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平和外交と日本:世界平和を実現するための哲学的立場
- 日本政府はなぜ平和憲法を持ちながら、世界に評価されたいと謳った憲法の精神で平和外交を展開してこなかったのか?
- 日本はアベノミクスの経済的危機の中で日米安保の核の傘の下で集団的自衛権を合憲として戦争も出来る普通の国になろうとしている。
- 日本は平和外交の手腕を磨かず、お金を撒くだけでは人気取りに過ぎない。しかし、このような状況が日本の平和外交の正念場であり、平和と調和した社会を実現するためにどのような哲学的立場を取るべきか考える必要がある。
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今晩は。自回答への反論です(笑) 集団的自衛権問題は、それを認める国連憲章と日本憲法との齟齬から来てますね。カントに即して本来的に解決するには、各国が武力放棄して国連軍を創設するのが筋です。 今のアメリカ主体の連合軍では必ず反感消えませんので。 本来は日本の外交はそれを目指すべきです。 しかし極東と中東は紛争残り、そうも言ってられません。一方で憲法9条は簡単には変らないでしょう。 一般に、個人も集団も必ず自衛権を行使します。例えば海岸からテロリストが上陸して侵攻してきた時、これからも起り得るでしょう。拉致事件は本来、海保や警察や公安が防衛すべき事案で軍隊出動する類の事ではないでしょうが、公安は殆ど動かなかった体たらく。オム真理狂の時など共産党なんぞを警戒してたマヌケさ加減! これも冷戦時代から思考停止してるからそう為りました。 一方、国軍というのは国民を守りません。機会があれば守る時もありますが、先ず国体と施設防衛が作戦上優先されます。すると個人はどう自衛しますか? 平和主義者であろうが殆どの人は反射的に防衛反応します、中には敵殺害する事もあるでしょう。 国内法で交戦規定が無いと刑法の殺人罪になります。それで良いのか? 先日「憲法9条との兼ね合いでハーグ陸戦条約は・・」という質問をしました。その中で<第一章第2条の、交戦者の資格、で<正規軍ではなく)・・民であっても、敵の接近にあたり第1条に従って編成する暇なく、侵入軍隊に抗敵するため自ら兵器を操る者が公然と兵器を携帯し、かつ戦争の法規慣例を遵守する場合はこれを交戦者と認める。>民兵・義勇兵等にも適用との事 です。これなら9条2の国の交戦権放棄の条項下でも自衛行為が可能なはずです。無論、法整備は必要だけど。 ハーグ条約43条を挙げて、現行憲法は条約違反だと現在も主張する改憲論者は多いので今でも有効な国際法なのでしょう。でも改憲できないのなら、国防を語る保守はこの事をまじめに考えるべきですね。殆どが改憲が先にあって、現実の自衛など考えてないのです。 いざと言う時は必ず自衛の抵抗しますよ皆さん。無抵抗のはずが無い。 無抵抗・非暴力というのは優れて政治的な運動に限定されます。確かに抑止の力能は有す。 アメリカの同盟国であってもテロリストは日本を狙わない。やろうと思えば簡単な国です、リスク管理なんかザルですから。サイバーテロだって赤子の手ひねりでしょう。 やらないのは原爆や被災で同情もあるけど、非武装の国だからとも言われてますよ。 普通の国軍になったら誰も同情しないね多分。 しかし、ガンジーやMLキング牧師の無抵抗の行進。絶大な力は有りましたし感動もするけど、あれは必ず暴力も呼び込みます。Vulnerability=いじめられ易さ、パソコンの脆弱性とかでも使われる概念。悲しいかな、一部の人間の攻撃性を却って呼び込むのです、実際殺害されました。運動には危険な熱狂が付き物なので、日本憲法とは効果が違いますが、やはり無抵抗は人民を納得させないでしょう。 仮想敵国にはPreface=面と向かっては、矛を収め、同時に盾は磨いて置く!矛盾ですが、、両方必要なのでは? 国軍力だけを高めようとする勢力は残念だけど冷戦の思考です。対テロの時代はそんなモノでは防げません。戦場の位相が変ったのです。それで米軍も苦労しました。情報戦と機動力、Chinaだってそれやってますよ。 かつて殺られた側はいつまでも覚えてます無意識に怯えてます。{敵も恐がってる!}ことをすぐ忘れるんですね、かつての加害者は。日本は負けたのだから只の加害者でもないのだけど、。 中韓は無意識に日本が恐いのです、だからあれだけ吠えるんだよ。イスラエルも同じ、被害者の心情は長く続くと言われます。 だからと言って、彼の国の横暴や犯罪を赦すべきではないのは言うまでもありません。 あとやたら勇ましい政治家;自分は戦場行かないヤツ、こやつらがシビリアンコントロール出来る訳も資格も無い! むしろリベラルなミリタリアンによるコントロールが必要です。山本五十六や、パウエル長官;唯一イラク侵攻に反対して弱腰呼ばわりされたけど、結局正しかったでしょう! 勇ましい脳筋は軍事には不向きです。 戦後、最終戦争論を出した関東軍の石原莞爾や、大物右翼コーラン翻訳家の大川周明を御存知ですか? 彼らが存命だったら、Hateスピーチとかには怒り狂うと思いますよ。彼らはChinaを憎んで戦ったわけでは御座いませんから。戦前の右翼はも少し気概と礼節が有りました。今のはなん茶って保守です、金髪も居ますから。英霊も怒ってるでしょう。 あと今後、無人兵器が重用されるでしょうが、これはアイザックアシモフのロボット3原則違反です。私は無人機だけには殺されたくありません!しかも誤爆!(と言うかターゲットは正確でも大雑把)。まだ人に殺られる方がマシ。実際アフガンで何人も殺されてますね。無念でしょうに! 平和主義者の方は仕方なくでも無人機を支持するか知らん? これらを避ける為にも、かつては美しい戦争も有った事は喧伝して置きたい処です。チャーチルや司馬遼も言ってました。戦争愛? さらに言えば、戦争はシロート国軍兵士Soldier(直ぐptsdになる)ではなく‘戦士Warrior’が担うべき事象です。 以上が哲学立場からの私見です。
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- hokekyou333
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私のハンドルネームをホケキョウ333としたのは、法華経という仏教の壮大なスケールの寓話から、現代人のこころにとって必須の「妙法蓮華経」という五文字を現代人の心の宝塔として取り出したことに謙虚な気持ちになれたからです。 つまり私は日蓮大聖人を信じている者としてこの回答を書き始めているということになります。 さて、人の命を守るビジョンのうちの《「「パワーポリティックス」」の必要性、価値的な面については、あるいはその重要性》については質問者様はどのようにお考えなのでしょうか? 私はパワーポリティックスの重要性はけして低くは無いと思っています。 ただ、パワーポリティックスはパワーポリティックスを目的としてしまい肝心の「人の命」を守るビジョンの目的をはずれて近視眼となってしまいがちな危険を内包している点から、気がかりな発言が多く聞かれることは確かです。 しかし、目的を忘れないのであれば、それは必須ビジョンの一つであり、かつその中での経済効果も私は否定していませんし、その経済目的もしっかりした平和と命を守る人間としての闘いの一環になっているというのならば、それをむしろ応援さへしたい者です。 ですが、 まず、ここに心の問題としては、すぐに考えられるのが「自我」の問題なのです。 上記の近視眼的な危険も、その自我による人間的な広がりを消してしまうような心が遠因となり引き金ともなっている点を見逃さないでください。 例えば、パワーポリティックスの重要性を語る人たちは、しっかりした考えの人が多いと感じるのですが、 だからといって、彼らが一番「人の命」を守る心が深いかどうかは言えないわけです。 いえ、深いのかもしれませんよ。 ただ、それ以上の平和へのビジョン、パワーポリティックス以後の世界の模索については、そこまでは無理と責任を回避するような頭の構造になっているのでしょう。 私がここで言いたいのは、 集団的自衛権についても、そのパワーポリティックスとしての価値と、その反対の「不信の因のみ」となる面すべてを分析しての国民論議になっていない点、といった細かい論議ではなく(勿論、それも大事ですが) おそらく質問者様と同様の考えなのでしょうが、 では「誰がどのように猫の首に鈴をかけるのか?」という大局的な問題なのです。 猫の被害にあって困っていたネズミどうしの大議論の末に「そうだ猫の首に鈴をつければ、誰もが猫が近くに来たことを知ることが出来るので危険を避けることが出来る」という意見に全員が大賛成となった寓話ですね。 すると一人の賢人が「では、誰が猫の首に鈴をつけるのか」と言って誰もそれに答えられなかったという落ち^^がミソの寓話です。 ここでは、 「誰が」というのは「どのような人が」という意味で、さらに言えば「どのような哲学をもった人物が」というふうに絞られた意味となります。 「どのように」というのは、「具体的にどのような方法で」ということになるかと思います。 ではいったい、 重要な実例の一つ領土問題を例えにあげれば、家と家との境界線の争いで地図と槍を持って争いたった一本の小さな境界線の杭のまえで命を落としたふたりの主人のまえに風がただヒューととおりすぎていっただけ^^というここげ作った寓話に例えるなら、その杭のまえで、そんな争いをしなくすむ脳にまで二人の主人の心が成長するのを待って、その杭の位置は無駄な争いを避けるべく、保留にしておこうという判断が、ベストでは無くてもベターだという考えに、今現在落ち着いているとしてです、 このままでは、大切な命にとっては、けして安定は訪れず未来に負の遺産を残したままとはなるところ、 どうにかしたいと思うならば、 その猫の首にあたる、領土問題完全解決法をいったい誰が、双方の狭い心になりきってしまっている怖い「無明の心」の首にかけることが出来るのか、誰も答えられないでしょ、答えていないでしょ、という問題、 であるわけですが、ではいったい 《どうしたら、いいのでしょう?》ということです。 「パワーポリティックスを実際行使せずに済ませる」という命題は、パワーポリティックスの重要性を意識出来ている人にとっても、それを掲げず持たずに、無抵抗主義の平和主義というもう一つの戦争抑止力の重要面は、今のままの憲法であるからこそと主張する人たちも、同じ願いであるはず、 では《、具体的にどうしたら、いいのでしょう?》 一つの大きな考えは、資本主義社会をはるかに信頼のできるビジネスの仕組みに進化させて、そこで経済発展の試作をどんどん進めてゆくという形で、貧困をなくしてゆく努力の流れに世界中を巻き込むことです。 その一策としてならば、ばらまきも効果は大きくなりえます。 投資にしても、質的に変化がおこり、賭けの要素は価値と信頼によって減ってゆく形になるでしょう。 でも、これをただ社会法によって実現できると考えたら甘いのです。 仏教でも語っている「元本の無明の心」、この文明人の陥っている脳構造が問題となってしまうということなのです。 「自由、平等、博愛」という人類の理想をどう思われますか? よく考えてみてください。 自由と平等の実現こそ博愛であるわけですよね。 でも、自由と平等は、互いに矛盾していますよね。 とすると(こ、ここまで急いで書いてますが、意味ついてこれてますか。ここはこのまま先を進めますが、重要なところなので解らない点など質問してください) その自由と平等の矛盾をまず克服する知恵が博愛ということになるはずでしょ。 でもいつまでも「自由、平等、博愛」という3つの言葉を並列に掲げ続けているということ自体が、そのことへの真剣さを社会法学者自体が忘れていることを意味していると思えてしかたがないのですが、 これ質問者様はどう思われますか? まさに質問者様のお考えの様に(まだ詳しくは知りませんが)心こそ鍵ではあるわけです。 ですが、 実体の真剣な苦悩の闘いを忘れて、卓上の思索のみの言葉で理想を掲げても、そんな心ではとても猫の首に鈴をつける力は生まれないということです。 仏法で語る十界は、地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界、人界、天界の6道と4聖とも呼ばれているあと四つの界の十に人の心の中を分けているのですが、その分け方自体は現代から見るとあまりにも雑多幼稚に見えますよね。 でもそれを壮大な輪廻叙事詩の中での境涯の因果論として語る時、それはやはり昔の人の知恵の世界の深い光を内包した思想のひとつであることが浮かび上がってくるところとなります。 博愛の真剣さがなかなか実現しないのも、これは4聖のうちの菩薩界と仏界の間にある宇宙の塵ほどの数と例えられている塵じゃ惑として描写されているところもののです。 十界論では、さらに十界互具論として、そのあたり自体を現実の境涯の実態の苦悩の奥の問題として、さらに哲学するものに示唆を与え続ける形となっていて、 そのあとにある百界千如の哲学は、これも現代のマーケティング哲学などからみれば、なんともおそまつな十如是が、百×千で千如ともなっているところ、 実はこの十如是が、最後の仏界「妙法蓮華経」というたった五文字の意味に照らすと、現代マーケティングでの意思決定論の知恵を越えた意思決定の在り方を示す深さを生み出すところとなるのです。 こんなふうに組み立てられた世界、表向きは単なる寓話であってもこれこそバカにできる世界ではないです。 今ここに肝心の「妙法蓮華経」の五文字の意味合いとその信心の意味の深さを語る紙数は無く残念なのですが、 私自身は、たった五文字だからこそ、言葉のエントロピー(まだ知ったばかりの言葉で使い方間違ってるかもしれませんが^^)を食い止め、文明人の論理脳へのかたよりを回復させる最大の効果をもった言葉というふうに哲学的に理解していて、今ではそれを信仰する価値も哲学している者なのです。 ただ、昔の寓話のままそれを哲学する現代人としての責務を忘れて広めるとこれは危険なのです。詳しくお話出来ずに残念です。 でも、このいにしえの哲学の中にこそ、私は猫の首に鈴をつける、仏心による社会法を越えた知恵とパワーがあると思っているのです。 日蓮大聖人の信徒の一人からの回答を書いてみました。 書き切れない無念の想いがありますが、すこしでも参考になればと思います。 ここは以上とさせていただきます。 はなはだ無念ですが^^…、…、…。
- wiz0621
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A NO.3です。 人の合意を得れば、後はおのずと開けていく。 全く、その通りであると思います。 そして、その合意を得るにはいかにすべきか、という点を 前の回答で記させていただきました。片方が仮に誤りを認める にしても、それには客観的な証拠が必要となるのです。 つまり、実績が必要なのです。 戦争では人が変わらないとしても、戦争は今なお現実に起きています。 我々が内側に篭って安穏とお題目を唱えている間にも、 殺され続けている人々がいます。 事実として、今なお人が死んでいるのです。彼らを救うには つまり、実績が必要なのです。 人の精神が変わるとして、そのきっかけは何かを考えるべきなのです。 安全な地域にこもり、他者は愚かだと罵り続けることで、 平和は訪れることは絶対にありません。 一方は全く誤りの無い、一方は全くの誤りである。 こんなものは、合意ではなく既に無知なものの単なる押し付けで あるとしか捉えられないのです。まして、現時点で戦争の被害を 受けていない人間が口にするのであればなおさらです。 過去に被害を受けた、という場合であっても、それが 集団的自衛権により救われた以上、まったく正しさを示さないでしょうね。 人の精神が自身を修正するのであれば、必要なものは、気付きを与えるような、 それまでの『誤った思想』を覆すような事実のみなのです。 つまり、実績が必要なのです。 集団的自衛権の思想は、事実として虐げられた人々を救いました。 それでもなお、『思想として新しい精神をもつこと』がさらに人を救うということが 示されるのであれば、、私のみならず、世界の人々も喜んで協力するでしょう。 そのためにも、古い観念が誤りで、その新しい精神が誤りではないことを 客観的に示す必要があるのです。 つまり、実績として、それを示す必要があるのです。 実際、集団的自衛権は先日の紛争を未然に終結させましたよね。 実績を挙げてしまっているのです。 こうしている間にも、どんどん人が救われています。 事実が示されている以上、その正しさを人々は認識していくのです。 しかし、集団的自衛権を否定し、平和を唱えるというその思想は、 なんら実績をあげていない。もちろん、それで戦争が止まれば人々はその正しさに 気付くのでしょうが、現実に、題目を唱えるだけでは人々は虐げられ、 人が虐殺されていく瞬間を目の当たりにしていけば 精神はその思想から離れていくでしょう。 逆に言えば、単に実績を示すだけでよいのです。 今起きている戦争をひとつとめて見せる。 これは集団的自衛権の思想が今まで幾度と無く示したことですが もし、集団的自衛権の思想より優れた考えであるというならば、まったく簡単な事でしょう。 こんな簡単な事で、その考えが正しいことを簡単に示せると言っているのです。 人々の精神を一度に革新させることもできますよ?
お礼
私は平和な精神を実現する為に思想を考え出しました。 ここでは宣伝とみなされるので紹介できません 存在性・・ です 集団的自衛権が戦争を防いでるという実績があると言う事はまず認めましょう しかしだからと言って世界中の国すべてが集団的自衛権を持たなければ成らないとは限りません 他のやり方も在ると思うのです 個性です 思想の自由です 日本と言う国は今まで 貧しい国にお金を円借款して戦争を防いで来たのではないでしょうか? そしてドイツと同じく第二次の敗戦国として戦争を反省し平和を希求し また平和を享受して来た国です 言ってみれば平和の伝道者に成って良いような国です しかしながら学生運動で燃え尽きて平和の研究が十分なされてきませんでした 平和哲学も平和思想も根付いていません。むしろ軍が必要だと考えるようになりました。 日本の個性は平和に経済発展していく 経済で世界を潤す と言う方向が良いと思います。(経済を強調してるのではないです) 存在性・・よろしく^^ どうもありがとうございます☆
- simonmagus
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現在、先進国の中で全面的な戦争を希求している国家は一つと ぢてないと断言できます。 それは二回の大戦を経験して得た結果が全面戦争は消耗戦であり 、自国の経済的疲弊と不毛な人的資源の喪失を招く以外の何物で もないことを学んだからでありましょう。 いや米国はただ一つの超大国にしていまだ戦争を繰り返しているで はないかと仰る人はいるでしょうが、米国にとってはイラクやシリア との戦争は軽い紛争程度の打撃にしか思わないの小。 米ソ二大国に別れた東西冷戦の時にも米ソは決して全面戦争を互い に仕掛けれることなく終結しております。 おそらく中国とも尖閣諸島で日本と小競り合いになったとしても日中 と米国はそれぞれの思惑で全面戦争など起こさないでしょう。 だから恒久平和は達成されたかというとそうではありません。 現在の平和は国際連合(本当は連合国)という核兵器を保有した戦勝 国の支配体制に過ぎないのです。 ですから、その秩序を乱すような国家(イラク・イラン・シリア・北朝鮮など) が出現すると国連決議において制裁という名の武力介入が試みられます。 国連安保常任理国である五大国は武器輸出国でもあり、局地的な紛争 や内乱、あるいは反目しあう小さな国同士など世界に何の問題もない 状態になれば大いに困ることになります。 世界市場で独占的に利益を得る品目と言えば武器と麻薬、これは近代 以降ずっと同じなのです。 ええ、やくざと何ら変わりません。イギリスと清国の戦争の頃から何も 人々は変わってはいないのです。 そして哲学では決して克服できない現実があります。 先進諸国は戦争を欲しない。現体制の国連による秩序を維持できれば。 では次に戦争を誘発するものは何でしょうか? 2009年度という少し古いデータですが世界の飢餓人口は9億2500万人。 当時の7人に1人が飢えていることになります。 アジア・太平洋地域 5億7,800万人 サハラ砂漠以南のアフリカ 2億3,900万人 中南米 5,300万人中東・北アフリカ 3,700万人。 現在の世界人口は70億を突破しております。 飢餓人口は10億を超えて15億に達しているのではないかと言われてい ますが2009年度よりデータは更新されていません。 さて、これらの飢えている国の大半は発展途上国と呼ばれている国々 ですが、何十年前に作られたこの言葉には大嘘です。 一向に発展しない出来ない、インフラの整備なんて夢のまた夢という段階 で止まったままなのです。 地球上すべての人々が平均的米国人の生活をするには、地球がもう 一個必要になると言われています。 中国が少し経済発展をしただけで旺盛な食欲を満たすために一部の 資源が枯渇する有様なんです。 先進諸国は決してこれ以上の人口爆発を望まないでしょう。 戦争を仕掛ける者はいつも貧しい側からです。 第二次大戦のドイツも日本もそうです。 さて飢餓状態の国々が先進国や隣国に戦争を仕掛けたとして、それを 悪だと誰が断定出来るでしょう。 地球という限りある部隊の中でのパイの取り合いは、核戦争など破滅的 な戦争を抑止出来ても地域的な紛争の根絶は容易なものではないのです。 飢えという根源的な欲求を満たさない限り、哲学は無力です。 世界にはカントもヘーゲルもニーチェも知らない何億の民がいるのですから。 もし日本のテレビで酪農家が牛に穀物を与えている場面を飢えた国々の 人達が見たら「ああ。日本の牛に生まれ変わりたい。」と涙するでしょう。 先進国の牛や豚以下の生活を強いられる彼らの絶望は誰にも救う ことが出来ないのです。 資源の少ない日本は先進国的生活を維持するためにはシーレーン防衛 は自国で賄えるくらいの武力を保有しなければ海上封鎖一つで たちまち飢える国に転落する現実を知ってください。 また戦争だけではなく戦争準備のための軍事研究などが科学の発展に 寄与したことは明白で、抗生物質・インターネット・サランラップ(すいませ ん。他にもたくさんあるのですがすぐに思い出せません)など現在何気な く日常に使っているものにも多数存在します。 だから戦争は必要などと短絡的なことは申しません。 しかし、その便利や人類に役立つ品々は過去の戦争の遺品のような ものだと言う事は我々は決して忘れてはならないでしょう。
お礼
戦争を望んでる人は少ないでしょう でしょうが 居るには居ると思います 戦争をしてでも自国を発展させたいとおもう人が居ると思います アメリカ議会で、化学兵器の使用と言う建前で投票したら 半分近くの議員が戦争をするべきと答えました ソマリアの様な貧しい国も海賊してでも生き延びようと 戦争のようなことをします。 我々はそれをしなくて済む様に貧国や強国をコントロールしなければ成りません。 誰か傑出した人物が 国連で名演説を打ち上げて 戦争をしない方法を世界に説得しなければなりません 戦争なんかしたって問題は解決するどころか 泥沼化するだけです。 戦争の時代は終ってるのです 第二次世界大戦で終わりにしなくてはならない 朝鮮戦争やベトナム戦争は悲惨でした。 その朝鮮民族やベトナムを軽く見ている偏差値60の日本が居る 日本は原爆の歌を思い出すべきです 沖縄戦 絨毯爆撃を 思い出し再認識すべきです。 日本だから出来る事が在る それが平和憲法に書いてある ちょっと本題からずれたかもですが どうも大変ありがとうございました。
- からあげ ミームン(@marc2bolanti)
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こんにちはお邪魔します。 戦争も外交手段の一つ>、クラウセヴィッツの戦争論ですね。 これは、戦争装置を駆動するのも抑止するのも、政治・経済・地理的要因が優先して働く。という事です。外交政治がダメなら戦争しちゃえ!という事では無いはずです。あくまで戦争は政治に従属してるからこそ、政治形態が独裁的に為ったりすると、その政治を軍が代替してしまうという意味でしょう。 仰るように「人の命を手段と見做してはイケナイ!」カントの定言命令です、人命は手段でなく目的ソノモノという事。 カントの「永遠平和のために」が第一次W・WAR後の国際連盟を生み出したのは周知の事ですし、2ndWAR後の、日本国憲法と国連憲章もその反映ですね。この二つは対で捉えねばなりませぬ。どちらも平和主義。憲章2条3・4項は紛争の解決は平和的に、、武力使用は慎むべし>と記されてますが、それは[原則]でしかないのです。 カントの理念は、世界共和国まで行き着きますが、長い道のり暫定的には連合国の協議を代替と認めてます。 そこで御出ましなのが集団的自衛です。同書では国家の常備軍の全廃が目指されてますが、個々の自衛権と武装は認めてます。これが今の国連の理念ですね。 だから日本の平和外交は、国連改革=ほんとの世界共和制を目指す努力をするべきでしょう。 今のは只の戦勝国連合ですから。 <平和>とは何でしょう?「戦争と戦争の間に過ぎない」ニーチェでしたか? 相対平和ですね。それは誰かが言うような「理想主義」では全く無いですね、只の退屈な現実です、リアリズム。 だから統制的理念としての「絶対平和」をカントは提出したのです。本人も実現するとは思ってない!それがアレヨで、国連が瓢箪から駒で出現しちまった! これを「歴史の狡知」ヘーゲル)というのでしょう。様々陣営の思惑超えて、民衆の無意識が実現してしまう事がある。歴史の理性とはそれ程オトロシーモノです。 戦後の日本の安定は、安保と平和憲法:その両輪で成り立ってます。どちらか一方だと決定する根拠は無いですね。両陣営が相変わらず言い合ってますが、思考停止です。自分の為にする議論に過ぎない。その判定を哲学にお求めなのは良いアイデアだと思います。 ヤクザの伝統的手打ち式では丸腰なの御存知ですか? ゲーム理論で言ってもそれが理に適うからです。つまり非武装も武力への抑止力を持つ!という事。ほんとに軍事を知ってる者には常識ですけどね、ストリート者や暴族でも。講和の時って必ず来るでしょう? 残念ながら自衛隊は実戦経験無しなので何とも言えませんが。勇ましいだけの人は多分戦闘を知らないんでしょうね、ExitStrategyを無視する武人は実戦では使えませんよ。ネオコンみたいに自分は兵役逃れした輩ばかりが吠えまくる、弱い犬のよう。 日本は普通の国ではないです。聖徳太子の憲法以来、和平的ですね。全十七条は行政官への規制として書かれたけどその点でも近代法を先取りしてます、素晴らしい神仏の国です。間違ってはイケナイ。 帝が武力的存在に押し上げられたのは、後醍醐天皇と皇子の時と、明治以降、いずれも失敗しました。大和心・手弱女ぶりに反するから。戦は武人がするべき事です。だから大御心を大切にするのが本当の保守なのです。 しかし一方これは、国内での事情です。 日本ヤクザがチャイナマフィアと新宿で手打ち式に臨んだ時も丸腰で行きましたが、、通用しません、銃ぶっ放されました。 ですから国際紛争では両輪の一方の、自衛の武装も必須なんです。 長くなりましたので、続きは又の機会にします。
お礼
なるほどカントの「永遠平和のために」の精神 聖徳太子の和の憲法 ヤクザの手打ち式と 人間はどこかで歯止めを利かし 和平を望むものだと思いました もし良かったら続きをお願いします どうも大変ありがとうございます☆
>外交的には日米安保の核の傘の中で 集団的自衛権を合憲として 日本を戦争も出来る普通の国にしてしまおうとしています ばかげたことをしようとしている、とわたしも思います。 平和のために戦争せねばならない、というのは明らかに矛盾です。平和は最終目的であり必要条件です。平和なまま平和を獲得せねばならないのです。 今日本が相当な武力を持ってしまっていることは確かですが、これを最悪でも現状維持にして、未来的には縮小する方向へ持っていかねばならないということでしょう。そのために現状の多国間安保協定を最大限利用することは必要だと思いますが、これを強化して周辺国に脅威を与えることがあってはならないと私は考えます。集団的自衛権を認めるのは明らかな退歩です。 戦争の危険性を下げるには相手国を信用する以外にはありませんから、自国の武力を強化することは出来ません。確かにこれは危険が伴いますが、それ以外に平和を獲得する方法はありません。 あべがやりはじめていることは周辺国への不信を高める方向です。これでは相手が離れていっても仕方が無いですね。世界に対する平和外交にはなっていません。アメリカは世界最大の軍事国家ですから、日本が彼らに振り回されるのは当然です。対抗するのでなく、可能な限り利用して平和を導く方向へ持っていくべきです。ここで重要なのは平和の為には一国のプライドは押さえネバなら無い時もあるということでしょう。誇りを守って玉砕するという昔の馬鹿なことを繰り返してはならないと思いますよ。日本一国で強大な他国と張り合うような時代ではなくなっているということもあります。 中国や韓国、北朝鮮、はてはロシアの軍事力の誇示を甘く見てもいけませんが、その奥にある意図を冷静に見つめて平和裏に収めていくことは可能だとわたしは思います。基本的に彼らの日本本土(沖縄も含めて)への侵攻はありえないし不可能なことだということを知らねばなりません。そういうことが出来ない時代になっています。 最悪でも、占領出来るのならしてみろ、そっちが得るものは何がある!?という捨て身の態度で粘り強く平和攻勢をかける度量が必要だと思います。少なくとも、世界でもユニークな今の憲法九条の理念を捨ててはならないと思います。日本はまだまだ経済的にも文化的にも世界に冠たる大国です。これを利用して平和外交に徹することは私は可能だと思います。世界の将来を見据えた政治家の責任感と覚悟の問題でしょう。 私見ですがご参考になれば。
お礼
素晴らしいご意見だと私は思いますがね 戦力の競争をするのか 平和を作り出す競争をするのか その結果得るものはどちらが多いか それは明らかに平和裏に人々が和解する方だと思います 戦争などしたら大損害です 9.11とイラク戦争で それは明らかだと思います。 どうも大変ありがとうございます。
- hekiyu
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”世界に平和外交を展開してこなかったのでしょうか?” ↑ やってきましたよ。 そのお陰で、日本はドイツと並び、いつも世界で最も 尊敬できる国に選ばれて来ました。 ただ、武力を持たない、行使しない国なので説得力を 持たず、世界平和に何も貢献出来なかっただけです。 ”そんなにアメリカが怖ろしいのでしょうか” ↑ 占領中に米国が造った憲法を押しつけられましたが、 その後朝鮮戦争が起こるや、米国に命じられて 警察予備隊を造り、自衛隊となりました。 米国が怖いので軍隊を造った訳です。 ”イスラエル・パレスチナにしても各国の内戦にしても 日本と中・韓・北朝との和解についても 平和外交の手腕を磨かないのでしょうか 今までにやって置くべきだった” ↑ 日本は軍隊を持たない、という建前の国です。 だけど軍事力は必要です。 それで国防を米国に委ねました。 国家の根幹である国防を米国に委ねたので 米国の顔色をうかがう外交しか出来なくなった のです。 自分で自分の事が決められない国家になって しまいました。 北みたいなショボイ国に国民を拉致されても 何も出来ない国になってしまったのです。 ”ここが日本の平和外交の正念場と思えるいのですが 哲学の立場からどの様な事が言えるでしょうか?” ↑ 軍事力を持たない国が何を言っても、世界は聞く耳を 持ちません。 つまりです。 平和外交を実効あらしめる為には、軍事力が必要であり 軍事力を持てば、平和から遠ざかる、ということに なります。 又、国民を拉致されても何も出来ない国に、世界平和を 謳う資格は無いでしょう。 家族を飢えさせて、ボランテアに励むようなものです。 ”平和を実現して 調和した活気ある社会を実現する事を? ” ↑ 平和が実現したら、活気ある社会にはなれないでしょう。 原始以来、人は常に競い合い、凌ぎ合い、いのちを賭けて戦った。 その闘争本能と生存本能のせめぎあいの中で、人は知能を磨き 力を養い、心と体を鍛え、 一面で道徳律を築き上げた。 その結果、文明が築かれ 文化が創られた。
お礼
何でも力関係で考えるのでは 人間性の名折れです 道理や道徳 正義(共通した)和解 調和を求めてこそ 人間の人間たる面目があります。 困難だからと言って諦めたら また戦争が起こりかねません 日本も心底後悔し 各国も苦渋を舐めて来た戦争を亡くす為に 戦争の異常さを我々は認識すべきです 大切な命が虫けら同然に奪われるのです。考えてみて下さい。 どうもありがとうございます。
- wiz0621
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国と国とはそれぞれ本来的には対等な人格です。 外交とは、国を人格とみなせば他人とのお付き合いなわけです。 これは言葉としては簡単ですが、対等であるが故に 一方が『私の考えの方が優れている!』と主張したところで、 その根拠が無ければ、全く信憑性を持たないですよね。 ええ、もちろんその考えは確かに正しいのでしょう。 美しく聞こえるかも知れない。ただ、一言付け加えるとすれば、 『あなたにとっては』なのです。 一見いくら正しく見えても、それは一方が経験した範囲のお話に過ぎないのです。 相手は全く別の経験をしており、『正しい考え』の誤りや機能不全を いやというほど経験しているかもしれない。 結果として、『正しい考え』を単に声高に主張した方は、 経験不足や無知を謗られ、信用を失うだけになってしまいます。 対等な人格の付き合いというものは、相手の知の可能性を認めること。 つまり相手が正しい可能性を認めるということでもあります。 それでもなお、『正しい考え』を広めるにはどうすればよいのか。 とても簡単なことで、問題を解決した実績を示せば良いのです。 相手が求めるものは何か。問題の解決です。 今までの歴史の中で、『正しい考え』を実行することによって 相手が抱える問題を解決できるのであれば、採用を検討するでしょう。 もちろん、相手はさらに『正しい考え』の誤りを指摘するかもしれない。 この場合は、『正しい考え』を補強すればよいのです。 最悪な態度は、『それでもどう考えても正しいのだ!』なんて突っぱねることで、 実際に起きた問題を解決できていないのであれば、それはもはや 単なる独りよがりで、考えを押し付けたいだけの話になってしまいますよね。 つまり押し付けず、共感を引き出すものが『外交』であるのです。 お互いの理念が共有できたときに、初めて 個人間では『約束』、国家間では『条約』が結ばれます。 (ちなみに条約の文章はほぼかならず『理念』の記載からスタートしていますので、 そこをチェックしてみると考え方の参考になると思いますよ) では、ちょいと現実に立ち戻って論点整理を。 そもそもカント(永遠の平和のために)以来、実は『平和主義』の理念は共有できているのです。 どの条約にも平和を賛美する言葉が溢れており、なおかつ国際社会において、 侵略行為は基本的に違法とされています。 しかし、不干渉主義が第二次大戦の引き金となってしまった。この事実は動かせないのです。 これ以外にも武力侵略を受け、助けを求める人々がいたのです。 彼らを見捨てることが正しいのでしょうか? 彼らを見捨てる平和というのも、確かにあるのでしょう。 ですが、国際社会は見捨てない平和をお互いに考えたのです。 こうした平和を希求する精神から、『集団的自衛権』の発想は生まれています。 確かに発案当初は抜け穴の多い規定でもありましたが、 近年は新たに『必要性・均衡性・犠牲者の宣言・援助要請』が必要、といったように 実際の侵略事件の解決方法を模索する中で、『集団的自衛権』の理念は 多くの考えを『外交』によって取り入れ、精度を上げ続けているのです。 平和主義は唱えるものではなく、実践するものです。 そして国際社会は実際に『起きてしまった戦争』を解決する方法として こういった社会制度を『外交』よって導き出した経緯がある、ということなのです。 もし、質問者さんがこれまでの『外交』を否定するのであれば、 やはり実際に仲間を殺され続けていた他国の人々に対し、説得力のある解決方法を 提示すれば万事解決です。即座に平和が実現されるでしょう。 相手が話を聞かないとすれば、それは相手の理解が足りないのではなく、 やはり親兄弟が殺される最中でも、理念のみではその破壊を止められなかった という実際の事件を経験しているせいなのではないでしょうか。 『どう考えても私は正しいし、解決する!』なんて態度では、 前述のように逆に信用を失ってしまうのです。 どうすればよいか? いままで起きていた破壊兵器による殺戮や破壊を、よりスマートに解決した実績があれば みなさん話を聞いてくれるんじゃないでしょうか。 誠に残念なことに、一部の国では現在も殺戮は続いているのです。 これを”実際に”解決して見せることで、 『集団的自衛権』なんて旧世代の考えは吹き飛ばせると思うのです。 ただ、これができない場合は、人を救うことに実績を挙げている、『外交』の成果、 集団的自衛権による平和の実現という国際社会の結論を受け入れるか、 あるいはもっと精度を上げる作業に参加したほうがいいんじゃないでしょうか?
お礼
正義の事で言えば 人間が本来は同じ目的を持つものであり 宗教もそう言いたいのでですが それが通じないと言うことです そこで私は考えに考えてある思想を考え出しました それを皆で理解し 人間の合意を得れば 後はおのずと開けていくでしょう 人間は戦争では変わらないと言う事が分るように思います 人間は精神(心)から変わって来るのです。 日本で平和教育はなされているでしょうか? 受験だ塾だ東進だと 偏差値にかまけて忘れられていないでしょうか? 世界を変えるのは新しい精神だと哲学は訴えるべきではないでしょうか どうもありがとうございます。
- dropyork
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夢想なことは言わない。防衛云々の好戦的にもならない。 アンポンタンに見ない。
お礼
意味がよく分かりませんが どうもでした。
- Masami_Fujii
- ベストアンサー率9% (22/241)
日本の財産をつけ狙う居直り強盗と、何故和解しなければならないの? そんなもん哲学でも何でもない。共産党や民主党の妄言と 同じです。先の選挙で支持されなかったんだから、諦めて祖国へ帰りましょう。 民主主義国家であれば、納税者に報いなければならない。それだけの話です。 集団的自衛権は、自国を自力で護れるように変化をしているところです。 それを反対するという事は、やはり質問者は居直り強盗の類という事ですね。 それならば、家に鍵をかけないでください。それで空き巣に入られても文句を 言う資格はありません。まず隗よりはじめよ、つまりはそういう事です。
お礼
はぁ それはどうも・・・(^^ゞ
お礼
戦争と平和にも様々な要素があって 特に現代様々な要素があって 一概には言えないということのようですねえ。 ただ私が思うには戦争を止めるのは心だと。反米反日も心です。 靖国の英霊?と言うのも 実際には生きてる人の心ではないでしょうか? サイバー攻撃や核兵器 生物化学兵器 クラスター テロ これらを物理的に防ぐには限界があります 物は作るより壊す方が簡単です 人もそうです。 と言う事は現代人が心から変わっていかないと 戦争も解決しないのでは?と言うことです。 私は高校の時からこの世の不条理(戦争を含む)から子供達を守るにはと考えて来ました。 そして考え付いたのが存○性○想です(宣伝禁止) この考えを人々が理解し人間の目的が実は同じだと理解し その上で合意すれば世界は一つになって 戦争も必要なくなると思うのです。 それを書けなくて残念です どうも大変ありがとうございます☆
補足
堕落した文明人以上に怖ろしい野蛮人があるか?(チェンバレン)