1.同じ仏教国だった中国・タイ・チベット・モンゴルあたりでは伝統的に家畜が食べられています。なぜ日本のように禁止されなかったのか?
まず誤解の無いように仏教では殺生を禁じています。ですから、中国やチベット・タイなどの仏僧は肉食を今でもしません。日本の仏僧はそこまで厳密ではありませんが、荒行などのときは食べないようです。
つまり「仏に仕えるなら肉食禁止」はいまでも仏教の教えです(タイやチベットなどでは女性が仏僧に話しかけるのも禁止です)
日本の場合、仏教は国教として輸入されました。そのため各地に国分寺などを建て、役所とお寺が一体になったような形になり、その国分寺に住民登録されている庶民も事実上「仏教徒」になったのです。
このような仕組みのうえで「肉食禁止」が出されて、一応「肉を食べることはタブー」ということになったのです。
で、なぜ日本でこれが可能で他の国でできなかったのか、それは日本には放牧文化が無かったからです。
そもそこチベットやモンゴルなどは放牧文化の国です。これらの国では家畜を飼い、ミルクなどを飲み、必要に応じて屠って食用にします。
彼らにとっては肉食こそが食事なわけです(実際には少量の穀類とミルクが日常食です)
逆をいえば「仏僧」であることはこれらの日常と切り離されることであり、どこの国でも元々宗教は「日常と切り離された特別な世界」であることで、寄付を受けたり親をなくした子供がそれを食べて成長することが許されていたのです。
ですから日本以外では「肉食をしない約束で修行だけできる環境」が整えられた、ともいえます。
日本においては、そもそも「肉食」の割合が低かったといえます。日本は弥生時代には稲作が中心になり、米を大量に食べそこに少々の野菜と肉や魚などのたんぱく質を摂取することでまかなってきました。今では白米が中心ですが、五分突きぐらいの玄米食をすれば栄養的に足りないのは食物繊維とたんぱく質とカルシウムぐらい、というほぼ完全食であるのが米なのです。
そのため日本の労働力は「米を作る」ことに大部分が投入され、狩猟者はほとんどおらず、沿岸部には漁労者はいましたが、彼らも米を作る努力はしていたのです。
ですから「肉食の禁止」というのも4つ足に限れば簡単にできたのです。逆にいえば鳥と魚を禁止することは難しかった、ということです。
しかしこの法令の影響は大きく、また放牧文化が根付かなかったために日本人はほとんど肉食をしないできました。肉食をするのは「薬として体力をつけるため(医食同源の発想)」で普通の食器や鍋などを使うと獣臭くなるため、農機具であるクワやスキを洗ってその上で焼いて食べていたのです。
もちろん、日常的に食べられるものではなく「村のちょっと変わり者の猟師の吾作どんが、最近畑を荒らして回っているいのししをしとめてきたから、ちょっくら滋養でもつけるべーー」と野良焼きの合間に食べたのが日本の肉食の原点です。
これ以外の地域では魚を食べており、大体沿岸から80キロぐらいまでなら干物などが流通していたようです。80キロだと日本沿岸の山に入らない部分はほとんど網羅します。長野県は海から遠すぎるため、昆虫食や肉食がある程度発達したようです。
ところで、日本の近代化後の最初の肉料理が鍋料理であるにも関わらず「すき焼き」というのは、それが当時の日本人にとって「肉食を表す隠語」でもあり、農民でもすぐにぴんと来たことが「文明開化」の波にのって、日本中に「肉料理専門店」の意味で広がったからです。
2.動物の殺生がいけないのなら鳥や魚を食べることも禁止にされるはずです。なぜ4つ足の獣だけがタブーになったのでしょうか?
魚は当時の感覚では「動物」ではなかったのです。動物とは「陸上に生きるもの」だからです。それを援用すれば、鳥も空に生きるものですから、動物の範疇からはずれたのでしょう。
天武天皇の殺生禁止令(675年)は牛馬犬猿鶏を禁じていますので、鶏料理が文献に現れるのは江戸時代に入ってからです。
ですから鶏料理も日本にはほとんどなく、せいぜい鴨などの野生鳥を捕まえて食べるぐらいだったのでしょう。これなら「動物」ではないといえます。
あとこの禁止令ではなぜか「猪」が抜けていますね。鹿も食べることができますので、この2種類は畑を荒らす害獣ですので、禁止することができなかったのかもしれません。