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スッタニパータ § 5 彼岸にいたる道の章
- ドータカさんが仙人に質問し、仙人が答える対話が描かれています。
- 仙人は賢明であり、自己の安らぎを学ぶようにとアドバイスします。
- また、仙人は疑惑から解放されるようにドータカを導くと説明します。
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こんばんは nyanko編 (スッタニパータ改) 「センセーイ、センセーイ! このことをわたくしに教えてくださ~い。あなたのお声を聞いて、自分の安らぎ(ニルヴァーナ)を学びま~す。」 釈尊「この(わたしの口)から出る声を聞いて、自己の安らぎを学べ。そなたが最上の真理を知るならば、それによって、そなたはこの煩悩を渡るであろう。伝承によるのではない、まのあたり体得されるこの安らぎを、そなたに説き明かすであろう。それを知ってよく気をつけて行い、世の中の執著を乗り越えよ。」 「センセーイ わたしはその最上の安らぎを受けて歓喜しま~す。それを知ってよく気をつけて行い、世の中の執著を乗り越えま~す!」 釈尊「上と下と横と中央とにおいてそなたが気づいてよく知っているものは何であろうと、──それは世の中における執著の対象であると知って、移りかわる生存への妄執をいだいてはならない」 そこで、いきなり結論なのですが、 > このひとくだりにおいて どこか知性を感じるところはありますか? いわゆる「自己啓発」本の”まえがき(序章)”ならば、よくできていると思います。 ですが、知りたいのは、本編かと思われます。 第一章 ニルヴァーナとは? 第二章 安らぎを得る方法 たった3分で安らぎを! ・ ・ ・ ですが、[スッタニパータにおいて]これらが具体的に示されていないところに問題があるのだと思います。 このため、[哲学的]知性は感ぜられない。これが小見でございます。 どうも失礼致しましたm(_ _)m
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面倒なので引用がてきとうです。 おかげで、ニルヴァーナにまだまだ多様な 解釈があるのだということがわかりました。 スッタニパータ 中村元 註釈 1061 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ この文章から見るかぎり、安らぎを実現するために学ぶことが、ニルヴァーナであり、 ニルヴァーナとは学びつつ(実践しつつ)あることにほかならない。 中略 この詩の原文によって見る限り、学び実践することがニルヴァーナであると漠然と考えていたのである、と 解することができよう。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 註釈 1064 ここでは、徹底した<自力>の立場が表明されている。仏は、人々を救うことが出来ないのである。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 註釈 1070 ニルヴァーナというものは、固定した境地ではなくて、<動くもの>である。 中略 われわれが、ホッとくつろいだときには、その安らぎの境地を増大させることができる。 それと同様にニルヴァーナを栄えさせ、増大させるか、あるいは少なくとも作りすことのできるものだと 解していたのである。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
お礼
ご回答をありがとうございます。 いえ。中村元には納得行きません。 ▼ ~~~~~~~~~~~~~~~ 安らぎを実現するために学ぶことが、ニルヴァーナであり、 ニルヴァーナとは学びつつ(実践しつつ)あることにほかならない。 ▼ ~~~~~~~~~~~~~~ この詩の原文によって見る限り、学び実践することがニルヴァーナであると漠然と考えていたのである、と / 解することができよう。 ▼ ニルヴァーナというものは、固定した境地ではなくて、<動くもの>である。 ☆ 中村元 狂えり。これだったら 赤ちゃんのときから子ども時代も 社会人となったときも いつも ひとは ニルワーナにあり。となります。 赤ちゃんは無理としても 《執着・離れる・やすらぎ》の三つの言葉を用いることが出来る人なら皆 すでにニルワーナにあり。となります。 例外は 《安らぎ》が嫌いな人です。安らぎは要らないという場合は 例外です。 となりませんか? 中村元は 屁理屈ではありませんか? ▼ 漠然と考えていたのである ☆ これなら 誰でもが出来ます。 ▼ <動くもの>である。 ☆ 日から日へ 特別何も考えていなくても 人とその生活には 《変化》はあるでしょう。ならば 《動くもの》なるニルワーナにあり。と言えましょう。 ▼ 安らぎを実現するために学ぶこと / 学びつつ(実践しつつ)あること ☆ これは ですから 安らぎを嫌いでなければ 誰でも学びたいと思っています。何から手をつけてよいか分からなくても いつも素直に学びたいと思っています。それだけでも 実践に入るはずです。 ▲ 1064 「ドータカよ。わたしは世間におけるいかなる疑惑者をも解脱させ得ないであろう。ただそなたが最上の真理を知るならば、それによって、そなたはこの煩悩を渡るであろう。」 ▼ 註釈 1064 ここでは、徹底した<自力>の立場が表明されている。仏は、人々を救うことが出来ないのである。 ☆ 注釈も めちゃくちゃである。のではありませんか? 前文では 《疑惑者》に限っては 解脱させ得ないと言っているのではありませんか? そのひとつの可能性もあるかと思いました。 後文では あまりにも当たり前のことを言っています。 ▲ 最上の真理を知るならば、それによって、そなたはこの煩悩を渡るであろう ☆ すなわち 《真理を知れば 解脱する》と言うのです。当たり前です。解脱するためには 《真理を知ればよい》はずなのですから。真理とは そういうものを言っているはずなのです。さとりの知恵 解脱のための般若のことなのではありませんか? 堂々巡り論法です。 ▼ ~~~~~~~~~~~~~~~~~ われわれが、ホッとくつろいだときには、その安らぎの境地を増大させることができる。 それと同様にニルヴァーナを栄えさせ、増大させるか、あるいは少なくとも作りすことのできるものだと 解していたのである。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ この文章が言っていることは 《ひとは やすらぎを欲している。願っている。なら つねにニルワーナにあり》です。 やすらぎが要らないという人は 例外だということになります。 ことば遊びです。ふざけたヤローだと考えられます。
- NemurinekoNya
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こんにちは。 ただゴーダマを賛嘆しているだけで、中味ないですわね~。 オシエとして汲むべきものは、何もない。 さすがに、これは、わたしも弁護できない1! フォローできません。 白旗をあげちゃいま~す。 無条件降伏でございます。 まぁ、それでも無理やり何かを言おうとすれば、 ゴーダマの説法は言葉だけによるものではない。 彼の姿や立ち居振る舞いを目にするだけで、人々は感化された、教化された。 こういうことは、日常でも起こり得るので、そういうこともあったのではなかろうと・・・。
お礼
ご回答をありがとうございます。 確認できたとすれば これにまさるさいわいはありません。 ◇ ~~~~~~~~~~~~ ゴーダマの説法は言葉だけによるものではない。 彼の姿や立ち居振る舞いを目にするだけで、人々は感化された、教化された。 ~~~~~~~~~~~~~ ☆ そのあと このドータカさんのように話を聴く機会があったときには がっかりでしょうね。としっかりと批判を述べておきます。
お礼
いやぁ じつに言いたいところを 簡潔にこれ以上やさしくは語れないと思えるほど しかも全体として――つまり その対話が まだ入口であり前書きでしかないゆえ 本論へとどう展開されて行くかをも含めて全体として―― 明らかにしてもらっています。 ご回答をありがとうございます。 いや もう言うことなしです。 じっさい 本編はそうなるはずです。 ★ ~~~~~~~~~~~ 第一章 ニルヴァーナとは? 第二章 安らぎを得る方法 たった3分で安らぎを! ~~~~~~~~~~~~ ☆ 《執着・離れる・やすらぎ》の鍵語は 明らかにされたわけですから あとは どうすればよいか(第二章)とそしてそうすれば どういう状態になるのか(第一章)が説明されれば 完結です。 すでにほかのところで取り上げましたが 《執着→離れる→離れようとすることへの執着→離れる→・・・》という堂々めぐりの問題もあります。つまり 《執着を離れる》と意識した途端にその意識から離れなければならない。という意志行為を始めた途端に それ自体からも離れなければならない。・・・・という問題です。 ですから このドータカの質問としてまとめられたひとくだりは 序論であって まだ本論には入っていない。と言わねばならないはずです。 ★ このため、[哲学的]知性は感ぜられない。 ☆ と質問者も思います。ありがとうございました。