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「義」とは何か
「義」とは何かについて、考えを教えてください。 私にとっては、金や権力、出世、名誉、他人からの賞賛といったものに心を奪われずに 自分の正しいと信じる道を突き進むことです。
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無私・無心に、民を苦しめる元凶に一穴を穿つこと。 義、の最も大切なことは、強きを挫き、弱きを救うこと。 そして、自らは大きな危険に無償で身を投じる事。 その二つを満たした行動を、義、と呼ぶ。 滅私奉公の矜持、と呼んでも良いかも知れぬ。 世のため人のため。 死して護国の礎とならん。 正に、それが「義」であるらん。 善悪を問うたり、議論を戦わせるのは、私心に過ぎぬ。 私を捨てるが故に、狂気にも凶器にもなり得るもの。 それゆえ、思考を捨て、「私」を捨てて一徹に突き進み、 無辜の民草を傷つけ殺めぬ為には義を奉じるものが要る。 義を奉じるもの、それは大きな世を救う力であり、その命じる処に この命を擲(なげう)つ。 それを「大義」といふ。 ----------------------------------------------- 確かに、冷静客観的に様々な他人の意見を聴き、世間の風潮を 的確に捉え、深く広い思索を重ねて大局観を得ようとする考えは 無論、誤りではない。 ただ、人の世は、その器が無い者が大局観を持とうとしても 私利私欲の範疇を超えることが困難なのだ。 他人に一目置いて欲しい。 自分はこんなに立派な考えを持つ 優れた人間なのだ、お前たち凡人とは根本的に価値が異なる 高い存在なのだ、と思いたがる「私心」を払拭するのは並大抵の ことではない。 多くの凡百は、自分の「正論」が実はただの「えっへん、おっほん」で あることも素直に正直に見据えることが出来ぬものだ。 それ位、「私」を捨て去ることは難しい。 己の器を知り、滅私出来る境地に達した者は、義を知り、大義を求める。 その大義が例え、唾棄すべき軍部の俗物どもが騙る偽りの玉音であったと しても。 結局、人の大きさの問題、魂の精錬の問題に帰結する。 名さえ残さず、何のために親兄弟、妻子供を泣かせ苦しめても 100%の死に躊躇を殺して身を擲つ。 義によって死ぬ、その一点が為に、それは自死ではない。 あの戦が大きな過ちであったにしても、義に身を投じた者を 神とすることに、私は一片の疑いも持ち得ない。 なりたくもない神に、その身を捨てて成ったのだ。 大義が命を擲つ意味があるものであったかどうかは、もはや 彼等の覚悟には届くまい。 只の、普通の人が、支配といふ大きな力に押さえつけられて 無理やり滅私させられる、戦争といふ恐ろしい出来事。 一度動き始めたら、簡単には止められぬ。 他ならぬ巨大な民衆の「義心」が死の覚悟に人を追い込んでいく。 普通の暮らしを平和に営み死を恐れる者が、思考を停止し、 大切な者どもに別れを告げて滅びを選ばせられるのだ。 戦地に赴かぬ、数多の民衆の「義」によって。 一部の権力と金を恣(ほしいまま)にする支配層に 操られた「義」によって。 一度傾き始めたら、横転して沈むまで止まらぬ船の様に。 だから、我が「義」を奉じるべき大義は、国家や権力で あってはならぬ。 例え、取るに足りない貧しい子を救うために、身を擲つとも、 名も無く死ぬことはなんら不足は無い。 僅かながら権力に操られた傀儡のような虚義に堕ちぬ ために心して置かねばならぬことは、敵に成らぬはずの 他所の民草を、会ったことも無い他国の民衆を、煽られて 憎み、滅ぼせと叫ぶ喧伝・プロパガンダに与せず、 強く美しく正しく見える者に常に心を奪われず、弱い者、 みすぼらしい者の中にこそ「大義」を見出し続けられる ように、この老眼を曇らせぬこと、そして二振りの刀を 錆びつかせぬ様に日常、手入れと覚悟を怠らぬこと。 時が来れば、抜き放つ。 その時が来るまで、昼行灯。 その時に、見苦しく狼狽えぬ様、出来るならば安らかに 平常心にて、我が身を擲てる様。 ささやかな暮らしにつましい歓びと感謝を奉じ、滅私の その時まで、我という抜刀を磨くこと。 明日来るかも知れぬ、さりとて一生訪れぬかも知れぬ。 覚悟の死の刹那に安らかでいられるならば、奉じる大義も 見極められよう。 中々、拙者、その境地に達するのは来世になるやも知れませぬ。 日々、うろたえ、惑いながら糊口を凌ぎ居り申す。 義は、重いものでござるなあ。
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- tak7171
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こんにちわ。 没利害の精神に則った行動のことだと思うんですが・・・ 往々にしてバカの掛け声か卑怯者の逃げ口上になっちゃうのが残念です。
お礼
ありがとうございました。 暴力団が仁義と称して違法行為を繰り返すのは許しがたいです。
- kurinal
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sohcon様、こんにちは。 「道義」とか「教義」という言葉も見掛けます。 人に、何かしら「損?」というような行為でも、 それを選択せしめるような、何か、という感じです。 (ちなみに、「自由」には「限界」があります・・・) でも、「そんな「自由」は無いよ」って、言われるのは、 事後的に言われるもので。 裁判所だって「それは、あんまりだ」という場合には、 判例を変更したり、「違憲だ!」と言ったりします。
お礼
ありがとうございました。 バランスが大事なのでやりすぎは良くないですね。 ただ、損することを分かった上で自分の思いを押し通す所に男気を感じます。
- NemurinekoNya
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こんにちはです。 誰かを血祭り話は、半分、言葉のお遊び、冗談なのですけれど、 《義》には、何処か独りよがり、一人相撲的なところ、独善なところがあるのは、事実なのでしょうね。 儒教的な《義》は、 世の中の正しい筋目、道理、人の歩むべき正しい道 といった意味で、 これは、主従関係、親子などの長幼の順、身分秩序、それらに基づく社会秩序などのことをいっています。 これに反することが不義であり、従うことが義、正義。 そして、 主従関係といった狭い関係性の中に義はあり、この義を貫くために、その関係以外の人を煮ようが焼こうか、殺そうが、盗もうが、それは正当化されます。 現代的な正義とはまったく異なるもので、時に相反します、対立します。 現代的な社会的正義に反することでも、法に反することでも、自身の属する組織、家族の利益のためならば、その行為を行っても、それは義とされ、正当化されるんですよ。 ───今の中国を見れば、このことがよくわかります。汚職などが蔓延しているでしょう。汚職は、自分のためだけではなく、家族や親類縁者(宗族といいます)のために行うので、悪いことだとは思っていない。この宗族の論理に従うならば、宗族の利益につながるので、むしろ汚職は積極的に行うべきもの。これも《義》なんですよ。 そして、儒教は、こうした中国の宗族道徳、価値観、論理の上に成り立っています。 だから、社会的正義、法治主義を主張する法家と儒家の思想は対立する。 儒家、儒教なんて、社会にとって害悪をまき散らすってんで、始皇帝は、儒家をとらえては穴埋めにし殺し、その書籍を焼き払った。始皇帝は、法家思想の信奉者だったんで。始皇帝が極悪人だったから、こうしたことを行ったわけではない!!─── わたしは、新潟に住んでいるのですけれども、 新潟県には、《義将》と呼ばれる上杉謙信がいます。 彼が目指したのは、戦国の世となり、失われた、足利将軍家をトップとして室町的な社会秩序の復権、建て直し。上杉謙信にとっては、これが《義》。 自身、山内上杉家の跡を継いで関東管領に就任したことも関係しているとは思うのですが、 だから、 何度も関東に出兵し、新興勢力の北条と戦う。 関東に室町的社会秩序を取り戻そうとして、他国の侵略を盛んに繰り返す、北条や武田と戦う。 北条や武田に攻められ、他国の領主などから救援を乞われると、出兵し北条や武田と戦う。 そして、 しまいには、足利将軍を都から追い出し、室町幕府の息の根を止めた織田信長とまで戦っています。 これに付き合わされる謙信の家臣などは、たまったものじゃありません。 ほとんど自分の利益につながらないのに、この絶えることのない遠征に付き合わされるのですから。 助けに行き、北条や武田に奪われた領土を取り戻しても、それは奪われた領主に返すので、家臣の利益にはつながりません。その上、そこには、多額の出費は強いられますし、自身の生命の危機までそこには存在します。 「こんなのもう耐えられない。もうついていけない」とばかりに、家臣がストライキをして、遠征を断念せざるをえなかったこともあったようです。 自身の理想のために、自信の利益を犠牲にするのは構いませんが、 ───謙信は、ある日、突然、出家をしようと、その地位を投げ出したことがあるというくらい、自身の世俗的利益に関心のない人だ。なので、犠牲にするものがあったかどうか。世俗に興味がないから、人情の機微にも非常に疎い。究極のKYであった(笑い)─── 主従関係は、この間系はgive and takeで成立しているのですから、家臣の利益まで犠牲にしてはいけません。 義には、どこか、《KY》の響きがあると思うのですよ。 そして、義を貫くためには、《KY》に徹しないとならない。 あるいは、《KY》でなければ、義は貫けない。 この度重なる出兵とその戦費負担で、越後の領民もかなりの経済的な負担を強いられた。 でも、この時代の越後は、超リッチなお国でしたから。 金は大量に算出しましたし(佐渡金山はこの当時まだ発見されいない)、 カラムシ(麻糸・麻布の原料)を大量に輸出し、莫大な利益をあげていたので、 毎年のように繰り替えされる遠征費用を賄うことができた。 この多大な犠牲の上に、上杉謙信の《義》は成立していた。
お礼
ありがとうございました。 義がkyというのは私もそう思います。私自身そうなので。 戦国武将は今は美化される傾向が強いですが、上杉謙信に限らず残虐非道な武将はたくさんいたでしょうね。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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こんにちは。 わたしは 正義という言葉は 死語であると考えている者ですが 義が これまでに日本人が使って来たという限りで その意味を――日本語に即して――考えてみます。 けっきょく おっしゃっているように 《ただしい》ということなのでしょうね。 そしてこの《ただしさ》とは おそらく《たて(立て・縦)》から来ているのでしょう。 すなわち古くは 二足歩行を得て 背筋がまっすぐ伸びた。これも タテなのでしょう。 筍が竹となってまっすぐ伸びる姿のイメージではないかと思われます。 竹を割ったような性格という言い回しもあります。 おそらく おのれの思いや考えをめぐって 相手との信義則にかかわって ぶれないことなのでしょうか。 もっとも考えは 相手や情況に応じて よい方向へ向けて違ったかたちで応用することはありますし むろんのこと人はマチガイをも持ち得ますから これをあらためることがあります。 竹の節にあたるかのような反省がともないます。それでも まっすぐ伸びるというようなすがた これが ただしいということなのでしょうか。 むろん 煮詰めて言えば 主観的なものにとどまりますし その主観が共同化されて ただしさにお墨付きが得られても まだその相対性はまぬかれない。ということを前提とするかぎりで 《ただしい》ことが持たれていたし 実践されても来たのでしょうか。 ★ 金や権力、出世、名誉、他人からの賞賛といったものに心を奪われずに / 自分の正しいと信じる道を突き進むことです。 ☆ おそらく《名誉 他人からの賞賛》は 《ただしさなる主観》にとって うれしいことでしょうね。 《出世》は 情況の中で決まって来るものと考えます。 《金》は それら《名誉・賞賛・出世》に応じてのことでしょう。 《権力》は おそらくこれを生け捕りにするのが 基本としてのただしさではないかと考えます。われわれは権力を回避せよというわけではないと思われるとき 自分が就くその座としての権力についても 同じく生け捕り戦法が ただしい道ではないかと考えます。 これらに《心を奪われてしまった》と思われるようなことをも――権力等の生け捕りのためには――辞さずして おのれのただしいと思う道をすすむ。こういうことではないかと考えます。
お礼
ありがとうございました。 特に権力者にあっては、「義」を軽んじ「礼」ばかり求めている傾向があるように 疑問に思っていました。万人がそうとは限りませんが。
- NemurinekoNya
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あっ、回答に間違いがある。 【誤】義は、ノコギリを表わします。 【正】我は、(いけにえのヒツジを切り分ける)ノコギリを表わします。 NO2の回答の訂正でした。 訂正のついで。 ☆金や権力、出世、名誉、他人からの賞賛といったものに心を奪われず ◇要するに、これらを犠牲にする、犧(いけにえ・義)する、というわけですよね。 それらを犧として捧げ、自分の正しいと信じる道を突き進む。 ということで。
お礼
ありがとうございました。 義に生きる人が結局色々犠牲にして生きる周りにとっては迷惑な人だというのは悲しい話ですね。
- NemurinekoNya
- ベストアンサー率50% (540/1073)
義 = 羊 + 我 羊は、生贄として捧げられるヒツジさん。 義は、ノコギリを表わします。 ですから、 犠牲の「犠」と「義」は、もともとは、ほとんど同じ意味をあらわす漢字です。 そして、 人・家臣は、「大義名分」を唱え、王を殺したりもします。王様は犠牲になった。そして、《犠牲》も《いけにえ》が本来の意味です。すべて、《いけにえ》つながり。 な~んてね。 ということで、 《義》という言葉には、常に、血なまぐさいイメージがつきまといます。 そして、《義》という言葉が声高に叫ばれるとき、《義》というオマジナイが唱えられるときは、誰かが血祭りにあげられます。そして、それが成功したとき、《義》は免罪符としての強い効力を発揮します。 吉良さんは、赤穂浪士によって殺された。吉良さんを殺した人たちは、当時の法律を破ったにもかかわらず、人々から《義》士と呼ばれ、もてはやされた。 《義》は、大概、憎い敵や相手を打倒・抹殺する時に使う言葉なんですよ(笑い)。 儒教では、 義は、イケニエを《正しく》切り分けるってことで、人の踏むべき正しい道だなんてことをいっていますが、 《義》はとってもおっかない言葉なんですよ。 《義》を《犠》、《いけにえ》に置き換えてみれば、このことがよくわかります。
- 雪中庵(@psytex)
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義とは、バカにつける薬だ。 生きる意味は「人生を通算した精神的充足量の最大化」であり、そのための認識の深化により最大の助け合いをなす事だ。 本来、そこにおいて利己と利他は同一となるはずだが、お金や出世といった“馬車馬の目の前のニンジン”によって、他律的に社会性のコースを走らされている自己チューな意識にとって、短絡的な利己と社会的な貢献(義理や善)は分離するのだ。
お礼
ありがとうございました。 言葉の強烈さは違えど、同じような考えの人がいてよかったです。
お礼
長文ありがとうございました。 国家のために義を貫くのは権力者に操られた典型の感じがします。 見ず知らずの幼子のために命をささげるのは大馬鹿だと笑われるかもしれませんが、 正しい生き方だと思います。