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江戸時代の築城思想(姫路城)

池田輝政は関ヶ原の後に姫路城を作ったわけですが、この時代だと鉄砲や大筒が大量にでてくるわけですから火薬が広く普及していたわけですよね? 姫路城は城壁を細かく作って複雑な通路を作っていたわけですが、攻城作戦として掘りを超えてとりついたら壁を火薬で吹っ飛ばして真っ直ぐ進むという発想はなかったのでしょうか? 掘りを超えられた時点で籠城側としてはほとんど絶望でしょうし。 結局城の防御力は掘りがほとんどの部分を担うのであって、はっきりいって細かい入り組んだ通路など日常生活不便なばかりで実戦での影響力など限定的だと思うのですがいかがでしょうか?

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  • ベストアンサー
  • Yelm
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回答No.6

姫路城も当時の大砲に対する備えは行われています。 当時の大砲から大天守を砲撃できるのに適した位置は北西方面(現在の姫路市小利木町周辺)ですが、そこからは三つの小天守があり、また砲撃に対して壁面が斜めになるように建築されていて防御力を向上させています。 他の方が指摘されているように炸裂しない鉄の玉を打ち込むだけの大砲に対しては、十分な防御力があるのです。 そして石垣や塀によって仕切られ入り組んだ内部構造は、敵を味方の銃火の格好の射撃位置に誘導するように出来ており、鉄砲による射撃戦も考慮された構造なのです。 ただ姫路城はあくまでも「その城にいる大名の兵力で守る城」であって、徳川家が天下普請で造った大坂城や名古屋城の場合、幕府の送り込む大兵力の運用を前提にしているので、入り組んだ構造は採用されず、高石垣と広大な堀によって敵を遮蔽した、攻防の双方を考慮されて造られた枡形門からの出撃で城に近づく敵を撃退するという構造になっています。

jkpawapuro
質問者

お礼

皆様御回答ありがとうございました。

その他の回答 (5)

  • ithi
  • ベストアンサー率20% (1972/9601)
回答No.5

jkpawapuro さん、こんばんわ。 日本で大砲を使用した戦争はこの時期では珍しいです。城郭に対して大砲を使用したのは大坂冬の陣くらいでしょうか? 時代は姫路城ができてから10年くらいあとです。 姫路城は城壁を細かく作って複雑な通路を作っていたわけですが、攻城作戦として掘りを超えてとりついたら壁を火薬で吹っ飛ばして真っ直ぐ進むという発想はなかったのでしょうか? 掘りを超えられた時点で籠城側としてはほとんど絶望でしょうし。 武田氏がこの戦術を得意としていたようですが、そのあとすたれました。黑鍬者といいます。 黑鍬者 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E9%8D%AC 結局城の防御力は掘りがほとんどの部分を担うのであって、はっきりいって細かい入り組んだ通路など日常生活不便なばかりで実戦での影響力など限定的だと思うのですがいかがでしょうか? 多少の不便は武士の心得としてあまり気にしていなかったでしょう。

noname#224207
noname#224207
回答No.4

>この時代だと鉄砲や大筒が大量にでてくるわけですから火薬が広く普及していたわけですよね? 火縄銃で黒色火薬です。 当時の大砲はひたすら火縄銃をでかくしただけの代物です。 鉄の玉が飛んでくるだけです。 打ち上げ花火のように、炸裂しませんでした。 充分な飛距離もありません。 実戦に有効な飛距離を持った炸裂弾が開発されたのは19世紀以降です。 >攻城作戦として掘りを超えてとりついたら壁を火薬で吹っ飛ばして真っ直ぐ進むという発想はなかったのでしょうか? 当然対策はとってあります。 日本のお城の石垣のカーブは上に行くほど傾斜が急になるように設計されています。てっぺんの付近はほぼ垂直です。 姫路城でも扇の勾配と呼んで観光の目玉になっています。(ネットに写真があります) 石垣の上に建つ櫓や城郭は石垣からややせり出しています。 このせり出した部分の床が上げ蓋になっていてここから岩を落としたりしました。 石垣にへばりつている敵兵は転げ落ちます。 >はっきりいって細かい入り組んだ通路など日常生活不便なばかりで・・・ 現在残されている建物だけをご覧になられるとこのような印象を受けられるのは止むを得ません。 城が現役であった江戸時代には、現在残っている天守閣や櫓は日常的には使われていませんでした。 警備の侍が数人うろうろしていただけです。 現在備前丸とよばれる広場に広大な木造の建物が立っていました。 ここで、藩主が生活するとともの日常の政務が行われていました。 二の丸と呼ばれるところにも木造の建物が建てられていました。 西の丸も同様です。 お城というのは平時は役所です。役所として必要な建物だけを使っていました。 そうは言っても朝晩登下城時の石段の上り下りは面倒だったでしょう。 江戸城の天守閣は早い時期(1657年)に焼失しましたが、以降は無駄だということで再建されることはありませんでした。 >実戦での影響力など限定的だと思うのですがいかがでしょうか 当時の戦は白兵戦です。入り組んだ城壁内では弓も鉄砲も役にはたちません。 白兵戦ですから、どこがどうなっているか知らなければ道に迷ってうろうろするだけで、揚句に後ろに回られたり追い詰められて切り殺されてしまいます。 (このような事態になるようにレイアウトされています) 城内の兵からはこちらの動きは丸見えです。 こちらはひたすら上を見る以外に見通しはききません。 (このようになるようにレイアウトされています) 鉄の玉を飛ばすだけの大小の火縄銃と弓槍刀だけの装備で姫路城を落城させる方法を考えてみてください。 

  • eroero4649
  • ベストアンサー率32% (11074/34519)
回答No.3

>掘りを超えてとりついたら壁を火薬で吹っ飛ばして真っ直ぐ進むという発想はなかったのでしょうか? 登山に例えると、「頂上と今いる場所を定規で線を引いて、まっすぐ進めば最短距離っしょ」というくらい乱暴な話です・笑。 まず堀を埋めるとしたら、まずもってその膨大な量の土砂をどこから運んでくるのかという問題があります。例えば今の皇居を攻略すると仮に仮定してください。もしお堀を埋めるとなったら八王子あたりの山を削ってダンプで運んでこなけりゃなりません。それが可能かどうか云々より、何台のダンプカーが必要で、その費用だけでいくらかかるかを考えれば「フツーに攻めた方が早くて安上がりじゃね?」となるのは至極当然ですね。 そして次に壁を火薬で爆破させる作戦ですが、まずもってそれだけ大量の火薬を保管するのが大変です。たまに花火を分解して爆弾を作るバカがいるのですが、よく暴発事故を起こします。そのくらい素の火薬というのは扱いが難しいのです。ノーベル先生がダイナマイトの発明で大富豪になれたわけですよ。 現代でも、ビルを壊すときに外国ではダイナマイトでぶっ壊すことがしばしばありますが、日本ではチマチマ壊していきますでしょ。なんでいちいちあんな面倒くさいことをするのかというと、「危ないから」です。戦争でもうっかり爆発事故で味方の兵士が死んだら危ないでしょう? 爆薬を爆発させて相手の陣地的なものを破壊する戦術が生まれるのは、そうだなあ、だいたい日露戦争あたりくらいからですかね。「暴発のリスクが少ない爆薬」ってのが発明されるまでにそのくらいの時代がかかってるんです。 >細かい入り組んだ通路など日常生活不便なばかりで実戦での影響力など限定的 戦国時代だけを見ても、七尾城や旧大阪城(一向門徒が使っていた頃)、小田原城のような「難攻不落の城」ってのはいくつかあったので充分意味はあったのですよ。というか、様々な試行錯誤と実戦のノウハウで「道は入り組むと攻略しづらい」となったのですよ。

noname#229784
noname#229784
回答No.2

大砲が有効になるのは榴弾が開発されてからのようです。   榴弾:弾丸の内部に炸薬が封入されており、着弾時など信管が定めるタイミングで爆発(炸裂)する。榴弾が炸裂することで、弾殻が破砕され、その破片が広範囲に飛び散り、周囲の物体に突き刺さる。(Wikiより引用) あと、普段の日常はは城の入り組んだ奥まった部分には住んでなかったかもですね。

  • 1paku
  • ベストアンサー率21% (344/1575)
回答No.1

 関ヶ原の後に大阪の陣がありますね。その後、島原の乱なんかもあって、合戦がなくなるという発想はなかってたでしょう。  大砲が有効に使われたのは、大阪冬の陣の時、天守閣めがけて発射することで恫喝に利用しています。今のように炸裂もしなければ、椎の実型でもなく丸い球ですから、貫通力もイマイチ。投石器の延長っぽい使い方でした。  長距離兵器ですから、狭い場所では使えません。大砲の移動に関しては、通路が入り組んでることで移動が困難、使用機会はゼロになるはず。    最初に堀を渡る敵は、移動速度重視で、騎馬や足軽。戦力分散して各個撃破など、防衛側は、いろいろな戦術がつかえますから、実戦に有効でしょう。 日常生活に関しては、テレビ局などが、クーデター勃発を想定して、故意に入り組んだ構造になっているといいますが、別に不便感じてないでしょう。  当時の人たちも、城の通路、別に不便は感じてなかったと思います。    

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