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哲学に出来る事はないか?
前世紀末 21世紀は理想の時代かと思いましたが、なかなか言う様には行きません。 アメリカと中国 どちらが世界をリードしてゆくのか? アメリカは軍産複合体が25%と言うし。中国は韓国と北朝鮮の両方にパイプがあります。 アメリカが南北朝鮮を統一できるとは思えません イスラム教とキリスト教の問題もあるでしょう 人間の次なる存在の問題もあります。人間が進化するか ロボット、コンピュータ アンドロイドが増えていくか? 温暖化、人口爆発、戦争、資本主義の行き過ぎ アメリカや日本の多額の借金もあります。 憲法解釈、憲法改憲、教育の問題、少子高齢化、詐欺や借金、うつ病や自殺 この様な色々な問題の中で我々はここで何が出来るか? 人間ならば人間性がある、惻隠の情がある。存在目指して愛を持って知恵を絞るのが心の真実ではないでしょうか? こういう事なら出来るのではないかと言うアンサーを簡潔に表してください。 日頃思うことはありませんか?
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>この際ですから、出し惜しみなく持論を更に開陳して頂けると >この問の答えが深まるものと感じます。どうかよろしくお願いしますm(_ _)m ⇒幾分それるかも知れませんが、「共生問題」を添付いたします。 「共生社会の追求」 昨今、各方面でいわゆる共生問題を取沙汰する声がよく聞かれる。しかし、なぜ今「共生」なのであろうか。この術語(symbiosis)は、ほんの四半世紀前までは生物学分野の一専門用語でしかなかった。それが今や、福祉論・教育論・社会学・歴史学・経済学など、いろいろな分野の学術用語となり、研究主題、時に政策目的あるいは理想的な社会関係とさえみなされている。大学や市民講座などの講義科目となり、新聞・雑誌・テレビ・インターネットなどのメディアでも頻繁に取り上げられている。 今日、人間は、歴史上経験したことがないほど高次元の、しかも複雑に絡み合う関係のもとで、他者(他人・他国のみならず、自然環境をも含む自己以外のすべて)と交渉し、契約し、協定し、調整を図りながら「共に生きなければ」生きていけない状況下にある。すなわち現代は、共生を考えることなしに単独に生きること(例えば、仙人のような暮らしをすること)がまず不可能な時代になった、ということである。 したがって、直截に言うならば、共生を考えることは、「人間の生存や社会のあり方を考えることと同一次元の問題になった」と言えよう。それゆえ共生の研究は、我々一人一人が「相互に依存し合いながら」、人間として「他者と共に生きるための総合的人間学」である、とさえ言い得るのではないだろうか。 「我々は過去から積極的な指針は受取れなくても否定的な忠告は受取ることができる」という(オルテガ『大衆の反逆』)。オルテガのいうこの「否定的な忠告」とは、換言すれば「~してはならない」である。これを現代科学技術に当てはめると、「有害物を無害化できず、自然の循環ルートに乗らないものは排出してはならない」であり、「それができないなら元の活動を一時停止せよ」であろう。仲田直は、「他の生物や自然との共生では、人間のみが選択権(決定権)を持ってしまっている点が問題点の一つである」と主張する。木田元は、「これ以上豊かにも便利にもならなくていい。その思い切りを思想化することだ。この調子でいったら人類は自滅する」と警告する。このあたり、“There is nothing new under the sun.”(旧約聖書「伝道の書」)の感ひとしおである。今ここで我々の感じることは、おおむねすでに先人が指摘したとおりなのだ。 人間は自然を加工することで生存条件を得ている。人間が生きるためには自然が必要で、限りある自然を破壊してはならない。だからこそフルサイクルの循環型社会が求められる。同時に、それは人間の立場から見た自然保護であって、人類の功利的要請に従ったものであることを忘れてはならない。では、自然環境に対して我々はどんな関係に立つべきか。それを代弁するように下川雅弘は、自然保護について次のように述べている。 “人類が自然を保護しようとする最大の目的は何か。それは、地球に対するいとおしみや、生態系中の人類以外の生物たちに対するいつくしみというだけでは説明はつかず、多くの場合、他ならぬ人類にとって快適な環境を維持し、創出していくことこそがその目的なのではないのだろうか。(…)このような指摘は以前からなされており、「エコ」(=エコロジー: ecology)とは、人間の「エゴ」(=エゴイズム:egoism)であると揶揄されるなどはその代表例である。人類が環境を考える際に、最近特に繰り返し強調される自然との共生とは、言い換えれば人類がその一構成員として所属している生態系における自らの存在を自ら滅ぼさないために、常に生態系のバランスを念頭において思考し続けていかねばならないとする考え方である、と言えよう”。 地上のあらゆる場所で繰り返される様々な所業の結果、今や我々は「環境疎外」(環境による人間への疎外をいう。具体的には、人間の造った環境が人間に対して害を与えるようになり、人間とは疎遠なものとなった状況を指す)の憂き目に見舞われてしまった。これまで人間は、おめでたくも自然のためによいことをしているつもりだった。こういった意識を謙虚に反省し、誰のためでもない自分自身のために地球に優しい行為が求められているのだという事実を肝に銘じるべきである。 「環境は祖先からの遺産ではなく子孫からの借り物」(オーデュボン)であるという。現代文明の利便に浴しきっている我々は、未来を考える際、時に現在の自分を否定しなければならなくなってその葛藤に苦しむが、しかし自然環境との関係においては、今ここにいない人々をも視野に入れた行動上の配慮が求められることに疑いの余地はない。 科学が経済と結合して技術を生み、科学の総合化や再構築の要請を無視して、直線的な動きを続けてきた。公害はこの一方向的運動の継続の当然の帰結であった。まして、環境は現代に生きる我々だけのものではない。科学技術的進歩を一時凍結しても、死の灰・地球温暖化・オゾンホール・酸性雨など、負の科学的遺産の解決に全力をさし向けるべきではないだろうか。現下は、「進歩は二の次」とせねばならない時なのである。広角的な視野で現代社会を捉え直せば、否が応でも、可能な限り汚染状態を減らし、持続可能な社会経済を維持することが必須の条件となっている。そうしなければ生きられない時代に居合わせた我々の宿命的義務と言わねばならないのかも知れない。
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- Nakay702
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たびたびの「お礼コメント」をありがとうございました。 お書きくださった「人間の目的」について申しあげます。せっかくのお説ですが、失礼ながら私には理解不能でした。HPを参照しても分かりませんでした。 (1)術語の定義づけが示されていない。 (2)前提、分析、推論、論証がない。すなわち、起承転結の類が一切ない。 (3)つまり、お説やHPは、論文や報告文の体裁を成していない。それゆえに、主張の内容が分からず、理解のしようがない。強いて言えば、随筆的な印象です。 以上はないない尽くしでしたが、理解できる部分が皆無ではありません。 (1)作文として、特に文単位で見た場合には、分かるところもある。 (2)真摯な姿勢や心的態度であることは納得できる。人類の現状を憂えているという気持ちも理解できる。 (3)特に、随筆として読めば、人類の現在・未来の幸福を願っていることや、後から来る人たちのために心を砕いていることが感じられる。 ということで、yuniko99様のお説やHPは、論稿・仮説・報告文として評価することは難しいと思いますが、その心情・お気持ちはよく分かります。そして、何より、yuniko99さんご自身にこの上ない敬服・敬愛の情を禁じ得ません。 >ナカイさんにはまたお会いしたいものです。 ⇒ぜひ、お願いします。私も、「お呼び」がそう遠くはなさそうですので、ご縁があれば、「あちら」でもまたお会いしたいものです。
お礼
人間の目的に関しての感想ですね。それはHPも人間の目的を考えるHPではありませんし 感想に書いたのもイメージだけですので お分かりにならなくて当然です。 しかし分かって貰いたいという気持ちはあります。 ここで論を広げる訳にも行きませんし、間違いもあるかもしれませんが 早く言えば 人間でも、蟻ん子でも、金庫でも 存在しなければ話しにならない。存在する事が第一義の目的であり、価値であり、意味であり、正義なのです。 存在させる事が愛なのです。 存在、存続進化の先に目指すは永遠。我々は未来に向かって新たな存在を実現しようとしながらタスキを繋いでいく訳です。子孫に、また新たなる存在に。未来に向かって変化進化してゆくでしょうから どういう世界が実現するか あるいは崩壊するかはわかりませんが。 宇宙の存在への意志を私は見ます。(詩ですね)宇宙は崩壊するばかりではなく 集中、形成、組織化、意識化してゆくだろうと考えます。 その可能性に大きな役割を果たすのが 人間なのです。 人間の今までの苦しみや喜び、生きて働く営為は永遠の未来に向かって 因果律に乗りどこまでも影響していくのです。けして崩壊して熱死するものではありません。 私はある程度の自信があります。勿論これで分かってもらえるとは思いませんが アンドロイドとなろうと巨大コンピューターと成ろうとそれらが人間とともに、あるいは人間の後を継いでいってくれるでしょう。 行ける者よ逝けるものよ、全く未来に行けるものよ 悟りよ幸あれ。 どうも真に大変ありがとうございます。
- a_hona
- ベストアンサー率21% (95/444)
本当に思いやる人は、次のように思いやる。 おそらく、世界中のどこを探しても、苦悩していない人などいないだろう。お金持ちや、権力者も例外ではない。彼らには彼らの苦悩があるだろう。 故に、本当に思いやる人には敵が見出せない。 人々はついついやり過ぎる傾向にある。出来ないから、それを補おうとやり過ぎるのではない。得意である故に、(天狗になって)やり過ぎるのである。 この得意とするところのものを御するには、我執を知らなければならない。俺が俺が、という心が自らにある事を知らねばならない。 それを恥ずかしく寂しいことだと思うなら、彼はきっと御することを得るだろう。そうすれば焦ることはなくなる。 こんなことをしている間にも多くの人々の苦悩は進行している。そう思うのであろうが、しかし焦ってどうにかなるものではない。 怠けていてはならないが、焦ってもダメである。焦らず怠けず、真に得意を会得して、ゆっくりと歩まねばならない。
お礼
ゆっくりとですか・・・ 人を憎むというより、不条理を憎んでいます。 私が能力がないばっかりに 人一人助けることもできない 何で分かってくれないんだろう、何で考えてくれないんだろうと 憔悴しています。 嗚呼 何も出来なかったんだなあ 一生懸命考えたのに しかしa_honaさんに言っても申し訳ない 分かりました ゆっくりやります。・・・・・ どうもありがとうございます。
- a_hona
- ベストアンサー率21% (95/444)
質問者に聴く耳がなければどのような回答を集めたとしても無意味である。 回答者の逡巡と推敲を無駄にしてはならない。敢えて多くを削ぎ落した結果の言葉とその真意を理解しようと努めるべきである。 思いやる人は憤らない。不平不満から思いやりは出てこない。他者の苦悩に心を沿わすなら、憤りなど感じない。憤る者は自ら敵を作っているのである。 幸せのかたちなど人それぞれなどと他人ごとのように思ってるから、エゴイストのように思われる。人としてのしあわせというのは存在する。それは普遍的なものであって、何がしあわせか、それを自分で決めていいなどというのはただの開き直りにすぎない。それでは自己欺瞞に陥りかねない。 他人を信じることは大切であるが、それにもまして自分自身を信じることのほうが大切である。そして、他人もまた、自分自身を信じているのだと知ることによって、対等の関係が生まれる。回答者の口真似をしても、大事なことを語ったことにはならない。語るなら、余計なことは言わず、自分の言葉で語るべきである。
お礼
私はa_honaさんに謝らなければなりません a_honaさんが優しい方だと思って 甘えすぎたのだと思います。 思いやるにつけ 世界の人々の生活環境や労働環境の劣悪さに 憤りを覚えずに居れません。元々そうなら仕方ありませんが 戦争や内戦や政治の失敗でそうなってる事が多いので ついついきつい調子で書いてしまいます 本当に申し訳ございませんでしたm(_ _)m 私はどうしても焦りがあって それはもう唐に限界なのですが 自分を責めて殺しそうでしたが それも過ぎてお菓子でも食べて野球でも観ようという諦めになって来ました。 私は本当に確信のある考えがあるんです。それを理解している人もいます わかり易く書いたつもりでしたが 難しいらしいのです。 a_honaさんに理解していただきたく 訴えるような口調になってしまいました。 重ね重ね申し訳なくて恥じ入ります m(_ _)m
- a_hona
- ベストアンサー率21% (95/444)
(私は以前から、何度か質問者のHPを訪れその内容を読んでいる。その上での回答であると理解してもらいたい。) 言いたいことは山ほどあるが、あえてそれらは言わない。 しかし一つ、耳に優しいことは言っておこう。 それは、思いやりと憤りは違う、ということである。
お礼
思いやりも憤りも 無関心ではないです。 思いやるから憤るのです。どうでもよければ何も言いません。 言いたいことは山ほどありますが 耳に優しい言葉を言っておきましょう 何が幸せかは自分で決めていいのです。 どうもありがとうございます。あなたを信じればこそ 憤りを書いてしまいますが、貴方に憤っている訳ではありません。
- Nakay702
- ベストアンサー率79% (10004/12513)
ご丁寧な「お礼コメント」をありがとうございました。 >私のキャッチフレーズの一つに「ゆっくり進化しよう」と言うのがあります。 >人間は急激に進化しすぎました。環境は愚か人命も心も愛さえも殺してしまいました。 >我々が子供の頃は、まだ自然が沢山あり、現実の世界(自然)がどの様に調和し、どの様に恵み、どのように危険であるかを学びました。 ⇒そうですね。ホントですね。 私は、「原始時代から現代までを」急ぎ足で走ってきた、いや、走らされてきたような気がします。 初期のルネサンス人の合言葉は「過ぎ去りし日々はなべてよかりき」だったそうです。 昔に戻ろうなどとは言いませんし、そもそも無理だし無意味でしょうが、せめて「もう一度童心に戻ってあの野山を駆けずり回ってみたい!」です。 >しかしいまの子供たちは現実ならぬ人工のもので遊んでいます。 >野球、サッカーくらいならまだしもゲームやPC、スマホにマニア、 >勉強も学校だけでは足りないと 塾に習い事お受験まで >人工のものに浸っています。 ⇒自動販売機から出てくる即席ラーメンが畑になっている(!?)と思っている子どもがいるそうです。 ある都市で子どもに自然を体感して欲しいとして、山あり川ありの大自然公園を造ったそうです。川の途中に滝壺を造ったそうです。そこまではいいのです。ところが「子どもが溺れることのないように」、その滝壺の深さを子供が立って上半身が出るくらいの、つまり、1m以下にしたそうです。 これって自然ですか? 滝壺は深いのがふつうですよ。せめて、滝壺で楽しく遊んだ子どもが本物の滝壺で溺れないことを祈ります! >我々は命と心と自然と社会の真理に迫らなければなりません。 >共産主義でも資本主義でもない、仏教でもキリスト教でもない >男中心でも女中心でもない、科学でもお金でもない >仕事と生活と目的と理想と愛情と幸せと自由の為の生きがいとなる思想信条を >編み出して供給する責任があるのではないでしょうか? ⇒このあたりがyuniko99さんの健全性であり、偉いところだと思います。 私など、「命と心と自然と社会の真理に」迫りたい気持ちはありますが、「生きがいとなる思想信条を編み出して供給する」意識はどうも薄弱でいけません。 >人間が共生する為に必要なのは個人の良心です。個人が単位にならなければ >理性は充分働かず、差別や諍いやいじめの原因になります。 >私は個人主義者ですが 協力主義と言うのを考えました。 >協力主義は調和主義、調和主義は存在主義です。 ⇒HPでも拝見しましたが、「存在主義」がyuniko99さんの、自前の哲学そのものですね。内容は別にしても、その心的態度は大いに評価できることと思い、敬服する次第です。 >環境とも新世界とも人間同士も調和して安定しながら進化していく >その様な世界が必要であり、人の幸せと新たな存在を未来に実現することが >人間の目的なのではないでしょうか? ⇒「人間の目的」はアプリオリにはないと思いますが、恣意的に設定することは確かに可能ですね。いや、義務かもしれません。前便に書いたように、 “「環境は祖先からの遺産ではなく子孫からの借り物」(オーデュボン)であるという。現代文明の利便に浴しきっている我々は、未来を考える際、時に現在の自分を否定しなければならなくなってその葛藤に苦しむが、しかし自然環境との関係においては、今ここにいない人々をも視野に入れた行動上の配慮が求められることに疑いの余地はない。” のですから。 >これはどうも大変ありがとうございますm(_ _)m ⇒こちらこそ、何度も長文をお読みいただいたことに感謝しております。 おかげ様で、意義ある交信ができました。重ねてお礼申しあげます。 どうも、ありがとうございました。
お礼
これはナカイさん 私のお礼にまでコメントをつけて頂きありがとうございます。 未来を考えないと人間に意義は見いだせませんねえ 実を言うと僕は僕なりに人間の目的とか結論を出して、かなりの確信があるのですが 書いても分かって貰えないのです 説明しても分かって貰えないので困っています。 ナカイさんなら分かるかもしれませんので 試しに結論だけ書きますが 人間は存在する為に生きているのです。存続するために・・・ そして未来に理想の存在を実現するために生きて努力してタスキを繋いでいくのです。 存在が目的であり、存在が価値であり、存在が意味であり正義であり幸せの元なのです。 環境は未来の存在の為に活かせるように守らなければなりません。 自然は40億年の生命が織り成してきたものです。そう簡単に取り戻せるものではありません。 玉虫や斑猫の美しさ。野生のイタチやカラスのしなやかさ、悪知恵。 魚や虫の群れの夥しさ集団性。潮の流れと魚の食欲の不思議。 植物の成長の速さ、逞しさ、美しさ、長寿の大木等 自然は繊細であり微妙であり逞しく秩序ある。その中から我々人類は 生まれてきたのです。 自然の力に恐れを覚え、自然の美しさにこの世の美を知り、生命力を知るのです。 生きるという事、存在するという事の意味を体感するのです。 ナカイさんにはまたお会いしたいものです。 随分勉強出来ました。学問の統一、総合も必要ですね。 私のようなバカがこういう事を書くのも、優秀な人たちの多くが 資本主義や大学の学会や宗教に身を投じ、素の哲学をしないためです。 私はもう健康が続かないので 何時まで出来るかわかりませんが ここの皆さんとも力を合わせて勉強していきたいです。 これはどうも大変ありがとうございます。また教えてください。
私が経験したかぎりでは 「哲学」のみで救うことは できません。 yunikoさんが、できそうなことを はじめれば、「哲学」より 素晴らしいと思います。 中国人、ひとりひとりに 反日精神はないのですよ。 反日は政府によるもので、 真偽は問わず、とりあえず 政府にしたがうしかないのです。 私は中学生のときに、 日本の教科書を読んでびっくりしました。 原爆を投下され、ひどいめにあったのに 恨みつらみのように書かれていなかったからです。 中国の教科書は(韓国や他の国は知りません) 小学生の教科書に残酷な絵を載せて、 被害者意識を植えつけかのような 内容でした。 少し前まで外国の情報は入ってこなかったのです。 日本が金銭援助してることなど国民は知らないのでは? いまはインターネットが普及して VISAの規制緩和によって、 「外国」に行ったり、情報は 得られるようになりましたが、 少し前までは考えられなかった ことです。中国だけで世界をリードするのは 無理でしょう。 朝鮮の南北統一についてむずかしいのではないでしょうか。 南(韓国)に北朝鮮から くる難民を受け入れる経済力が あるとは思えません。 もちろん、世界中から資金援助が必要になるでしょう。 アメリカやロシアだけに 「統一させるように」と誰が誰に いえるのでしょうか。 話は逸れましたが、 詐欺やブラック企業についてまでは言及できません。そして人口問題や温暖化、戦争についても、 近隣諸国の貧困層さえ救えないのに世界までは無理です。 私が大金持ちなら、どんなにいいかと思います。なぜなら途上国の 貧困層をみて、一番、必要なのは「お金」とすぐに食べれる「食料」と「医薬品」だと思ったからです。それと同時に自分の小ささを感じたのを覚えています。 人間ひとりって小さいのですよ。 いまでも、あのときのことを 思い出すことがあります。 世界平和までいきませんが、 決して無関心ではないのですよ。 文脈の前後がズレてしまい読みづらいとおもいますが、この回答は 以前、yunikoさんが 「日本人は正直か?」に 投稿しようとしたもの(文)だからです。締め切られていたので、 この場を借りて回答させて いただきました。 日本はそんなにお金持ちでななくても、教育を受けることができ、病院にいけるし、 電気があってお風呂からお湯が24時間出る。冷蔵庫がある、冷えた飲み物がある、お米が食べれる、洗濯機がある。 本当に恵まれていると思います。 健康で働ける身体に生まれたのは 当たり前ではなく、恩恵なのです。 私はいま、いろいろあって 世界のことまで考える余裕が ありません。できないことを言うのは好きではないです。 yunikoさんが解決の糸口を つかめることを願っています。 身体を大事に。 「身体が弱いから、今日は調子が悪いから」は通用しません。 死ぬ気がないと世界は 救えないからです。 質問の回答ですが、 yunikoさんが、「何が起こっているのか」を、 客観的な視点とともに受け入れていくことが 大事だと思います。 私は哲学や本は読みませんが 素晴らしい言葉は書きとめておいてます。自分を励ますためにも。 「偉人たちが偉大なことを企てるのは、 彼らが偉大だからである。 しかるに、馬鹿者たちが偉大なことを企てるのは、 それを容易だと思い込むからである。」 - ヴォーヴナルグ 「賢者は、話すべきことがあるから口を開く。 愚者は、話さずにはいられないから口を開く」 - Plato (プラトン) 「人を判断するには、どのように答えるかより、 どのような問いをするかによるべきである。」 - ヴォルテール 「愚か者は、自分が恥ずべきことをするとき、 それは自分の義務だと言い張るものだ。」 - バーナード・ショー 「コミュニケーションで最も大事なことは、 言葉にされないことに耳を傾けることだ。」 - ピーター・ドラッカー
お礼
私の問いに応援してくれ、体まで気遣って頂いてありがとうございます。 確かに私は健康ではありませんが、出来るだけの事はしたいです それは高校の時からずっとです。 高校の時から50代にになった今まで、ずっとそう思っていたのです。 今更退路はありません。 色んな智慧の言葉をありがとうございます。考えさせられます。 誰かがやるだろう、やっても無駄だろう、晩飯のおかずの心配をしないと という調子では何時まで経っても世界は変わりません。 この資本主義と大国の利害の世界で、中国もアメリカもロシアも 理想や思想を見失っています。利害やナショナリズムに囚われて 何の為に戦争をしてきたのか。何の為に共産主義をやってきたのか 何の為にペレストロイカをしたのか 世界を遍く貧困や戦争から救う思想を無くしているのです。 それを我々の微力ではありますが 少しでも補おうと直訴しているわけです 生きてる間に出来る事をやろうではありませんか。 どうも大変ありがとうございます。
- a_hona
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哲学にできることを知るよりも、自分に出来ることを知る方が良い。遠くの人よりも身近な人を、というのは、自分に出来る事を、という意味である。 質問者は、自身の哲学と称するものに何の期待をしているのだろうか。 その哲学とやらで幾らの人を救ってきたのかと以前問うた。その時あなたは、自分ですら救えていないかもしれないと答えた。何故そのような見解を持っているにもかかわらず、その哲学とやらを引きずっているのか。それはきっと、質問者を縛っている最大一のものではないのだろうか。哲学に対して抱く幻想と、自身に対する過大な期待が、考えの行く先をひどく方向音痴にしているのではないだろうか。 私は、それほど言うのであるなら質問者の哲学とやらで世界を救ってみればいい、などとは言わない。そんな無理は言わない。だが、出来る事をしてはどうかとは言う。これは普遍的な、誰にでも当てはまる事だからである。 例えば今、アフリカの難民を、救うことが質問者の哲学で出来るだろうか? テロリストを鎮静化することができるだろうか? 軍拡を止めることができるだろうか? 自分に出来ないことを哲学と称する何某におしきせているのではないか。 目を覚まして下さいと回答者に言うが、目を覚まさなければならないのは質問者の方ではないのか? 人助けがしたい、それは別に否定しない。しかし、自分さえ救えなかったその哲学とやらで、誰を救えると言うのだろう。甚だ疑問である。自分の抱いた思想に囚われるのは、本末顛倒である。 一方、自分にできることをなすならば、縁によって救える人もいるかもしれない。その和が広がれば、届かなかった異国の人々にもきっと伝わるだろう。自身が直接赴けなくても、その和によって多くの人々を苦境から、解放することができるかもしれない。 この方が、よっぽど現実的であるように思うが、質問者はどう考えているのだろう。
お礼
私は唐に救われています。問題は他人を救えるかと言う事です。 出来るだろうか?とか ではないのか?と言うのなら 一度でもいいから読んでください。存在性思想。検索で。 何度読んでも下らないというのなら仕方ありません その時は何とでも言って下さい。 皆で考えて 現実の不条理を解消する思想を編み出そうではありませんか。 どうもありがとうございます。
- amenhotep2000
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yuniko99さん こんばんは。 現在、カール・R・ポパーの、お勉強中で、まだ完全に理解できていないので、投稿を控えてましたが、参考までに回答します。 キーワードは「無知」。 私は、結論から言うと無知が、貧困や戦争の原因になりえると考えています。 ソクラテスが言った「無知の知」。すなわち自分が何も分かっていない、無知であることを自覚することが、哲学の始まりと思いますが、だから無知のままでいいというわけでなく、自ら学び、真理を探すことが大事と思います。 神や仏に真理を見出す人もいるでしょう。しかし、そこに至ったら、ますます、神や仏のことが知りたくなり、学び続ける。人間、死ぬまで学習と思います。 話をポパーに戻すと、ポパーは自分が自由主義者で経験主義者で合理主義者であるとした上で、真理は自ら顕われるとして、無知とは否定的なものであって知識の欠如態と定義し、その根源を 1)我々自身が明白な真理を罪深く拒んでいる。 2)我々の精神が教育や伝統によって教え込まれた偏見を宿している。 3)他の悪しき影響によって我々の純粋無垢な精神が惑わされている。 として、このような偏見、諸力が、自分を盲目にして真理がみえず、無知の状態にさせているとしてます。 私の、ここまでの解釈として、無知とは偏見と結びついていることを認識することが重要と思います。 例えば、yuniko99さんのこの質問に賛否両論の回答が寄せられてますが、yuniko99さんに対し否定的な偏見をもって回答する人もいる。無論、人それぞれで、多様な意見があるほうが、この哲学カテとしては有意義と思いますし、yuniko99さんもそれを覚悟の上で質問していると思ってます。 しかし、世界に目を向けると、宗教の違い、肌の色の違い、障害を抱える人などへの偏見というものから、戦争や貧困や人権侵害などの問題につながっていると思います。 この、無知というものを撲滅させるためには、教育が欠かせないと私は思ってます。 ここで、私も純粋すぎる理想主義のyuniko99さんに偏見を持って、現実主義として回答しますが、数日前にニュースで聞きましたが、日本の6人に1人は貧困家庭で、その多くは母子家庭で、母親は非正規社員で年収が150万円くらいとのこと。母親は子供の分だけでも食べ物をくださいとNPO法人にSOSを出している。 では、正社員だったらいいかというと、私の知り合いに、中学1年の子供をかかえた、バツイチ女性がいて、総務課の正社員として働いていますが、会社は人件費を抑えるため、労働時間が限られる、非正規社員を雇いますから、仕事のしわ寄せが正社員にまわり、深夜までの仕事や、休みなしの土日出勤もしています。 当然、仕事だけで家庭のことまで手が回りません。中1の子供が読む本を聞いたところ、ゲームの攻略本のみとのこと。 家庭崩壊しているのではと思いましたが、この子供は、母親の大変さを理解と感謝をしていて、母の日に「今日は俺のおごりだぜ!」と、正月のお年玉から、「すき屋の牛丼」を母親におごったそうです。 母親は大変喜んでいました。そして、子供の成長が仕事のモチべーションです。家庭愛があります。 yuniko99さんは上述の人達をどう思いますか?世界のことなんて考えている暇など仕事で養育費を稼ぐためにないと思います。許容しないのなら、日本人は、何も考えないなどと言う、yuniko99さん自身に偏見があり、真理から遠ざかっているかもしれませんよ。 現在、国立の大学でも子供を入学させようとすると年間50万円もします。私の時代は20万円でした。私立の大学の授業料が上がっているため、合わせざるを得ないのだそうです。貧困世帯は高嶺の花です。 自分で自立して思考出来るようになるためには教育が不可欠と思います。文部科学省は学力試験の導入などを検討してますが、上述のような日本の家庭に育った子供がどのように成長し日本の未来を創るでしょうか。 私が出来ることは、身の回りの人に挨拶しコミュニケーションをとり、ありがとうと言って感謝し、国連UNHCR協会なるものに、毎日、ジュース1本我慢して、本を買いたいのも山々ですが、毎月3000円ほど、勉強ができない難民の子供のために支援することぐらいです。 しかし、人々の身の回りのことから始める小さな行いが、大きな輪になって世界を変えていくことを望む、そこはyuniko99さんと同じです。
お礼
そうですか、仰る通り、日本にも考えたくても考えられない人は多いと思います。 母子家庭の子供に限らず働いてる母親も深く考える余裕もないでしょう それは大概の働いてる人はそうです、仕事と生活とせめてもの娯楽で 七面倒臭い哲学なんてやってる暇はない人は凡そ老人も含めて9割以上でしょう。 哲学なんぞを出来るのは、学生か60歳からの悠々自適の中の僅かの人か、僕らのような哲学の魅力に引き込まれたマニアくらいでしょう。 だからこそ哲学が出来ない人達の為に、我々が考えなければなりません。 哲学なき時代と言われています。思想さえないかもしれません。 だからこそ社会がおかしくなって来たのです。 人権の思想や平和主義、自由や資本主義もおかしくなって来ました そういう事を変えることが出来るのは? 大学に経済学部がありますが、経済の在り方の何を考えているのでしょうか? 新しい経済体制を考えているのでしょうか?聞いた事がないです。 日本に限らず、ソマリア、スーダン、インド、北朝鮮、いや世界中の殆どの人が思想のなさに苦しんでいるのです。 その思想を供給すべき哲学が 一体何をやっているのでしょうか? 溝を供給してないのと同じです。教育を施してないのと同じです。 愛があるなら考えるべきです。考えられない人に変わって考えてるのが 暇を与えられた哲学をするものの務めではないでしょうか? 僕もそれほどいろんな知識を持ってるわけではありません。 ただ哲学にはある程度の自信があります。 いやそう言わざるを得ない状況なのです。 何とかしましょう。僕はこの気持ちでこの15年を過ごしてきました 既に疲れていますが やらない訳にはいかないのです。 やりませんか。やりましょう。出来るだけでもやろうではありませんか。 どうも大変ありがとうございます。
- Nakay702
- ベストアンサー率79% (10004/12513)
再々度の「お礼コメント」を拝見しました。 >これはどこに言えばいいのでしょうねえ。 ⇒そうですね。お偉いさんは聞いてくれそうもありませんし…。 >もし他にもあればお教え頂けると目が開けると思います。 ⇒それでは、調子に乗って、(一部ご覧になったことがあるかも知れませんが)「人類の未来を思う」というのを下記いたします。 かつて哲学が諸学問を統合する機能を果していたが、それは原理的には今日でも変っていないはずである。すなわち哲学には、諸科学を統合してこれに指針を与えるという機能がある、少なくともその使命を負っているはずだと考える。ところが、現代哲学は史的研究には精出すものの、このような問題を哲学することにはあまり関心を持たないように見受けられる。一方、人類史の頂点にいる現代人は極度に"sophisticate"されて、自然児たることすなわち己が自然の一部であることを忘れ、自然や人間を分析・制御するための学問に長けてきた一方で、全体を俯瞰し統括するという視点を喪失した。また歴史上の頂点にいる"homo faber"(工作人)としてある意味必然の結果かも知れないが、現代人は超高度な文明化社会を現出した。文明化そのものを咎め立てするのではないが、文明の高さに比して文化度が低すぎるのではないか、と指摘したい。 その証左として、我々現代人は地球上のあらゆる生命の生殺与奪権を掌握するという、いわば「人間帝国」を造り、体は一つなのにこれを切り刻んで部品化し、部品を寄せ集めれば全体に戻るだろうという要素還元主義的な(物理学などでは有効であろう)見方を生身の人間にまで当てはめ、それに染まり切って脱却できない。これらのことと、本来司令塔たるべき哲学の存在感が薄く、軽視されがちな風潮とは同一線上にあるようにも思える。ある意味、我々が進歩だと妄信して精出してきたことが、実はとんでもない愚行、自然を冒涜する反逆だったのかも知れない。いや、よく分からないが、少なくともそういうことに思いを致してみることが必要ではないだろうか。その意味で、我々が事態の原点に戻って考え直し、人間として「本当の幸福」を追求するのに最も頼みとなるのが哲学とその機能だと考える。 人類の未来を考える時、注視すべきものは何か。それは疑いもなく、頭脳や理性に関わることだと言えるだろう。デカルトらを中心として提起・確立されてきた合理主義精神は、近代以来の輝かしい人間賛歌であり、凱歌であった。それは否定できない事実であるし、我々現代人はその恩恵に与って文明を発展させてきたことも事実であろう。しかし問題は、理性主義を尊重し過ぎて合理一辺倒にのめり込み、それに支配さえされてしまっていることである。早い話が、頭でっかちになり過ぎたということで、これすなわち、全体(=全身・生命)が一部(=頭脳・理性)によって支配されてしまっているのではないか、生命体として全身とのバランスを欠き、中途半端に頭がよくなったことが問題ではないか、と言いたいのである。 例えば、現代人の争いごとほど「頭脳戦争」の様相を帯びているものが他にあろうか。映画にもなったSF『宇宙戦争』(H.G.ウェルズ著)に描かれた、頭から直接手足が伸びているような怪物に形態進化するのかも知れないと危惧されるほどである。荒唐無稽な空想のようだが、一説によると、我々人類はかなり高い確率で自滅するという。その信憑性のほどは定かでないが、少なくとも「人類の行く末が、己が頭脳の産み出した兵器等の破壊力によって運命づけられる可能性がある」とは言えるだろう。世界には、地球全体を破壊し尽すほどの核兵器が保蔵されていると言われて久しい。『渚にて』(アメリカ、1960年)や『復活の日』(日本、1980年)のような映画が公開されて話題を呼んだが、これらが暗示しているのも、地球と人類の終末的危機状況である。それもこれも、人間が「中途半端に」頭がよくなったことの結果がもたらしたことではないか、と言いたいのである。 上述を要約する。頭脳は、当然ながら生体の一部である。その生体の一部に偏重し過ぎた結果、生の全体がそれに支配されているのではないかと懸念するのである。我々はこういう憂慮すべき点にこそ頭を使うべきだと思う。オルテガの「生-理性主義」(*)が言うように、「理性は生の一形式、一機能に過ぎない」。だからといって、理性を捨てようというのではない。生-理性を尊重しつつ、世界と生の哲理・理法を考えようと言うのである。生-理性の根本原理は、高尚なことでも複雑なことでも何でもない。それは、だだ生きることそのもの、個としてまた地球市民として、「ともに生きることそのもの」である。 (1)主体的個人主義を標榜し、異分子と共存する心性を維持し、相互互恵の精神的スタンスに立つ。(2)科学的進化・専門分化を注視しつつ、その連携・調整・体系化・統括に意を用いる。(3)経済については、成長一辺倒でなく、循環経済的な手法を積極的に取り入れる。(4)異文化間・国際間の関係では、可能な限り、国家・民族・企業等に代表される集団としての建前や役割に固執せず生身の個人的存在として交渉・協定を志向する、などが、人間的生の理念として掲げられ得るだろう。肝心なのは、現代人特有の頭脳や理性を、知識だけでなくむしろ「知恵に」活用することであろう。 ただ、このような理想的条項は重要であるにもかかわらず制約も多い。したがって、状況に応じて柔軟に対応しつつ、永遠に求め続けていくことになるだろうし、求め続ける姿勢が重要である。それを放棄する時こそ、人類は滅亡へ向かって驀進することになってしまうこと必定である。「本当に頭がよい」とはどういうことかについて考え直し、自滅回避の方向へ英知を結集したいものである。常に、あるべき人間的生の何たるかを哲学したいものである。そして、バラ色の未来とまでいかないまでも、相互互恵と支援の仕組みに裏打ちされた持続的安定社会の実現のためにこそ頭脳を活かしたいものである。本稿が、そのような方策を模索する姿勢への一契機となれれば本望である。 *「生-理性主義」:理性は生の一形式、一機能に過ぎず、それ以上でもそれ以下でもない。"Cogito ergo sum."「我思うゆえに我あり」でなく、"Cogito quio vivo."「我思う、生くるがために」なのだと主張する。生を非合理的な混沌の支配に委ねる発想を論難する一方、生に対する理性の優位性・絶対性を主張する理性主義を批判し、純粋理性は生きた理性にその席を譲らねばならない、とする。「生-理性」の立場の体系としては、存在論として環境の理論を傘下に持ち、認識論として遠近法主義を理論武装の道具として持つ。神が人間を通して見せる「絶対的真理」の把握がその課題であると自覚する。(J. Ortega y Gasset, "Tema de nuestro tiempo", Alianza Editorial,1923. 井上正訳『現代の課題』白水社、1970年。高橋徹編著『マンハイム オルテガ』中央公論社、昭和54年 参照)。
お礼
生-理性 ですが、私の考えでは生(生命)と理性(或いは感性などの人間性)は別物だと思います。 人間死ねば脳も止まるので 人間精神の存在する条件は脳が生きて環境と反応出来ること と言うようになるかと思います。 ただ人間の特徴は自我・精神を持つ事であり、そこが他の動物と差のつく所だと思います。 (1)~(4)については大凡異論はありません。そうあってほしいものです。 人間がどんなに繁栄しようとも、衰退しようとも、太陽や地球は痛くも痒くもない。人間がどちらを選ぶかで 人間の運命が決まるわけです。 因果律からすればもう決まっているのですが 人間には分からないのです。 生命と人間存在の違いを考えるなら、その二つがどう調和し、生存、存在してゆくか、そこにも哲学の仕事があると思います。 特に今、経済問題で苦しむ人が多いので、何とか新しい経済主義を 考案したいものです、修正でもいいので。 理解が進みました どうも大変ありがとうございます。 この際ですから、出し惜しみなく持論を更に開陳して頂けると この問の答えが深まるものと感じます。どうかよろしくお願いしますm(_ _)m
- Nakay702
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再度「お礼コメント」をありがとうございました。 >何か一部でいいので開陳して頂けないでしょうか? 最近考えたことで、題して「科学と人類」です。やや長文ですが、お読みいただければ幸甚です。 かつて中世・近世のヨーロッパ世界においては諸学の中核に神学があって、学問を有機的な統一体に束ねていた。しかし近代以降、コペルニクス、ガリレオ、ケプラー、ニュートンらのいわゆる「科学革命」によって、科学が神の呪縛から解放されるとともに、神学の統合機能が消失する。特に自然科学分野においては、フランス啓蒙主義から始まる科学の専門化によって、神学につきまとっていた魔術・奇跡などの概念が払拭され、学問が「科(=区分)学」として確立されていく。これは啓蒙主義者の大きな業績の一つではあるが、18世紀後半に入る頃から、科学の従事者に過度の細分化が求められるようになり、のっぴきならぬ事態が生じてくる。 オルテガによれば、現代科学者は「大衆人」(自己陶酔、傍若無人、傲慢、軽薄短小、現代の未開人等の批判的な意味を込めてこう呼ぶ)の典型だという。それは学者の個人的欠陥のせいでなく、科学自体が彼らを「エリート専門家」との錯覚を起こさせるなどして大衆人に変えるのである。啓蒙主義の台頭当初から、その活動は専門化の様相を帯びていたが、後続世代ではさらに激化する。科学者から総合的文化の観点が失われていくのである。 “実験科学は16世紀末に始まり、17世紀末に体系化され、18世紀中葉から発展を始めた。その歴史は、科学者が世代を重ねるにつれてますます狭くなる知的活動分野の中に身を閉じ込めていく姿を見せる。科学者が、世代ごとに自分の活動範囲を縮小していかねばならないため、科学の他の分野や宇宙の総合的解釈との接触を失っていく姿である。1890年になると、我々は前代未聞の科学者のタイプに出会う。それは、良識ある人間になるために知っておかねばならない全てのことのうち、ただ一つの特定科学を知っているだけで、しかもその科学についても自分が実際に研究しているごく小さな部分にしか通じていない人間である。” 19世紀後半の科学者はこうして科学相互間や隣接分野との関連で捉える統合的解釈の姿勢を失い、意識も変容していった。個々人の仕事は何らかの意味で社会的分業にならざるを得ないが、しかしそれを通じて全体との関係を意識することが、知を総合することや文化・文明を担うことに繫がるわけだが、そんな意識はもはや彼らにない。色摩力夫は言う。 “科学の専門化は、いつの間にかその細分化、現代社会の分解という傾向をもたらした。科学者はこの専門化現象によって自分以外の権威を認めなくなる。上級の規範を求める習性を失う。専門家は即ち「無知なる賢者」で、まさに大衆人の典型的特徴である”。 ただ、このような形で専門化した科学者群が輩出したことは、確かに現代という時代の要請したことだろう。科学の特定部門の研究に集中的に従事することが求められ、それに彼らが応えたのであって、それ自体は非難に当たらない。問題は、専門化とそれに関わる者の意識が、科学と生命を溺死せしめる脅威になったことである。色摩は続ける。 “彼らは、知的には自分の専門の限界内で閉鎖的に生きている。もちろん専門の分野では絶対の自信を持っている。しかしその自信によって専門外の分野にも介入し、現代社会のあらゆる問題に権威ある者の如く発言する。これは奇妙な錯覚である。空前の無責任時代である。科学者は、この専門化現象によって自分以外の権威を認めなくなる。上級の審判に服する用意が全くない。上級の規範を求める習性を失う”。 科学は進歩のため不可避的に専門化の手法を使ってきたが、それは「やむを得ず」だったはずである。本来、科学は時々再構築の作業を必要とし、総合化の努力を要求する。 「学際的な串刺し理論、統合する視点が必要だと言われるが、総専門家時代なので、そんなことに腐心していては成果が上がらない」という生化学者の本音を聞いたことがある。その意識評価はおくとして、ある種の問題提起は読み取れる。すなわち、もっぱら串刺しや橋渡し部分を担当する「学際的・総合的部門を扱う専門家」の存在と、それを支援する仕組みが必要だということである。関係や仲立ちを扱う学際領域の専門家が必要なのだ。しかし、この職位は従来の仕組みの中では正当な評価を受けることが難しく、「飯が食えない」ので、このままではますます専門化に拍車がかかってしまうだろう。 このように学問的統合の原理が消滅した現在、錯綜する科学を関係づけ、統合して指針を与え得る学問分野、すなわち科学哲学のパラダイム・シフトが必要である。また実践においても、最近言われ始めた統合医療のように、専門化より総合化に、分析より統合的手法に、より多く意を用いるべき時だと言える。 これまでの科学の専門化がはたして本当の進歩であったのか、単なる変化だったのか、ある意味ではむしろ退歩だったのではないか、真の幸福に寄与したのか、していくのか。どういう方向へ向かうのか、向かうべきなのか…。筆者自身を含む自然科学の非「専門家」も、一般市民も、この根本問題についてじっくり問い直してみる必要がある。それは、我々が人類の一員として我々に続く世代に対して負っている義務でもあると思う。
お礼
学問の統合の必要性は学生の時に気づきました 勿論歴史など知りませんでしたし、科学哲学も不勉強です しかし確かにこれは哲学の為すべき仕事であり、哲学ならではの事です。 一般市民が学校や大学で勉強して何を得るのか? 随分勉強した割には人生も分からないし、何の為に勉強したかも分からない それではいけませんね。小学校の時から総合学習の時間を設け 科目がどう繋がっているかを学ばなければなりません 大学に置いては、仰るように 学問統合の努力が必要ですし 大学の必須科目にしなければなりません と思います。 この問題はすっかり忘れていました。自然科学の統合、社会科学の統合 そしてその二つと様々な専門知識との相互交流が為される様になれば 学校で勉強した甲斐もあると言うものです。 歴史から紐解いた可能性の大きな考えをどうも大変ありがとうございます。 これはどこに言えばいいのでしょうねえ。文部省が聞いてくれるのでしょうか? それとも我々がやればいいのでしょうか? もし他にもあればお教え頂けると目が開けると思います。 どうかよろしくお願いしますm(_ _)m
お礼
興味深くありがたい話をありがとうございます。 私のキャッチフレーズの一つに「ゆっくり進化しよう」と言うのがあります。 人間は急激に進化しすぎました。環境は愚か人命も心も愛さえも殺してしまいました。 我々が子供の頃は、まだ自然が沢山あり、現実の世界(自然)がどの様に調和し、どの様に恵み、どのように危険であるかを学びました。 しかしいまの子供たちは現実ならぬ人工のもので遊んでいます。 野球、サッカーくらいならまだしもゲームやPC、スマホにマニア、 勉強も学校だけでは足りないと 塾に習い事お受験まで 人工のものに浸っています。 真理とか哲学とか、それが何を意味するかも情報の中で分からないのではないでしょうか? 共生との事でしたが、共生というのは違うDNAを持った生き物が共に住むという事だと思います。 同じDNAといえば細胞同士や脳と腸のような関係で更に密な関係となります 他人同士がいきなり共同生活するのは大変ですが、兄弟姉妹や双子なら そう気にならない 信頼もしやすい・・・ 精神的にそれを求めるのが宗教でしょう。同じ教えという、言わばDNAを持って 共に生きていこうと言うものです。ただ問題はその教えが案外あやふやだということです 或いは教えが進化せず古いまま、男性社会の教えだったり、神が絶対だったり 現実と合わないことも明らかになってきてます。 そういう古い教えをもっと新しい教えにして、宗教という形ではなく 思想信条という形で、我々は命と心と自然と社会の真理に迫らなければなりません。 共産主義でも資本主義でもない、仏教でもキリスト教でもない 男中心でも女中心でもない、科学でもお金でもない 仕事と生活と目的と理想と愛情と幸せと自由の為の生きがいとなる思想信条を 編み出して供給する責任があるのではないでしょうか? 人間が共生する為に必要なのは個人の良心です。個人が単位にならなければ 理性は充分働かず、差別や諍いやいじめの原因になります。 私は個人主義者ですが 協力主義と言うのを考えました。 協力主義は調和主義、調和主義は存在主義です。 環境とも新世界とも人間同士も調和して安定しながら進化していく その様な世界が必要であり、人の幸せと新たな存在を未来に実現することが 人間の目的なのではないでしょうか? なんか自分の考えを書いてしまいましたが。 ナカイ702さんにも教えを請いながら 考えて行きたいと思います。 これはどうも大変ありがとうございますm(_ _)m