- ベストアンサー
なぜアキレスと亀は不思議でないのか?
- アキレスと亀のパラドックスについて独自の視点から質問します。
- 多くの人がアキレスと亀の問題を不思議とは思わず、それを説明するために無限級数を用いることにも抵抗感を持ちません。
- この問題は数学の問題だけでなく、社会学など他の分野でも考えられる可能性があります。皆さんの意見をお聞かせください。
- みんなの回答 (56)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
まあ我々は普段、日常言語を使って論理を組み立てるのですが、日常言語は曖昧な点が多いのでどうしても混乱が起きる場合が出てくる。 数学はそれを何とかするために一つ一つ約束事を決めて議論を進めていこうとする。この辺は多分数学者の人びとがさんざん苦労したことで、われわれは現状の結果をみているのですが、それでもその約束事がわれわれの通常の感覚からは乖離している、という事が出てくることがあるのは避けられないのだと思います。 まあ一応補足ですが、一般に「AならばB」の否定は「Aであって、かつBでない」です(AならばBでない、ではない)。ゼノンの論理の場合はAの部分が「亀がさっきまでいた地点にアキレスが付いた時には、亀はその先をいっている」という部分で、Bの部分が「アキレスはカメにおいつけない」になる。 ゼノンの主張は「Aが成り立つ、よってBである」という主張でした。これは質問者さんが書いてある通り3段論法と呼ばれるもので、つまり * Aが成り立つ * AならばB * (A、かつ(AならばB))なのでBが成り立つ という論法でした。よってこの論法を否定するには「Aならば B」の部分を否定すればよく、それはつまり「Aであって、かつBでない」世界があることを言えば良い(それが数学では証明になる)、という事です。
その他の回答 (55)
- stomachman
- ベストアンサー率57% (1014/1775)
ちょっと見ないうちになんかえらいことになっているようですが、ANo.19へのコメントについてです。 > それ禁じ手なんじゃ。。。。 ありもしない「禁じ手」をご自分でこしらえるのは、遊びにルール(横断歩道の白いとこしか踏んじゃ駄目)が必要ということなのか、あるいは、ゼノンの議論を擁護したいということなのか。 しかしですね、ANo.12を再読なさってくださいな。ゼノンの行った議論は「すり替え」をやっている。つまり、詭弁です。正しい論証になっていないんです。だから、彼の議論では「X: いつまで経ってもアキレスは亀に追いつけない」という結論は出て来ないんです。 このことをはっきり認識すれば、「ゼノンの言っていることは正しいのに…」という風に話を続けることこそ、禁じ手である(∵偽である命題を前提にして論じれば、どんな結論でも出せるから)とお分かりになるでしょう。 ANo.19に示した通り、「プロセスPを幾ら繰り返しても、その繰り返しが終わらない」という状況は、現実にいくらでもある。そして、繰り返しを漫然と繰り返すのではなく、それを打ち切ることによって、状況を終わらせることが実際に可能である。単に出来るというばかりか、このやり方はたとえば数値計算において必要不可欠なんです。もちろん、禁じ手なんかじゃありません。 > ゲーテルがある意味残念なことを証明してしまった 不完全性定理を指していらっしゃるのかと思いますが、それは数学の言語と日常に使う自然言語との関係についての議論とは無関係です。また、「現実」と「日常言語」とをごっちゃにしてはいけません。(ヴィトゲンシュタインの「論理哲学論考」の誤謬は、両者をごっちゃにした点にあります。で、後に彼自身が誤りに気付いて訂正した通り、)言語は「現実」と一体になった体系ではなく、それどころか本質的には、言語は「現実」とは独立しています。そして、現実とは奇麗さっぱり手を切る、ということを明確に意識して構成されているのが形式主義の数学という言語である。自然言語ではそこまではっきりした意識がないけれども、詩を書けるでしょう? しかしながら、言語と現実に関するこれらの話題は「アキレスと亀」には繋がりません。それはもちろん、「アキレスと亀」においてゼノンは詭弁を使っており、このため、そもそも自然言語における論証としてすら成立していないからです。 一方、「多くの人が全然不思議と思わない」のは、お話(それが正しい論証なのか詭弁なのかの区別はさておき)は現実とすんなり対応しているとは限らない、ということを、多くの人が経験的に体得しているからでしょう。つまり、たとえ正しい論証であったとしても「そりゃリクツだろうけれど、でも現実はそうは行かないんだよね」の一言で切り捨てられるのが(善きにつけ悪しきにつけ)オトナってやつである。逆に言えば、その切り捨てが出来ずに頭を抱え込んでしまうとすれば、その人は「言葉と世界が単純に対応している」という素朴な信念を持っている(若きヴィトゲンシュタインや幼児のように)ということなのかも。
お礼
ありがとうございました。 stomackmanさんにはいろいろ示唆のあるお話をいただきました。ちなみに、私は、言語には興味がかなりあるので、(ヴィトゲンシュタインはどこまで理解できたのか心もとないですが、)論理哲学大全も完読しましたし、別の角度から、丸山圭三郎をはじめ、ソシュールからの思想の流れに位置する論考もいろいろたくさん読んでできました。だから、言葉にはかなりセンシティブなほうと思います。 あれから、ほかの方からもいろいろお話を伺って、だいぶ自分の頭が整理されました。stomackmanさんとtmpnameさんには特にお世話になりました。 少し様子を見てから、私のひとまずの結論を、#45のお礼に書かせていただくつもりです。もしも機会がありましたらごらんいただければ幸いです。
- tmpname
- ベストアンサー率67% (195/287)
> 例えばその世界ではアキレスが亀のいた地点に追いついた時には、亀は途中落とし穴に落ちてその段階で(言うなれば無限級数のn=3の段階で既に)アキレスに追い抜かれてしまい、 どちらかというと、その世界ではアキレスが亀のいた地点に追いついた時には、亀はなぜか逆走していたり、途中ワープしたりしてアキレスに追い抜かれてしまう、といった感じ
- tmpname
- ベストアンサー率67% (195/287)
もうちょっとだけ付き合ってみる(体力的に限界と感じたら議論から抜けます) * まず確認ですが、1が間違っているというのは、「ゼノンの論理展開によっても、アキレスは亀に追いつけないという結論は出せない」であって、「ゼノンの論理展開によっても、アキレスは亀に追いつくかどうかを確定できない」ではないです。後者は前者よりもっと強い主張で、後者の為には前者の証明の他に、「ゼノンの論理展開によっても、アキレスはカメに追い付け『る』という結論は出せない」ということの両方の証明が必要です。取り敢えずはここまでの強い主張は必要とはされていません。 (もちろん「ゼノンの論理展開によっても、アキレスは亀に追いつくかどうかを確定できない」ことが証明されれば、それは 1の否定に充分ですが、そこまで強い主張は必要とされていない)。 * で、「ゼノンの論理展開によっても、アキレスは亀に追いつけないという結論は出せない」ということの『意味』(あるいは『証明法』)が、『ある「世界」(普通『モデル』という)が存在して、そのモデルでは「ゼノンの論理展開が成り立ち、かつアキレスがカメに追い付く」ということ』(だと数学ではみなす)ということです。これは 2と同じではないかと思うかもしれませんが、そうではなく、2つ違いがあって、 - あくまで『あるモデルで』アキレスがカメに追い付くことを示せばよい。 - 一方で、そのモデルにおいて『『ゼノンの論理展開(の前半)が出来る』』ことを示す必要がある。大雑把に言えば、アキレスと先行している亀が共にモデルMにいて、かつアキレスが亀がさっきまでいた地点まで追いついた時に、『モデルMにおいても』、亀は実際にアキレスよりちょこっと進んでいることを示す必要がある。 ここで『モデルMにおいて』、亀は実際にアキレスよりちょこっと進んでいる、とはどういうことか、と言ったことを考えたとき、#40さんのいった「定式化」(『解釈』といった言葉を使う)といったことが問題となる。 * で、われわれは通常の世界を知っている。よってその通常の世界をモデルとして使う。そこでは、 - アキレスはカメに追い付く(ことは証明できる) - かつ、『ゼノンの論理展開も正しい』、つまり、先行する亀がいた地点にアキレスが追いついた時、現実の世界でも亀はもう少し先の地点にいる。 従って、現実世界というモデルは、「ゼノンの論理展開が成り立ち、かつアキレスがカメに追い付く」という命題の一つのモデルになる(モデルという言葉がすこしだけ違った意味で2度使われていますが、目をつぶってください)。この事が、「ゼノンの論理展開によっても、アキレスは亀に追いつけないという結論は出せない」ことの『証明になる』のです。 つまり「アキレスは亀に追い付くことができる」世界(ここでは通常の世界)を導入した時に、その世界で 『ゼノンの議論の前半部分(つまりアキレスが亀のいた地点に追いついた時に、亀はさらに先にいる、という部分がきちんと成立している』 ことを示すことが重要なのです。つまり、「アキレスは亀に追い付くことができる」世界を導入しても、例えばその世界ではアキレスが亀のいた地点に追いついた時には、亀は途中落とし穴に落ちてその段階で(言うなれば無限級数のn=3の段階で既に)アキレスに追い抜かれてしまい、『ゼノンの議論の前半部分がそもそも成立しない』世界では意味がないのです。 ------ ゼノンの論理展開によっても、2の命題と整合的であることが保証される仮定・概念・論理構造を導入すれば、アキレスは亀に追いつくかどうかを確定できない。というのでは、そりゃあ、2が保障される前提条件を入れて考えたら、2が正しいって言うことと整合的な結論しか出ないはずだから、1の命題は否定される結果が出るよな、っていうことで、ほとんど私に言わせれば、トートロジーだってことになってしまいます。 ------ という部分に関しては、これで回答になっていると思います。つまり、2の命題と整合的であることが保証される仮定・概念・論理構造を導入した後で、もう一つ検証が必要なのです。
補足
ありがとうございます。だいぶ難しくなってきましたが、またとても勉強になりました。そして、もしかすると、また私がどこに問題をみていたのかがはっきりしてきたかもしれません!!! そのまえに、一番始めにご指摘いただいた、論証すべき議論の差異については、実はちょっとそうじゃないかな、って思ってたのに、ああ書いてしまいました。いい加減に書いてすみません。よく理解できます。 で、それはそれとして、本題ですが、実は昔ちょっと論理学をかじったときに、数学として形式化を図って、一般言語の用法から少しずれているという話があったようなことを思い出しました。 ご説明いただいたところによれば、数学では、 1. ある世界が存在して、 その世界では、 2. ゼノンの議論の前半が成立し、 かつ、 3. アキレスが亀に追いつく ことが論証できれば、「ゼノンの論理展開によっても、アキレスは亀に追いつけないという結論は出せない」ことの『証明になる』のですね。 それが数学の証明の定義としての、いわば「とりきめ」ということなのだと理解しました。だから、ある程度いろいろ条件を付加しても、この2つが成立する世界が存在できるといえればよい。 他方、おそらく私は、日常言語の論理で考えていたので、2と3の連結が、「かつ」では不十分と思っていたのだとおもいます! すなわち、「ゼノンの論理展開(によっても、)アキレスは亀に追いつけないという結論は出せない」ということを証明するには、その括弧でくくった接続詞によって、ゼノンの論理展開を「(唯一の)論拠として」、それでもアキレスは亀に追いつける(場合がある)ことが示されて初めて、論証したことになる、という、2と3とのあいだに、いわば「論証関係」のような関係性が維持されなければならない、と思っていたのだと思います。 だから、数学からみれば、当然に許されるはずの、論証過程での、いろいろな概念なり論理構成の追加が、その「論証関係」の保証をゆるがしてしまうので、許されない行為だと考えていたと思います。だから厳格に「ゼノンの論理展開によって」という条件を確保するには何をしなければいけないのか、ということを考えていたと思います。それが、私が何度も何度も、禁じ手だとか、ゼノンの論理ではアキレスは限りなく亀に近づけるけれども、その最後の一歩を踏み出す言葉がないだとかいって(皆さんに目が点みたいみられてい)た、その原因だったような気がしますがどうでしょうか? そういう理解でいいのでしょうかね?だとすると、「数学としての証明」としてのルールはそれはそれとして尊重するにしても、それを抜きに、裸でこの問題が提示された状態として考えると、どちらがいいとか悪いとかいえるものではなく、いわば立場の違いということになってくると理解していいのでしょうか?(というのも、私は私なりに、日常用語的語法に立脚した問題理解はそれはそれで大事だと思うので) さらにいうと、わたしのように、2と3のあいだに厳格な「論証関係」を維持しようとすれば、数学が「成功した」ようなきれいな証明が(少なくとも簡単には)できなくなり、ゆえにパラドックスはパラドックスとして(ひとまずは)維持されるという立場も、それはそれとして成立しうるということになるのかも、などというとまたいろんな人から怒られちゃいますかね。 それにしても、ずいぶんいろいろ勉強させてきていただいている気がします。ありがとうございます。
- 中村 拓男(@tknakamuri)
- ベストアンサー率35% (674/1896)
質問には具体的に書いてないけど、kireinahanabi さんの考えていることはこんな感じかな??? 1) ゼノンの手順でアキレスの次の位置を決める時、アキレスの位置は亀の手前に設定するので アキレスは次の位置で亀を追い越すことはない。 2) ゼノンの手順は無限に繰り返せるから時間は無限に経過するはず。 3) 1), 2) からアキレスは亀を追い越さない。 てなかんじかな? 2) が間違っているわけですが、これは無限級数をきちんと分析しないとわからない。 つまり >これまでに解決されてきた、数学の多くの証明において、こうした問題が潜んでいないということすら、 >私は納得してしまっていいのだろうか なんて大天才だけに許される尊大さに思い至る前に、自分の粗忽さと無知を反省すべきです。 >無限級数で云々と説明し始めることに抵抗を感じないのか、そこがまったくわかりません。 「無限級数で云々」はこの問題の核心であって、これをスキップすれば何も残りません。
補足
あのね。。。。 もうこないでくださいね。
相変わらず「元いた位置」までしか進めない人だね。 >1. ゼノンの論理展開によれば、アキレスは亀に追いつけない。 そうゼノンは問題設定を行っている。行う操作は常に「亀の元いた位置にたどり着く」なのだからね。 >2. しかし、現実にはアキレスは亀に追い付くことができる。 無限回の試行が実際に行われると考えればね。 >3.ゼノンの論理展開によれば、アキレスは亀に追いつくかどうかを確定できないことを証明すること。 ゼノンは明示的には有限回数だとして述べている。どんなに繰り返しても、とは有限回数ということなんだよ。 >4.ゼノンの論理展開によれば、アキレスは亀に追いつくかどうかを確定できないことを、2の命題とは独立に、証明すること。 ゼノンの設定は有限回数では追いつかないというものだよ。「亀が元いた位置」なのだからね。そんなことも理解できていなかったの? >5.ゼノンの論理展開によれば、アキレスは亀に追いつくかどうかを確定できないことを、2の命題と整合的であることが保証される仮定・概念・論理構造を追加せずに、証明すること。 有限回数では追いつかない、で確定しているんだよ。有限回数で無理なことは現代の数学も認めている。ゼノンの論法を破る、つまり実際にはアキレスが亀に追いついてしまうということとの齟齬を埋めるには、ゼノンの論法内に存在していなかった、無限回数の試行というものを持ち込む必要がある。 簡単に言えば、こういうことだ。n+1個のものを一つずつ数えるにはn回では行えない。n+1個をいくらでも大きくしてよいことにすると、n回もいくらでも大きくなる。両者を一致させるには、無限大の個数と無限大の回数が必要になる。それが実際にあるのか(実無限)、操作として仮想的あるいは帰納法的に定義するか(可算無限)の違いはあるけどね。 仮にそれが「反則」だとするなら(ある立場の人は反則とするかもしれない)、設定された問題内で定義されていないものを持ち込んだ、という点だろうね。ちょっと事情は異なるが、自然数に関する証明で超越数を持ち込むといったことと似ていなくもない。 分かった?
補足
問題が解決しました。 おって、No45のお礼にその内容を書き込みますので、読んでみてください。 楽しみにしてくださいね。
- myuki1232
- ベストアンサー率57% (97/170)
自分のいない間に、適切な補足もあり、ずいぶんと議論も進んでいるようです。補足ありがとうございます。 言いたいことは大体言ってもらったので、違う方向から回答してみます。 > で、そうしたことから、私にとってご説明いただいた中で一番引っかかるのは、回答の中でいわれているメタ情報を(有る無しがわからない状態というような広い意味においてであれ)導入してしまっていることは禁じ手ではないのか、ということです。 ゼノンの論理の中では重要な前提を証明無しに使っています。それは「ゼノンの論理の中で使っている情報は、アキレスと亀の関係を適切に説明できる」という前提です。 具体的には「追いつく・追い越すとは何か」「位置とは何か」「時間とは何か」「距離とは何か」「速度とは何か」という、物理学的な情報であり、これはメタ情報に他なりません。 つまり、「等速度運動」、「時間を無限に分割できる」、「距離を無限に分割できる」といった前提から、「ニュートン力学(の一部)を使用しても良い」という前提を持っていると解釈できるため、ゼノンの論理を否定するときにも当然使用しても良いのです。否定するときに初めて外から持ち込んだ情報ではないからです。 「それはおかしい。メタ情報を使わなくてもゼノンの論理は作れる」という場合、アキレスと亀の関係を適切に説明できるように、何らかの定式化を自分で作らなくてはなりません(論理学にはアキレスや亀なんて存在しませんから)。 これにもやはり問題があります。 1. 作った定式化が正しいかどうか(無意味な定式化になっていないか)を判断するためには、メタ情報が必要である。 2. 自分で作った定式化とは、やはりメタ情報の一種に過ぎない。 深く考えたことはありませんが、うまく定式化する方法があるのかもしれません。しかしそれは、物理学の定式化の一部を再定義しただけのものになってしまうだろうと予想しますし、それを否定するにも同じ方法が使えるだろうと思います(証明にはなっていませんが)。 結局、議論の中にアキレスと亀という物理的実体の概念を持ち込んだ時点で、メタ情報からは逃れられないのです。
お礼
補足にご回答をいただけないのは残念でしたが、myuki1232さんにもいろいろ教えていただきました。ありがとうございました。 自分なりに、結論を出したものを、ちかく#45のお礼欄に書き込む予定でいます。機会がありましたらご覧いただければ幸いです。
補足
ありがとうございます。また少し理解が進みました。 確かにゼノンもいろいろな概念を前提として論理を構成していますね。(ただし私は、時間という概念については、実際速度という概念中に含まれているとおっしゃるかもしれませんが、それとは直ちに同義だとは思いませんが。まあちょっとおいときます) だからもちろん、メタ情報を何も入れなくて証明なんてする必要はないし、第一それはきっと無意味な努力でしょう。 でも、まさにおっしゃるように、ニュートン力学(の一部)を使用しても良い」とした範囲で、彼はメタ情報を導入しただけですから、何でもかんでもニュートン力学なら入れていいとはならず、その境界を(パラドックスを論駁するにはどの範囲まで入れても論駁したことになるのかを考慮して)画定する必要があり、それはゼノンの理論を論駁しようとする側に証明責任があるのだと思います。 私が今考えてみたことを、#38さんの補足に書いてみましたがおかしいでしょうか?(最後のたとえはおいといて)
んー、数学が分からないようだけど、それならゼノンの論法自体が棄却されればいいの? 分かりやすいようアキレスとの会話形式にしてみようか。 ゼ「(アキレスと亀の説明)だから、お前は亀に追いつけないことになる」 ア「その論法に乗ってみようか。じゃ、その亀を亀Aとして、そのだいぶ先に亀Bを置こう。構わないよな?」 ゼ「続けてくれ」 ア「俺は亀Bを見つつ、お前の言う通りにしてみるよ。それも構わないだろ?」 ゼ「続けてくれ」 ア「お前の論法だと、俺は限りなく亀Bに近づくことはできるよな?」 ゼ「そうだと言うしかなさそうだ」 ア「亀Aと亀Bはだいぶ離れてるわけだが、覚えてるな?」 ゼ「ああ、覚えているよ」 ア「なら俺は亀Aを追い越してしまうよな? 亀Aよりだいぶ先にいる亀Bに限りなく近づけるんだから」 ゼ「そうなるな」 ア「しっかりしろ、お前の論法通りで、お前の結論が違ってしまったんだぞ」 ゼ「しかし、お前が亀Aを見ていれば……」 ア「お前の論法って、何を見てるかで結論が変わってしまうものなんだな。役に立つの、それ?」 こんな会話もあっただろうね。 ゼ「(アキレスと亀の説明)だから、お前は亀に追いつけないことになる」 ア「俺が1回目に亀のもといた場所にたどり着く時間より、2回目のほうが時間は短いよな」 ゼ「まあ、そうだな」 ア「3回目、4回目とだんだん必要な時間は短くなるよな」 ゼ「そうだな」 ア「必要な時間はどんどん限りなくゼロに近づいてしまうよな」 ゼ「確かにね」 ア「回数は限りなく繰り返しても、時間も短くなるんじゃ、終わらないかどうか分かんないよな」 ゼ「いや、回数としては終わらないのだから」 ア「それは分かってるよ。例えばだ、1を半分にしても、半分にした二つを足せば1だろ?」 ゼ「それはそうだ」 ア「半分にした一方をまた半分にして、全部足したら1だよな?」 ゼ「そうだ」 ア「何回半分にしようが、元が1なら全部で1だろ?」 ゼ「そうだな」 ア「亀を追っかける場合でも、同じようにならないと言えんの?」 ゼ「それは……」 ア「お前って、1の距離を行く場合でも限りなく半分にしていけば終わらないと言ったよね?」 ゼ「ああ、そう言った」 ア「進める距離と時間は比例するよな、同じ速さで進むとして」 ゼ「すると言わざるを得んな」 ア「じゃあ、距離を限りなく分割しても有限なら、時間限りなく分割しても有限じゃん、比例すんだから」 これを数学でちゃんと解いたのが無限級数の和だよ。どうしてその程度が分からないのか、私には『不思議』なんだけどね。
- tmpname
- ベストアンサー率67% (195/287)
質問者さんの書いた事をまとめると 質問者さんは、ゼノンの論理を否定するのに、無限級数とかそういうメタ的な議論を持ち込むのはなんとなく反則のような気がしている。 で、私の回答としては、 *通常の数学体系のもとに議論しているという前提であれば(そういうゼノンの論理からすれば「メタ的な」議論をしているという前提であれば)そのような議論の手法は普通に許される。 *そういうメタ的な世界(の一つ)で、ウサギが亀に追いつく、という結論が出れば、「ゼノンの論理(だけ)から『ウサギは亀に追いつかない』という結論がでる、というのは間違っている」という結論を出して良い。 *一方、そうした「通常の数学体系」(の少なくともある一部)を使う事を認めない、というのであれば、ゼノンの論理と、「結局(その世界では)ウサギは亀に追いつかない」という世界も作れる。 *つまり、さっきの「無限級数とかそういうメタ的な議論」(の少なくとも一部)を使う事を認めないと、ゼノンの論理は否定できない といった感じに一旦まとめてみました。
補足
ありがとうございます。#40さんのコメントで示唆が得られるような気もしますが、ひとまずもう頭を整理しちゃったので、以下のコメントは、#40さんのコメントを理解する前のコメントとしてご理解ください。 長いことお付き合いくださいまして、ありがとうございます。 もう面倒でしょうから、もうご回答をいただかなくても結構ですが、もう少し整理すると、私はこのように考えます。 (本当に皮肉ではなくて、あんまり申し訳ない気がしています) もういちど、#25さんの定式化に戻ると、 1. ゼノンの論理展開によれば、アキレスは亀に追いつけない。 2. しかし、現実にはアキレスは亀に追い付くことができる。 パラドックスを「解決する」とは、この矛盾を解消すること、今回の場合は 2. が正しいことはだれも疑っていないので、1. が間違っていることを説明すること、そして、1が間違っていることとは、ゼノンの論理展開によれば、アキレスは亀に追いつくかどうかを確定できない。ということだと教えていただきました。その論旨は理解しました。 でも、私はこれはまだ十分条件ではないと思います。 十分条件であるためには、 3.ゼノンの論理展開によれば、アキレスは亀に追いつくかどうかを確定できないことを証明すること。 では足りなくてなくて、 4.ゼノンの論理展開によれば、アキレスは亀に追いつくかどうかを確定できないことを、2の命題とは独立に、証明すること。 もう少し拡張すると、 5.ゼノンの論理展開によれば、アキレスは亀に追いつくかどうかを確定できないことを、2の命題と整合的であることが保証される仮定・概念・論理構造を追加せずに、証明すること。 でなければならないとおもいます。 でないと、 ゼノンの論理展開によっても、2の命題と整合的であることが保証される仮定・概念・論理構造を導入すれば、アキレスは亀に追いつくかどうかを確定できない。というのでは、そりゃあ、2が保障される前提条件を入れて考えたら、2が正しいって言うことと整合的な結論しか出ないはずだから、1の命題は否定される結果が出るよな、っていうことで、ほとんど私に言わせれば、トートロジーだってことになってしまいます。 だから数学的にも、5の命題を、「2の命題と整合的であることが保証される仮定・概念・論理構造を追加せずに、」論証していることを含めて論証して、初めて証明したことになるのではないでしょうか? 例としては、十分に理解していないのでイメージだけのたとえと思っていただいて結構ですが、たとえば、ご指摘いただいた時間概念Tがどういう時間なのかわかりませんが、これは、普通でいうところの、アキレスと亀が同地点につくまでの時間じゃないのでしょうか?(ちがっていたらごめんなさい)それで、その「時間」っていう概念は、通常の時間と同じで、速度と掛け算すると、距離が出てしまうものではないのでしょうか?だとすると、四則演算を禁じ手としていないなら、もうTという概念を導入してしまった時点で、すでに追いつけることを含意してしまっているような感覚があります。(いや、ほんとにイメージですよ。)
- tmpname
- ベストアンサー率67% (195/287)
面倒なので、アキレスという名のうさぎにします。 > で、その禁じ手の範囲をどうとるのが妥当かということですが、わたしが直感的におもうのは、その言語(ここでいえば、ここで使っているタイプの数学)の理屈からみて、メタの判断を要することなので、その言語内ではその範囲の妥当性は論証できないものなのではないかとおもうのです。間違っていますでしょうか? これは、一旦使う「禁じ手」の範囲は、この範囲とする、と決めてしまって議論を進める以外にありません。ひょっとしたらもう少し狭い「禁じ手」の範囲で、「ゼノンの論理からはウサギが亀に追いつけない」ことは導けるかもしれません。どこまで狭い範囲で「ゼノンの論理からはウサギが亀に追いつけない」ことが証明できるかはそれ自体議論できることですが、そういうことは、本当にそういう議論が必要になった時にすればよい。通常は「通常使う数学の世界で」言えればよい(という風に考える)のです。 で、「通常使う数学の世界で」も真偽が良く分からん命題があって、その時に本当に禁じての範囲をどこまで広げる必要があるかを悩む必要が出てきます。 > で、そうしたことから、私にとってご説明いただいた中で一番引っかかるのは、回答の中でいわれているメタ情報を(有る無しがわからない状態というような広い意味においてであれ)導入してしまっていることは禁じ手ではないのか、ということです。さらにいえば、それを導入した際の、「(通常世界の論理で)これはこれは全てある時刻Tより以前の出来事であることは証明出来る。」というのも、禁じ手とすべきロジックを使っての証明なのではないのか?ということです。そういうことは数学では論点にならないのでしょうかね? どういう手を導入するかを明確にすることが重要なのです。「(通常世界の論理で)これはこれは全てある時刻Tより以前の出来事であることは証明出来る」というのは、この文章の通り「通常世界の論理で」証明できることであって、それ以上でもそれ以下でもないのです。ですから、「通常世界の論理」を封印するとなると、別の結論がでる可能性は十分にあり得るわけです。 > なぜ、皆、無限級数とかで納得してしまって、これを驚き続けることがないのか それは、結局「通常世界の論理で」は無限級数とか平気で使えるから、という他にありません。つまり、通常は「通常世界の論理」以外の事を特に考える必要はなく、「通常世界の論理」をバンバン使う(という普通の事をする)と、ゼノンの論理からはウサギは亀に追いつけない、という結論は出せない、という結論が出る(繰り返しになりますが、「ゼノンの論理からウサギはカメに追いつける、という結論が出る、ではないです)、それで十分なのです。
- tmpname
- ベストアンサー率67% (195/287)
> メタ情報のない世界では、「アキレスが亀に追いつく」は、矛盾がありますよね? 矛盾があるかどうかは「分からない」です。 一般論として、メタ情報のない世界である命題に既に矛盾があることが分かっている 時は、何のメタ情報を付け加えてもその命題に矛盾があることは取り除けません。 理由は簡単で、なぜならそのメタ情報抜きでその命題から矛盾が導けることの 証明が既にあるからです。(これも結構重要です。結構勘違いしやすいから)。 で、メタ情報の「種類」によって、その命題の真偽が変わる、というのが、 (メタ情報がない世界では)その命題の真偽が分からない、ということの一般的な 『証明』になります。 > ともかく、メタの情報が有る無しによって、どっちにしても、 > 追いつけるかどうかという命題の真偽値は一意的に決まるんじゃないんでしょうか? これもさっきと同じで、メタ情報がない段階で真偽が決まっているのなら、 どんなメタ情報をいれても真偽は変わらない。 で、もしあるメタ情報を入れると(入れてない段階で定まっていた)真偽が引っくり返る ことがあれば、それは「入れたメタ情報に矛盾がある」ことを示しています。 > 真偽値が定まらないってことは、メタ情報があるのかどうかがわからない > 世界、ってことですか? というより、メタ情報次第によって真偽が引っくり返る命題、ということです。 > その解決にメタ情報を導入する、あるいは、メタ情報があるかないかが > わからないという前提を導入するというのは禁じ手だと思うんですが、 > 違うんでしょうかね? つまり、数学ではそれを禁じ手としないのです。で、そうしたメタ情報を 導入するということを、きちんと数学(とか論理学)とかの手法に従って 慎重にやる、ということを数学では行う。これをいい加減に行うと わけが分からなくなるのです。 繰り返しになりますが、メタ情報を突っ込まないで真偽が確定する命題は それでよい。それが分からない時に、異なるメタ情報を突っ込んでもとの命題の真偽が異なる、 かつ矛盾のない別の世界が仮に作れた時、それが元々の命題は「メタ情報のない段階では 真偽が確定しない」ということの「証明になる」、そういう「証明」を行うのです。 例えば有名な「連続体仮説は、通常の数学の公理からは真偽が決定できない」(1963, Cohen) というのも、正に通常の数学の公理の上に更に別の「メタ公理」をつっこんで、 連続体仮説が真になる世界、偽になる世界を別別に作って、それをもって証明とするのです。 > 結局パラドックスの解決というのは、何を持って解決なんでしょう? それは結局 (通常の世界で)ゼノンの論理と「アキレスがカメに追いつける」ことは「矛盾しない」 ことをいえばよい。なんだか繰り返しのように見えますが、「矛盾しない」ことを 言えばよいのであって、ゼノンの論理それ自体から「アキレスがカメに追いつける」ことを 証明する必要はない。そこでは、通常の世界で用いる(ゼノンの論理からみればメタ)論理を ばんばん使うのです。 同じことを繰り返しているように見えるかもしれませんが、出来るだけ整理すると、 *アキレスが亀がいた地点に付いた時には、亀はもう少し先にいる というのは、通常世界では「これは正しい」、この事自体で(通常世界に)矛盾は生じない。で、通常世界では、 (通常世界の論理で)これはこれは全てある時刻Tより以前の出来事であることは証明出来る。 よって、時刻T以降に何が起こっても特に矛盾は起こらない。 よって、通常世界の論理でゼノンの論理と「アキレスがカメに追いつける」ことは「矛盾しない」。 これは、繰り返しになりますが、ゼノンの論理からすればメタ論理になる通常世界の論理を ばんばん使った証明です。通常世界の論理をバンバン使って矛盾がないことを言えれば、それでよいのです。 で、この事が、(メタ論理抜きで)ゼノンの論理だけから 「アキレスがカメに追いつけない」『ことは証明できない』ことの『証明になる」。先程もいいましたが、 「アキレスがカメに追いつけない」ことが(メタ論理抜きで)証明できるのであれば、通常の世界でも 「アキレスがカメに追いつけない」ことが証明できるはず。ところが、(通常の世界の論理をばんばん 使った論理展開で)通常の世界ではゼノンの論理と「アキレスがカメに追いつける」ことは矛盾しない。 「これは矛盾なので」(メタ論理抜きで)ゼノンの論理だけから 「アキレスがカメに追いつけない」『ことは証明できない』ことが証明できたことになる、ということです。 余計悩ませてしまったならごめんなさい
補足
ありがとうございました。 とても丁寧にご説明いただいたので、すぐに何か書き込むのは失礼だと思い、ともかくできる限り咀嚼してから補足させていただこうと思いました。また、せっかくなので、少しインターネット上の情報も調べました。勉強になりました。 ここでご説明いただいたことは、その表面の範囲ではよくわかりました。私にレベルをあわせてできるだけ簡単に説明いただいたこともよくわかっています。ありがとうございます。そしておそらく、それ以上の数学的解釈は私には簡単には理解できないのだと思います。でも、きっと数学には数学なりにきちんと考えて導かれた説明なのだろうとは予想できます。 でそれを前提とした上でのことですが、もう一つだけ質問させてください。 私が先の質問の最後で、パラドックスの解決とはなにか?という問題を提起したのは、もう少し別の意味もありました。それは、それが一般の数学的証明問題とは異なるはずだとおもうからです。なぜなら、もともと、(この例でいえば、ゼノンの)理屈がおかしいことは誰でもわかっているので、その誰でも知っていることを論証しうる論理の一定範囲を使用しないというルールを導入しなければならないはずだからです。つまり、私の言葉でいえば、禁じ手の範囲の明確化です。 ごくかんたんにいえば、お互いの速度(V, v) がわかっていたら、L/(V-v)の時間後にはともに同じ位置にいることが証明できる、だからゼノンは間違い、ハイ終わり、では証明にならないとしなければならないはずですからね。 たとえ、入り口のところを、ゼノンの議論に「似た感じ」の無限級数にしたとしても、後はOKというわけにはいかないはずでしょう。このようなことは一般の証明問題では発生しないので、その意味で、一般の証明問題と違うはずですよね。 で、その禁じ手の範囲をどうとるのが妥当かということですが、わたしが直感的におもうのは、その言語(ここでいえば、ここで使っているタイプの数学)の理屈からみて、メタの判断を要することなので、その言語内ではその範囲の妥当性は論証できないものなのではないかとおもうのです。間違っていますでしょうか? で、そうしたことから、私にとってご説明いただいた中で一番引っかかるのは、回答の中でいわれているメタ情報を(有る無しがわからない状態というような広い意味においてであれ)導入してしまっていることは禁じ手ではないのか、ということです。さらにいえば、それを導入した際の、「(通常世界の論理で)これはこれは全てある時刻Tより以前の出来事であることは証明出来る。」というのも、禁じ手とすべきロジックを使っての証明なのではないのか?ということです。そういうことは数学では論点にならないのでしょうかね? もちろん、私も、それが禁じ手であるということを積極的に肯定する理屈がある訳ではありません。ただ、そこまで高度な理屈を働かせていないとはいえ、自分の中で当然と思えるその禁じ手の範囲そのものが、もしかすると、わたしの「不思議な感じ」の源泉なのかも知れません。だから、そうした手段を導入した「解決」を解決として受け取れないのだと思います。 少し調べた範囲では、このパラドックスの扱いは数学と哲学では異なっている、ということのようですね。そしてwikipediaによれば、「哲学的には、数学的な前提に立った場合のように、このパラドックスは「間違っている」とは見なされない。」ということのようです。それはおそらく、この禁じ手をどう考えるのか、ということに関わっているのだと思います。 何れにしても、元々の私の問題にもう一度戻らせていただくと、そうしたことも含めて、もしきちんとした理屈が数学にあるとしても、(いやおそらくあるのでしょう。)それは、ここでご説明いただいた様子から推し量るに、かなり高度な理解を要するものと予想され、そういうことまで数学を理解している人というのは、それこそそんなにいるはずもないのに、なぜ、皆、無限級数とかで納得してしまって、これを驚き続けることがないのか、改めて不思議に思います。 ともかくとても勉強になりました。ありがとうございます。
お礼
【ありがとうございます。問題が解決しました!!!(みなさんにむけて)】 ありがとうございました。おかげでどこに問題があったのかはっきりしました。 まさにtmpnameさんのおっしゃることが数学では証明になる、しかし日常言語とは乖離している。その差が問題だったのでした!!!! (tmpnameさんは、ときおり(それが数学では証明になる)とカッコ書きを挿入することを忘れませんでした。私がこうしてここに議論を整理できるようになったのも、その数学を客体化した視線からのご指摘をいただいたことによるところも大きいです。改めて、その知的姿勢に敬意を表しつつ、感謝したいと思います) 数学は混乱を避けるためにそういう約束事をした、だからそれはそれとして尊重しよう。しかし、日常言語には曖昧なところもあり混乱もしがちであるが、であるがゆえに、数学より幅広いことを指し示しえる。このため、日常言語の論理はきっちり数学の論理には翻訳されえない、互いの論理が一部乖離しているということが、厳然たる事実としてある、そのことを失念してはいけない。 そしてもちろん、我々は、日常言語は、先ずもって日常言語の論理をもとに使われているとして理解することから始める。 この「アキレスと亀のパラドックス」の「驚き」の源泉は、その日常言語の論法によるところがきわめて大きい。それが日常言語で、その論理をもって、説明されているからこそ、アキレスと亀は「驚き」のパラドックスなのであったということです。日常言語の論理が現実を写し取れていない、(それはある意味当然ですが、それにしても、)そのことを直接に我々に突きつけてくるからこそ、それは「驚き」なのでした。 ところが、それを別の論理構造を持つ数学に「翻訳」してしまうと、それは比較的容易な証明問題として定式化される。ただし、その定式化は、「驚き」の所在をまさに回避した形でおこなわれてしまっている。 だとすれば、別の理由を持って始められた作業ならそれでもいいが、「驚き」の源泉を探求しようとするのであれば、それは問題を解決したことにはならない。「禁じ手」を「禁じ手」と思わない考え方は、数学とは整合していても、日本語の論理を理解しているとはいえない。であるがゆえに、そうした数学的理解は、「アキレスと亀のパラドックス」をある「解釈」で理解しているとはいえても、「アキレスと亀のパラドックス」の「驚き」を解明したとは到底いえない。 具体的にはどういうことか? それはすなわち、ごく簡単に言うと、ゼノンの議論は、三段論法と似たようなものではありますが、数学上の三段論法そのものではないということなのです。ゼノンは「AならばB」といったのではなく、「AゆえにB」といったのですから。 そうです! ゼノンは「AならばB」ではなく、「AゆえにB」といったのでした!!!! 日常用語としての「ゆえに」には、数学的「ならば」には含まれていない、しかしきわめて重要な、「論証関係」ともいうべき関係性が含意されています。「ならば」と「ゆえに」が(互いに意味の重なりがあるとはいえ、)完全互換可能でないことは、自分の言葉で試してみるだけでも簡単にわかるでしょう。 このため、「Aであって、かつBでない」世界が存在することを証明しただけでは、ゼノンのパラドックスを論駁したことにはならない。論証があり得るとすれば、それは、すくなくとも、「Aであって、かつBでない」世界があることを、「Bでないことと整合的であることが保証される仮定・概念・論理構造を追加していないこと」とともに論証したものでなくてはならないのです。 考えてもみてください、数学が存在することを証明した、「Aであって、かつBでない」世界とはなんでしょうか?それはつまり、「アキレスが亀の元の位置までたどり着いたときには、亀は必ずさらに前に進んでいる」ことと「アキレスが亀に追いつく」こととを同時に成立させる世界です。それはつまり、そう、この我々の世界です!つまりわれわれは、数学に論証してもらうまでもなく、両者が同時に成立する世界があることを了承しています。逆に言えば、数学がしたことは、この現実世界を数学的に記述したにすぎない。 そうした「現実」がここにはある。それはゼノンだって知っています。それをゼノンは、「ゆえに」という論理で、前者と後者を(後者を否定形にして)結びつけてしまった。その論理と現実の矛盾こそがパラドックスなのです。だから、現実を数学的に表現しただけでは証明にならないのは明らかなのです。 数学の言葉に直せば、「Aであって、かつBでない」世界の存在証明は、「AならばB」を否定するための正当な論証ではあっても、「AゆえにB」を否定する論証にはならないということです。 たとえば、「無限」を導入して、「アキレスは亀に本当は追いつくのだ」などといってみても、そこでの「無限」なる概念は、実際にアキレスが亀に追いつく世界像(モデル)と整合的であることがあらかじめ保証されているので、その概念に依拠した「証明」は、壮大なる循環論法、もしくはトートロジーに過ぎない。それは本当の意味での「驚き」の解明では決してないということなのでした。 ちなみに、少し調べていて、私のいいたいことをぴったり言ってくださっていらっしゃる方を見つけました!!もし、上に説明がわかりにくければ、「ゼノンの逆説について質問です。 「足の速いアキレスも、のろい亀には追いつけ...」というnaoe35frontさんの質問に対する、sarurusa2012000さんの回答をみてください。とてもわかりやすく、私のいいたいことを説明してくださっています。 もともとの私の質問(の一部)は、「なぜ、多くの人が、自信を持って、ああそれはね、無限級数で云々と説明し始めることに抵抗を感じないのか、」そこがまったくわかりません。ということでした。そして、そういう質問のしかたをしたにもかかわらず、たくさんの人が、その文章そのままの様子で、ああそれはね、と話をされたということ自体、私にはおどろくべき発見でした。 しかし、その質問にたいする答えもどうやらみえてきたようです。それは、おそらくは、この数学と日常言語の差に対する「感受性の欠如」と、(tmpnameさんのように(それが数学では証明になる)と留保をつけることのできる方はとてもまれで、)数学的に正しければ普遍的に正しいはずという「先入観」がひどく強固なものである、ということなのだとおもいます。 問題は一応解決しました。すごくすっきりしました。 長いことお付き合いくださいまして、ありがとうございました。 みなさま、「アキレスと亀」、本当に不思議ですね! いや、びっくり!!!
補足
ありがとうございます。 頭がおかげでだいぶすっきりしました。 しばらく様子を見てから、お礼に書かせていただきます。(なお、そこでのお礼は、tmpnameさんのみならず、ここで書き込まれた多くの方々に向けて書く面がありますので、一部、tmpnameさんに対するお礼としては必ずしも適切でない表現もあるかもしれませんが、tmpnameさんには素直に感謝しておりますので、その点、誤解なきようお願いします。)