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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:宗教と音楽理解)

宗教と音楽理解に関する疑問

このQ&Aのポイント
  • 宗教と音楽理解についての疑問について考えてみました。
  • 無宗教である私がキリスト教のミサ曲を歌うことについて疑問を持っています。
  • 宗教心のない者が宗教曲を歌うことは失礼なのでしょうか?信者にとっては不快なのかもしれません。

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.2

#1です。ご丁寧な回答ありがとうございました。あとで私の回答を読んでご質問にあまり応えていない部分もあるなあと思いましたので、補足を。 キリスト教徒と言っても、しょせん人間ですのでいろんな人がいます。優しい人もいれば気むずかしい人もいます。熱心な信仰がある人もいれば、なんとなくという程度の人もいます。なので、キリスト教徒だからと言って別に特別な訳じゃないと思いますよ。 でもミサ曲やレクイエムを歌って、崇高な気持ちになって、人々の幸せを求める気持ちを感じるとかいうような感覚を音楽的な面から覚えるのも、信仰があるかどうかは別にして、あると思いますよ。私はキリスト教に信仰がなくても、音楽的に素晴らしいと思えるのであれば、一緒に歌を楽しむのはそれはそれで素晴らしいことだと思います。 私もときどき声明(しょうみょう=仏教の読経)を聴きに行ったりしますが、仏教のことはよく分からなくても、人間の声によるよどみない唄いに身を任せると、「ああ、いいなあ」と思ったりします。 お友達が不愉快に感じたのは、私もいまひとつよく分かりませんが、その方は熱心な信者さんで「うわべだけの知識や感覚でキリストの教えをわかるかのようにいわないで」と言いたかったのかもしれません。仮に私だったら、「せっかくミサ曲を歌うんだったら、歌詞の背景にあるキリスト教の考え方を知るいい機会じゃないの?」と言うかな? 今練習しているミサ曲だけじゃなく、モーツァルトはハ短調ミサ、戴冠式ミサ曲といった大曲のほかに、ミサ・ロンガK.262などの比較的中規模な作品もいっぱいあります。ハイドンもミサ曲をたくさん残していますし、教会のオルガニストとして活躍したグノーやブルックナーもミサ曲を残しています。 そうした、今練習している作品以外のCDを聴いて、同じ聖句をそれぞれどういう作曲の仕方をしているかを聴き比べてみると、前回述べたようなミサ曲の一定の法則性が見えてきておもしろいと思いますよ。 まあ、固く身構えずに、歌うことにいっぱい楽しんでくださいね^^

simamike
質問者

お礼

再度のご丁寧なお答えを頂きながら、昨日はPCを開けずに失礼いたしました。 >私はキリスト教に信仰がなくても、音楽的に素晴らしいと思えるのであれば、一緒に歌を楽しむのはそれはそれで素晴らしいことだと思います。 そうおっしゃっていただける方があるという事はとても嬉しいです。viva_chiru様のおかげで友達が気分を害した理由も少し解った気がするので、私の言い方が悪かったということを注意深く彼女に伝えたいと思います。 私が通っていた音楽教室の先生は二期会のバスであり、お寺の住職さんでした。だから私には、舞台で神様を称える歌を歌い、家に帰るとお経を唱えるという事が不自然に思えないんです。人間の思いは同じだな、と。声明も美しいですよね、私も好きです。 今練習しているのはモーツアルトのハ短調ミサk427です。メリスマが多くて苦戦していますが、出来上がればとても美しい和音になるのでがんばります。 数年前にフォーレのレクイエムも歌いましたが、当時は音符と歌詞を覚えるのに精一杯で意味まで追求していませんでした。 >前回述べたようなミサ曲の一定の法則性が見えてきておもしろいと思いますよ。 是非そうします。お勧めいただいた曲から聴いてみます。 本当に重ね重ねのご好意を、ありがとうございました。

その他の回答 (1)

回答No.1

キリスト教徒でモーツァルトのミサ曲も歌ったことがある者です。 ミサ曲はカトリックのミサのときに用いるラテン語の典礼文(祈祷文)から成っていますので、単なる対訳だけでは意味がまったく分からないのももっともです。 私としては、キリスト教に信仰心がない人がミサ曲を歌うからと言って別にどうとも思いません。たとえば、東京芸術大学の学生が毎年「メサイア」を歌っていますが、果たして歌詞の出典元の聖書の言葉を理解しているかと思えば、はなはだ疑わしいものです。 音楽的に優れていれば聴衆としてはそれで満足すると思います。 ただ、キリスト教を音楽面だけで消化するのはちょっと乱暴かもしれません。そもそも教会音楽は、「神」を賛美する言葉に、心理的にさらに高貴な感覚を抱かせるために音楽をつけて発展したので、音楽だけでキリスト教を理解するのはかえって難しくすることになると思います。 ミサ曲は音楽的にも一定の法則性があります。 キリエ(憐れみの賛歌)は「原罪」を背負って生まれてきた人間に憐れみをくださいと歌うので、おおむね静かに祈りを秘めた感じになります。だいたい短調。 グローリア(栄光の賛歌)は、崇高なる神を賛美するので、たいていきらびやかな賛歌になり、それを盛り上げるためにin excelsis Deoはポリフォニックになる(Deoは「神」という意味)。そして、歌い上げたことが真実であるようにAmen(そうでありますように)もポリフォニックになる。 クレド(信仰告白)は、ミサ曲のなかでも根幹に当たります。ここでキリストは人間にとってどういう存在なのかが語られます。すなわち、イエス・キリストは唯一の神であり、キリストは私たちのために犠牲になり、そして復活したと述べられます。キリスト教徒にとって、あらゆる罪を背負って十字架にかかり、そして復活したことを信じるかどうかが信仰のポイントになります。したがって、十字架にかかるという意味の「Crucifixus」という部分は非常に悲劇的な感じに描かれ、そして復活したとういう意味の「resurrexit」という部分からは希望にみちみちた明るくなるという対照的な部分が、クレドの勘所と言えると思います。 サンクトゥス(感謝の賛歌)&ベネディクトゥス(ほむべきかな)は、私たちのために力をそそいでくださった神に感謝し、神の名をたたえます。 アニュス・デイ(平和の賛歌)は、私たちは神の子羊であり、世界に平和を祈ります。「dona nobis pacem!」は、キリエから始まったもろもろの祈りをまとめて、最後に「この地に平和あれ」と唱えるので、大規模で華々しいポリフォニックな構造をとることが多いわけです。 まあそんなわけで、多少歌詞の背景にあるキリスト教の考え方を理解すると、結局音楽的な意味合いも理解できると思います。

参考URL:
http://www.tcat.ne.jp/~eden/Hst/dic/missa.html
simamike
質問者

お礼

早々のご丁寧なご回答を頂き、ありがとうございました。私の質問が、またキリスト教の方々に嫌な思いをさせるだけになるのではと不安に思っていたので、viva_chiru様のお優しい文にとても安心しました。 解説いただきました詳細もとても解りやすく、今練習しているミサ曲が「そうそう!この気持ちだ」とか「そうだったのか!」と頭でイメージできました。とても嬉しいです。 >歌詞の出典元の聖書の言葉を理解しているかと思えば、はなはだ疑わしいものです これについては、友達も「そもそも翻訳者も解っていない譜面がある」と怒っていました。 >多少歌詞の背景にあるキリスト教の考え方を理解すると、結局音楽的な意味合いも理解できると思います。 そこが知りたかったのです。音楽という人間の共通言語を用い、生きる上での自分の不安や理想・希望等を想起し、その上でキリスト教の基本的な考え方を知れば、自分なりに宗教曲を解釈できると思ったのです。 URLも拝見しました。ミサ曲が歌われる流れが解り、皆様方の真摯なお気持ちがそこにあることが感じ取られ、とても厳粛な気持ちになりました。私の友達が不愉快に感じたのは、私が「完全にキリスト教を受容することは出来なくても、少しでも心理的な共通性を感じたい」と思って尋ねたことが、「そんな軽々しく扱われたくない」と思わせてしまったのかもしれないと思い当たりました。viva_chiru様のおかげで、彼女の苛立ちが少し解った様に思います。 デリケートな質問に対し真摯なお答えを頂き、本当にありがとうございました。