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これは信長の詩?
信長が堺を直轄地にした際に 「舞遊ぶ 千代よろずの屏風にて 二本(日本)手に入る 今日(京)の喜び」 と言う詩を残していますが これは信長のオリジナルなのでしょうか? それとも元々あった詩の引用なのでしょうか?
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こんにちは。 この歌は、織田信長が永禄11年7月に足利義昭を奉じて上洛した時、連歌師の里村紹巴が、信長の宿所に上洛の祝いに出向き、扇子二本を祝儀として献上しした際に、「二本手に入る今日の悦び」と下の句を詠み掛けました。これに対して信長は、「舞ひ遊ぶ千代万代の扇にて」と上の句を付け、武力だけでなく、教養深い人物であることを示したという、小瀬甫庵の「信長記」出て来る話です。この時、紹巴は信長の人物を試したとされ、この内容を聞いた京都の人々は信長の文化的側面を知り、信長軍が京都で乱暴狼藉を働かないだろうと思い、安心したとされています。ただ、この話は小瀬甫庵の「信長記」しか出ていないので、実際にあった話かどうかは不明です。 なお、里村紹巴は戦国時代の連歌師で、明智光秀が本能寺の変の前に、愛宕山で詠んだ「愛宕百韻」の参加者の一人であることが有名です。この百韻は光秀の謀反の決意が込められた連歌であるとされています。 発句 ときは今天が下しる五月哉 明智光秀 脇句 水上まさる庭の夏山 威徳院行祐 第三句 花落つる池の流れをせきとめて 里村紹巴 以上、参考まで。
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noname#224207
回答No.1
「舞遊ぶ 千代よろずの屏風にて 二本(日本)手に入る 今日(京)の喜び」 出典はどちらからでしょうか? あきらかに狂歌の類です。 言葉つかいから推定して後世しかもそうとう後の時代の駄作だと思います。
質問者
お礼
信長記ですね
お礼
微妙に句の内容が違っていたことはご容赦を 何せうろ覚えなもので やはり後世の創作ではなく この句自体は一応記録には出ているのですね(信憑性はともかくとして) ちなみに愛宕百韻は後世の創作だと思います これは光秀が信長を殺す事を心に秘めていた事を詠んだものとされていますが ここでそんな歌を詠めば事が露見して自分の身が危うくなることぐらい分かったはずですし