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「禅」

いつも、お世話になっております。 ・・・仏教について、知り得る限りにおいて、 応答してきた積もりだったのですが、 「禅」という表現を見るに及んで、 傲慢ではなかったか、と、反省しております。 「禅」とは。よろしくお願い致します。

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  • fuukakou
  • ベストアンサー率22% (200/870)
回答No.13

全く知識が無いのに参加! 禅てなんだろ?と思ったので質問回答興味深く読んでみました。 今まで 座禅道場に行ったよ やってみたよ 的な本を読んだ事ぐらいしかないからなぁ・・・ 体験すること 体感かも が重要な印象でした 何も考えない状態を作ってみよう → ノイズが次々に来るぞ → 自分てこんなんだったのねと自分を知るとか 腹が減ってくると不機嫌になるのに、なんか食べると落ち着いて誰かと仲良く話したりすんのね 自分なんてちっぽけなものなんだなぁとか 自分が見えてくると周りも見えてくるって事なのかなぁ? まぁ、これなら実践しないと判らないっていうの納得 家で廊下を歩いてる時、頭真っ白にしてみようとしたら 涙がボロボロ出てきたこともあったな 何かを感じ取っていて、胸が熱くなって涙がこぼれる でもなんでなのか判ってないし、何を感じてたのかも判んない こういったことが全部わかるようになると禅になるのかも・・・ と思ってたんだけど・・・なんか思いきっり間違ってたかも ちゃんと学んだ人には学問なのね なんかとても難しいものだったのですね~ 間違いパターンも書いておけば、失敗が減るかと書いてみました(たはは~)

kurinal
質問者

お礼

fuukakou様、ありがとうございます。 >「今まで 座禅道場に行ったよ やってみたよ 的な本を読んだ事ぐらいしかないからなぁ・・・ 体験すること 体感かも が重要な印象でした 何も考えない状態を作ってみよう → ノイズが次々に来るぞ → 自分てこんなんだったのねと自分を知るとか 腹が減ってくると不機嫌になるのに、なんか食べると落ち着いて誰かと仲良く話したりすんのね 自分なんてちっぽけなものなんだなぁとか 自分が見えてくると周りも見えてくるって事なのかなぁ? まぁ、これなら実践しないと判らないっていうの納得 家で廊下を歩いてる時、頭真っ白にしてみようとしたら 涙がボロボロ出てきたこともあったな 何かを感じ取っていて、胸が熱くなって涙がこぼれる でもなんでなのか判ってないし、何を感じてたのかも判んない こういったことが全部わかるようになると禅になるのかも・・・」 現代人は「先をいそぎ過ぎて」、あるいは「外向的過ぎて」、 例えば、私などは「落ち着くと、自分の心音が聞えるようになります」といった文章を読むと、 「?、そんなの当たり前でしょう」と思ってしまうクチです。 ・・・「何もしないで、ただ居る」という状態が、人間にとって、本来は重要らしいのですが、 「スケジュールが埋まってないと不安だ」症候群、というのがあるように、 こと「現代人」にとっては、つまりそれだけ、 「自分自身の本来の価値」というのを実感する機会、が、無い訳です。

その他の回答 (13)

  • 0fool0
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回答No.3

息を吸う 息を吐く

kurinal
質問者

お礼

0fool0様、こんにちは。ご回答ありがとうございます。 「吸う→吐く」 はい。 では、そうすると、 それって? 「なるようになる」なのか、別の何かなのか

回答No.2

 アメンボ頭脳の私が感じるのは、心を落ち着かせる、ということです。  実社会においては心は常に“動揺”しています。  心を池に例えれば、底の土(煩悩)を舞い上がらせ“視界不能”と云った状態です。  その曇りを晴らす為に、座るのです。  池の水が澄んでくれば視界良好、周囲の事がよく見えるようになります。  もし自分に、危険が迫ってくれば、避けることが可能です。  生物は皆そうしています。  人間だけが“迷い”ます。  そして答えを、あるいは拠り所を“言葉”に求めます。  「智」ではありません。  心を澄んだ状態にすることが禅の目的です。  その心持を言葉に置き換える。  順序が逆ですね。  禅の修行に“言葉”は不要です。      

kurinal
質問者

お礼

yy8yy8az様、ご回答ありがとうございます。 >「「智」ではありません。  心を澄んだ状態にすることが禅の目的です」 >「その心持を言葉に置き換える。  順序が逆ですね」 へえ。少し判ったような気がしました。 ・・・そうしてみると、 「単語」ってのは、常に旧くなって行っている、のですね。

回答No.1

若いときですが、一時鎌倉の浄妙寺で半年間だけ座禅の修行したことがあります。 師家は故・安谷白雲老師で、大正・昭和の有名な禅僧・原田祖岳の衣鉢を受け継ぐ人で、曹洞宗と臨済宗の良いとこどりという感じの禅風でした。 当時は鈴木大拙の英文の禅の本が世界的にブームを起こしている最中で、鎌倉にも外国人がたくさん押し寄せており、浄妙寺にも何人か外国人が来ていました。 大きな方丈に50人位の修行者が来て連日朝から夜まで、座禅三昧でした。 禅は「参禅」といって、老師と一対一で禅問答をします。 私も参禅したことがあります。 もっとも私は初心者でしたので聞いたのはもっぱら座禅の仕方だけでしたが。 曹洞宗は公案を用いませんが、安谷白雲老師は公案を用いていました。 私が頂いた公案は「趙州無字の公案」でした。 「無字の公案」とは姿・形のない文字を見てきなさいという問題です。 禅の公案はたいてい無理難題です。 頭で考えたのでは解決しない問題ばかりです。 禅は「不立文字・直指人心・以心伝心・見性成仏」をモットーとする宗教です。 分別、つまり理性を超えた無分別を旨とする宗教です。 知ではなく、知を超えた非知を旨とする宗教です。 言葉をもってするモノではなく、言葉を超えたものをモットーとする宗教です。 だから、頭で考えるのをやめ、体でもって体得するしかありません。 禅の修行者は言葉でしゃべることを一切禁じられます。 ひたすら坐禅すること、それ以外に禅はありません。 本当を言えば「悟り」を求めることは邪道です。 道元は言いました、座ること、それが仏の姿だと。 だから、只管打坐です。 禅はそれ以外にありません。 10年でも、20年でも、ひたすら座る、それ以外に禅はありません。 たいていの人はその修行に耐えられなくて挫折します、私も挫折しました。 だから私に本当は禅を語る資格はありません。 私は禅に関しては傍観者です。 浄妙寺で、座禅の間に「提唱」という講義がありました。 テキストとして禅の公案集「臨済録」を用いました。 今でも私にとって「臨済録」は座右の書です。 繰り返し、繰り返し紐解きます。 禅は中国人が考え出したもので、仏教はインドでは煩瑣な理論体系を作りましたが、中国人は実際的な民族で、煩瑣な理論体系や形而上学が嫌いな民族だから、禅が生み出されました。 日本人もその点は中国人と同じで、インドみたいな形而上学の嫌いな民族だし、しかも鎌倉武士は頭が悪いし、仏教の知識がなかったから禅宗が歓迎されました。 禅は理論を嫌うから、ある意味では誰にでもできます。 ただ座っていればよいのですから。 しかし、現代人は何もしないでただ座っていることに我慢ができません。 禅の修行に耐えられません。 なにも思わず、無念無想でいる、そんなことはできないのです。 瞬間的ならできますが、10年、20年、なにも思わず、何もせず、ただひたすら坐禅する、それが現代人にはできないのです。 あなたにそれができますか?

kurinal
質問者

お礼

urigadai2013さん、こんばんは。 >「あなたにそれができますか?」 さてさて(笑) >「若いときですが、一時鎌倉の浄妙寺で半年間だけ座禅の修行したことがあります。」 ほお >「師家は故・安谷白雲老師で、大正・昭和の有名な禅僧・原田祖岳の衣鉢を受け継ぐ人で、曹洞宗と臨済宗の良いとこどりという感じの禅風でした。 当時は鈴木大拙の英文の禅の本が世界的にブームを起こしている最中で、鎌倉にも外国人がたくさん押し寄せており、浄妙寺にも何人か外国人が来ていました。 大きな方丈に50人位の修行者が来て連日朝から夜まで、座禅三昧でした。 禅は「参禅」といって、老師と一対一で禅問答をします。 私も参禅したことがあります。 もっとも私は初心者でしたので聞いたのはもっぱら座禅の仕方だけでしたが。 曹洞宗は公案を用いませんが、安谷白雲老師は公案を用いていました。 私が頂いた公案は「趙州無字の公案」でした。 「無字の公案」とは姿・形のない文字を見てきなさいという問題です。 禅の公案はたいてい無理難題です。 頭で考えたのでは解決しない問題ばかりです。 禅は「不立文字・直指人心・以心伝心・見性成仏」をモットーとする宗教です。 分別、つまり理性を超えた無分別を旨とする宗教です。 知ではなく、知を超えた非知を旨とする宗教です。 言葉をもってするモノではなく、言葉を超えたものをモットーとする宗教です。 だから、頭で考えるのをやめ、体でもって体得するしかありません。」 いやはや、「そうなんですね」としか、、、 >「禅の修行者は言葉でしゃべることを一切禁じられます。 ひたすら坐禅すること、それ以外に禅はありません。 本当を言えば「悟り」を求めることは邪道です。 道元は言いました、座ること、それが仏の姿だと。 だから、只管打坐です。 禅はそれ以外にありません。 10年でも、20年でも、ひたすら座る、それ以外に禅はありません。 たいていの人はその修行に耐えられなくて挫折します、私も挫折しました。 だから私に本当は禅を語る資格はありません。 私は禅に関しては傍観者です。」 ・・・どうやら、私もそれ以上では有り得ないようです。 >「浄妙寺で、座禅の間に「提唱」という講義がありました。 テキストとして禅の公案集「臨済録」を用いました。 今でも私にとって「臨済録」は座右の書です。 繰り返し、繰り返し紐解きます。 禅は中国人が考え出したもので、仏教はインドでは煩瑣な理論体系を作りましたが、中国人は実際的な民族で、煩瑣な理論体系や形而上学が嫌いな民族だから、禅が生み出されました。 日本人もその点は中国人と同じで、インドみたいな形而上学の嫌いな民族だし、しかも鎌倉武士は頭が悪いし、仏教の知識がなかったから禅宗が歓迎されました。 禅は理論を嫌うから、ある意味では誰にでもできます。 ただ座っていればよいのですから。」 なるほどねえ。それって、究極的に「思考停止」でしょうか >「しかし、現代人は何もしないでただ座っていることに我慢ができません。 禅の修行に耐えられません。 なにも思わず、無念無想でいる、そんなことはできないのです。 瞬間的ならできますが、10年、20年、なにも思わず、何もせず、ただひたすら坐禅する、それが現代人にはできないのです。」 ・・・この一文だけ、別格ですね。 その文脈で言うと、坐禅すら必要ではない、ということになりませんか。

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