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NHK大河ドラマ「江」
きのうの放送では本能寺の変が描かれていましたが、そのとき信長に従っていたのは百人ほどに過ぎなかったとか。また、「放送を見る限りでは、」そのとき堺にいた家康のまわりにも多くはおらず(数十人?)、ほうほうのていで伊勢方面へ逃げて行ったようでした。あのクラスの大名が本拠地を離れて京、大坂へ行くとき、戦が目的でない場合、供の人数はふつう、どの程度であったのでしょうか?
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1 近畿圏の責任者は誰か? 明智光秀です。 近畿管領という言い方をする歴史家もいます。 京都も含めて、近畿圏の警護は光秀だったんじゃないかな。 2 上京参考例 1559年に信長は100名ほどの供回りで京都に行っています。 1553・59年に上杉謙信が上京。一回は少人数で、もう一回は4000名ほどを連れていっているが、主兵力は坂本において入洛だったので、人数は一桁したの、数百名がいいところと思われます。
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- isa-98
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江は少しアフリカが混ざっていると言うのは事実無根なのだそうです。 上杉景勝が上洛する折、4千の手勢を率いて上洛しますが、 越後は39万石ですので相当な大盤振る舞いだと考えられます。 信長の勢力が伸びて来た為で、後に会津120万石となります。 徳川秀忠が上洛する時は数万の大群を率いて上洛。 天下人であるアピールには打って付けの見せ場でした。 また、馬揃えは如何に実力と金があるかの誇示でした。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%AC%E6%8F%83%E3%81%88 一石とは、男1人が1年で食べる量の米を意味していましたから、 100人動かせば100石減る勘定でした。 旅費も馬鹿には出来ません。 遊びであれば出来る限り人数を減らそうとするのが当たり前であったと思われます。 島原城も、実際には届出してある兵数の1割程度しかいなかった為に落城したのです。 自分の国の中であれば100人は普通であると思われます。 治安の行き届いた堺に数十人は多いと考えられます。
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ご回答、ありがとうございました。 信長は自分が襲われるとは夢にも思っていなかったのでしょうね。
- eroero1919
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全く知られていないことですが、戦国時代の合戦のときのあの軍勢の出陣にかかる費用というのは実は自分持ちなのです。例えば武田軍が出陣するとき、あの部下たちの武器一式から何からは全部自分で用意しなければならなかったのです。支払いは、合戦後です。だから、負けるともらえない可能性があるわけです・笑。 だから合戦もないのにいちいち部下を大勢連れて行ったら、後の支払いが大変なことになりますよね。 考えてもみてください、日本の首相が国内を移動するときに自衛隊が戦車に乗って警備につくでしょうか?つきませんよね。なぜかというと、そんな必要はないからです。日本国内の治安は保たれていますから、SPの護衛で充分なわけです。 当時の畿内は信長の手によって平定され、もはや信長の命を集団で狙えるほどの勢力はなかったわけです。ただし、少数の手による暗殺の可能性はあるわけですからそれを防ぐだけの護衛があればよいということになります。 また家康についてですが、これまたもし日本の首相がアメリカの大統領と会うためにアメリカに行ったとき、自衛隊を総出で護衛に持って行ったら大変ですよね・笑。そのままホワイトハウスで大統領を人質にとるんじゃねえかとか、戦争でもやるつもりなのかと思われます。だからむしろお供の連中も最小限のほうがかえって安全(余計な勘繰りを受けない)です。 実はあの上杉謙信が京都と高野山を訪れたことがあるのをご存知ですか。京都を訪れ、そのときに(彼は信心が篤いので)高野山も参拝しています。このときには本当にごく少数のお供を連れただけの「お忍び」でした。考えてもみてください、写真もマスコミもない時代です。山道ですれ違った修験者の一団に含まれていた人があの謙信公だなんて思いもしないでしょう。ただし、その一団が「毘」の旗でも掲げていたら話は別でしょうけど・笑。 本能寺の変後、家康の虎口からの脱出記が後に「神君伊賀越え」の話となり、このときに家康を無事に送った伊賀忍者の服部半蔵が後に東京に半蔵門の名前を残すほどの出世をしたことは有名です。 しかし、この話に私は少々疑問に感じることがあります。まず以下の事実について書きます。 家康が信長を訪問したときの接待役を命じられたのがあの明智光秀です。当然ですが接待役として家康と光秀はどこかで(おそらく安土城で)面会しているはずです。安土城の一室で二人っきりで密談をしていても「ああ、光秀様が家康様を接待しているんだな」と疑問に思う人はいないでしょう。会社のお客さんと部長が会社の応接室で密談していても誰も疑問に思わないのと同じです。 直後、突然光秀は家康の接待役を外されて中国地方に出陣中の秀吉への援軍を命じられます。ここのいきさつについては諸説ありますが割愛。 そして本能寺の変のとき、家康一行は大阪にいました。しかも、ほとんど変直後に知らせを聞いています。後に秀吉は大阪近辺の諸将に対して「信長様は難を逃れ無事である」というデマを流し、少なくない武将がそれを信じて秀吉方につきました(つまり情報は相当混乱していた)。しかし家康は情報を信じがたいほど迅速に、かつ正確(信長は討たれた)に知ったことになります。 しかも、その直後の混乱で、元武田信玄の家臣で家康の客将になっていた穴山梅雪という武将が殺されています(誰が殺したのか不明)。一応、混乱の中家康と離れ離れになってしまったことになっています。穴山梅雪は旧武田家の重臣だったので、家康は信長に梅雪を紹介させるのも今回の会談の目的のひとつだったようです。 帰りのルートも実に憎い。現代の日本で大阪から東京に向かうとして、東海道が危険だとしたら、一旦新潟に出て東京に向かうようなルートです。しかも、そこに新潟出身の人がいたら土地勘もあるでしょうし危険も少ない。そうです、家康は裏道である伊賀ルートを使い、そこには伊賀甲賀衆を率いる半蔵(半蔵自身は三河出身)が一緒にいたのです。しかも幸いに、どうでもいい客人はいつの間にか死んでいます・笑。「お荷物」もないわけです。先ほどの謙信公の高野山詣でではないですが、こういうときは少数精鋭のほうが小回りが利いて目立ちません。現代の特殊部隊も少数で行動します。 全ては「状況証拠」に過ぎません。でも、余りにも「出来過ぎ」なのです。もちろん私は家康が本能寺の変の黒幕というつもりはありません。ただ、彼は絶対に「何かを知っていた」これは間違いないと確信しています(しかし、あくまで個人的な推理であることを申し上げておきます)。
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ご回答、ありがとうございました。 おもしろく読ませていただきました。信長に家康並みの慎重さ・周到さがあったなら、本能寺の変のようなことで命を落とすことはなかったということになりそうですね。
- pri_tama
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明智光秀って信長の本拠地「安土」に隣接した領土と、京都に至る東海道と山陰道の付け根に当たる場所を領地をとして与えられていた様に、信長のいわば親衛隊長であり、京都での信長護衛の最終的な責任を負う者でも有りました。 この様な重責を負った者が裏切った以上、信長を実際に護衛していた者が少数なのは仕方有りません…。 ちなみに、上杉謙信の2度目の上洛した時は、5千人ぐらい連れて行きました。 家康が少数だったのは、信長の招待だったので、余りたくさん連れて行くと歓待せねばならない信長の負担が多くなってしまうのと、信用していないから連れが多いのか?という疑いを掛けられてしまうからでは…。 (家康の嫡男、信康を信長の疑惑から自害させた事が有った後ですし…。) なお、信長の正室「濃姫」は、諸説あって定説にはいたっていませんが、『氏郷記』『総見院殿追善記』などには、本能寺の変後、安土城から逃れた女性の中に「御台所」「北の方」の記述が見られ、その後、『織田信雄分限帳』には、濃姫と目される女性の記述が有ります。 『妙心寺史』には、信長公夫人主催で一周忌を執り行ったとの記録も有りますし、本能寺の変を生き延びたのではないかが、現在の主流だとおもいます。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BF%83%E5%A7%AB
お礼
ご回答、ありがとうございました。 代わりを用意しないで親衛隊を中国へ派遣しようとしたのがまずかったということになるのでしょうね。それだけ毛利に手を焼いていたということなのかもしれませんが。 妙心寺での信長一周忌については、濃姫は明智氏の系統なので、内心では光秀の弔いのつもりで主催した、などという俗説を聞いたことがあります。
- take-plus
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例えば現代の寺院でもひとつの寺院に泊まれるのって何百人の世界ですよね? 寝ずの見張りにしたって何時間かおきに交代して仮眠してたはずです。そう考えると本能寺に居たのは百人程度というのは妥当な人数ではないかと思います。 他の回答者さんも言ってますが近くには信忠もおり何カ所かの寺院に分かれて滞在してたと考えるのが妥当だと思います。 濃姫ですが、史実上本能寺で死んだ決定的証拠も信長の晩年重用されていた証拠もありません。信忠・信孝・信雄と有力な男子が他の側室の子だったという史実から信長晩年は正室扱いされてなかった可能性もあります。 あくまで大河ドラマは脚本家の歴史観で作られますから、史実とは異なる場合もあります。脚本家が今回は敢えて死なせなかったんだと思います。 濃姫とは美濃から来た姫様という意味で書物によっては帰蝶、化粧殿、安土殿などと呼ばれてたらしいです。
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ご回答、ありがとうございました。 本能寺内にいたのは百人ほどであっても、多数の軍勢を寺を直接囲むように配置しなかったのは不思議です。また、明智軍の動きを探る者を使っておれば、すぐ連絡が来て、対策を講じることもできたと思われます。そのようなこともなかったとしたら、それも不思議です。
まず家康の件 これはただ信長に招待されただけなので供廻り、要するに護衛が数十人いる程度と考えていいと思います。 信長の件 諸説ありますが本能寺周辺に自分の手勢を点在させて駐屯させていたようです。 現に長男の信忠は二条御所、今の二条城に500の手勢をひきつれて駐屯してました。 おそらく何千かの軍勢はいたはずです。 ただ光秀の迅速な奇襲によって混乱に陥っていたはずですので大規模な戦にはならなかったのでしょう。
お礼
ご回答、ありがとうございました。 家康がわずか数十人の護衛で三河から京へ旅をするというのはやはり驚きです。もちろん道中は信長の支配地で、信長配下の武士が大勢いるでしょうから、信長を信用しているのであれば問題ないのでしょうが。
あぁ、ありましたね、そうゆうシーン。私は何気に無心に見てましたが、あの描写程度の数なんじゃないでしょうか。ただ織田信長の場合、これまで数々の大河ドラマで「本能寺の変」は描かれてきましたが、信長としては、ちと油断が過ぎた様な感があります。「うつけ」とは言われても、戦術には長けていた信長が「明智光秀の謀反」を読めぬ筈も無く不意打ちを食ったというのはどうにも解せません。しかもどの大河ドラマを見ても信長の供の人数はあの程度。やはり戦が目的では無い移動の場合は、それ位の数だったんじゃないでしょうか。それにしても今回は「お江」が主役とは言え、何故に本能寺の変で信長の傍にお濃がいなかったのか。そっちの方も不思議です。
お礼
ご回答、ありがとうございました。 大名が戦以外の目的で移動する際にあの程度の人数しか引き連れていないとすると、襲うのは簡単ですね。戦国時代にしてはのどかな感じがして不思議です。 お濃のことについては気づきませんでした。
お礼
ご回答、ありがとうございました。 京に大部隊を入れることは、ふつうはしなかった(特別の意味をもっていたので、できなかった?)のかもしれませんね。