳しますか。 しゃべりっぱなしで消えるかもしれないのでご了承くださいませ。
お礼
こんばんは にゅうとらるさん。ご回答をありがとうございます。 ★ 傷つくための要素ときっかけは本人が持っているでしょうね。 ☆☆(趣旨説明欄) おのれのやましさ〔なる行為〕によるよりほかに 心が落としめられたり傷ついたりすることは あり得ないと考えられる。マチガイを侵さないのに どうして心が沈むのか。 ★ 人は身に覚えのない言葉を発することができませんし、 / また身に覚えのない言葉を理解することもできませんから。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~ その言葉がわたしに引っかからなければ、というか わたしがわたしにその言葉を引っかけることができなければ、 その言葉は流れていくだけです。 ~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ そうですね。そのとおりだと思います。 そしてさらにつけ加えるとすれば 一瞬 ある程度において 《引っかける》ことはあるとは思います。 ☆☆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 情況が自分にとって必ずしも良くはないときにさらにその思いを必要以上に噛みしめねばならなくさせるような酷い言葉やののしりの言葉などを聞けば まづひとはおどろく。 しかも きよらかなおそれをつねに持つひとは ひとたびはおのれの身の振る舞いについて返り見ることをおこなう。心に――その心なる海のおもてに――波風が立ちそのような一時的・心理的なゆらめきさえを覚える。 けれども 心にやましくなければ 心が傷つくなどということは あり得ない。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ すなわち 次のように書き込んでおられる内容です。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~ しかしわたしは「人は傷つくことがない」とまでは言えません。 やましさを感じることが皆無という人はいないと思うからです。 人間は間違えるということを人間は知っていますから、 「あっ!わたし間違えたかしら…ドキッ!」 と思うことは誰にでもあるんぢゃないかしら。悪意がなくても。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ここで げんみつに言うとすれば ★ しかしわたしは「人は傷つくことがない」とまでは言えません。 ☆ について 《傷つく》までには到らない場合もあると言っておいてよいと思うのですが どうでしょう。 ▼ ("Let It Be") ~~~~~~~~~~ And when the broken hearted people Living in the world agree There will be an answer, let it be ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ なるほど。《心が傷ついた人びとであっても 互いに話ができる・話し合えるかも知れないと分かったなら その傷の癒える道が開ける》というのでしょうかね。 ▲ (The Rose) ~~~~~~~~~~~ http://gorosuke7.exblog.jp/12574223 - Amanda McBroom Some say love it is a river that drowns the tender reed Some say love it is a razor that leaves your soul to bleed 人は言う 愛は流れる川のようだと かよわい葦を押し流す川のようだと 人は言う 愛は冷たい刃のようだと 人の心を容赦なく切りつけると ・・・ ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 翻訳しているページがありました。 これは 例の《言葉は凶器になりうる》という通念ですよね。 通念というよりは 《教養のある人びとがときどき使うフレーズ》なのでしょうね。 この場合 《切られて血が流れ出るほどだ》というのですけれど これは基本的に言って《心が傷つく》のとは別であるように思います。 たとえば《夢が破れた》とかつまり《誰かの言った言葉を受け取って おのれの夢がズタズタに切り裂かれた》とかの問題。希望が持てなくされるような事実を知らされたというような問題。ではないでしょうか? 心が傷ついているわけでない。と言ってよいのではないでしょうか? ▲ (同上) ~~~~~~ It's the heart afraid of breaking that never learns to dance It's the dream afraid of waking that never takes the chance 傷つくことを恐れる心は 心がときめくことを知らない 夢から覚めることを恐れていては チャンスをつかむことができない ~~~~~~~~~~~~~ ☆ このページの翻訳で 《心が傷つく》が出て来ました。 《絶望に落ち入る》としても ひとは《心が傷つく》ことはない。と思うんですが どうでしょう? 希望が途絶えたとしても そこには やましさも恥ぢもないと思います。 ですかね。 あっ: ★ あれはどのように訳しますか。 ☆ 《心が凹む・落ち込む・気力が失せる》でしょうが 《傷はついていない》場合を言っているように思います。
- frau
- ベストアンサー率28% (56/199)
勘違いしておられるようなので補足だけ。 回答No.21のお礼 ★ 一度目で加害者は反省しているだろうから二度目はない。あるとしたら故意や悪意がある。 ☆ どうして再犯行為がないと断定できるのですか? 一度目以上の違法行為をやらないとどうして言えるのですか? の箇所。 私は回答で 「一度目で加害者は反省しているだろうから二度目はない。あるとしたら故意や悪意がある。 体の反応と同様、「恥」という感情を自覚しながらそれでも「実行せざるを得ないと決断してそうしたというとき」に加害者も被害者と同様、傷つくということですね。」 これはあなたが質問者がそう思っているのではないか?という解釈の文です。それを示すために「いうことですね」と結びましたが、私の考えと捉えられているようなので、指摘します。 「。」に代わり「?」をつければよかったですね。 でも、ご自分の意見についての指摘だと分かるはずですよ。 そのために、 >二度目は ほぼアウトです とわざわざ貼ったのだし。
お礼
ええっとですね。まづは ご回答をありがとうございます。 ☆☆ >二度目は ほぼアウトです ☆ これは 相手のほうではなく・つまり信頼関係を損ねた相手のことではなく 損ねられたこちらの側について言っています。 やましさ反応を蹴って心にさからう決断をしていなかったとしても 二度目に騙されたというときには 自尊心が震えて 事後的にやましさ決断をおこなったというかたちで 反省し心に傷を負うことにあまんじる。といった意味です。 次の場合は 騙す相手のほうのことです。 ☆☆ どうして再犯行為がないと断定できるのですか? 一度目以上の違法行為をやらないとどうして言えるのですか?
それはもう傷ついてばかりですよ。 病気になってあやうく自殺するところでした。 一時期完全に危なかった。 まあ、今も死にたいとか思っているので、 遅かれ早かれの問題かもしれません。 最近は、というかずっと前から どうも某新聞の記者がokwaveの私の書き込みを見て 何年も、いやみなコラムを書いているのではないか という被害妄想まで起きています。これはまずいです。危ない人の思考です。 どうなんでしょうか。「タバコの吸いすぎで肺をやられて、さらに取材なのかなんなのか酒をのんでばかりで、方言にコンプレックスを持っていて、親の介護に悩んでいるらしい記者さん」 たんなる私の被害妄想かもしれませんので気にしないで下さい。 何年にも渡って個人に粘着してあてつけやいやみの文章を書くなどという そんな気持ち悪いことを記者がするはずがないと思います。 もしそんなことがあったら、記者に言葉の暴力をふるわれていることになります。 こんな被害妄想を書く必要もないのですが、私は何だかもう長生きできる気がしないので、 一応、言及しておこうと思いました。 あと、私に対してエチケットと言い出したように、 ブラジュロンヌさんだって、他人の言葉で傷ついていると思いますよ。
お礼
気が済みましたか? ご回答をありがとうございます。
- frau
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>その相手が詐欺などのあやまちを犯したので こちらはとがめる。という問題と そしてその相手じしんは あやまちを犯したということのヤマシサがあります。心の傷があります。という問題と ふたつの問題があります。 すでに双方がやましさを感じてる限りどちらも傷つく。しかし傷ついた側は心がやましくない以上、実は傷ついていないと考えている・・・というふうに読み取るしかないですね。 しかし「過ちを犯した方のやましさが傷ついていない、という場合には過ちを犯していることにもならない」ということになりますよね? >胸の動悸ははげしくなり 舌はもつれ言葉がしどろもどろになって顔は赤くなります。これが やましさ反応です。 確かにそうです。嘘をつくと自分にやましさを感じます。これは普通に良心をもっている人なら当然のことです。つまり、体の反応がなければやましくない=心は傷ついてないということになりますよね(できるだけこういう「へ理屈」は使いたくないのですが)。 また、やましさがあるから傷つきもするのだと思いますよ。 >わたしは人を見る目がなかったのかな・・・と思うのであって 心が傷つくことはないと思います。 私は最初の質問でそう述べています。 まとめます。 >二度目は ほぼアウトです 一度目で加害者は反省しているだろうから二度目はない。あるとしたら故意や悪意がある。 体の反応と同様、「恥」という感情を自覚しながらそれでも「実行せざるを得ないと決断してそうしたというとき」に加害者も被害者と同様、傷つくということですね。 加害者はやましくなければならない。傷ついてなければならない。ということにしたいという「ねがい」があるのが質問の意図なのでしょう。被害者のやましさについての質問だと思っていたのですが、再三のレスによって分かってきました… 加害者と被害者という役目を除かないと話になりませんが再度結論として述べると、恥や罪の意識というやましさのために心は傷つく場合もある。それによってまた心の病にもなる。しかしそれは内的要因に求める場合です。 しかし心のない人種もいます。彼らは心底やましさを感じていないのです。実際見てきましたから。彼らの魂は傷つかない、のではなく、そもそもが石のような心なのです。 つまり自分のしていること、それについて他人がどう感じるか、どのような影響を及ぼすかというメタ認知能力が皆無なのです。 やましさも認識できない以上、心が傷つかない。傷つけばその要因というのも探りたいのが人の心の切実な願いです。自分がいくら傷ついても外的要因にしている限り、傷ついているという心の状態は分かっていたとしても、やましさ(自省)が足りないという事実を心によって逃がされている自分を把握しない限り、その人は外部から問われるやましさに追及され続けるでしょう。 でも心のどこかで彼らは「やましさ」を自覚しているはずです。 質問のタイトル「他人の言葉で 心が傷つくか?」に戻れば、誰の心も傷つくと思います。その要因が何であれ、そのやましさゆえに傷つける心、傷ついた心がある。 加害者被害者という関係でみれば、そこに悪意、故意があるかどうかで「加害者」は決まります。 そこに加害者の「やましさ」があったとしても、それによって本人が傷ついたとしても、それをメタできるのも人間。 自らの「やましさ」に直面できず、他人の「やましさ」に投影するのも悪。結果的に投影者も傷つく。 もし質問の真意が「やましければ何ものも心は傷つかないはずだ」というのであればそれは否と私は考えるしだいです。 私の回答はここまでにします。
お礼
ご回答をありがとうございます。 午前中は 年に一度というほどのお仕事。あっ でもそれほどお待たせしたわけではないようですね。 ★ すでに双方がやましさを感じてる限りどちらも傷つく。しかし傷ついた側は心がやましくない以上、実は傷ついていないと考えている・・・というふうに読み取るしかないですね。この分かりづらい言葉では。 ☆ 《どちらも傷つく》――こういう感覚も見方も質問者はしませんし採りません。 心・やましさ反応・傷つくというのは あくまで個人の内面における問題です。外に出かけません。 たとえば ふたりで セイノと言って やましさ行為を始めるということにはなりません。共犯として同時に違法行為をしたとしても そのヤマシサ反応とそれを無視して行動するという決断は あくまで個人のものです。たとえ同時に起こったとしても 別々に成り立っているものです。 と考えています。 傷つくことと いやだなぁという思いをすることとは 別ですよ。 ○ 双方がそれぞれおのが内面においてやましさを感じてる限りどちらもそれぞれ別個に傷つく ことはあり得ます。傷つくことが 相手との関係に応じて 生じたりその大きさが決まって来るといったことはありません。人格を超えては 連動したりしません。 自分が どれだけヤマシサ反応に逆らったか。その度合いに応じて 傷つくことになります。 ★ しかし「過ちを犯した方のやましさが傷ついていない、という場合には過ちを犯していることにもならない」ということになりますよね? ☆☆ (No.お礼欄) ~~~~~~~~~~~~ わたし( A ): (1) かつて心にさからってヤマシサ行動をえらび実行した。 (2) すでにその時点で 心に欠けが出来た。傷ついた。 (3) 誰か相手の言葉が そのことを 知ってか知らずにか 想起させるものであった。 (4) そのとき ヤマシサがよみがえった。心が傷ついた。 (5) それは すでにヤマシサ反応に逆らったというときに出来た欠けであり傷である。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ (2)の傷が いつオモテに現われるか? それは 分かりません。決まっていません。一般におのれが反省したときです。(3~4~5)のところで それが起きます。 ★ ~~~~~~~~~~~~~ つまり、体の反応がなければやましくない=心は傷ついてないということになりますよね(できるだけこういう「へ理屈」は使いたくないのですが)。 また、やましさがあるから傷つきもするのだと思いますよ。 ~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《ヤマシサ反応が出ているのにこれを無視して 別のおのれが勝手にむしろ理性によって何らかの理屈をつけて その自己背信に突っ走る。そのとき このヤマシサ決断において 心は傷ついた。やがて のちにそのことを想起させられたときに 反省をする。このとき名実ともに 心が傷つきます》。。 ★ 一度目で加害者は反省しているだろうから二度目はない。あるとしたら故意や悪意がある。 ☆ どうして再犯行為がないと断定できるのですか? 一度目以上の違法行為をやらないとどうして言えるのですか? ★ ~~~~~~~~~~~~~~ 加害者はやましくなければならない。傷ついてなければならない。ということにしたいという「ねがい」があるのが質問の意図なのでしょう。被害者のやましさについての質問だと思っていたのですが、再三のレスによって分かってきました… ~~~~~~~~~~~~~~~~ ★ 恥や罪の意識というやましさ ☆ 《恥ぢ》は 確かにやましさ反応にさからって行動するその決断が負います。《罪》は いま別としています。 ただし 自分の思惟や行動について思うと胸の動悸がはげしくなる居心地のわるさ このヤマシサ反応ゆえに 《恥ぢ》を感じるのですよ。そういう順序です。 それらの《意識》は あくまでそのあとの問題です。 ★ 心の病 ☆ これも いま別です。 ★ しかし心のない人種もいます。彼らは心底やましさを感じていないのです。実際見てきましたから。彼らの魂は傷つかない、のではなく、そもそもが石のような心なのです。 ☆ これは 心理的な状態としての問題です。一時的・部分的・局地的です。 韓国人は 反日という思惟と行動について すでに気が違っており ヤマシサ反応はすでに一億光年のかなたに捨てて来ています。でもそれでも この状態は《一時的な心理》の問題です。心の欠けに気がつくなら 人間にもどります。海の表面に起きた波風でしょう。 石からでも 神の子は生み出されます。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~ やましさも認識できない以上、心が傷つかない。傷つけばその要因というのも探りたいのが人の心の切実な願いです。自分がいくら傷ついても外的要因にしている限り、傷ついているという心の状態は分かっていたとしても、やましさ(自省)が足りないという事実を心によって逃がされている自分を把握しない限り、その人は外部から問われるやましさに追及され続けるでしょう。 でも心のどこかで彼らは「やましさ」を自覚しているはずです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ と クネちゃんに言ってやってください。 ★ 加害者被害者という関係でみれば、そこに悪意、故意があるかどうかで「加害者」は決まります。 そこに加害者の「やましさ」があったとしても、それによって本人が傷ついたとしても、それをメタできるのも人間。 ☆ 韓国人と日本人と どちらが やましさを・恥ぢを自覚していますか? どちらが 加害者ですか?
- kurinal
- ベストアンサー率10% (128/1195)
B様、こんばんは。 >「行先きを決めないで いくつかの答えがありそうな問いを問うてみる。」 首肯できます。
お礼
それは よかった。 ご回答をありがとうございます。 この質問は 回答が盛況のようです。
- a_hona
- ベストアンサー率21% (95/444)
心、やましさ、傷付く、これだけで議論がまわっているとのことですが、他人の言葉は何処へ行ったのでしょうか。 もし、前述の三つのキーワードのみを取り上げ、他人の言葉はとくに取り上げず、限定的な観念論という立場において述べるならば、現実とはそぐわない結論ではあるが、ブラジュロンヌさんの所望する結論が導き出されるかもしれません。つまり、人の心が傷付くのは、自己のやましさをおいて他にないということがです。 しかし、この限定的に、作為的に導かれた自明の結論に何か意味があるのだろうかと私は思います。 また、ともすれば、虐められた方にやましさがあってその心が傷付いたのであって、虐めの加害者にその原因があるのではない、といったちぐはぐな主張をしておられるようにも捉えられかねない事を、前お礼で述べられたのですが、このことについても私には、ブラジュロンヌさんは本気で言っているのだろうかと、疑いを持たざるを得ませんでした。 議論の前提に大きな齟齬があるようにも思えますが、今の理解で述べられることを述べると、 人の心が傷付くのは、他人による言葉ではなく、己のやましさおいて他に無いと言えるのは何故か、それは、自分で自分の身の潔白を、自己に対して称しているからである。つまり自己から出でて自己に帰還する、一つも客観的で無い主観的な論理において、言葉によって伝わるはずの他人の意図や思いを、心の表層において遮断するのだとしたら、そうなる。 また、その行為の正当性は、客観的には認められないが、その成否を問うのであるならば、やましさをやましさであると、また、やましく無いならやましく無いのであると判定する自己の内部機構であるそれが何であるかを明らかにしなければならない。そして、それが普遍であると証明するためには、多くの他者にもそれが共通するのだという事実を集めなければならない。その様な、言わば一般とは異なる善悪基準、やましさ基準が内的にあるのを仮定し、認めるのは面白い立場であるが、既に普遍とされている客観的な善悪基準、やましさ基準の是非を問うものとしても興味深くはある。 さらに、独善に陥る危険性を排除する方法が必要であるが、このことについて、つまり人には個々に内在する(例えば)善悪基準、やましさ基準があって、それにのみ心は左右されるとする仮説を立てて、それを立証しようとすることには意義も意味もあると認められよう。 しかしそれでもなお、他者のいかなる言葉によっても心は傷つかないと証明するにはまだ足りない。 その様な個々に絶対的な判断基準が内在することを証明して、さらに、我がこととして受け止められるべき他人の言葉を、独断でなく正当的に、つまり自分のもつ判断基準のみでなく、相手のもつ異なる判断基準をも想定し、限りある想定であるが出来るだけ、秤にかけるように平等に扱わなければ正当であるとは認められないだろう。その上で、相手の言葉をその様に咀嚼した上で、私の心は他人の言葉によっては傷付かないと、言い得る準備ができたことになるのです。 これをさらに私の心ではなく人の心と、拡大、一般化せねばならないのであるから、その様な作業がすべての人が出来るものであると定めなければならないし、一般化の過程で普遍的なやましさの基準を導き出さねばならない。これは骨の折れることです。 素直な人の心の反応や、現実に起こっていることを否定してまで追求すべき題材かというと、人によってはそういう題材であり得るものと思います。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ 心、やましさ、傷付く、これだけで議論がまわっているとのことですが、他人の言葉は何処へ行ったのでしょうか。 ☆ どこへも行かず 《心・やましさ・傷つく》にかかわった場合にも その《他人の言葉》というものは 《傷つけることはない》と言っています。 ★ この限定的に、作為的に導かれた自明の結論 ☆ 《かかわった場合もある》と言っているからには 《限定的・作為的にみちびく》ことはしていないと自明です。 批判を・反駁をおこなえば済むことです。 ★ 自分の身の潔白 ☆ どうしてこういう問題になるのでしょう? やましさ問題は 誰にもある。とわたしは――やましさ反応なる事態を経験したことがないとおっしゃってはいましたが―― 思っています。《身の潔白》論ではなく 《心の傷つき》について原因をさぐり そこから少しでも早く癒えるようにという議論をしています。 なぜヤマシサ問題が普遍的にあると言えるのか? たとえば ポーカーフェイスという事実があるからです。 この場合の顔つきは ヤマシサ反応を身におぼえているにもかかわらずそれを隠すということ 他人にさとられないようにするためオモテには出さないようにする。という意味と事態であるからです。 あとのくだりを読んでつらつら考えるに けっきょく大筋ですでにみとめておられる。ように受け取りました。 ヤマシサ反応についても 想像力で捉えみとめるという結論を出したほどですから すでに全体として 《他人の言葉によって 心が傷つくことはない》と承認されている。ようです。 と思います。 この命題をおのれ自身のうちにしかと確認しておくなら イジメにも罵りにも蔑視するその目線にも つよく立ってあとはいなせばよいという姿勢を身に着けることが出来ると思います。つよくなります。
- kanto-i
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> ☆ 他人の言葉が 心に入って来たとしても《答え》としては自分自身が考え判断するものであるからという意味でしょうか。 フールさんと同意見です。 > とすれば やはり《心のやましさ》によってみづからが傷つく。という結論にみちびかれるのですが どうでしょう? 「つらい」と言う言葉を使ってあるので例としますと 相手を信用していて、信頼関係が損ねられたとします。 そこに必ず本人のやましさがあると言い切れるでしょうか。 > ここでも 言葉には罪はない。のではないでしょうか? 言葉は道具ですから、道具に罪がありますでしょうか。 やましさと一括りにすることに、疑問を感じただけです。 心理学を学べば、こう言う疑問は整理できると思います。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~ > ☆ 他人の言葉が 心に入って来たとしても《答え》としては自分自身が考え判断するものであるからという意味でしょうか。 フールさんと同意見です。 ~~~~~~~~~~~~~~~ ◆(回答No.7:0ふーる0さん) ~~~~ 是 成否は己の内に在り ~~~~~~~~~~~~~~~ ★ ~~~~~~~~~~~~~ 「つらい」と言う言葉を使ってあるので例としますと 相手を信用していて、信頼関係が損ねられたとします。 そこに必ず本人のやましさがあると言い切れるでしょうか。 ~~~~~~~~~~~~~ ☆ 微妙に角度がちがって来ているように思います。 1. 信頼関係において 心が傷ついたとしたら それは 相手の言った言葉の問題ではなく おのれの心におけるヤマシサ(ないし恥ぢ)によるのだ。という命題を提出しています。 2. 信頼関係が損ねられたときには おのれにやましい心がある場合もあれば ない場合もあります。 でしょうか。
- frau
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>《外的な帰属》と《内的な帰属》との両方がありうる。 ということの具体例が >ウソをついたり詐欺をはたらいたりしたとき その非道ないし犯罪行為をとがめる。と いうこと。 ということだと思いますが、bragelonneさんは「とがめる」こと自体が「やましい」と感じることのひとつなのでしょうか? >相手の言葉が その《やましさ行為を実行したこと》を想起させたとすると その反省において 心が傷つき始めます。 誰(自分)が、何によって(相手の言葉)、どうなる(傷つき始める)。ということは伝わっても、「やましさ行為」という質問者の中心となる問いが宙に浮いたままです。 「やましい」ということは、bragelonneさんにとってどういうことなのかを伝えていただかないと分かりません。それとも私の読解力が足りないのかもしれません(もしくは質問者は回答者にそれを考えさせるのがねらいなのか…) 伝わらない限りにおいてbragelonneさんの考え「心のやましさによるのでないなら どうして傷つくことがあるだろうか」ということに対しての私の考えを述べたのであるだけですがbragelonneさんが「なぜそう考えるのか」を提示していただかない限り、言葉の応酬にしかなりえないと思います、この質問自体。 また 人のせい=外的な帰属 自分のせい=内的な帰属 の「両立」とどう関係があるのか、もう少し説明していただかないと分かりません。 私がこの帰属要因のタイプを挙げたのは、傷つく心には、傷つけた方の「やましさ」と、 傷つけられた方の「やましさ」があると考えるからです。 後者は本来ならなくてよい不要な罪の意識で自分を苦しめることになります。 明らかに本人が原因なのに他人のせいにする。 明らかに他人が原因なのに自分のせいにする。 つまり「やましさ」の原因を誰に求めるかによる精神の動きが、自他の心、人生を決めるといっても過言ではありません。 しかし、そのように、「やましさ」を感じなくともよい場合もあるということで、「心が傷つくのはやましいと思うからだ」という考え方には反することになります。 >相手の側にしても もしウソ・イツハリがあったり詐欺や中傷があったりするのなら そのことで 相手自身が心が傷くつくはずです 「相手」を主旨である「心のやましさによるのでない傷つかない主体」としたらその相手もまた同様に「やましいことに傷つかない人」になる可能性がありますよね。それとも傷つく主体は、ご質問者様個人のことを指すのでしょうか? >《信頼を寄せる》という判断・決定が おそらく自分の心に逆らっての実行だった。のではないか? そういう分析になります。つまり やましさが おのが内面にあったという場合です。 「自分の心に逆らった」というのはまったくもって違うと思います。 失望「させられる」以前には「相手を信頼する自分への信頼」という認識をもっていたはずです。ということは外部に原因があるわけです。裏切られたという認識が、自分の勝手な思い込みや勘違いでない限り、相手の好意がその人の自分自身への信頼もなくさせたということで、これは外的に原因があるということになります(相手が非を認めればなおさら)。 しかしそのように「思い込みや勘違い」であるのならば、自分の心がエラーを起こしたということでしょう。しかしそれでもそれが=やましさになるとは思えません。 >相手もやましさを抱えていて問題があるという場合もありうる。 やましいという良心の呵責をお互い感じているというお考えなのでしょうか(だから帰属原因が外部内部両方に両立すると?)。と仮定すると加害者も被害者も不要になりますから、「傷つけられた側」の「やましさ」も論旨とする必要もないでしょう。つまり公平になるのです。 >相手との関係(相手が こちらの心に自己投影して来るという関係現象)において 泡立つ 特定の関係においてのみ、感情が泡だつのであれば、「やましさ」についてはこの「自己投影して来るという関係現象」にこそ答えがあるのでは? あと 「自分の良心に恥じないから私は悪くないと思えるのは傲慢にもみえます」 という私の考えについての箇所について、「相手に投げ飛ばされてうしろの人にぶつかった」例示の意味がわかりません。私はすでに「傲慢にもみえます」と述べていますし、不測の事態で他人を巻き込んだのなら当然「悪くなくとも一応謝る」ということになりますが、これこそ「自分の良心に恥じないから私は悪くないと思えるのは傲慢にもみえます」を表す態度と言えるのでは? しかしながら 「自分はやましくないので心は傷つかないが 後ろの人に迷惑をかけたのだから 自分もわるい。」 「この質問で扱っているのは 《心が傷つく》という現象」 前者は後者を利用した論旨のすり替えではないでしょうか。 >自分もわるい と回答しておられますが、直前で >《善悪》は また別の問題です。 としているのは矛盾していますよね。 >やましさがあったなら 傷つく。そうでなければ 傷つかない。このふたつに一つだと思うのですが。 なぜそのように二項対立で考えるのかを知りたいところです。 また「やましさ」についての具体的な考えをお聞かせくださらないと、問いも答えも単なる言葉の応酬にすぎなくなってしまいます。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ bragelonneさんは「とがめる」こと自体が「やましい」と感じることのひとつなのでしょうか? ☆ いえ。込み入っていますね。 その相手が詐欺などのあやまちを犯したので こちらはとがめる。という問題と そしてその相手じしんは あやまちを犯したということのヤマシサがあります。心の傷があります。という問題と ふたつの問題があります。 ★ 「やましい」ということは、bragelonneさんにとってどういうことなのかを伝えていただかないと分かりません。 ☆☆ (No.11お礼欄) ~~~~~~~~~~~ ウソをつく場合です。すでに 胸の動悸ははげしくなり 舌はもつれ言葉がしどろもどろになって顔は赤くなります。これが やましさ反応です。 ひとは このヤマシサに逆らって 考えを決め行動に移す場合もあり得ます。その実行の時点で 心は傷ついた。と捉えます。《やましさのない状態》が 損傷を受けたわけです。つまり 真ん丸お月さんの心が どこか欠けてしまった。 きわめて単純です。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 人のせい=外的な帰属 自分のせい=内的な帰属 の「両立」とどう関係があるのか ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ こうです。 わたし( A ): (1) かつて心にさからってヤマシサ行動をえらび実行した。 (2) すでにその時点で 心に欠けが出来た。傷ついた。 (3) 誰か相手の言葉が そのことを 知ってか知らずにか 想起させるものであった。 (4) そのとき ヤマシサがよみがえった。心が傷ついた。 (5) それは すでにヤマシサ反応に逆らったというときに出来た欠けであり傷である。 相手( B ): (3‐1) A さんの過去のことを知っていてか何も知らずにか いづれであっても A さんのかつてのヤマシサ決断のことを想い起こさせるような内容の話をした。 (3‐2) そのときもし A さんに 根も葉もないことで中傷し貶めた。とすれば それは この時点における B さんのヤマシサ決断となる。 (3‐3) ゆえに それは B さん自身の心の傷となる。 (3‐4) 《中傷 ないし 名誉棄損》については 倫理的にかまたは法的に処理しようとする動きが A さんから出る可能性がある。とうぜん A さんは この犯罪まがいの行為に対して B さんをとがめる。 ☆ やましさは ヤマシサ決断というごとく その本人の行為であり 本人に帰属する以外にありません。 そして 原則として必ず 心が傷ついていますし やがてそのことを確認せざるを得なくなり おのれの心を省みる日が来ます。 ★ 裏切られた ☆ という場合についてです。もしそのひとへの信頼が裏切られたとしても――つまり 信頼を寄せてよいとかつて判断したときの判断においてヤマシサはなかったとすれば たとえ裏切られたとしても―― 心は傷つきません。残念だ そういう人とは思わなかった まだわたしは人を見る目がなかったのかな・・・と思うのであって 心が傷つくことはないと思います。 二度目は 漠然とヤマシサ決断がなかったとしても いささか心に傷がつくかも知れません。見通しが持てなかったことで 同じあやまちを繰り返したという思いが 決断の時点でのあたかもヤマシサ反応を事後的に促すような結果になるからです。 ★ しかしそのように「思い込みや勘違い」であるのならば、自分の心がエラーを起こしたということでしょう。しかしそれでもそれが=やましさになるとは思えません。 ☆ 一度目は 単なる《勘違いやエラー》で済むと思います。つまり 傷つきません。二度目は ほぼアウトです。そういう目で自分自身を見ると思います。 ★ やましいという良心の呵責 ☆ 《良心の呵責》は ヤマシサ反応にさからう決断のときには 現われません。もしくは ヤマシサ反応にもとづき派生するかたちです。 この良心の呵責が ことを仕切るということではないと考えます。赤面してワケが分からなくなるほどの心の状態のほう・つまり ヤマシサ反応のほうに 主軸はあります。そこで 損傷・欠けが起こるかどうかが決まると考えます。 それに対して 良心の呵責や後悔の念は 主役ではありません。 《恥ぢ》は ヤマシサ反応に近い感覚だと思います。 (また 善悪の問題も 別だと捉えています。ヤマシサ反応にさらかうことは 心に欠けを生じさせると知っていても やむを得ずそれが《よい》と判断しているのですから 《善か悪か》の判別だけでは 話がまとまりません)。 (あるいは 心の損傷が 善の欠けであり それを現象として悪とよぶのだとすれば 善悪観とかかわって来ます)。 恥ぢとすることであっても 実行せざるを得ないと決断してそうしたというとき ヤマシサ決断が成ってしまって やがてのちに心の傷というツケを払わせられる。という方程式だと思います。 ★☆ >相手との関係(相手が こちらの心に自己投影して来るという関係現象)において 泡立つ ☆ これは ヤマシサ決断とは 別です。傷つくこととは 別です。
お礼
お早うございます。ご回答をありがとうございます。 ★ 心に具わる“良心”が“やましい心”を糾弾する。 ☆ 1. わたしがウソをつきたいと思う。 2. いや 何を思っているのか? と思う心もある。何を血迷ったか。 3. ウソをつこうとさらに思うと 心に騒ぎをおぼえる。心地よくなくなる。 4. これは やましさ反応である。 5. 恥ぢを知る気持ちでもある。 6. 《恥ぢ》は 概念としても持たれる。 7. 恥ぢを知るとき 同じく概念化して 良心の痛みとか呵責とかと言う。 8. やましさ反応が ウソ・イツハリを強行しようとするわが心を糾弾する。 ★ やましさと云う心は神仏の心(或いはそれと同質)。 ☆ 9. やましさ反応が起こるのは ナゾでしょうね。 10. 自分が 意志で起こすものではない。どのように起きるかも知らない。 11. 《良心》は その自由が《信教》のそれと同じ質のものと捉えられることより やましさともども 神仏なるナゾにかかわるかと思われる。 12. 繰り返すなら 良心の呵責は そこにかなり《思考や感性》がかかわっている部分があるかも知れないが それが起こるのは やましさ反応と同じく ナゾだと考えられる。 13. つまり 考えやそうしようと思う努力によって 良心の呵責をおぼえるのとは その発端においては 違う。勝手にナゾがはたらくのである。 14. 人間の自由――意志自由――には これらヤマシサ反応や恥ぢの自覚や責めさいなむ良心などにさからう自由がある。ただ思いとして逆らうだけではなく その思いを行動に移す自由もチカラもがある。 15. 心に傷がつく――心のどこかに欠けが生じる――というのは この《やましさ反応にさからう心とその実行》によって出来る。のだと考えられる。 16. やましさ反応にすなおに従っているとき 心は やすらかである。傷はつかない。 ★ 常識的に心に傷を付けられるのは・・・ / それは自分以外の人、によって。 ☆ 17. これは その《他人》が やましさ決断をして心に傷をみづからがつけていることを こちらが心に受け留めている状態である。その状態から始まる。 18. 相手が・つまりやましさ実践の自由を強行する相手が なおも恥ぢることなく行動をつづけるとき こちらは一般に怒りをおぼえたりあきれたりする。 19. 怒りをおぼえたりするなら その怒りの表情を見せたことだけによってでも 恥ぢを知る姿勢にもとづく共生の社会生活をねがうと相手に伝えたはずだ。 20. この共生のねがいが 相手によって踏みにじられたなら その憤りのさまが あたかも《心の欠け》を覚えた状態に似ていると感じる。 21. これが 《他人の非道な言葉によって こちらの心が傷つく》と――おそらくあやまって――認識される事態である。じっさいのところ・本当のところ 心に傷はついていない。欠けてはいない。 ★☆ 常識的に傷を受ける心を、非常識的に取り上げると“傷”の内容が違ってくる。 ☆ 22. 《ジョウシキ》が間違っている。と問うています。 23. 主体ないし主体性の問題でもある。 24. あるいは ふるいナラハシとしては 相手と自分とが 未分化の状態において起きる錯覚である。主体性が確立されていないという意味である。 25. 《心が傷つく》をめぐる現行のジョウシキは まだ人間になっていない〔状態にある人間が考えた世界認識の一部である〕。 わいわいえいとさん ありがとう。