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クリスチャンとノンクリスチャン
今私の付き合っている相手は敬虔なクリスチャンです。一方私はノンクリで実家は浄土真宗です。相手は曰く、神社・仏閣には入ることも出来ないし、入りたくないと言います。普通に付き合っていくならば初詣、七五三、お祭り、お葬式など避けては通れないことが沢山あると思いますが、一般的に日本におけるクリスチャンは伝統的な日本の習俗や日常のお付き合いを含めて神道や仏教に係ることは一切係わってはいけないという教義なのでしょうか。例えば知り合いのお葬式でお焼香をあげることも信仰に反すると禁じられていることなのでしょうか。批判や中傷ではなくて真剣に悩んでいるので是非教えて下さい。
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カトリックですが、日本の伝統や他宗教に対しても深い敬愛を抱いている者です。 確かに「一神教」の原則として、他宗教の神を拝んではいけない、という「十戒」の教えがあり、そのことはとりもなおさず一切他宗教に帰依してはいけない、と読めるのですが、その運用に関しては、各教派や各個人によって、温度差があるようです。少なくても、他宗教にも敬意を払ったり、頭を下げたり、又日本の伝統行事や葬儀などのため神社・仏閣に参列することに関しては、なんら問題がないと思います。 一説によれば、「神」というのは、全ての人類にとって超越的な存在であり、ある所にはキリストを通じてキリスト教として伝わり、ある所にはアラーを通じてイスラム教として伝わり、又、ある所には釈迦を通じて仏教として伝わっただけだという説もあります。つまり、神という意味では確かに一つであり、一神教であっても不思議でないというのです。 カトリックでは、第2バチカン公会議(1962年~1965年)以降、宗教間の対話にかなり努力するようになり、少なくても表面上はあまり、他宗教を排他的に扱うことはなくなったと思います。又、成人の日や七五三、敬老の日など日本の伝統行事を進んで、ミサや教会行事の中に取り入れようとしています。 例えば、マザー・テレサはインドの貧民街で「死を待つ人々の家」というホスピス施設を創設しましたが、彼女は収容者の臨終に際し必ずその人の宗教を聞き、その宗教で葬儀を行ったと言われています。 又、世界中の人から慕われた前教皇(ローマ法王)ヨハネ・パウロ2世は、他の宗教との和解を大いに進めました。1986年および2002年に世界の宗教者をアシジに招いて平和の祈りを捧げたり、2000年の大聖年には聖地エルサレムを訪問し、ユダヤ教との歴史的和解への道筋をつけましたし、2001年には、シリアでローマ教皇としては初めてイスラム教のモスクに足を踏み入れ、さらに、2004年には東方正教会に2人の聖人の遺物を返還し、1000年にわたる東西教会の分裂を乗り越える試みを開始しました。また、前記十字軍に対する謝罪や、ガリレオへの名誉回復と地動説の承認(1992年10月)など、過去の過ちに対する見直しも行いました。そして、この前教皇の下で、教皇庁諸宗教対話評議会の名秘書官(次長)として、世界の諸宗教を対話でつなぎ平和への道を開いた、尻枝正行神父(2007年6月ローマで死去)の功績も忘れることができません。 又、私の近くにも同地域の宗教者(仏教各派、仏教系新宗教、カトリック、神道など)が共に集まり、カトリック教会の聖堂などを会場にして、世界平和の祈りなどを共に捧げる集いを行っている所も知っています。 → http://takeshiiinuma.at.webry.info/200710/article_4.html このような行事の開催趣旨として、徒に自己の宗教や信仰を主張して他宗教と「対立」することではなく、ともに祈り、「対話」と「協調」を図ることからこそ、世界平和が訪れると確信する各宗教者の強い思いがあるようです。 このように、カトリックがある程度他宗教に理解を示しているのに対し、プロテスタント各宗派は、どちらかというと、もっと聖書やキリスト教だけへの忠誠を要求しているように感じられます。カトリックの聖堂にキリストの十字架やマリアや聖人の像が多く配置されているのに対して、プロテスタントは簡素な何もない聖堂が多く、それらの像さえ、偶像崇拝だと考え、マリア崇拝についてもアレルギーが強いようです。 私は、宗教は、ひとりひとりの心の問題だと思います。各々の個人が、自分の心に一番響く宗教を信じればよいと思います。他の宗教は信じたくない、というのであればそれも自由でしょう。又、他の宗教にも興味を持ち、もっと踏み込むというのであれば、それもよいと思います。 しかし、他人に自分の宗教を過度に押し付けたり、その人の信じている宗教を否定するような言動は、日本国憲法の「信教の自由」にも反し、よくないと思います。 もし、あなたのお相手が「神社・仏閣には入ることも出来ないし、入りたくない。」とおっしゃっているのなら、それも彼のひとつの考えではあるとは思いますが、その考えはたとえ家族であっても強制できないと思います。 あなたは、あなたの考えに従って行動すればよい、つまり、彼が何と言おうと、神社仏閣に引き続き出入りし、好きにすればよいと思います。 一度とことん彼とこの問題について話し合われた方がいいと思います。 そして、もしそれで彼が承服せず、又彼が将来そのことについて文句を言う可能性が捨てきれなかったら、将来を考えて、おつきあいを考え直した方がいいかもしれませんね。 人間の信念や信仰に対する感情は、親兄弟や配偶者であろうと侵食出来ない領域だと思います。もし侵食するとしたら、それは家族に対する支配・束縛・押し付け即ちDVになると思います。 この問題については、次のQ&Aも参考にしてください。 長文です。子供の宗教について…(旦那がプロテスタント、私は仏教です) http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3562363.html
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- katyan1234
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その方にもよりますがね。基本は仏教等の他の宗教関係の施設や儀式的なところは入らないと思います。葬式は死んだ人を弔うので大丈夫だと思いますが、お付き合いするなら最初に話し合い離婚届を書く事を覚悟してください。 日曜日は家庭か教会をとるのか? 子供が生まれ学校の行事の参加は 子供をキリスト教を教えて育てるのか? 家族の葬式、親類の葬式、 教会に献金する金額、奉仕する時間は セミナー等ある場合は?大きな集会等? あなたが病気になったときは?教会にいくの?(どちらを優先?) 死んだ時のお墓は? 食事の前の祈りは? こんな問題を先に考えてください ちなみに私はクリスチャンで妻はノンクリです。 この山のような問題を話し合い、文章にしてそれから結婚しました 個人的には教会に所属していない妻は信仰がない。まあいい加減なものなので・・・クリスマスぐらいは教会に行き、またお付き合いで正月は 一度一つだけ美術鑑賞として神社に 後はあなた達の家族をどう説得するのか?お互いに大変ですね どこで折り合いをつけるのか?と言うことですね。日曜日は教会に行く その代わり土曜日は家族のために犠牲にする。 まあ本当にお互いに犠牲にしながらのお付き合いですよ
お礼
katyan1234さん、厳しいですが真摯なご意見ありがとうございます。 確かに大きな覚悟をもつことと問題になりそうなことを全て書き出して書面にするということは2つとも絶対必要なことだと思います。 先ずはお互いを尊重しつつ、お互いを犠牲にする生活を営むことができるかどうかよく話し合いをする必要があるのでしょうね。両親はそのあとですね。
- BluesHeart
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厳密には「十戒」に反しないことくらいしか、求められていない筈です。 先の回答にもありますが“他の神に祈ってはならない”とか“偶像を拝んではならない”などです。ただ、そのへんの解釈ですね。 つまり、ご本人の心の問題ともいえます。最大の拡大解釈では「心の信仰が真実の神に向っていれば、行動は不問」という解釈もありえるのです。(神社仏閣に拝礼していても、心の中ではキリスト教の神様にお祈りする、ということです)ただし、これは周りに対して誤解をあたえる危険が大きく、また、相手の宗教観が真面目である場合に「侮辱」ととられる可能性がありますね。 察するに、彼氏さんはお若いのでしょう。自分の信仰を形式厳守で表現したいのだと思います。また、指導者の方の方針によっては形式厳守によって“仲間意識”を涵養して、互いに支え合える関係性構築を考えていることも充分考えられます。 心の信仰が育って行くつれてもう少し寛容になると思いますよ。 以下は蛇足ですが、他の宗教に関わってはならない、という形式厳守はけっこう難しいですよ。つまり、どの行為が他の宗教にとって宗教的意義のある行為なのか、知らなくてはなりませんから。たとえば、建物に入る時に靴を脱ぐのは、日本人なら気にしませんが、ムスリムにとってはアッラーへの敬意の意味があります。お箸の洗い方などにもアニミズム的宗教観が付随していることや「いただきます」の挨拶も…。 ま、キリスト教の“本義”(これも日本仏教の宗教用語?使用禁止?)としては「心を尽くし、力を尽くしてあなたの神を愛しなさい」と「私(神)があなたを愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい」ではないでしょうかね。それ以外は説明(=あなたの神、とは何か?、愛する、とはどうすることか?など)だと言って差し支えないと思います。 長くなりましたが…
お礼
BluesHeartさん、ありがとうございます。 確かにご指摘の通り、「形式遵守」は厳密に考えるとすごく難しいことだと思います。私自身も何が神道に基づいた行為で何が仏教に基づいた行為であるかだってよく分かっていませんし、昔からごく自然に行っている行為がほとんどですから。。。
- nacam
- ベストアンサー率36% (1238/3398)
4番です。 >教団は確か日本基督教団です 申し訳ありませんが、日本キリスト教団(日本基督教団)は、プロテスタント諸教団の集合体ですので、教団・教派を特定できません。 >日本で1番大きい教団 というのも、多分日本キリスト教団の事を言っておられるのかとおもいます。 (キリスト教で日本で一番大きな教派はカトリックです) 日本キリスト教団の部会名が分かりませんと教派の特定ができませんが、日本基督教団(日本キリスト教団ではなく)の名前を使っているとすれば、日本基督教団初期(戦前)からの参加教派かと思われます。 その場合、教派として他宗教への儀礼的参加を否定している教派は無いと思います。 (儀礼的参加も否定している教派は、既に脱退しているか日本基督教団に参加せずに当局に弾圧されました) 多分個人的な信条によるものと思えます。
お礼
nacamさん、たびたびありがとうございます。 基本的な知識が欠けていてちゃんと質問にも答えられていなかったということですね。今度もう少し詳しく聞いてみてみることにします。
- maremare
- ベストアンサー率61% (563/913)
信徒です。ある意味ややニュートラルな教派に属しています (ちなみに統一原理、エホバの証人はキリスト教を偽る新興宗教で、無関係です)。 誤解されやすいポイントですが 「異なる宗教の行事に一切かかわってはならない」という教義はありません。 ただし「他の神に祈ってはならない」「偶像(神以外の動物、造形物、 神格化した人間など形あるもの)を“神”として拝んではならない」とは 聖書に書かれています。つまり、どなたかがおっしゃっているような 「世俗的なお付き合い」はほどほどなら大丈夫ですが、 信仰の良心を侵害する部分にまでは踏み込まない(踏み込めない) ようにしているだけです。 例えば、私は仏教のお葬式にも神社にも入りますが、お葬式はあくまで 「亡くなった方へ敬意を表し、ご遺族に哀悼の意を伝える」 ためであり、神社は観光見学や風景の散策のためだけです。 しかし、信仰の良心に踏み込む部分である仏や神に祈る行為はしないで 帰るだけですね。お葬式で香典は出しますが、 ご遺族には「宗教上手を合わせることはできないが、悲しみと 亡くなった方を悼む精一杯の気持ちをお伝えしたくて、 こころよりお悔やみを申し上げに参りました」と頭を下げています。 日本人の文化・習慣は「様式」を非常に大事にしますが、 一部の教派でも日本人の文化に合わせて「こころ」の部分を 大切にした行事を教会で行っているところがあります。 初詣のかわりに、新年に気持ちを新たに引き締めるという意味で 元旦礼拝、子どもの成長を祝い、将来の希望を祈るために 七五三にかわる「子ども祝福式」というものもあります。 要は、聖書の言葉に文字どおりに全てならうべきというものではなく、 信仰の良心にかかわる部分だけは一線を引き、 その他はその文化圏に生きる一市民としてこころを通わせることが できるお付き合いならしてもいいし、責任を果たすべきところでは 自分の信仰に見合ったスタイルで責任を果たすという心構えを持つ、 ということでいいのです(そのかわり、自分の気持ちを 理解してもらえる努力や工夫が必要ですが)。 多分、彼本人の中では、仏教や神道の施設に足を踏み入れるだけでも 「自分の信仰の良心を侵害する」という気持ちが起こってしまうんだと 思いますよ。教派の厳格さや聖書を表面的に教わってしまった影響かも しれませんが。教義やルールという「様式」的な意味ではなく、 文化・習慣に対する彼の「こころ」の部分を今度たずねてみてください。
お礼
maremareさん、ありがとうございました。救われた思いで一杯です。 私の付き合っている相手はプロテスタントです。プロテスタントの中にも色々な教団があるとのことですが、日本で1番大きい教団と聞いています。 maremareさんの言うように信仰の良心に踏み込まなければ、世俗的なお付き合いは可能なのですね。勿論信仰ゆえ、本人がそれを良しとしなければ、いくら信者でない私が言ったところでなんともなる話ではありませんが、道があると分かっただけでも大収穫です。 maremareさん、本当にありがとうございました。
- nacam
- ベストアンサー率36% (1238/3398)
キリスト教においても、教派により対応は異なります。 エホバの証人(これをキリスト教と呼ぶのに疑問はありますが)などは、かなり厳しく禁止しています。 一般に古いキリスト教ほどその点は緩やかで、新興教派ほど厳しくなる傾向にあります。 無教派系の場合、牧師さんの考え方しだいです。 私の母は、ボランティアで地区の教会にも出入りしていた関係で、葬式の時にその教会から「花代」をいただきました。 ちなみに曹洞宗での葬式でした。 キリスト教徒といいましても、カトリックや長老派、聖公会などであればまず問題ありませんが、エホバの証人、統一原理などでしたら、問題になると思います。 付き合っている方の教派がわかれば、もう少し踏み込んだ判断ができるのですが。
お礼
nacamさん、アドバイスありがとうございました。 私の付き合っている相手はプロテスタントです。教団は確か日本基督教団です。これでもう少しアドバイスいただくことは可能でしょうか?
- phj
- ベストアンサー率52% (2344/4489)
どの国のキリスト教徒でも、というより一神教(キリスト・イスラム・ユダヤ教)の信者は、自分の神を唯一信仰する証明として、他の神に関わることは出来ません。これが原則です。 ただしこれでは世俗的な付き合いが出来ませんから、信者それぞれがどこまでこの原則を曲げるか考えながら、信仰を行なっているといえます。 ご質問にあるような、 「例えば知り合いのお葬式でお焼香をあげることも信仰に反すると禁じられている」のかといえば、原則的には禁じられています。 お付き合いの相手はかなり厳格なクリスチャンのようですね。もともと一神教の信者には殉死の考え方もありますので、人によっては信仰を捨てたり曲げたりするなら死んだほうがまし、分かれたほうがまし、と考えることも十分ありえます。 通常の日本人のような、「適当に」とか「なんとなく」という考え方は一切通用しないのです。(このような考えを持つこと自体が、自分の信仰の弱さに繋がるからです) もし今後もお付き合いをしたいなら、彼に信仰を捨てさせるか、自分が洗礼を受けて同じように行動するか、でなければ世俗的な付き合いはすべて諦めてください。
お礼
phjさん、ありがとうございました。なかなか厳しいものなのですね。 因みに私の付き合っている相手はプロテスタントです。 自分自身が信仰というものを真剣に考えたことがないのでショックです。 これまで周りに信仰を理由にお葬式に参列しなかったり、初詣に行かなかったりという人にたまたま気がつかなかっただけかもしれません。 しかし世俗的な付き合いをできないというのは、日本で普通に生活していく上では大きな障害になりそうですね。いっそ国外へ脱出した方が楽になれるのでしょうが、正直悩ましいところです。
- chiro-rian
- ベストアンサー率20% (2/10)
私もクリスチャンなのですが、仏教や宗教的な行事に対する対応は聖書の教えでは関ってはいけないとあります。ですが、所属している教会やその人本人の考え方や信仰にもよるので一概にはいえませんが、この先質問にある通りの問題にぶつかると思います。彼の両親もクリスチャンなのでしょうか?それによって大分変わると思います。彼の親も同じ信仰を持っているなら、それを嫁には強要されるかもしれませんね。でも、中には信仰の違いを理解してくれる方もいるので、私の知り合いにも同じ様な状況で結婚してうまくいっている人もいますよ。 ちなみに私はお葬式に関しては、亡くなった方とのお別れや周囲の方への礼儀が大事だと思うので、お焼香などできないこともありますが、あまり宗教の違いにこだわりすぎないようにしています。
お礼
chiro-rianさん、ありがとうございました。 相手の両親はクリスチャンですが、信仰の強要はしないと言っているようです。むしろ、私自身と私の両親が信仰に対する正しい理解をした上で、信仰の違いを認め、相手を尊重することが出来るかどうかが課題という気がしてきました。
- mellow91
- ベストアンサー率11% (47/392)
人によるのでなんともいえません。創価学会の人達は一応は仏教ですのでクリスマスとかお祭り行事には一切参加しません。かといって別の仏教徒の人は普通にクリスマスも祝い正月も祝い、753もやります。クリスチャンだって酒、タバコ、麻薬をやっていながらクリスチャンっていう人も世の中にはいます。自分の知り合いで敬虔なクリスチャンはいますが、普通に正月、753とかやってますけどね。なので人によるのです。彼がやりたくないといえば、どうしよもないので諦めるしかないと思います。それがいかなる理由でも恋人が信心を曲げないというならあなたもそれに習うしかありません。宗教はこわいですよ、人を変えてしまいますから。無宗教の人では考えられない彼らの価値観があります。その価値観に口をだすと亀裂をしょうじます。間違いないです。そういう理由で世の中沢山の人が離婚とかしてますから。心配なら別れることをおすすめします。嫌みでいっているのではなく、宗教の価値観はそのくらいこわいものなのです。
お礼
mellow91さん、ありがとうございました。 やはり一般論では色々なことが言えるのでしょうが、結局はその人個人個人による話なのでしょうね。確かにクリスチャンも色々います。しかし、だからといって悪いマネをする必要もないし、強要することもできない。。。 信仰による価値観は人が説得して変わるようなものではないですから、頑固な人を説得して考えを変えてもらうのとは訳が違うのでしょうね。 今すぐ関係を終わらせたくはないので今暫く考えてみることにします。
お礼
oozora2000さん、詳しいアドバイスありがとうございました。 私は最近聖書の勉強を始めました。 今まであまりにも無関心かつ無知であり過ぎたみたいです。日本では信仰の自由は尊重されているはずですが、実生活の中で考えると本当に自由にしてしまうとかなり軋轢が生まれる気がします。 取り敢えず急いで結論は出さずに先ずは基本的な知識を得ることと相手とよく話し合うことを心掛けようと思います。