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他人の言葉で心が傷つくか?
- 他人の言葉で心が傷つくかについて考えてみました。
- 心が傷つかない理由や、傷ついた場合の対処法についても解説します。
- 自己反省も重要であり、相手の言葉に傷つくことは避けるべきです。
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質問者が選んだベストアンサー
常識と非常識。 常識的に心に傷を付けられるのは・・・ それは自分以外の人、によって。 非常識的には・・・ ブラジュロンヌさん云う処の“傷”、それを付けるのは神仏。 やましさと云う心は神仏の心(或いはそれと同質)。心に具わる“良心”が“やましい心”を糾弾する。 糾弾=傷 ☆ 常識的に傷を受ける心を、非常識的に取り上げると“傷”の内容が違ってくる。
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- TANUHACHI
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先日もこんな報道がありました。「居場所がない男達」。これは決してホームレスであるとかそういった問題ではありません。 結婚して家庭を設け夫婦共働きをしている男性に対し、伴侶側の父親や母親から「娘を働きに出させるとは一体どんな教育を受けてきたのか」などとの冷ややかな視線や言葉遣いにいたたまれなくなるとの話です。 ともすれば高齢者に多くそして地方に行けば行くほどそうした傾向の強い日本です。今では子育ても夫婦の共同作業であることを理解せず、育児が終わった後でも主婦が勤務に復帰したいとの意向を持ちながら、それを阻止しようとする理不尽な意識は世代や社会認識のズレともいえるでしょうね。年寄りほど固定観念に固執しがちであり、また同時に学校秀才ほど正解病に取り憑かれもする。 「傷付いた」との意味を理解しないままならば、質問者の様に思惟的な問題に押し込めて議論するだけの形になり何も生み出すことは到底あり得ないでしょうね、それでは評論家の姿ではあっても回答者としては疑問符が付くとも考えます。 足を踏まれた者の痛みを足を踏んだ者は知らないとの箴言もあります。
お礼
たぬはちさん おひさしぶりです。こんにちは。ご回答をありがとうございます。 ★ 足を踏まれた者の痛みを足を踏んだ者は知らないとの箴言もあります。 ☆ ん? えっ? つまり 《足を踏まれる――相手は意図的に踏む――こと》と《相手から言葉を受けること》とが 身と心との違いはあっても 《傷つく》という共通性がある場合がある。というご議論でしょうか? ううーむ。足を踏まれるには 何らかの事情と原因とまた情況などがあるでしょうね。 ですから――まづ足を踏まれた場合も 身だけではなく何がしか心にも影響を受けると見ての話としますがそのとき―― 原因や事情など因縁のいかんによって《心がどういう影響をこうむったか。傷つけられたか》は 一概には決まらない。のではないでしょうか? まして 言葉を受けた場合・そして話を進めやすいようにこの際 《相手の心の足を勝手に踏むような言葉を言い放った場合》としましょう。その場合 心は傷つきますか? 土足で入って来ないでとうったえねばならないような暴言もあります。このような誹謗中傷・罵詈雑言等々を言われて 心は傷つきますか? ★ 「傷付いた」との意味を理解しないままならば、質問者の様に思惟的な問題に押し込めて議論するだけの形になり何も生み出すことは到底あり得ないでしょうね、 ☆ 《傷ついた》の意味は みづからの心が沈んでしまい気力がなくなり凹んでしまい落ち込んでしまうことです。《思惟的な問題》ではなく 現実の状態の問題です。 ひょっとしてこれは 《恣意的な問題》の入力マチガイでしょうか? つまり 相手が傷ついたようであると見ている側の勝手な《恣意的な考えの問題》という意味でしょうか? それは 傷つくことが――おのれのやましさによるのでないならば――あり得ないと言ってこれを問い求めている質問者にとっては 次のことを論証していただければすべてコトは決まるというものです。 《他人のどのような言葉によって 心がどのようにして傷つくか?》――これを例証し論証していただく。そういう問いになっています。 質問者は 趣旨説明について自信がありますので このように問うています。 ★ それでは評論家の姿ではあっても回答者としては疑問符が付くとも考えます。 ☆ ですから 評論家ではなく《回答者(?)》なら どういう説明によって たたき台の命題を論破するのか? これが知りたいところです。どういう《疑問符》がついていますか? ★ 「居場所がない男達」。 ☆ これは 特別な問題であるようには 感じられないのですが 説明していただけますか? 妻をもまじえて 伴侶側の父親や母親とゆっくり話し合ってみればよいのではないでしょうか? 現代社会の実情について 親御さんたちが知らないなら しっかりと説明すれば済むことではないでしょうか。それでも 話が分からないのならば 頑固な年寄りだとして放っておけばよいと思います。 けっしてちっとも その男の心が傷つくことはありません。あり得ません。 それとも わたしがどこか勘違いや考え違いをしているとすれば ぜひ指摘していただければと考えます。どうでしょう。
- NemurinekoNya
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こんにちは。 ここで言う心が、外来語であるGeistの翻訳語、精神であるのならば、 他人の言葉で傷つくことはないのでしょう。 しかし、この語は限りなく霊や近い意味を持つ語であり、我々が日常語として使う心と合致するのかというと、かなり疑問。 たぶん、多くの人はこの意味で心という言葉を使わない。 ですから、 bragelonneさんのこの質問文を読むと、「えっ」と驚いてしまう。 人によっては、 「な~、ワケないだろう」と反発を覚えてしまうに違いない。 で、わたしが考えるに、 他人の言葉によって心の表面で波風が立つことはあるのでしょうが、 しかし、これのみで、奥深くにある心までは傷つかないでしょうね。 もし、 傷つくことがあるとすれば、 その言葉を受け取った人がそのメッセージを真摯に反省するときなのでしょう。 しかし、これは、単に己の心を傷つけるだけではなく、傷ついた心の傷を治したり、心のゆがみを矯正することにも貢献するはずです。 負の面だけでなく、プラスの面も持ち合わせているのであろう。 でも、 学生のころ(正確には大学院生のころ)、 苦笑いを浮かべながら後輩に 「○△◇さんは、言葉で他人(ひと)を殺せる。何気なく語る一言が超きつくて、他人の心を深く傷つける」 と言われたことがあるからな~。 反省なんて必要としないのかもしれない。 わたしの何気ない一言は、意外に《言霊》力(殺傷力?)を有しているのかもしれない。 わたしが理性や悟性を持っているのかは分かりませんが、 わたしの理性や悟性が発せさせる言葉ではなく、 わたしの霊―――悪霊です―――が発せさせる言葉は、他者の魂や全存在を根底から揺らすことがあるのかもしれない。 であるとするならば、 《言霊》の力を侮ってはいけないのかもしれないですね。 そして、 《言霊》ならば、他者の魂を揺り動かすことが可能なのかもしれない。 魂の発する言葉ならば、他者の魂に直接訴えかけることができるのかもしれない。 《魂フリ》……。 しかし、これは魂を傷つけることではない。心を傷つける、ということを示すものではない。 この質問で取り上がられているのは、精神だからな~。 哲学でいう精神は傷つかないんだろうな~、きっと。 そのように想定されているはずだ。 そして、 傷ついたり、他人の言などによってグラグラと揺れ動かされるものは、精神と呼ばないはずだ。 でも、 そもそも、こんな高尚なものをヒトが持っているかどうか、疑わしいしな~。
お礼
こんにちは。ご回答をありがとうございます。 ◇ しかし、この語は限りなく霊や近い意味を持つ語であり、我々が日常語として使う心と合致するのかというと、かなり疑問。 ☆ いえ。そういう疑問でしたら 心と呼べるものごとを全部ひっくるめて ここでは 言っています。という初めからの心つもりですが どうでしょう。不都合が出て来ましょうか。 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~ たぶん、多くの人はこの意味で心という言葉を使わない。 ですから、 bragelonneさんのこの質問文を読むと、「えっ」と驚いてしまう。 人によっては、 「な~、ワケないだろう」と反発を覚えてしまうに違いない。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ むろん わたしの質問ですから ジョウシキ破りが目的です。 ◇ ~~~~~~~~~~~~~ で、わたしが考えるに、 他人の言葉によって心の表面で波風が立つことはあるのでしょうが、 しかし、これのみで、奥深くにある心までは傷つかないでしょうね。 ~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ん? そういう趣旨でよいのではないかという問いですが。 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~ もし、 傷つくことがあるとすれば、 その言葉を受け取った人がそのメッセージを真摯に反省するときなのでしょう。 ~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ そうですね。それは その受け取った人が 心の内でみづからの行為にやましさを感じておりそれを知っていても 逆らって行為した場合だと思います。そうでなければ 傷つくことはない。こういう趣旨になっています。 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~ しかし、これは、単に己の心を傷つけるだけではなく、傷ついた心の傷を治したり、心のゆがみを矯正することにも貢献するはずです。 負の面だけでなく、プラスの面も持ち合わせているのであろう。 ~~~~~~~~~~~~~~ ☆ だとしたら 《傷ついた》場合にも 前向きの意味が大いにある。ということでしょうか? すでにみづからの心に反措定が――したがって なにがしかの傷が――ついている。そして 今回傷ついたことで むしろその古傷の原因が分かって おのが心に省みるところがあった。ということでしょうか? つまり 反措定に対するひとつの反措定を持って もとの心の状態に立ち戻るということでしょうか? こうして最後までとおして読みましたら けっきょく趣旨説明に賛同してもらっているのですね。 ただし ◇ そもそも、こんな高尚なもの〔* Geist 精神・霊〕をヒトが持っているかどうか、疑わしいしな~。 ☆ という疑問はある。というところでしょうか。 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~ 《言霊》ならば、他者の魂を揺り動かすことが可能なのかもしれない。 魂の発する言葉ならば、他者の魂に直接訴えかけることができるのかもしれない。 《魂フリ》……。 しかし、これは魂を傷つけることではない。心を傷つける、ということを示すものではない。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ たましづめも たま振りも 日本人にとっても伝統ですから 《 Geist 霊・精神》とけっきょく同じなのではないでしょうか。 そして 質問者としては もっと突っ込んでいます。単なるふつうの言葉あるいは誹謗中傷・罵詈雑言のたぐいであっても 他人の言葉が 心を傷つけることはあり得ない。こういう命題です。 せいぜい心が揺れ動かされるほかに 心がウワベだけではなく内側であやういウゴキを示したとしたら それは 分かっています。つまり 相手の心の動揺が こちら側にミラーニューロン現象として入り込んで来たからです。相手がみづからの心を こちら側に自己投影して こちらはこれを受けとめたからです。 結論: おのれみづからの心に やましさ反応がないならば・すなわち やましさ反応をおぼえたときそれに逆らって行動するのでないならば 心が傷つくことは いっさい無い。 この命題を問いたいと思っています。
お礼
お早うございます。ご回答をありがとうございます。 ★ 心に具わる“良心”が“やましい心”を糾弾する。 ☆ 1. わたしがウソをつきたいと思う。 2. いや 何を思っているのか? と思う心もある。何を血迷ったか。 3. ウソをつこうとさらに思うと 心に騒ぎをおぼえる。心地よくなくなる。 4. これは やましさ反応である。 5. 恥ぢを知る気持ちでもある。 6. 《恥ぢ》は 概念としても持たれる。 7. 恥ぢを知るとき 同じく概念化して 良心の痛みとか呵責とかと言う。 8. やましさ反応が ウソ・イツハリを強行しようとするわが心を糾弾する。 ★ やましさと云う心は神仏の心(或いはそれと同質)。 ☆ 9. やましさ反応が起こるのは ナゾでしょうね。 10. 自分が 意志で起こすものではない。どのように起きるかも知らない。 11. 《良心》は その自由が《信教》のそれと同じ質のものと捉えられることより やましさともども 神仏なるナゾにかかわるかと思われる。 12. 繰り返すなら 良心の呵責は そこにかなり《思考や感性》がかかわっている部分があるかも知れないが それが起こるのは やましさ反応と同じく ナゾだと考えられる。 13. つまり 考えやそうしようと思う努力によって 良心の呵責をおぼえるのとは その発端においては 違う。勝手にナゾがはたらくのである。 14. 人間の自由――意志自由――には これらヤマシサ反応や恥ぢの自覚や責めさいなむ良心などにさからう自由がある。ただ思いとして逆らうだけではなく その思いを行動に移す自由もチカラもがある。 15. 心に傷がつく――心のどこかに欠けが生じる――というのは この《やましさ反応にさからう心とその実行》によって出来る。のだと考えられる。 16. やましさ反応にすなおに従っているとき 心は やすらかである。傷はつかない。 ★ 常識的に心に傷を付けられるのは・・・ / それは自分以外の人、によって。 ☆ 17. これは その《他人》が やましさ決断をして心に傷をみづからがつけていることを こちらが心に受け留めている状態である。その状態から始まる。 18. 相手が・つまりやましさ実践の自由を強行する相手が なおも恥ぢることなく行動をつづけるとき こちらは一般に怒りをおぼえたりあきれたりする。 19. 怒りをおぼえたりするなら その怒りの表情を見せたことだけによってでも 恥ぢを知る姿勢にもとづく共生の社会生活をねがうと相手に伝えたはずだ。 20. この共生のねがいが 相手によって踏みにじられたなら その憤りのさまが あたかも《心の欠け》を覚えた状態に似ていると感じる。 21. これが 《他人の非道な言葉によって こちらの心が傷つく》と――おそらくあやまって――認識される事態である。じっさいのところ・本当のところ 心に傷はついていない。欠けてはいない。 ★☆ 常識的に傷を受ける心を、非常識的に取り上げると“傷”の内容が違ってくる。 ☆ 22. 《ジョウシキ》が間違っている。と問うています。 23. 主体ないし主体性の問題でもある。 24. あるいは ふるいナラハシとしては 相手と自分とが 未分化の状態において起きる錯覚である。主体性が確立されていないという意味である。 25. 《心が傷つく》をめぐる現行のジョウシキは まだ人間になっていない〔状態にある人間が考えた世界認識の一部である〕。 わいわいえいとさん ありがとう。