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ローマ教会・コンスタンティノープル教会について。。
中世のローマ教会とコンスタンティノープ教会。。。 勉強しているとその2つの教会が出てきたあとにギリシア正教会、ローマ・カトリック教会という教会がでてきます。 この4つの教会の流れ、関係を教えてください。頭がこんがらがっています(T_T)‘‘
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まず、キリスト教の大まかな歴史の流れを理解しましょう。 キリスト教は紀元前後にユダヤ教から分離成立した宗教です。 この時代、ヨーロッパ地方全土を支配下に置いていたのはローマ帝国です。 ローマは多神教の国であり、一神教を信奉するユダヤ人を理解できませんでした。 なので、ユダヤ教は異教として弾圧されていました。 そのユダヤ教からキリスト教が派生していくことになります。 で、長い長い弾圧の時代を生き抜いたキリスト教は、徐々にユダヤ人以外にも受け入れられていきます。 その辺りから年表にすると下記のようになります。 313年、ミラノ勅令によってキリスト教はローマ帝国でも正式な宗教として認められます。 325年、ニカイア宗教会議によって教義や聖書の見解を巡って争っていたのを、皇帝コンスタンティヌスの呼びかけた会議で統一しようと会議が行われます(ニカイア宗教会議) 375年、ローマ総司教座のダマスス1世が新約聖書のペテロについての表記から、ローマ司教こそペテロの後継者であるという「思想」を表明(他の司教座は反発)。以後、ローマ教会が自他共に「ローマ・カトリック教会」と名乗る 381年、コンスタンティノポリス宗教会議によってアタナシウス派の正当性の再確認と若干の教義修正→ニカイア信条 391年、テオドシウス帝がキリスト教をローマの国教とする 395年、テオドシウス帝死去によりローマ帝国が東西に分裂する 5世紀頃、イェルサレム・ローマ・コンスタンティノポリス・アレキサンドリア・アンティオキアの五本山の司教座の成立 480年、西ローマ帝国滅亡(東ローマ帝国は存続、ビザンティン帝国と呼ばれるように。その庇護のもとコンスタンティノポリス教会(ギリシア正教会)が主流に) 800年、カール大帝の戴冠(フランク王国と、ローマ・カトリック教会の結びつき=西ヨーロッパのカトリック化) 962年、オットー1世の戴冠、神聖ローマ帝国成立(≒西ローマ帝国復活) 1054年、ローマ・カトリック教会と他の教会との分裂(ローマ教会とコンスタンティノポリス教会を中心とした他の教会が互いに破門)→これ以降、ローマ教会をローマ・カトリック教会と、他の4本山を含むカトリック(と後にカトリックから分派するプロテスタント)以外を纏めて「正教会」と呼称される 1517年、マルティン・ルター『95ヶ条の論題』を掲出、以後ローマ・カトリック教会からプロテスタント諸派が分離成立していく 1965年、エキュメニズム運動の高まりの中、カトリック教会と正教会の相互破門を解き和解への道が開かれる というのが、大まかな歴史の流れとなります。 つまり、聖書の記述から「ペテロの後継者」と「だから一番えらいんだ」という論理を解くローマ・カトリック教会に対し、その意見に反対した教会を「正教会」と呼称されるようになっていきます。 そして、コンスタンティノポリスが東ローマ(ビザンティウム帝国)のお膝元であったために、発言権が強く正教会のリーダー的存在でした。 コンスタンティノポリスにはギリシア人が多く住んでいたため、コンスタンティノポリス司教座を初めとしたギリシア人中心の正教会という意味で「ギリシア正教会」と言われるようになっていきます。 その後の広がりの中で、ギリシア人以外の正教会も成立(例・ロシア正教会・グルジア正教会・日本正教会etc,,,)していきます。(それらをひっくるめて言う時は東方正教会という呼称が使われます。) ではでは、参考になれば幸いです。 p.s. ややこしいので割愛しましたが、重要なので一応書いておきます。 カトリックという言葉は「普遍」という概念を示す言葉で、別にローマ教会だけの専売特許ではありません。 ただ、ローマ教会側が自他共に「ローマ・カトリック教会」あるいは略して単に「カトリック教会」と呼ぶので自然と「カトリック派=ローマ・カトリック教会」と思われるようになりました。 以上、蛇足でした。
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- nacam
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まず、知っておく必要があるのは、ギリシャ正教会とは、現在ギリシャのアテネに主教座をもち、ギリシャとキプロスを管轄する独立系正教会の一派です。 同様な正教会に、ブルガリア正教会、ルーキニア正教会、セルビア正教会、グルジア正教会、シリア正教会があります。 これらの独立系正教会は、名目上トルコのイスタンブールにあります、イスタンブール世界総主教座に属することになっていますが、実際は独立した教会組織となっています。 ロシア正教会は、ロシアやグルジア、モルドバを除く旧ソ連地区を管轄する正教会で、モスクワに総主教座を持つ正教会になります。 ローマ・カトリックは、カトリック内の大半を占める教派になります。(カトリックの90%以上がローマ・カトリック) ローマカトリック以外にもいろいろなカトリックがあります。 マロン・カトリック(レバノン)、ロシア・カトリック(主にウクライナ・アメリカ)、コプト・カトリック(主にエジプト)、シリア・カトリック(シリア)、ギリシャ・カトリック(ギリシャなど)などがあります。 ギリシャ正教も、ローマカトリックも、それぞれ正教会、カトリックの一部分というわけです。 キリスト教が、カトリックと正教会に分裂するのは、ローマ教会が、キリスト教の基本理念とかけ離れていた教義にもとずき布教してしまったことによります。 そのため、キリスト教徒の定義を定めた、「ニケーア・コンスタンティノープル信条」をそのまま受け入れることができず、一部を意図的に誤訳して採用したことにあります。 そのため、ローマ教会と、それ以外の教会とでは、教義内容に差が生じてしまい、分裂することになります。 カトリックと正教会の最大の差は、キリストの立場の考え方の差でした。 キリストを神の子として、神と同等とするカトリックと、神の僕とみなす他の教会との差は、次第に深まり、聖像破壊問題を気に統合しがたい状況となり、分裂します。 ローマ帝国時代の5大教会(ローマ、コンスタンティノープル、アンティオキア、エルサレム、アレキサンドリア)のうち、カトリックとなったのはローマ教会、正教会(オーソドックス)になるのはコンスタンティノープル教会です。 アンティオキア教会は、正教会に属するシリア正教会と、ヤコブ派教会(シリア正統教会)とに分裂します。 エルサレム教会は、シリア正教会、ヤコブ派教会、マロン派教会(マロン・カトリック)に分裂します。 アレキサンドリア教会は、コプト教会へと移行してゆきます。 カトリック内のマロン・カトリックは(マロン派)は、カトリックとしては始めてのローマ・カトリックではないカトリックになります。 マロン派は、十字軍時代にできたエルサレム王国でのキリスト教信者が元になっており、その多くが、ヤコブ派やシリア製教会からカトリックに改宗した人達でした。 そのため、典礼様式などは、ヤコブ派やシリア正教会の方式を受け継いでいるため、外見上ヤコブ派やシリア正教とみわけがつきません。 ロシアカトリックには2つあり、ウクライナをポーランドが支配していたときカトリックとロシア正教が混じってしまったものと、ロシアやセルビアなどの東欧の人達がアメリカに移民してアメリカでカトリックと融合して生まれたものとがあります。 日本では、正教会は、ハリスト教会と呼ばれますが、モスクワ総主教座に属するロシア正教系と、アメリカからもたらされたロシア・カトリックの双方が、ハリスト教会を名乗っているため、外見で見分けがつかないため、混乱の元になっています。
お礼
わかりやすくありがとうございました!
- oska
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>中世のローマ教会とコンスタンティノープ教会。 神聖ローマ帝国時代は、ローマ教会が唯一のキリスト教本部でした。 が、領土が拡張するに伴い「ローマ、アンティオキア、アレクサンドリア、エルサレム、そしてコンスタンディヌーポリ」に本部を設けたのです。 ローマ帝国が、東西に分裂。その後、東ローマ帝国滅亡。アンティオキア・アレクサンドリア・エルサレムの各キリスト教本部は廃止の憂き目にあいます。 同時に、残ったコンスタンディヌーポリの権威は相対的に高くなりますよね。 >2つの教会が出てきたあとにギリシア正教会、ローマ・カトリック教会という教会がでてきます。 ローマ教会系は、カトリック教会(ローマ・カトリック教会)として現在に至ります。 本部は、ご存知バチカン市国にある教会ですよね。 ギリシア正教会は、原則的にコンスタンティノープ教会(コンスタンティノポリ総主教)を名目的なトップと仰ぐキリスト教の一派です。 ロシア正教会・ブルガリア正教会・ルーマニア正教会など、○○正教と名が付く教会も同様です。 こちらは、各国に一つの本部(正教会)を設置する事を認めています。 日本では、日本ハリストス正教会と言います。 おまけ。 宗教改革で、カトリックはプロテスタントと分裂します。 また、離婚を認めるか否かでカトリックからイギリス国教会が独立します。 たぶん、これで合っているかと?
お礼
分かりやすくありがとうございました!
- mekuriya
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世界一馬鹿な日本人にはキリスト教を理解することは不可能です。馬鹿は馬鹿なりに分をわきまえてつつましく暮らしてください。同じ質問が朝から晩まで繰り返されています。なんど回答しても、翌朝には同じ質問が繰り返される。もうきりがない。馬鹿に教えることは不可能。日本人は余りにも馬鹿すぎる。 とはいえひとつヒントを出しましょう。キリスト教の歴史はヨーロッパの歴史そのものです。キリスト教だけを取り出して理解しようという試みが無意味の極みだということなんです。ヨーロッパの歴史全体を捉える努力をしてください。ヨーロッパの歴史において教会がどういう役割を果たしてきたのか。そういう問題意識を持って勉強してください。そういう姿勢がないかぎりは絶対にこの問題は理解できません。 キリスト教は当初、ローマ帝国から弾圧されました。当初はキリスト教はローマ帝国の統一を乱すものと看做され敵視されたからです。ところがローマ帝国の斜陽化と共に、弾圧にもかかわらず、ローマ帝国全体に広まってしまった。キリスト教はローマ皇帝の権威を否定したわけではないが、ローマ皇帝の方から権威をなくしてしまったのです。そうして時代が進むと、ローマ皇帝は逆にキリスト教を利用した方がローマ皇帝の権威を取り戻せることに気づいたのです。解体が進行しつつあるローマ帝国をキリスト教を利用して再統一しようとしたのがコンスタンティヌス1世です。コンスタンチノープルはローマに代わる新しい帝国の首都として建設されました。新首都の名前は、コンスタンティヌス1世にちなんで命名されました。アレキサンダー大王にちなんでエジプトにアレキサンドリアが建設されたのと同じようなものです。コンスタンティヌス1世は最初のキリスト教徒となったローマ皇帝であり、第一回の公会議を主催したことでも有名です。キリスト教の教義の解釈が2つに分裂し、アリウス派とアタナシウス派の対立が生じた。この対立を話し合いで解決しようとしたのが公会議の意味です。皇帝の権威で対立を解消させた。コンスタンティヌス1世はアタナシウス派を正統として裁定しました。この時代はキリスト教会は分裂していません。キリスト教会はキリスト教会というまでのことです。 ところがコンスタンティヌス1世の努力にもかかわらずローマ帝国は東西に分裂してしまいます。それにはゲルマン民族の大移動が絡んでいます。ローマ帝国では西半分ではゲルマン民族の移住を認めたが、東半分では認めませんでした。なぜなら西半分ではローマ人だけでは軍事力を保てなくて帝国の領土を守れなかったからです。だから軍役を勤めればローマ人と認めてやる、ローマ市民権を与えてやるという条件でゲルマン民族を帝国領内に移住させて傭兵に雇った。それが西ローマ帝国です。逆に東ローマ帝国はゲルマン民族を雇わなくても軍事力を維持できたのでゲルマン民族を移住させなかった。そういう違いがローマ帝国の東西の分裂です。 西ローマ帝国の首都がローマで東ローマ帝国の首都がコンスタンチノープルです。ところが西ローマ帝国はゲルマン人傭兵に乗っ取られるような形で滅亡してしまいます。476年のことです。西ローマ皇帝って何なの?俺たちがいないと何もできない飾りじゃないの?とばれてしまったんです。ローマ帝国というぐらいだからローマが発祥の地であったわけだけど、ついにゲルマン民族にローマを奪われてしまったようなものなのです。ローマ帝国が東西に分裂したあと、西ローマ帝国はさっさと滅亡してしまいましたが、東ローマ帝国はイスラム勢力に領土を侵されながらも、西ローマ帝国滅亡後1000年も存続します。このローマ帝国の東西分裂と歴史の違いがキリスト教会の東西分裂につながるのです。 ローマ帝国西半分にあったキリスト教会を西方教会と呼び、東半分にあったキリスト教会を東方教会と呼びます。この時点では、単に地理的な違いだけでしたが、ゲルマン民族に対する方針の違いが教義の違いになり段々と東西の違いが鮮明になっていきます。というのは西方教会では蛮族のゲルマン民族にも受け入れやすいやり方で布教する必要が生じたのに対し、東方教会ではそうじゃなかったという違いがあったということです。東ローマ皇帝が統制を続けた東方教会に対し、西ローマ帝国が滅亡したあとの西方教会は西ローマ皇帝がいない分、自立して生き残る必要が生じたという違いもあります。東方教会と西方教会の路線対立が表面化したのが、東ローマ皇帝のレオン3世の726年、偶像禁止令です。東方教会はすんなり偶像禁止令に従いましたが、西方教会はいやいやこれは偶像ではなくて聖像だから問題ないと屁理屈をこねて反発しました。時のローマ教皇がグレゴリウス2世です。レオン3世に従った東方教会をコンスタンティノープル教会と呼び、グレゴリウス2世に従った西方教会をローマ教会と呼ぶのです。つまり東方教会=コンスタンティノープル教会、西方教会=ローマ教会なんです。 しかし東方教会がコンスタンティノープル教会に代わったわけではなくて、西方教会がローマ教会に代わったわけじゃないんです。これは現代人が歴史を勉強するために勝手に呼び分けているだけのことなんです。聖像を認めるのがローマ教会で認めないのがコンスタンティノープル教会だという違いです。 ともあれローマ教会は完全に東ローマ皇帝と決別する路線を歩みます。実はそれまでローマ教会は東ローマ皇帝に税金を納めて軍事的に保護してもらっていたのです。それが、もう税金は払わない。保護してくれなくても結構だとたんかを切って喧嘩別れしてしまった。しかしローマ教会は軍事力を持たないからやはり不安です。東ローマ帝国の保護が切れたと知ったゲルマン人がローマ教会の領地を奪おうと軍事侵攻してきました。ランゴバルド王国です。ランゴバルド王国はキリスト教じゃなかったので、ローマ教会?なんぼのもんじゃーてな話です。そこで時のローマ教皇は、ハドリアヌス1世はキリスト教国のフランク王国に泣きつきます。ローマ教会のピンチだ。ランゴバルド王国の侵略からローマ教会を守ってくれ。フランク王国のカール大帝は、ハドリアヌス1世の期待に応えてランゴバルド王国を滅ぼしてしまったのです。カール大帝にすれば善意でローマ教皇を助けたわけではなくてローマ教会を守るという大義名分があれば、フランク王国の領土拡大を正当化できることに気づいたということなんです。ここにフランク王国という世俗的権力とローマ教会という宗教的権威の悪の二人三脚、give&takeの業務提携が成立します。ローマ教皇は東ローマ皇帝に代わる新しい軍事的保護者を味方につけた。そのお礼がカールの戴冠です。フランク王が正統なローマ皇帝だというのです。東ローマ皇帝は、ローマ皇帝はこっちだ。そんなインチキは認めないと猛反発しましたが、イスラム勢力に侵され続けた東ローマ帝国は西にかまっている余裕などありませんでした。この後、フランク王国は分裂してローマ皇帝の地位は神聖ローマ帝国に継承され、悪の二人三脚もどろどろと実態がかわっていきますが、その話は省略します。 時代はとんで宗教改革の時代になってローマ教会は、ローマ教皇の権威を認めるローマ・カトリック教会とローマ教皇の権威を認めないプロテスタント系の教会に分裂します。プロテスタント系といってもいろいろあるが、ここでは詳しくを説明しない。ローマ・カトリック教会以外の元ローマ教会をプロテスタント系の教会とだけ理解してください。宗教改革の後もローマ教皇に従った教会を、ローマ・カトリック教会と呼ぶのです。 ではコンスタンティノープル教会とは何か。コンスタンティノープル教会は初めから、ローマ教皇の権威など認めていません。宗教改革はコンスタンティノープル教会には全然関係ないのです。コンスタンティノープル教会は東ローマ帝国がオスマン帝国に滅ぼされて、新しい時代になっています。オスマン帝国はイスラム教国だったけど、宗教的には肝要で、税金さえきちんと納めてくれればいままでどおりキリスト教を信仰していてもかまいませんよという姿勢でコンスタンティノープル教会に対処しました。つまりコンスタンティノープル教会は税金の納め先が東ローマ皇帝からオスマン帝国に代わっただけで、特に変化があったわけでもないのです。 隆盛を誇ったオスマン帝国も19世紀にはすっかり斜陽で、民族主義の勃興の影響で帝国領内の異民族に自立・独立の動きが生じます。最初の動きがギリシャ独立戦争です。19世紀前半にギリシャはオスマン帝国からの独立を果たします。ここにギリシャ領内のコンスタンティノープル教会は、ギリシア正教会として教会組織としても独立することになったわけです。組織の人事には、もう口を出さないでくれってことです。教義が違うわけじゃないけど、組織としては別な組織になったということです。20世紀にかけてオスマン帝国の解体は進行して、ギリシアの後を追うように、コンスタンティノープル教会からも各国の教会が分離独立し、それぞれの国の教会が○○正教会と名乗るようになります。オスマン帝国が滅亡し、トルコ共和国が成立したことで最後にトルコ正教会が発足したことで、もはやコンスタンティノープル教会は影も形もない。解体は完全に終了です。といってもトルコは99%がイスラム教徒で、トルコ正教会の信者は少数派です。 以上、駆け足で説明しましたが、こういうヨーロッパの歴史を俯瞰しようともせずに言葉のうわっつらだけを捉えて解釈しようという学習態度は全く無意味だということだけは私は何度でも強調しています。 歴史を言葉の解釈学だと思い込んでいる人に限って、頭がこんがらがってしまう
お礼
ありがとうございました!
- tanuki4u
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ローマ教会 = ローマ・カソリック教会 コンスタンティノープル主教座 ≒ ギリシャ正教会 中世の前、古代ローマ時代から言えば 各主教座は、同等。 その主教座の一つに、ローマの主教座があった。 コンスタンティノープルの主教座も、いくつかある主教座の一つ。 主教座には主教がいて、各主教は平等。現代の日本で言えば、各都道府県の知事は平等と似たようなもの。 ところが、ローマは、保護してくれる皇帝がいなくなったので、自力で頑張った(カールとかオットーとか、古代ローマ皇帝と関係ない人を皇帝に任命したり) 一方、コンスタンティノープルは、1453年までローマ皇帝が居続けた(途中、ラテン帝国とかありましたが)ほかのエルサレムとかアレキサンドリアなどの主教座のある場所は、イスラムに取って代わられたので、信徒がいない状態になり、権威が落ちた。 結局 ローマ と コンスタンティノープルが中世を通じて権威を持ち続けた。 中世におけるありかたの違い ローマ教皇は、キリスト教徒のすべての地上でのトップ < 自称 ※ ペテロが天国への鍵を持っていて そのペテロの後継者がローマ教皇であると自称している 統治と結びついていた正教会 なので、今でも正教会では、コンスタンティノープルが コンスタンディヌーポリ総主教庁 で ギリシャに ギリシャ正教会 ロシアに ロシア正教会 があるように、国別に独立した正教会がある。 ※ オスマン・トルコ帝国時代には、オスマン・トルコ帝国内におけるキリスト教信者を「ギリシャ人」と呼んだというような歴史もあります。 このように、ギリシャという言葉の定義するところも、時代によって変わります。 中世においては、おおまかに コンスタンティノープル総主教庁の元にあるキリスト教徒は 「ギリシャの連中」などと 言われていたようです。
お礼
分かりやすくありがとうございました!
お礼
理解しました!ありがとうございました!