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クリスチャンは 良心がないのか?

 たとえば  【Q:エレミヤ書31:31以降の《あたらしい契約》】  http://okwave.jp/qa/q8459256.html  についてクリスチャンの方々に質問していますが いっこうに回答がありません。  これは クリスチャンも 一部の人びとと同じように良心をなくしたのかとうたがわれるのですが そうではないでしょうか?  クリスチャンの存在意義は どこにあるでしょう。

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noname#190677
noname#190677
回答No.12

お礼を拝読しました。たくさん有難うございます。 後の参考にさせていただきます。 >エレミヤ書問題は 要するに 解釈を述べて明らかにすることだけです。それを互いに受け留め批評しあうことができれば 言うこと無しです。 これは余談ですが、「互いに受け留め批評しあう」というくだりから、ふと私の手にしている聖書を眺めてみました。 「新共同訳」というものです。 今春カトリックの高校を卒業した我が子から借りたもので、我が家のかかりつけの病院(聖公会)院長も読んでいるとのことでした。 で、もしかするとクリスチャンの方々はただ単に、聖書の共同訳以上のもの、つまり垣根を越えた自由な交流や批判、受容といったものを各々が敢えて望んではいないし、またその必要も無いと思っているのかもしれないのでは。。? (それとも、私が知らないだけなのかもしれません。語弊や誤解があったらお詫びします。すみません。) >☆ この意味は 《ユダヤ人が 神によってその救いから除外されたのではないか》という疑いを消したということにあると考えます。言い方がどうであれだと思います。 その言い方なのですが、、 聖なる神の言葉にしては、あからさまにユダヤ教を蔑む記述が存在します。 例えばガラテヤの信徒への手紙4の「二人の女のたとえ」です。     30 しかし、聖書に何と書いてありますか。「女奴隷とその子を追い出せ。女奴隷から生まれた子は、断じて自由な身の女から生まれた子と一緒に相続人になってはならないからである」と書いてあります。     31 要するに、兄弟たち、わたしたちは、女奴隷の子ではなく、自由な身の女から生まれた子なのです。 5   この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛にに二度とつながれてはなりません。 キリスト教というのはユダヤ教をアップデートした新しい教えであるとbragelonneさんはおっしゃいます。 でもその新しいキリスト教というのは、生まれ出でたユダヤ教のことを蔑みます。 聖なる神の言葉として。 bragelonneさん、ユダヤ教を蔑まなければキリスト教というものは成立し得ないものなのでしょうか。 (bragelonneさんの「世界に全体として 神はひとつ。名が違うだけ。とまで成れば かなり障害は消えたでしょうし 消えて行くでしょうと思います。」は理想なのですし、実際これに似た事を世界に説く者はいったいどれだけいるのでしょう。) >>イエスの思想とパウロの思想では相反するものも少なくありません。 >>キリスト教の本質としては、はたしていったいどちらなのでしょう。 >>それとも、このようなことを考えること自体意味の無いことなのでしょうか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ >☆ 《わたしにとって生きることは キリスト〔を生きること〕である》と言ったパウロですから 《相反するもの》は無いと思うのですが ありますか? 生前のイエスは自身の死後ユダヤ教をアップデートせよ、その際には同胞であるユダヤ教徒を「女奴隷」と蔑むようになどと遺言でもしていたのでしょうか。 >7. 言いかえると モーセの律法が あたかも民衆の集団としての秩序をまもるために与えられたのだと言おうとするかのように もうそのような集団としての規範は 要らないと言った。少なくとも その交通規範が 《神》なのではないとはっきりと伝えた。集団ないし組織の倫理規範が オシエをかかげる宗教であると理論づけた。そしてこのシュウキョウは 要らないのだと。 >☆ 基本とし 9. 《すくい》は 目に見えるところから来るのではない。(パウロは 宣教をおこなったが オシエを組織宗教としてかかげ触れ回れと言ったわけではないはずです)。 パウロはそもそも集会、そして教会についてどう考えていたのでしょう。 7.では「集団ないし組織の倫理規範がオシエをかかげる宗教は要らない」。 でも、コリント信徒への手紙にて「集会の秩序」のように詳細に新たなオシエをパウロは記載していますよね。     31 皆が共に学び、皆が共に励まされるように、一人一人が皆、預言できるようにしなさい。     32 預言者に働きかける霊は、預言者の意に服するはずです。     33 神は無秩序の神ではなく、平和の神だからです。        聖なる者たちのすべての教会でそうであるように。     34 婦人たちは・・・     37 自分は預言する者であるとか、霊の人であると思っている者があれば、わたしがここに書いてきたことは主の命令であると認めなさい。     38 それを認めない者は、その人もまた認められないでしょう。 >4. つまり まだ《ねたむ神》とも呼ばれた民族の神にしたがい 非常に窮屈な律法のもとで生きることをつらぬいた。それゆえ イザヤ書やエレミヤ書の預言などが 成就し むしろユダイズムは開かれて行った。神がみづからを 一段と高いところに揚げて もう民族の神であることを棄てたわけですから。 「民族の神であることを棄て」た。 そして、その民族の代わりに集会さらには教会を新たな共同体としてパウロは重要視していたのではないでしょうか。 そしてたとえば集会や教会に拠らない信徒というのは、いったいどういう位置づけになるのでしょうか。 何か聖書の中に記載などがあるのでしょうか。 以上はちょっと気になる素朴な疑問です。 どうぞ御笑覧下さい。 ※聖アウグスティヌスのイメージはあのような俳優なのですね。。 ドパルデューが演じたらどうだったでしょうか。なんて。

bragelonne
質問者

お礼

 ましゅまろ3さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  ★ で、もしかするとクリスチャンの方々はただ単に、聖書の共同訳以上のもの、つまり垣根を越えた自由な交流や批判、受容といったものを各々が敢えて望んではいないし、またその必要も無いと思っているのかもしれないのでは。。?  ☆ ん? 何だか二重にヒネリが入っているような見方ですね。  1. これは 聖書という資料の翻訳ですから それでもう《自由な交流》を果たしたとは思っていないと思います。  2. 中には つまりカトリックはカトリックで プロテスタントはプロテスタントで それぞれ自分たちの信仰個条や聖書解釈でよいと思っている人はいるでしょうね。つまり もう話し合いはしないのだと。(しても 相手は 石頭だから 話にならないと互いに思っている場合があるかも知れません)。    3. たとえば イエスはこう言っています。  隣り人が飢えていたときに食べさせ渇いていたときに飲ませたなら その小さな者にしたことは わたし(キリスト。次のくだりでは 《王》と表現されている)にしてくれたことだ。と。    ▼ (マタイによる福音書/ 25章 ) ~~~~~~~~~~  40: そこで、王は答える。     『はっきり言っておく。     わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、     わたしにしてくれたことなのである。』  45: そこで、王は答える。     『はっきり言っておく。     この最も小さい者の一人にしなかったのは、     わたしにしてくれなかったことなのである。』  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  4. すなわち 小原克博論文に出て来た《神と他者との同一視》の問題です。  つまり――それが 信じるとしてではなく考えるの問題としてあたまの中の観念の規範となったのでは 困りますが(ですから 何でもかでも他者につかえるとは成らないし 信じるをとおして実行できるという問題であるからには 負担に思うことはさらさらないのですが)―― これは《自由な交流や批判、受容といったもの》を望んだり実践したりするという問題になります。  5. つまり聖書から離れたかたちで一般に 《良心》の問題だと言ってよいと考えます。そして聖書のほうにもどって クリスチャンを名乗る人には その良心のことを問題にしてもよいのだと思います。話し合いをこばむことは 褒めたことではないでしょうね。           *  ★ bragelonneさん、ユダヤ教を蔑まなければキリスト教というものは成立し得ないものなのでしょうか。  ☆ 基本は次のようです。違いとしては イエスがキリストであると認められたときには 旧約のアブラハムからの神とわれとの関係は 成就したと見るかどうかが ひとつ。見るなら 世界の全体として神は 名が違っても ひとつであると成った。  そしてもうひとつは その具体的なあり方として モーセの律法――つまり 集団の秩序のための倫理規範〔をあたかも神と見立てて守ること〕――によるのではなく そうではなく アブラハムの個人としての内面における信仰によるのだと宣言し直したことです。つまりここでも 主観内面のもんだいであるからには 他人がオシエや規範を持ち出してごちゃごちゃ言っても それは信仰ではなく むしろ神にさからう行為であると成ったこと。  このような違いを強調しなければならないと思ったときには 多少きつい調子でユダイズムをさげすむことさえする(した)のだと思います。  ★ (bragelonneさんの「世界に全体として 神はひとつ。名が違うだけ。とまで成れば かなり障害は消えたでしょうし 消えて行くでしょうと思います。」は理想なのですし、実際これに似た事を世界に説く者はいったいどれだけいるのでしょう。)  ☆ イエスのあと それと同じ趣旨としては 《神は人びとの罪を覚えなくなる。神を知れと言っておしえる必要がなくなる》というエレミヤ書(およびヘブル書)の成就のことを語ったなら 説いたことになると思います。  指摘のあった小原克博論文も 《世界の唯一神のそれぞれを相対化し それぞれの信仰を一般的な類型として捉えること》を提案していて この《神は ひとつ。あらそう謂われは無い》という方向に触れていると思います。  つまり この二千年のあいだに 流れは出て来ているし たとえばほかでもないこのわたしが 信仰類型論は やりました。(No.6補足欄の (に)です)。けっきょくまったくそれぞれが相対的なあり方をしていると言ってよいはずです。         *  ★ ガラテヤの信徒への手紙4の「二人の女のたとえ」  ☆ における《奴隷》は 社会制度だと思うのです。律法の規定としては それなりにかかわっていますし 信仰としては 何のかかわりもない。ということだと見ます。  ▼ (パウロ:ガラテア 3:23-24 ) ~~~~~~~~  信仰が現れる前には、わたしたちは律法の下で監視され、この信仰が啓示されるようになるまで閉じ込められていました。    こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。わたしたちが信仰によって義とされるためです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ という基本の主旨を言いたいために ユダイズムとの違いを強調して さげすむことはあったのだと思います。  言いかえると ともかくイエスはキリストであると《宣教》をする時に そのときに同時に《世界におけるもろもろの神を相対化するのだ》という言い方をまだ出来なかったのではないかと思われます。        *  ★ 生前のイエスは自身の死後ユダヤ教をアップデートせよ、その際には同胞であるユダヤ教徒を「女奴隷」と蔑むようになどと遺言でもしていたのでしょうか。  ☆ まづ奴隷は 良くないことだとしても社会の秩序を保つためにつくった制度です。(債務奴隷と戦争奴隷)。  《女奴隷》は ユダヤ民族のことではなく ハガルのことでありその子イシュマイルは アラビア人の祖先だと言われています。  ともかく一民族つまりおのれの民族が第一であった(その団結によって身をまもる)時代が長くつづいたのであり その思潮・風潮が色濃く必要以上に出ているようにわたしも思います。《日本海》と口に出して言うことすら 民族愛に反するといったあたまの中の渦巻きが消えないようではあります。       *  ★ でも、コリント信徒への手紙にて「集会の秩序」のように詳細に新たなオシエをパウロは記載していますよね。  ☆ これについては 別の角度から考えてみます。次のくだりを取り上げます。  ▲ (パウロ:コリントの信徒への第二の手紙) ~~~~~~  2:15 ・・・救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りです。    2:16 滅びる者には死から死に至らせる香りであり、救われる者には命から命に至らせる香りです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これは 次のような質問として考えたことなのですが つまり  【Q:滅びる者にとっても キリストの良い香りと言うのは】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6646197.html  ですが 結論としては 《死と命》とは 無神論と有神論とに分かれるということではないか。です。したがって《滅び》というのも 信仰(有神論および無神論)に拠らずに人間のあたまですべてを考え統治するという理性による思考の至上主義がほろびる。ということではないか。(強引ですが 趣旨ははずれていないと思います)。  つまり もろもろの神の相対化は すでに視野におさめていたはずですが 神(有る神)と《無い神》との区別つまり 表現として区別はされるが互いに同等であること これは視野に入っていなかったかも分かりません。でも キリストの 相対化とともに その普遍性を推し出したからには やはりすでに趣旨の中に入っていた。のではないか。  というふうに考えるならば 《集会の秩序》や仲間内の約束ごとのような取り決めは そのときその場で・またはその時代と社会にとって必要であるのなら 成されて行ったと思われるのです。つまり 基本である信仰に直接かかわることとしてではなく 生活共同のために秩序が重んじられるといった配慮ではないかと考えます。       *  ★ 「民族の神であることを棄て」た。 / そして、その民族の代わりに集会さらには教会を新たな共同体としてパウロは重要視していたのではないでしょうか。  ☆ パウロのつとめは ユダヤ人以外の人びとへの宣教です。しかも各地に散らばっていたユダヤ人とのつながりを頼りにしてのものでした。  いまでは ユダイズムとの区別ははっきりしたでしょうし(イエス=キリスト問題がはっきりすればそれでよい) 世界の各地のいわゆる土着の信仰(およびそれの宗教化したオシエやナラワシ)との区別という問題が 残っているとすれば残っているかも分かりません。かつては排除し迫害しまくったわけですから。  という問題だけではないかと楽観していますが どうでしょう。民族の神(のその閉鎖性)は お互いに揚棄すべきでしょう。  ※ ドパルデューは もういいです。ロシアに行ったんですか?

bragelonne
質問者

補足

 おぎないです。  ★ 教会  ☆ は けっきょく個人の主観内面における信仰の問題に帰着するからには 見えざる教会というかたちに取って代わられて行くものと思います。  ○ 教会(エクレシア > エグリーズ)  これは ムラ(市町村)議会です。民会とも呼びます。  そういう元の意味に戻して 宗教色を取り払って 用いればよいと思います。  ○ 教会(チャーチ・キルへ < キュリアコン(主の〔家〕))  これは ですから おのおの一人ひとりの心にあるわけですから・そしてそのことの連帯なわけですから 目に見えない教会として捉えればよいと考えます。  あるいは オシエは要らないと言っているのですから 《教会》というのも ふるいかも知れません。  あたらしいよいコトバがあれば 使うとよいと思います。キヅナとか そういった意味内容だと考えられます。

その他の回答 (21)

noname#190677
noname#190677
回答No.22

bragelonneさん、拝読しました。 >旧約における律法を共有する宗教から 新約に到ってあらたなオシエを押し頂く宗教へと変身するその途中で 《聖霊によるバプテスマを受けてのように信仰が励起されるキリスト体験》があった。こう言いたいですし 言わねばならないはずです。パウロは そのことのみを伝えようとしています。 bragelonnneさんにとっては、この「戒律主義から聖霊によるバプテスマを受けての信仰励起」こそが肝要なのでしょう。 一方、上村氏にとってはそれはあまり重要ではないように映ります。 氏の視座は一貫して「人を裁くな、分け隔てるな」という教えのほうにあります。 「倫理規範は 罪の自覚をもたらすだけであって 誰もすべてを守る者はいない。」について、石板という形をとるかとらないかは問題にしていません。 ですから、同じユダヤ人で似たような終末論的時代を生きたイエスとパウロの間に違いを見出すのではないでしょうか。 「人を裁くな、分け隔てるな」という点で。 でも、bragelonneさんは上村氏を「あなたはいのちの管理者か?」「聖書学者が著書としてそんな内容を書くとは・・・」とおっしゃる。 無理もないです。だってそれは、bragelonneさんの目指すものが以下の >これらは普遍的な理論を生み出すかたちとして 世界史上 イエス・キリストが明らかにし パウロらが伝えた。と考えます。これを承けて かく言うわたしが 《神および信仰ならびに〔信仰からの偽造物たる〕宗教についての一般理論》として明らかにしつつあります。 なのですから。 上村氏の一連の批判、殊更パウロのそれに関しては、憤慨に値するものと拝察しました。 上村氏の視座はフロムの以下の言葉に連なるように思われるので最後に掲げておきます。 「信仰を持ったものも持たないものも、人間の解放と覚醒という同じ目的を志向するかぎり、たとえそのやり方は異なるにしても、相互に他をもっとよく理解すべきであり、それが愛というものだということを十分に認識するであろう。」 いずれにせよ、ご批評有難うございました。

bragelonne
質問者

お礼

 ましゅまろさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ★ 氏の視座は一貫して「人を裁くな、分け隔てるな」という教えのほうにあります。  ☆ ふたつ これについて言うべきことがあります。  ひとつは もしそういうオシエを第一に取り上げるのでしたら それは わたしとはっきりと聖書の受け取り方が違うということです。  ▲ (パウロ:コリント前書 1章) ~~~~~~  17: なぜなら、キリストがわたしを遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためであり、しかも、キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように、≫言葉の知恵によらないで告げ知らせるためだ≪からです。  18: ≫十字架の言葉≪は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 十字架上に去って行ったという《くだらんこと》をのみ 伝えようとしているという意味です。それだけが いちばん大切だと言っています。  つまり そうではなく オシエを大事にするということであれば ご自由にどうぞということになります。  もうひとつは もし《人を裁くな、分け隔てるな》ということが 眼目であるとすれば それは 一般に倫理思想であるということになります。  言いたくありませんが――つまり 上の第一点で見解の相違として合意したのですから 言いたくありませんが―― そういった倫理思想であるなら 何もイエスがわざわざ説く必要などさらさらないということなはずです。わざわざ神の子だと名乗って 磔に成るほどのことをしなくても そういった倫理学の探究と実践をおこないきれば済むことですから。  きわめておかしな聖書の読みをしているはずだと言っているのですが これは 雑談のたぐいです。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~  ですから、同じユダヤ人で似たような終末論的時代を生きたイエスとパウロの間に違いを見出すのではないでしょうか。 「人を裁くな、分け隔てるな」という点で。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これは よく分かりません。  たとえば イエスは 神殿で商売をする人びとを 怒りながら追い出したのですが それは《人を裁くな 分け隔てるな》と相容れるのでしょうか?  ▲ (マルコ福音書 11:15-19 )~~~~~~~  15 ・・・イエスは神殿に入って行って、神殿の中で売ったり買ったりしている者を追い出し始め、両替商の台や鳩を売る者の腰掛けを投げ倒し、 16 誰も神殿を通り抜けて器物を運ぶことを許されなかった。・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~~~       *  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~  上村氏の視座はフロムの以下の言葉に連なるように思われるので最後に掲げておきます。 「信仰を持ったものも持たないものも、人間の解放と覚醒という同じ目的を志向するかぎり、たとえそのやり方は異なるにしても、相互に他をもっとよく理解すべきであり、それが愛というものだということを十分に認識するであろう。」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これは お題目です。おつき合いのあいさつ言葉です。  ● 人間の解放と覚醒  ☆ というのは 総論にとどまります。    ありがとうございました。

noname#190677
noname#190677
回答No.21

bragelonneさん、拝読しました。 有難うございます。 まだまだ反駁なさりたいことも多々ありましょう。 もしよろしければこの投稿に対するお礼欄と補足欄にご教示下さい。 拝読したうえで論点が2つあるように私には思えました。以下まとめてみます。 I.倫理思想は信じるものではなく考えるものである。 >▲ (パウロ:コリント後書 3:6 ) ~~~~~~~~~~ >神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。 >文字は殺しますが、霊は生かします。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ >☆ 律法というオシエを神としてはならない。倫理思想は 信じるものではなく考えるものである。文字を信じたなら 活きた動態としての信仰は死んでしまう。と言います。 このbragelonneさんの「文字は殺しますが霊は生かします」=「倫理思想は信じるものではなく考えるものである」という考えは、ほかのクリスチャンの方々との間に殆ど差がないものとお考えでしょうか。 それとも、各派あるいは個人よってその箇所の解釈は異なったり、なかには倫理思想を信じるクリスチャンの方々も少なからずいらっしゃるとお考えでしょうか。 エレミヤ書に関する過去の質疑でBA回答者さんがこう述べていらっしゃいます。 http://okwave.jp/qa/q8374193.html 「石版に書かれたモノというカタチから、《ことば》という無形なモノに変わっただけなのではないか、という疑いも生じます。 石版という偶像から、《ことば》で語りうる、《コトバ》で示しうる《観念としての神》に置き換わっただけかもしれない。 《オシエ》が神の座に上り詰める余地を残している。 そして、神の座にのぼってしまい、人々を支配する道具と化してしまった。 このBA回答者さんとほぼ同じ意味合いで上村氏は述べているように私には思えますが。 II. オシエの規範化・絶対化の時期 >その宗教の時代に起きた反社会的な出来事について批判するのは むしろ歓迎しますが それ以前の時代やパウロらについて すでに宗教として活動があったと見るのは むつかしい。百歩ゆづっても 先ほどのパウロ書簡のようにコリントやほかの土地における信徒のあいだには オシエの規範化・絶対化が起きていたかも知れないというまでです。けれども パウロがそう書いているとか それを助長したとか言われるとは。・・・ そうですよね。 それに、たとえパウロが書いた書簡であれ、後代に加筆訂正されていることも十分考えられますよね。 それでは、パウロの書簡を聖霊の働き、つまり神の言葉として聖書に組み込んだ後代の聖職者たちにこそ大いに問題があるとbragelonneさんはお考えなのでしょうか。 「聖書」の権威を傘に、自らを絶対化・正当化してきた、と。

bragelonne
質問者

お礼

 ましゅまろ3さん ご回答をありがとうございます。  I  (1)  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~  このbragelonneさんの「文字は殺しますが霊は生かします」=「倫理思想は信じるものではなく考えるものである」という考えは、ほかのクリスチャンの方々との間に殆ど差がないものとお考えでしょうか。  それとも、各派あるいは個人よってその箇所の解釈は異なったり、なかには倫理思想を信じるクリスチャンの方々も少なからずいらっしゃるとお考えでしょうか。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 第一次の解釈は 《モーセの律法》について言っていると見るものです。倫理規範は 罪の自覚をもたらすだけであって 誰もすべてを守る者はいない。その石の板に書かれた法律は 活きた信仰を抑えつけ 部分的に守るとしても心から離れてすでにいわゆる偽善になってしまっているのだと。  そこから あらゆるオシエについて その《文字――つまり 思考とその思考において持つに到る神・つまり観念の神――》ではダメだと言っていると採ってよいと考えます。  ということは このように解釈するのが 一般性を持つに到っていないとしても  ★ なかには倫理思想を信じるクリスチャンの方々も少なからずいらっしゃる  ☆ としたらそのことは 理論上マチガイだと言えると考えます。  すなわち  ★ 倫理思想を信じる  ☆ という表現は 実際にはあり得ないはずです。《強く妥当であると思う または 思い込む》くらいの意味しか持ち得ないと思います。信じるとは 理屈抜きでそれをよしとして受け容れることです。  たとえほんとうに理屈抜きで受け容れたとしても その場合にも思想なのですから 何らかの概念が伴なわれています。隣人を愛せなら《愛》という・理性で捉える概念が入っています。  つまり これを何も考えずに受け容れるということは 自分のあたまにそういう愛なら愛という観念の神をいだけばよいといった程度のことしか 実際には現われて来ない。のではないか。  もし何らかの愛の実践がおこなわれたとしたら それは ふつう一般に人びとが思いやりや助け合いをおこなうこととまったく同じことだと言わねばならない。  つまり 《倫理思想を信じる》というコトは 何の意味も持たない。はずなのです。それを説く宗教は 幽霊のようなものです。  (2)  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~   「石版に書かれたモノというカタチから、《ことば》という無形なモノに変わっただけなのではないか、という疑いも生じます。   石版という偶像から、《ことば》で語りうる、《コトバ》で示しうる《観念としての神》に置き換わっただけかもしれない。  《オシエ》が神の座に上り詰める余地を残している。   そして、神の座にのぼってしまい、人々を支配する道具と化してしまった。  このBA回答者さんとほぼ同じ意味合いで上村氏は述べているように私には思えますが。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 分かりました。つまり もしそうだとした場合 そのとき問題は そのような《あらたな宗教化》にすすむ過程で 《文字に仕えるのではなく 霊に仕えるつとめをあたえられた》と言っているそのコトが その宗教化をはっきりと食い止めているそのことにあります。  つまり 旧約における律法を共有する宗教から 新約に到ってあらたなオシエを押し頂く宗教へと変身するその途中で 《聖霊によるバプテスマを受けてのように信仰が励起されるキリスト体験》があった。こう言いたいですし 言わねばならないはずです。パウロは そのことのみを伝えようとしています。  イエス・キリストがそれを語ったのですし それを弟子たちは――イエスの去ったあと 思い出したように――語り継いだのだと。  II  (3)  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~  それでは、パウロの書簡を聖霊の働き、つまり神の言葉として聖書に組み込んだ後代の聖職者たちにこそ大いに問題があるとbragelonneさんはお考えなのでしょうか。  「聖書」の権威を傘に、自らを絶対化・正当化してきた、と。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ (あ) 書簡にせよ宣教の旅行にせよ パウロの思索も行動もすべては――パウロの語るところによればですが―― 《聖霊のはたらき》によるものです。(仲間と雑談したり食事をしたりすることが いちいち聖霊によると見る必要もないでしょうけれど)。    (い) そしてこのことは  ★ 神の言葉として  ☆ 語られた・書かれたという見方には つながりません。微妙なところですが 《聖霊のはたらきによって表現したこと》と《その表現されたコトバが 神の言葉であると見なすこと》とは 別です。  (う) まだ 微妙ですね。言いかえるなら 《パウロの自己表現は おのれの意志行為としておこなわれているけれど そこに聖霊のハタラキが伴なわれていると受け取る。したがって 遺された書簡の全体が 聖霊のしわざで〔も〕あると見なす》と言っても 《一つ一つの言葉や文章が そのまま神の言葉であると見なすこと》にはならない。です。表現を全体として捉えるのが よいと考えます。  (え) 《聖書》というときにも そういう見方になります。  (お) ★ 神の言葉として聖書に組み込んだ  ☆ ということにはならないでしょうね。  (か) ★ 「聖書」の権威  ☆ というのは 或る信仰者が パウロの文章を読んでそれらからパウロは 自分と同じ類型における信仰者であると思ったときに――つまり あくまで主観によります―― そう思うことです。それだけのことです。  (き) ★ 後代の聖職者たち  ☆ は けっきょく律法についてではなくても 新約聖書として編まれた文章の 一つ一つの《文字》に神を見たとでも思いそう言っているということではないでしょうか。そういうかたちで 《「聖書」の権威》を吹聴しているのだと見ます。  (く) パウロの文章は それとして読む。だけです。思考によって受け留める部分(つまり倫理思想の分野)とそして 全体としては聖霊というナゾを頼りに読み受け留め受け容れる側面とがある。  (け) ★ 「聖書」の権威を傘に、自らを絶対化・正当化してきた  ☆ という場合は すでにローマ教会の聖職者たちが《「聖書」の権威》づけをおこなって そのあとそ《の権威を傘に、自らを絶対化・正当化してきた》ということですから 一般の信徒のことかまたは広く一般の聖職者のことであると思われます。  (こ) と言うよりも 《宗教》ならどの宗教も そういう振る舞いをおこなって来ていると思われます。  (さ) そういった《宗教》とその行動について批判するのは よいのですが その立脚点をどこに置くかは 重要であると考えます。《聖化・宗教化・またそのあとの絶対化や自己正当化》だけを批判して済むものかどうか。  (し) 宗教化をおこなう側も 宗教化を――そこには エゴイズムとそれによる暴力が内在すると言って――批判する側も いづれも〔広い意味での〕おのれの信仰からそれぞれの表現行為をおこなっているのだと見た場合 一たん議論が止まると思われます。  (す) つまり それなら 《信仰》とは何か? これを互いに明らかにして対話を続けねばならないとなると思われますから。倫理の分野は 相対的な価値内容を判断するに過ぎないからにはです。聖職者による児童虐待は やめろと言ったり 裁判にかけたりする程度までです。  (宗教や宗教者の行動を わたしも批判しているのですが)。  (せ) 信仰とは何か? つまり 神とは何か? これが ともすれば主観の問題だというところに逃れられてしまいがちながら 立脚点になるかと考えます。  (そ) これらは普遍的な理論を生み出すかたちとして 世界史上 イエス・キリストが明らかにし パウロらが伝えた。と考えます。これを承けて かく言うわたしが 《神および信仰ならびに〔信仰からの偽造物たる〕宗教についての一般理論》として明らかにしつつあります。

noname#190677
noname#190677
回答No.20

bragelonneさん、補足をただ今拝見しました。 >次のパウロ論が めちゃくちゃです。理由説明もはぶきます。 その箇所は私も読んでいてとてもわかりづらいものがありました。 もしよろしければ、bragelonneさんのお考えをご教示いただけると有難いです。 勝手な思い込みで恐縮ですが、上村氏も異論を歓迎するのではないでしょうか。 そもそも、上村氏の「聖書に暴力性を見出す」という視座も一つの解釈や読み方に過ぎないのですから。

bragelonne
質問者

お礼

 拝読しました。  じつは まだ読書の途中です。  《コラム コヘレトのコトバとキリスト教》( pp.156-157 )までを読んでいてその箇所で 《二元論 および エゴイズム》に触れたところに こんど取り上げた《コラム 永遠の生命というエゴイズムと倫理的完全主義》(pp.233-234)を参照せよとあったものですから そこへ飛んで読んだのでした。  No.19の補足欄では 訪問者のみなさんにとって最小限でも理由を述べなければならないと思って 引用文の中で * と ** というシルシをつけたところに差し挟んだのが わたしの説明文です。  そうですね。上村は かれも たとえば  ● ( p.234 ) 《正しい倫理》など存在しないはずなのに 一般に《倫理的》と見なされている振る舞いが絶対的な規範とされ   ☆ と言っています。倫理思想としてのオシエを 神として《信じる》ことなどはありえないという問題です。あたかもあり得ているのが 宗教であるという課題です。  すなわち  ▲ (パウロ:コリント後書 3:6 ) ~~~~~~~~~~  神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。  文字は殺しますが、霊は生かします。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ というところです。律法というオシエを神としてはならない。倫理思想は 信じるものではなく考えるものである。文字を信じたなら 活きた動態としての信仰は死んでしまう。と言います。  つまり いま問題となっているコリント前書 5章6章は ほとんどすべて 倫理の問題を論じています。  上村は   ● 《正しい倫理》など存在しないはずなのに   ☆ と言いますが パウロも それだけにとどまらず 倫理思想は神ではないのだから 《ただしい・義》だとしたり神だとしたりして信じることなどはあり得ないと言っています。  ですから  ● 一般に《倫理的》と見なされている振る舞いが絶対的な規範とされ   ☆ たのは おそらく大々的には クリスチアニズムが国教となってローマ教会がそれとしての権威を持ち始めてからではないかと考えます。十字架上のイエスが 聖化されるというコトもともなっているはずです。  (つまり イエスは どこまで行っても ふつうのひとりの人間です。キリストは たしかに聖化され得ますが もともと神の子であり みづからも神であると言っているのですから わざわざ聖化するものではありません)。  つまり ここでは あくまで経験世界を超えたナゾとして神を信じるという信仰と そして オシエを神とし信じると どういうわけか 言い出した宗教と これらふたつの区別にかかわっています。  上村は パウロの書簡の内容が オシエとなり神となり信じる対象となったと言いたげですが そして国教化のあとのローマ教会やその宗教は あたかも上村の指摘があてはまる部分が大きいと考えますが パウロその人の信仰および思想については どこをどう読み間違えれば オシエを信じる宗教となるのか 皆目分かりません。  自分のもとでは 倫理思想は その内容が相対的な評価をしか与えられないと言っていて パウロのもとでは すでに《ただしい・神聖である・絶対的な規範である》と見なされたと言うには あまりにも独り善がりな判定基準の当てはめ方になります。  ちょっと長く引いてみます。  ▲ (パウロ:コリント前書 1章) ~~~~~~~~~  12: あなたがたはめいめい、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」「わたしはキリストに」などと言い合っているとのことです。  13: キリストは幾つにも分けられてしまったのですか。パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか。あなたがたはパウロの名によって洗礼を受けたのですか。  14: クリスポとガイオ以外に、あなたがたのだれにも洗礼を授けなかったことを、わたしは神に感謝しています。  15: だから、わたしの名によって洗礼を受けたなどと、だれも言えないはずです。  16: もっとも、ステファナの家の人たちにも洗礼を授けましたが、それ以外はだれにも授けた覚えはありません。  17: なぜなら、キリストがわたしを遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためであり、しかも、キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように、≫言葉の知恵によらないで告げ知らせるためだ≪からです。  18: ≫十字架の言葉≪は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《十字架の言葉》( 1:18 )が 《文字》ですか? 倫理思想でしょうか?  《言葉の知恵によらないで告げ知らせる》( 1:17 )ことが どうして《絶対的な倫理規範》なのでしょう?  ですから 上村の聖書の読みは めちゃくちゃであると言いました。  信仰が伝えられたはずなのが オシエを神として信じる宗教が出来上がってしまったのだ。と口を酸っぱくして言いつづけています。  その宗教の時代に起きた反社会的な出来事について批判するのは むしろ歓迎しますが それ以前の時代やパウロらについて すでに宗教として活動があったと見るのは むつかしい。百歩ゆづっても 先ほどのパウロ書簡のようにコリントやほかの土地における信徒のあいだには オシエの規範化・絶対化が起きていたかも知れないというまでです。けれども パウロがそう書いているとか それを助長したとか言われるとは。・・・    わたしは 憤慨しています。(そういった内容の回答がここで来てもどうってことはありませんが 聖書学者が著書としてそんな内容を書くとは・・・と あきれかえっています)。  全部を読了していない段階においてですが このように考えます。たいへん 失礼しました。

noname#190677
noname#190677
回答No.19

bragelonneさん、こんにちは。 遅くなってすみませんでした。 >2. つまりすべての人について 《神によって罪を問われなくなった》状態にあっても あやまちを侵すと見られるとき それについてどう解釈すればよいか? それは 外から来る罪であるという答えです。 >このとき 相手( A )が こちら( B )の懐の中に飛び込んで来たというまでに思われる状態になったら こちら( B )は この《ヤマシサが感じられる思いや行動》を 自分( B )という鏡に映してのごとくあたかも自分( B )の問題であると捉えて 何らかの――つまり わるい――行動をするようになる。 実は、何度も読んではみたものの、このbrgaelonneさんのミラー・ニューロンのお話がなかなかわからなくて、結局時間ばかりが経ってしまったのでした。 以下、時間切れということでなにとぞご容赦願い上げます。 bragelonneさんのミラー・ニューロンのお話で「外から来る罪」というのは、何かキリスト教の教えと関連性があるのでしょうか。 あるいは、たとえばもし外から罪が来なければ、いったいどのような状態にあるのでしょうか。 なんだか都合の良い「自己正当化の弁明」に過ぎないようにも映ります。 そもそも人間は《神》とは異なり不完全で過ちをおかしやすい生きものなのですよね。 また、他者とのかかわりにおいて生きている以上は誤解や過ちはつきものと考えられます。 そのうえ更に、誤解や過ちにおいては、つい自分自身を都合良く独善的に解釈してしまいがちかと思われます。 あるいは外因と思しき事柄さえ自らの誤解ということも十分考えられます。 >★ それでは、たとえばあのJean Valjeanは、いったい何において・誰によって信仰を得たと言えるのでしょうか。 >☆ 《何において》は 明らかです。《自分において》です。生まれつきそなわった身と心との自然本性においてです。そこに水の湧き出る泉があったという意味においてです。 >その泉の水の湧き出ることは・つまり 心の燈心に火をともすことは 《誰によって》か? >それぞれその人のいだく神によってです。小さいころから親しんだ神の名を心に受け容れることによってです bragelonneさんのご意見、有難く拝読しました。 私には特に物議を醸しそうには思えませんでした。 その存在の有無にかかわらず、あるいは何物かをも含めての《神》の配慮や縁による気づき、そして思いやりなどによって人間は互いに生かし生かされているのでしょう。きっと。 そしてまた、ミラー・ニューロンのお話につきましても、むやみに自己正当化に走ったり、人を見下したりするな、と自ら弁えるなり、それが無理なら他者との距離を一旦置いてみるとか、そのような方法が得策のように思えました。 >もし批判点をあきらかにせねば話にならないとすれば 上村さん あなたは 《いのち》の管理者なのですか? といった問いに代えます。 それについては、上村氏は著書における解説について一切宣教を前提としていないとのことです。 であれば、聖書から読み取れる事柄として、誰にとっても普遍的な《いのち》に主眼を置き解説することが、特に問題視されることでもないように私には思われます。 >同じように いのちを持ち出しての議論は とうとい内容があるにしても その姿勢が おまえら よく聞け おれの言うとおりに聖書を読め おれ〔の聖書の読み方〕だけがただしい それは いのちにかかわることだ 屈服したまえと言っているように聞こえます。 う~ん。上村氏はおれ〔の聖書の読み方〕だけがただしい、とか、屈服したまえ、などとは一切述べていなかったはずなのですが。。。 ただ単にbragelonneさんが上村氏の解説ないし読み方をお気に召さないだけではないでしょうか。と思いました。 >韓国人が 《歴史認識》で日本に抗議していることは もっともな内容があるはずですが その姿勢は 要するに おまえたちは おれたちの言うことを聞け つまり おれたちの奴隷になれということであると捉えます。 以前にbragelonneさんが私の質問に答えて下さったことを思い出します。 それは従軍慰安婦についてのものだったのですが、靖国問題とも通底しているように思われます。 韓国そして中国の日本に対する問題というのは、周知のごとくただの歴史認識・宗教認識にとどまらず、我が国をも含めた国内不満のはけ口であったりあるいは両国間の外交カードと化しているという点において、ただ今現在提起されている問題を解決すればそれで済む話ではないのだ、良心の問題をもはや超えている、ということではないでしょうか。 以上です。  かなり冗長になってしまいましたので、このたびはこれにて失礼致します。 bragelonneさん、色々とどうも有難うございました。

bragelonne
質問者

お礼

 ましゅまろ3さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  そうですね。分かりにくいですよね。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~  bragelonneさんのミラー・ニューロンのお話で「外から来る罪」というのは、何かキリスト教の教えと関連性があるのでしょうか。  あるいは、たとえばもし外から罪が来なければ、いったいどのような状態にあるのでしょうか。  なんだか都合の良い「自己正当化の弁明」に過ぎないようにも映ります。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《開き直り》に違いないのですが もういちど説明します。  問題は やましさを内に感じつつもその行為をおこなうといった場合にあります。なぜ そうするか?  勘違いやよほど待ったなしの正当防衛の場合でなければ おのれの心に逆らって――つまりそうだとすれば 律法の規範を破って――あやまちを侵すことはないと思っているのですが それでも《外から来る罪(やましいコト)》が自分の中に入って来て これにあらがった末に 屈してみづからが侵す場合がある。こういう場合もあると言っています。  その例として ここでアラシの回答が来た場合に ケンカ腰になって そのケンカを買うことがあると言いました。  もしそのやましい行動を取らないとすれば それは 優雅で立派なアマテラス人格語を駆使して 超然たる態度をとる場合だとも言いました。  ただし このアマテラス普遍語による戦術は 往往にして ほかのところで同じようなケンカを売られた場合などに 自分は手を汚さないとしても 誰かの手を借りて(あるいは自分の子分を使って)処理することがある。とも言いました。  つまり ミラーニューロン現象は かなり実際上の問題を誰もに迫る社会的な問題であると考えます。  ケンカと言いましたが 《わが心に逆らうこと としてのやましい振る舞い》が問題なのですから それは いくらか独善的になって規定するなら それが 《オシエを信じる》という宗教をおのれの思想とする場合に生じることだとも言っています。  《信じる》のは オシエではなくナゾのほうであり オシエはあくまで《考える》のであると分かっているのに 《わが心に逆らって》これを どういうわけか《信じる》のだと決めつけてしまう。オシエが神だとなる。これは あやまちであり つみである。  この《宗教の徒》のおこなっているあやまちが 一般に《信仰の徒》にとって外から来る罪である。こういう説明です。  信仰の徒は すでに《めぐみ》のもとにあるが 《宗教の徒》はまだ律法や戒律やあるいはアマテラス語法律規定の支配下にある。こういう捉え方です。宗教の徒も すでにめぐみのもとにあるのだが これを嫌って わざわざオシエを後生大事にしてこれを神だと決めつけている。  ★ あるいは外因と思しき事柄さえ自らの誤解ということも十分考えられます。  ☆ 内因になるのですが それは外から来る外因であると捉えています。  (高梨沙羅や浅田真央が 失敗したのは ミラーニューロン現象ではないかとうたがっています)。  こういう事態であり それは ひろく一般的な情況であると捉えています。  ★ ・・・それが無理なら他者との距離を一旦置いてみるとか、そのような方法が得策のように思えました。  ☆ 浅田真央にしても沙羅にしても《めぐみの下にある》場合には すでにまわりの《他者》たちの心を わが心の中に受け容れてしまっています。待ったなしです。このような情況の中でそのときその場でそのつどの実存が問われて来ます。《距離を置く方策》は なかなか取れないように思われるのです。  (いまのところ わたしの思索は ここまでです)。      *  ★ その存在の有無にかかわらず、あるいは何物かをも含めての《神》の配慮や縁による気づき、そして思いやりなどによって人間は互いに生かし生かされているのでしょう。きっと。  ☆ ええ。そう取っていただくとありがたいです。  つまりは 思考に非ずなるナゾの領域――つまり 恩恵のはたらき――と そして倫理思想としての思いやりや助け合いといった人間的なおこないの世界と 両方があると捉えます。  ただ 信仰の発動は 倫理思想をきっかけにすることはあっても それによって起こることではない。なぜなら もし思想によって信仰が生じたなら それは 人間の思考力や判断力による信仰であり神であるとなる。思考や想像によって人間がこしらえた神であるとなる。それは おかしい。となります。       *  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  それについては、上村氏は著書における解説について一切宣教を前提としていないとのことです。  であれば、聖書から読み取れる事柄として、誰にとっても普遍的な《いのち》に主眼を置き解説することが、特に問題視されることでもないように私には思われます。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ まだ最初のほうを読んでいて 聖書の具体的な中身がどうのこうのといった一般的な情報の段階です。  それにしても 《いのち》なる主題は――終章のほうでは――主眼点になっているかに思いましたが いやに複雑な解説ないし議論の仕方なのですね。  上村論 そして 中韓論ないし歴史認識論について それぞれ留意します。  どうもおつかれさまでした。  たいへん有意義なやり取りが出来たと――つまりは 訪問してくださるみなさんにとっても これはおもしろいと言ってくれるのではないかと自負してよいと――思います。  ありがとうございました。

bragelonne
質問者

補足

 ましゅまろ3さん。 わるいが 上村静は 阿呆です。  次のパウロ論が めちゃくちゃです。理由説明もはぶきます。  ● (上村:パウロ観) ~~~~~~~~~   コラム 《永遠の生命》というエゴイズムと倫理的完全主義     (『旧約聖書と新約聖書 「聖書」とはなにか』2011 pp.233-234)  パウロの《福音》の根幹には 死――罪に対する罰としての朽ちゆく死――への恐れがある。なんとしても永遠に生きたいのだ。パウロの望む《永遠の生命》とは 《自分の生命》が永遠であることである。  それは 自我の認識する《生命》の永続への欲求 すなわち《神のようになること》への欲求であり 究極のエゴイズムである。  それが自我(エゴ)に発する欲求であるがゆえに パウロの神はその欲求を満たしてくれる因果応報の神となる。罪を罰し 義に報いる神 聖性を要求する神である。  罪なき人間はいないが イエスが人間の身代わりとなって罰を受けたとすることで罪を罰する神という神義論は貫徹され このキリストの出来事を受け容れること(キリスト信者になること)で義とされ(*) 聖なる生活を送ることで救われる(*)。    * ▲ (ローマ書 4章) ~~~~~~~~~~~    2: もし、彼(アブラハム)が行いによって義とされた     のであれば、誇ってもよいが、神の前ではそれはでき     ません。    3: 聖書には何と書いてありますか。     「アブラハムは神を信じた。     それが、彼の義と認められた」(創世記15:6)    とあります。   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    ☆ 《義とみとめられた》あと 《聖なる生活を送る》と    いう《おこない》によって《すくわれる》と上村は解釈す    る。    ところが 《義認》は 《贖罪というキリストの出来事を   受け容れる》ことによると言う。それでは 《信じた》ので   はなく 《人間の罪をあがなってくれたと考えた》ことにな   る。    考えるというおこないによって 義とみとめられたことに   なる。つまり 思考としての善行に対して 義認や救いで応   じる因果応報の神という・人間の思考の中におさまる神とい   うことになる。  現実社会にはいろいろな悪があるが それらはどうでもよくなってしまう。まもなくこの世は終わり この世の悪は一掃されてしまうのだから。この世の現実には無関心でありながら (パウロの目から見て倫理的に)《聖なる》生活を送ることが救済の条件とされる。  こうして終末論的救済論に倫理的完全主義が結合する。一方で《罪の赦し》を《福音》としながら 倫理的に不完全と見なされると断罪される。こうして信者の心が縛られていく。《正しい倫理》など存在しないはずなのに 一般に《倫理的》と見なされている振る舞いが絶対的な規範とされ そこから逸脱する者は断罪される――非キリスト信者はたんに非信者というだけで《非倫理的》(=偶像礼拝者)と見なされ 信者であっても《非倫理的》と見なされれば断罪される。(Iコリ五-六章)(**)。こうして神による《罪の赦し》を伝えるはずの《福音》は 神の名のもとに自他を抑圧する暴力となる。・・・   ** 《Iコリ五-六章》は 思考力や判断力にかかわる倫理   の問題が取り上げられています。信仰とそれによる義認や救   いは これら倫理思想の以前の次元にあると 分かりにくい   のでしょうが 言っています。    したがってこのふたつの章の中で 基本的なことは 次の   くだりだけであると思われます。    ▲ (コリント前書 5章・6章) ~~~~~~~~~~~~~~~~    6章 19節    知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた   聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分   自身のものではないのです。   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    非倫理的な行為を侵した場合 《裁く》とさえ言っていま   すがそれは その仲間の人がすくわれるためだとも言ってい   ます。    ▲ (同上 5章 5節) このような者を、その肉が滅ぼさ   れるようにサタンに引き渡したのです。それは主の日に彼の   霊が救われるためです。    ☆ 仲間でなく外の人たちについては 神がさばくと言っ   ています(5:13)。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  このスレッドへの訪問者に対して ひとこと上村観をのべておくべきだと考えました。

noname#190677
noname#190677
回答No.18

bragelonneさん、ご教示どうも有難うございます。 >☆ そうですね。親鸞の他力本願なる信心が パウロの《すべては恩恵による》という信仰に《指がかかった》のかと思ったら 反対なのですね。 >上村氏は この恩恵による信仰〔の発動〕という主題について貫徹出来ていないのではないでしょうか?    まず、その前回お尋ねした件については、上村氏の主眼は信仰〔の発動〕ではなさそうなのです。 「律法の業による義を否定しつつも、律法なしで、律法の──あるいはヘレニズム・ユダヤ教の──倫理規定を完全に守ることを要求してしまう。こうして「罪の赦し」を宣伝しているキリスト教は、信者の「罪」は決して赦さないし、信者にならない者も決して赦さないということになる。」(p256-257 「旧約聖書と新約聖書」) また、先に「親鸞」の名を持ち出したのは私の個人的な思いつきによるものです。 祖母方が浄土真宗で、かつ、2年前の「法然と親鸞 ゆかりの名宝展」で観た親鸞直筆、あの経典の烈しい筆跡がいまだに脳裏に焼き付いているのです。 (ちなみに上村氏は他力本願に触れているのみで、親鸞の名は出していません。  氏の著書は聖書入門編、かつ、キリスト教批判を憚らない視点ですので、bragelonneさんにはたとえば先の佐藤氏のサイトのほうがお好みだろうと私は思います) >☆ 信仰類型についてあらためて確認させてください。アミターバ・ブッダの信心と キリスト信仰とはまったく同じであると捉えています。完全に対等です。 >他力本願にしても 恩恵による信仰だというところを確認します。 そうなのですね。 また、信仰〔の発動〕という点においては、「親鸞の他力本願なる信心」が「パウロの《すべては恩恵による》に指がかかった状態」なのですね。 その理由は「表現の問題は ややこしいところがあって 《他力本願》というその《他》も これは おかしいかも分からないわけです。」であり、親鸞のほうがやや不明瞭と受け取れなくもないという意味合いなのでしょうか。 いずれにしても私は親鸞に関して不勉強ですので後の参考にさせていただきますね。 どうも有難うございます。 >くどいように言いますが 宗教組織において・そこの偉い聖職者によって得た信仰というのは コトバの矛盾です。(人間としてのあたたかい思いやりを得ることはあります)。 それでは、たとえばあのJean Valjeanは、いったい何において・誰によって信仰を得たと言えるのでしょうか。 これもおまけのおまけでよろしくお願いします。

bragelonne
質問者

お礼

 ましゅまろ3さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。   ★ 上村氏の主眼は信仰〔の発動〕ではなさそうなのです。  ● 「律法の業による義を否定しつつも、律法なしで、律法の──あるいはヘレニズム・ユダヤ教の──倫理規定を完全に守ることを要求してしまう。こうして「罪の赦し」を宣伝しているキリスト教は、信者の「罪」は決して赦さないし、信者にならない者も決して赦さないということになる。」(p256-257 「旧約聖書と新約聖書」)  ☆ かなり厄介なお話なのですね。  まづ 恩恵について パウロとは別の聖書記者のしるすところを見てみます。  ▼ (ヨハネ福音 1章) ~~~~~~~~~~  16: わたしたちは皆、この方〔=イエスという肉(=身と心)と成った《ことば(=神の子キリスト)》〕の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。  17: 律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ いくつかの説明があると思いますが 《めぐみ》とは 《わが心の燈心に火をともしてくれたこと》です。自然本性にあってすでに神の霊がはたらくまでになっていたところ 実際にはたらくように火をともしてくれたことです。  そのめぐみの上にさらにめぐみを受けたというのは――これは 将来すべきこととして待ち望むところの――永遠の生命(復活)の予感をすでに与えられたことです。  そうして 律法のしめすことがらを守ることは このめぐみが与えられ実際にはたらくところによってだと言います。  人間は 相対的・時間的な存在ゆえにチカラに限りがあるわけですが たしかに律法の命じるところをも 恩恵のチカラによって はたすようにとパウロは 言います。少し並べ方が編集をしたような恰好になりますが・・・:  ▼ (コリント後書 13:9) わたしたち(* これは 宣教者としての立ち場で言っています)は自分が弱くても、あなたがたが強ければ喜びます。あなたがたが完全な者になることをも、わたしたちは祈っています。  ▼ (ローマ書 6:14) なぜなら、罪は、もはや、あなたがたを支配することはないからです。あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるのです。  ▼ (同上 5:20) 律法が入り込んで来たのは、罪〔* の自覚〕が増し加わるためでありました。しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。  ▼ (同上 5:21) こうして、罪が死(* 時間的存在の有限性)によって支配していたように、恵みも義によって支配しつつ、わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです。  ☆ つまり これが  ● 律法なしで、律法の──あるいはヘレニズム・ユダヤ教の──倫理規定を完全に守ることを要求してしまう。  ☆ ところのことだと思われます。ですが 問題は 《すべては恩恵による》ということです。人間が努力して実行するのですが そのチカラのみなもとは 恩恵による・つまり ナゾのチカラによると言っています。  つまり もしそう捉えたほうが分かりやすいのならば 絶対他力によるということになります。  そうしてまわり回っては 恩恵によるということは まさに信仰の――わが心なる非思考の庭にやどる聖霊の――発動のその瞬間のことを言っています。  ● こうして「罪の赦し」を宣伝しているキリスト教は、信者の「罪」は決して赦さないし、信者にならない者も決して赦さないということになる。」  ☆ これは 《恵みの下にある》ときのあやまち・つまり罪は もう律法の決まりによって支配されているのではないという捉え方を提出して 違うと答えたいと思います。    おそらくここは 物議をかもすところだと思いますが ほとんどいつもそうしているように ここでもわたしは 大胆不敵な解釈を用意しています。  1. まづ 信仰を持つ持たないは 問いません。信仰の自覚が有るか無いかで分かれるのみと見ます。あるいは 無神論という信仰を持っていても それは 無信仰だと本人は思っている場合が多いと思われます。  2. つまりすべての人について 《神によって罪を問われなくなった》状態にあっても あやまちを侵すと見られるとき それについてどう解釈すればよいか? それは 外から来る罪であるという答えです。  3. 自分つまり本人が あやまちを侵している。のですが その原因は 外から来るものである。という開き直りです。  4. 信仰を 思考に非ずなる非思考の庭なる動態だと見ないで 思考や想像によって神の像をいだくことだと思っている場合。つまり これが 宗教という心的現象であるわけですが ここから起きるあやまち――心への逆らい――が 信仰を無自覚においても信仰として生活している人たちに 外からあたかも放射線のごとく入って行く。これが あたらしい世界で起きている《罪》のかたちです。  5. だから  ● 信者の「罪」は決して赦さないし、  ☆ とはならないけれど そうではなく  ● 信者にならない者も決して赦さないということになる。」  ☆ と見られるかも知れません。信仰を誤解し別のものとしてしまっている《宗教の徒》の思想や行動をゆるさない。と見えるものと思いますから。  ★ 信仰〔の発動〕という点においては、「親鸞の他力本願なる信心」が「パウロの《すべては恩恵による》に指がかかった状態」なのですね。  ★ 親鸞のほうがやや不明瞭と受け取れなくもないという意味合いなのでしょうか。  ☆ これはですね。わたしの個人的な経験から言っているだけのことでした。  つまり 親鸞やブディズムを勉強し実践しても 肩が凝るだけで何も分からなかったところ アウグスティヌスの神学をつうじて信仰を与えられてからは ブディズムが分かって来たし 親鸞の信仰のかたちについてもよく分かった。というところからです。  でも いまのところ これを一般理論としてもよいと思っています。そこにマチガイを見い出してはいません。  ★ それでは、たとえばあのJean Valjeanは、いったい何において・誰によって信仰を得たと言えるのでしょうか。  ☆ 《何において》は 明らかです。《自分において》です。生まれつきそなわった身と心との自然本性においてです。そこに水の湧き出る泉があったという意味においてです。  その泉の水の湧き出ることは・つまり 心の燈心に火をともすことは 《誰によって》か?  それぞれその人のいだく神によってです。小さいころから親しんだ神の名を心に受け容れることによってです。  あるいはあたらしく知った神の名を受け留めたところからです。  あるいはつまり この世に神はいないとさとったところからです。  そういった信仰の発動を ひとつの具体的な事例として 銀の食器また銀の燭台をめぐるお話にして指し示そうとしたのだと思います。  物議をかもしそうです。

bragelonne
質問者

補足

 お礼欄の次の議論に 《ミラー・ニューロン》なる現象のことをおぎないます。  ☆☆(お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~   3. 自分つまり本人が あやまちを侵している。のですが その原因は 外から来るものである。という開き直りです。   4. 信仰を 思考に非ずなる非思考の庭なる動態だと見ないで 思考や想像によって神の像をいだくことだと思っている場合。つまり これが 宗教という心的現象であるわけですが ここから起きるあやまち――心への逆らい――が 信仰を無自覚においても信仰として生活している人たちに 外からあたかも放射線のごとく入って行く。これが あたらしい世界で起きている《罪》のかたちです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ▲ (ヰキぺ:ミラーニューロン) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%AD%E3%83%B3  ☆ わたしの考えでは 相手( A )が 自分自身( A )の心にさからって何かを思おうとしたりやろうとしたりするとき その思いを――つまりは 多少ともヤマシサを感じるその思いの中身について―― あたかもその相手( A )の相手つまりこちら( B )の側が 思っていることだし企んでいることだと 相手( A )は自分( A )の中で思い込み その相手つまりこちら( B )にも 念じるような思いによって 押しつけようとする。  このとき 相手( A )が こちら( B )の懐の中に飛び込んで来たというまでに思われる状態になったら こちら( B )は この《ヤマシサが感じられる思いや行動》を 自分( B )という鏡に映してのごとくあたかも自分( B )の問題であると捉えて 何らかの――つまり わるい――行動をするようになる。  このことで 相手( A )のわるい思いや振る舞いがおさまって 外に出て来なくなるかどうかは 分かりません。いろんな場合があるはずです。こちら( B )がおこなった行動と連れ立って同じことをやらかすかも分かりません。  こういった鏡像としての行動――つまりこの場合 あやまち――を犯すことがありえます。  どうすればよいか?  こういった現実を さらに細かく詳しく科学的にも分析し検証し その結果についてみなで考え合って行くしか いまのところ ないものと思われます。  ひとつ言えることは 相手( A )の疚しい思いや行動を こちら( B )が鏡に映して 多少ともその内容を表現してしまうあやまちについては 多少とも水割りのような恰好になっていると思います。  この程度のことしか いまのところは あやまちについての共同自治は できないのかも分かりません。  けんか腰でやって来たら こちらもけんか腰になって わたしは 応対していました。いまも色濃くそれは のこっています。いつになったら こういったミラー・ニューロン現象は 静まっていくのでしょうか?  このミラー・ニューロン現象を 自分の中で 避ける・しないと決めた場合は あり得ます。  それは あやまちうるスサノヲ人間語にもとづくのではなく あたかもそこから去って もはやあやまち得ない〔と冀った〕アマテラス普遍語――アマテラス科学語(真実)およびアマテラス人格語(倫理規範)――の世界にのがれる場合です。    この普遍語アマテラス方言をたくみに駆使し得る場合というのは 神聖にして侵すべからざる権威が 人びとによって着せられます。  このアマテラシテ( amatérasité; amaterasity; Amaterasität )なる権威のもとに生活するなら ミラーニューロン現象は 避けることが出来るかも分かりません。けれども そのときには このミラーニューロン現象を起こした相手( A )をどう扱うかと言えば ウラで処理する。ということだと思われます。自分( B )の手は汚さない。  よって 問題は わたしたちは すべからくあやまちうるスサノヲ人間語にもとづき できるかぎり主観を共同化しうるアマテラス科学語およびアマテラス人格語としての普遍語を用いる。こういうことになると考えます。  ミラーニューロン現象を 《スサノヲ人間語 - アマテラス普遍語》なる構造的なコトバをつうじて 生け捕りするような方向へとすすむこと。これが 求められるものと考えます。言うは易し おこないは・・・ですが 目指す方向は これだと考えています。  それには 神ないし信仰のいくつかの形態は すべてひとつの類型のもとに捉えて 互いに相対化しておくこと。  また 宗教は 《オシエを信じる》という内容を持つかぎり 鵺のような存在でしかなく そのあいまいさは 存在じたいにどこまでも ついてまわるものと思われる。ゆえに このことを問い どうすべきかを考えあって行くこと。  だと思います。

noname#190677
noname#190677
回答No.17

bragelonneさん、こんばんは。 ご丁寧にどうも有難うございます。 すべて拝読しました。 おっしゃる通りで、私は歴史上最大のベストセラーである聖書から先人の生きる智慧を読み解き、かつ、西欧文化をより一層理解したいと願う姿勢です。 で、おまけでもう一つ伺っておきたいのですが、お願いしてもよろしいでしょうか。 上村氏が「今日、パウロ神学で評価しうる点は、仏教用語で言う他力本願という思想に指がかかったところにある。指がかかったとは、それを貫徹できていないということである。」と著書で述べているのです。 bragelonneさんならパウロと親鸞をどうお考えなのでしょうか。

bragelonne
質問者

お礼

 ましゅまろ3さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。    ★ 上村氏が「今日、パウロ神学で評価しうる点は、仏教用語で言う他力本願という思想に指がかかったところにある。指がかかったとは、それを貫徹できていないということである。」と著書で述べているのです。  ☆ そうですね。親鸞の他力本願なる信心が パウロの《すべては恩恵による》という信仰に《指がかかった》のかと思ったら 反対なのですね。  そうですね。たとえば次のくだりは どうでしょうか。  ▼ (コリント前書 15章) ~~~~~  9: わたしは、〔聖霊による洗礼を受ける前には〕神の教会(キリスト者たち)を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。  10: 神の恵みによって今日のわたしがあるのです。   そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。  ▼ (同上 6章) ~~~~~~~~~~  17: しかし、主に結び付く者は主と一つの霊となるのです。  ・・・  19: 知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 信仰類型についてあらためて確認させてください。アミターバ・ブッダの信心と キリスト信仰とはまったく同じであると捉えています。完全に対等です。   A. ブラフマニズム:梵我一如     梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神     我:アートマン・・・・・ミクロコスモ。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如     無梵:空・シューナター・ゼロ     無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如     仏:アミターバ / マハーワイローチャナ     仏:如来蔵・ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如     霊:神・聖霊     霊:《神の宮なるわれ》  ☆ ちなみに ゴータマ・ブッダの《無梵無我一如》が 《無い神》を受け容れた無神論です。これも 同じ類型です。  他力本願にしても 恩恵による信仰だというところを確認します。  ☆☆ (【Q:ブディズムは ブッダターの提示と親鸞のみだ】) ~~~   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8404970.html  (そのNo.24お礼欄)   ▼(親鸞:義なきを義とす)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   (お)(親鸞の書簡:末燈抄・十) 他力と申し候ふは とかくのはからひなきを申し候ふなり。  (か)(同上) 仏智不思議と信ぜさせ給ひ候ひなば 別にわづらはしく とかくの御はからひあるべからず候ふ。ただ ひとびとのとかく申し候はんことをば 御不審あるべからず候ふ。とかくの御はからひあるべからず候ふなり。  (き)(同上:九) 他力には 義なきを義とするとは申し候ふなり。  (く)(歎異抄・十) 《念仏には 無義をもつて義とす。不可称・不可説・不可思議のゆゑに》と仰せ候ひき。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ 《不可称・不可説・不可思議》は ナゾの何ものか(非経験の場)のことを言うには それでよいでしょうが アミターバ・ブッダを規定(想定)する定義としては むしろ《非知 ないし非経験の場 もしくは非思考の庭》と表現したほうがよいと考えます。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《無義》というときの《無》は これもむしろこの経験世界における《有る無し》を超えたところ・つまりやはり非経験の場 としての仮称の《無》と取ったほうがよいかと思います。《大いなる有》であるかも知れません。  《無からの創造 creatio ex nihilo 》の無も 有無や因果関係を超えたところの《非経験の場》としての無だと思います。  親鸞は たしかにこの《有る無しを超えたところ》へとすでに《貫徹でき》ています。それは かつては いわゆる《悪人正機》の説で 善人に対抗させるかのように《悪人》をも救おうとしたことがありますが すでにそこから善悪の彼岸にまで突き抜けています。それが 《義無きをもって義とす》る信仰であると。  あるいはまた 表現の問題は ややこしいところがあって 《他力本願》というその《他》も これは おかしいかも分からないわけです。  《一切衆生 悉有仏性》というように ブッダター(仏性)が すべての人びとにやどると言うのならば 《神の霊のやどる神殿》としての《身と心(ないし 自然本性)》を言うのとやはり同じです。  つまり もはや《他》ではないかも知れない。ブッダターがやどることを 《自性清浄心》と言う場合もあります。  いづれにしましても 《絶対他力なる神の霊》がこの人間にやどること・またそのチカラがすでに《自性》ないし自然本性としてあってあとは ワタシがこれを受け容れることによって(信仰が発動することによって)発揮されるということ このことは 煮詰めたかたちとしては 人間の能力と努力によって成るものではない。つまり 《恩恵による》という見方です。(そのあとでは ふつうに努力します)。  グラティアは 《ただで(無料で)》という意味でさえあります。人間の才能や奮闘努力といった有料で得た信仰は――信仰にかぎっては―― ただ人間の想像し思考してこしらえた神でしかなく いわゆる形而上学にとどまるものと見ます。  くどいように言いますが 宗教組織において・そこの偉い聖職者によって得た信仰というのは コトバの矛盾です。(人間としてのあたたかい思いやりを得ることはあります)。  上村氏は この恩恵による信仰〔の発動〕という主題について貫徹出来ていないのではないでしょうか? パウロのその理論を捉え得ていないことになると思います。  (上村氏の著書を読んでみようかと思います)。  議論は尽きないですね。

bragelonne
質問者

補足

 上村静の思想についての批判です。  つぎの二つの文章をくらべてみると いったい何が言いたいかが 分からなくなりました。    ● (上村:いのちについて) ~~~~~~~~~~  ・・・むしろ 〈神学〉は 人間について 〈いのち〉について 語ることでなければならない。そのときわれわれは 聖書を 神を 人間を 「聖書」を暴力から解放し この古典の集成をとおして〈いのち〉の神秘の一端に触れることができるであろう。    (『旧約聖書と新約聖書 「聖書」とはなにか 』2011 p.353-354 )  ● (同) ~~~~~~~~~~~~~~~~  〔* 古代人のあいだで 或る意味でふつうに行なわれていたところの〕動物供儀は残酷だと思われるかもしれないが 目の前で屠殺された肉を食すれば その〈いのち〉の尊さがどれほど実感できたであろうか。    〈死〉の隠蔽された現代においては 清潔な工業製品となった肉が供されているが その表面的な清潔さのためにどれほど〈いのち〉が粗末に扱われているかも隠蔽されている。     (同上 p.352 脚注17 )  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  もし批判点をあきらかにせねば話にならないとすれば 上村さん あなたは 《いのち》の管理者なのですか? といった問いに代えます。  わざと終わりの部分を先に読んでみた結果です。  韓国人が 《歴史認識》で日本に抗議していることは もっともな内容があるはずですが その姿勢は 要するに おまえたちは おれたちの言うことを聞け つまり おれたちの奴隷になれということであると捉えます。  少し似ていることを ケネディ大使が イルカ漁の非人間性をなじった発言にも感じました。  同じように いのちを持ち出しての議論は とうとい内容があるにしても その姿勢が おまえら よく聞け おれの言うとおりに聖書を読め おれ〔の聖書の読み方〕だけがただしい それは いのちにかかわることだ 屈服したまえと言っているように聞こえます。

noname#190677
noname#190677
回答No.16

bragelonneさん、こんばんは。 別質問「靖国…」を拝見しました。 私のほうは、以前質問した日本人の良心(戦後民主主義)について省みざるを得ず、そちらのほうを再考したくなりましたので、ひとまずこの回答にて区切りたいと思います。 このたびは本当に有難うございました。 >★ 「西欧的な神学」に対する「日本の神学」のありようについてです。 >1. ずばり 《神学》は 普遍的なものであり 《宗教》についてこそそのありようが 民族ごとの・地域ごとの類型を成していると言うべきだと考えます。 >2. 《神》について・あるいは《〔神と我れとの関係としての〕信仰》について 基本的な理解や成り立ちは 普遍的な内容があると考えます。したがって 《西欧的ないし日本的》と分けた見方は 信仰や神学についてではなく 集団と しての宗教〔の根づき方など〕のことだと捉えます。 bragelonneさんの信仰類型論以下については後の参考にさせていただきます。 また、bragelonnさんはこちらを軸にお話を進めたいとお思いなのでしょう。 私が先に「西洋的な神学に対する日本の神学のありよう」について伺いたかったのは、bragelonneさんがお尋ねの「クリスチャンは良心がないのか?」とひょっとして関連があるかもしれないと思ったからなのです。 佐藤氏は既出のブログでこう述べていました。 「藤代泰三は、「アジア類型の一環としての日本類型の成立に も更に多くの時間が必要であろう。日本類型とは日本民族によるキリスト教理解であるが、このことを日本におけるキリスト教の土着化と呼びたいなら、そう呼んでもよいと思う」と述べますが、この見解には私も全面的に賛成です。 日本に土着化されていないキリスト教は、ほんものとは言えません。」 以上から私が思ったのは、いまだキリスト教はこの国において解釈を述べて明らかにする、互いに受け止め批評しあうまでの土壌には至ってないのではないか?ということだったのです。 >記事にしたがうならば 《キリスト教徒》に連帯責任があるということだそうですが 上村静の指摘を俟つまでもなく あたかも復讐をなすかのようにユダヤ人迫害をし続けた 歴史は これまた現象としては はっきりしています。ローマ教会・なかんづく法王たちが それについて 責任があることは 明明白白なのではないのでしょうか。 >このラッツィンガー氏が 反省しているとは思えないのです。 はい、bragelonneさんのおっしゃるように「謝罪」ではないのは明白です。 何か在任中に生じた諸問題に対する弁明だったとも推測されます。 もしかすると、これこそ「クリスチャンは良心がないのか?」にふさわしいのかもしれませんね。 どうでしょうか。 http://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:C6QOlPHGbgEJ:archive.is/O0eoq+&cd=2&hl=ja&ct=clnk&gl=jp それとですね、先に上村静氏の著書について質問した件につきましては、エーリッヒ・フロムが既に先行したように、アンチヒューマニズムの旧約聖書からヒューマニズムを見出そうとする試みについて、その感想を皆さんに伺ってみたかったというのが本音です。 (フロムはユダヤ人家庭に生まれましたが30前に「宗教的なものであれ政治的なものであれ、とにかく、人類を分裂させるようなものに苛担したくはない」とユダヤ教を止めてしまったとのことです。 正直に申せば、新約聖書のパウロの愛についての言葉よりも、フロムのそれのほうが私にとっては遥かに読みやすいです。) >ちなみに 聖職者による児童虐待と法王庁の銀行における黒いカネのマネーロンダリングなど 法王庁にはひどい問題があると思っています。 >自己解体すべしだと思っています。 >プロテスタントも 《万人司祭》というかたちで聖職者たることの弊害を克服しえたとしても けっきょく《教会》組織を持ちました。 bragelonneさんのご主張も一理あるかと思います。 他方、これは余談ですが、今春高校を卒業した我が子が宗教の先生(上智からいらしたそうです)に随分感謝の気持ちを抱いているのを受け(入学して部活で諍いがあり中高6年間決して優等生とは言い難いものがありました)、あらためて《懐の深さ》のようなものを感じている次第です。 その《懐の深さ》にはやはり既存のカトリックの教義や教会が背景としてあると拝察するのでして、私はbragelonneさんのように自己解体すべきとは申し上げることが出来ないのです。 こんなところです。 今夏にまた渡欧する予定なので、聖書関連の質問を新たに立てるつもりです。 その際にはご教示のほどよろしくお願いします。

bragelonne
質問者

お礼

 ましゅまろ3さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  けっきょくのところ ましゅまろ3さんの問い求めておられるひとつの主題と言いますかは うつくしい人間関係 ここにあると見ました。  うるわしく あたたかな人と人とのつながり これを基調として仲良くけんかをもこなして行けるまじわりという方程式。  これは 一般に倫理としての思想です。思想とは 生活態度です。  これには 心の内面における信仰(自然本性の理屈抜きの発現)はかかわっていると思いますが 宗教は関係ないとわたしは見ています。  信仰は 神は有ると捉える場合も 無いと見る場合も それぞれ互いに同等に ただし一般にはむしろ隠れたかたちで かかわっていると考えています。  宗教は オシエだけでしたら そのままひとつの倫理思想として捉えられます。つまり そこから うるわしき・善悪や敵味方を超えて存在としてのシンライカンケイに裏打ちされたおつき合いが 生まれるし 大いに社会をよき方向へかたちづくって行くものと思います。  問題は 《オシエを信じる》というおかしなことを言っていることだと見ます。考えるべき思想について 倫理だからと言ってそれを《信じる・つまり 理屈抜きに受け容れる》ということは いかにもおかしい。    一般にはこのことは ほとんど問題とされずに 《宗教〔というオシエなる神 つまり観念体系〕を信じる》という事態が 世界に展開されているのが現実です。文字通りあたまの中の観念の神が往来をあるいていると思います。  たとえば よく引き合いに出されるのは マザー・テレサであり かのじょの実践がたたえられるのは そのオシエの神が はっきりと人間の思考する対象としての神となって 往来をあるくという始末です。これも 宗教の延長線だと考えられます。  つまり 宗教は 《信じる》というのなら それは あくまで《信仰》のみの問題になります。オシエを言うのなら それは ふつうに一般の倫理思想のことです。倫理思想のひとつのかたちです。――つまり 宗教は どこにもその占めるべき位置がありません。  このような区別をあいまいにしたところで ただし おっしゃるように《懐の深い》うつくしい人間関係を体験することも出来ているというのが いまの現実です。  この議論の行く着くところは こうです。一定の組織をつくってその集団として 倫理を実践するか。それとも 社会というゆるやかな集団において そうするかです。  さらに結論を急ぎますが 宗教組織をわざわざつくってその中で 倫理を実践しようとすると その内外という区別が 必要以上に・また不当に 顔を出して来て 人びとは内にあっても外にあっても とかくに迷惑をこうむる。こう考えられます。  ■ ローマ法王ベネディクト16世(当時)〔は・・・〕ナチス・ドイツによるユダヤ人虐殺を疑問視する発言をした司教の破門を解除したことが「最大の失態」と批判され〔ている〕。  ☆ 組織の内では 最大限に反社会的なまでに 良心を発揮し互いの良心を擁護している。  ■ カトリック教会:聖職者の児童性的虐待 バチカンの隠蔽体質批判 国連・子どもの権利委員会、監督責任を追及   http://mainichi.jp/shimen/news/m20140215ddm007030127000c.html  ☆ このことの問題は 反社会的行為がおこなわれてしまったことにとどまらないからです。内側では 《隠蔽体質》がこびりついていることにあると考えられます。  ■ バチカンに渦巻くマネロン疑惑  http://www.newsweekjapan.jp/stories/business/2012/05/post-2542.php  ☆ これは 疑惑ですが 問題は バチカンがけっきょく国家の主権を主張することで 捜査が出来ないということであれば 北朝鮮と同じような人間が指導者であることになり そこにあります。  これらは 組織の弊害であり しかも 信仰と倫理思想とのふたつの分野を強引に混ぜ合わせてしまった奇怪な棲息物としての宗教団体であることが問われるはずです。  つまりは 上智の先生がえらいのは 信仰の所為であるか もしくは〔仮りにそうだとすれば〕そのご本人の人となりや人柄による(つまり 倫理思想の問題)ということだと考えます。どういうわけか そこに《宗教》がかぶさって来ています。  ★ エーリッヒ・フロム  ☆ は 読んでいる途中で離れて来ましたので何も言えませんが 倫理思想として妥当なことを言っているとは思います。  ★ 以上から私が思ったのは、いまだキリスト教はこの国において解釈を述べて明らかにする、互いに受け止め批評しあうまでの土壌には至ってないのではないか?ということだったのです。  ☆ 一方では すでにちらっと触れたと思うのですが 大きく《日本教》の中に組み込まれてクリスチアニズムもブディズムもおさまっていると見ます。他方では それでも聖書の精神を活かそうとして奮闘努力しようとする流れもあるのでしょうね。  《土着化》にかんしてそれのあいまいさと言いますか 何でもありと言いますかの事例は――少々失礼になるかも知れませんが―― 【Q:靖国・・・】のほうの新着の回答内容に見ました。(クリスチャンの方だと見ましたので)。  このような現地の古来の信仰から発展した宗教の中での根づき方――つまり 宗教の地域ごとの類型――について  ★ 私が先に「西洋的な神学に対する日本の神学のありよう」について伺いたかったのは、bragelonneさんがお尋ねの「クリスチャンは良心がないのか?」とひょっとして関連があるかもしれないと思ったからなのです。  ☆ と指摘されていることは なるほどもっともであると受け取りました。ブディズムのほうでも 戦争〔加担の〕責任を問うたりする声が中から挙がっています。土着化しすぎた?  韓国では クリスチアニズムが あたかもわが国の新興宗教のごとくである一面があると知ったことがあります。熱狂的な側面のことです。  中国では 家の教会というかたちで・つまり個人の家がみなの集まる教会となって・つまりは 当局からは隠れて 活動しているといった情報を得る機会がありました。  宗教の類型は けっきょく土着の神(神々)とどのように折り合いをつけるかで決まって来るのではないでしょうか。一方的に排除・廃棄する極端なばあいもあったでしょうか。ぎゃくにブディズムがヒンドゥイズムの中に埋没して行ったかたちまでは行かなくとも じゅうぶん混血するまでに帰化した場合もあるかも知れません。  このような事態は オシエだから・つまり思考の問題であるから 起こる現象であると見ます。   したがって 倫理思想としてなら その地の生活習慣の中でひとつの生活態度としてそのオシエは 自己を主張すればよいでしょうし そうではなく信仰としてなら あくまで個人の問題として関心のある人びとは互いに自由な集まりの中で自己の経験を話し合って行けばよいと考えられます。  この理論から行けば くどいですが 宗教組織は 過去の遺物である。こう思います。  一区切りをつけましょうか。

noname#190677
noname#190677
回答No.15

bragelonneさん、長いことおつきあい下さり有難うございます。 > Vous ne voyez pas qu'il est de notre intérêt qu'un seul homme meure pour le peuple, pour que la nation ne disparaisse pas tout entière? ご教示有難うございます。 祭司長等とパリサイ派の人々がかかわっている、ということなのですね。 ところで、イエス自身は、自らを咎め処刑に至らしめた人々に対し何と言っていたのでしょうか。 何か激しい恨みの言葉でも発していたのでしょうか。 すでにご承知かとは存じますが、近年このようなニュースがありました。 http://www.afpbb.com/articles/-/2788702?pid=6903280 「キリスト殺害の責任「ユダヤ人にはない」、ローマ法王」 もしこのように謝る必要があるのなら、、、というか、イエスの死後いったいどれだけの時が流れたのでしょう。 約2000年、、、ですか。 私がこの件について「すみません、あまりピンときませんでした。」とお茶を濁した理由はこれです。 キリスト教の教義からはbragelonneさんのお説のように「イエス・キリストがその排除された第三項である」とみなせましょう。 でも、イエスの場合は(語弊があるかもしれませんが)その活動ゆえの、活動が関わっていたわけですよね。 他方、キリスト教が狭小な民族主義、戒律主義と決別し世界宗教へと飛躍するためとは申せ、旧いだの神殺しだのとの理由でスケープゴートとみなされたのは、いったい誰、何だったのでしょうか。 イエスもそうだったのかもしれませんが、気が遠くなるほどの年月において第三項排除効果の憂き目に遭ってきたのは、むしろユダヤ教でありユダヤ人のほうだったのではないでしょうか。 (「排除の構造」今村仁司 ちくま学芸文庫を読みました。著書の論考がキリスト教ユダヤ教の時代にも言い得るのか私にはよくわからないと一言申し上げておきます) > à moins de naître d'eau, c'est-à-dire d'Esprit, personne ne peut entrer dans le royaume de Dieu. >☆ 問題は 水による洗礼のときに 聖霊による洗礼がともなわれることだと思います。ということで 聖霊によるものだけでよいではないかという物言いです。 無知な上にあまり無責任なことを申し上げる立場ではないのですが、、 敬虔であるがゆえに神の啓示を受けたと真に説く先人たちが数多現れたのでしょうし、bragelonneさんのお説に近いものもあったのではないでしょうか。 >ですから 水による洗礼を受けていない人は 聖霊によるそれを受けていても 神の国の門の前で足止めを食らわされるのだという笑い話があります。 そうなのですね。 bragelonneさんのように水による洗礼は不要とお考えになる方も、、また既存の教会で洗礼を受ける方もまた、いらっしゃってよろしいのではないでしょうか。 誰一人として神の国の門のことなど知り得ないのですよね。 >★ 教会(民会) >市議会はそれとして また別にあればよいと思います。 >ムラオサ(市町村長)は 当番制がよいとか 裁判員制度のように無作為抽出で市民が代わり番こになればよいとかと思い そう言っています。 bragelonneさんのお説ですが、その教会(民会)にはやはりムラオサなどがやはりいるのでしょうか。 また、現在の市町村長の選出方法と等しく当番制であるのが理想とお考えでしょうか。 >【Q:キリスト教とその信者に反感を持つ理由】 > http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7204518.html >その回答No.7でした。 ご教示有難うございます。 その中のNo.21:noname#145878は私です。 (病院内ボランティアの経験を述べましたが、当時大学生だった私は、《奉仕》の精神ではなく、入院中お世話になったお返しとか助け合いという意味での《我欲》でもって無償で務めていました。大した事はしておりませんが。) >個人的道徳が問題とされるかぎり カルヴァン主義は二つのおもな点をふくんでいる。 現世において神の国の実現を志向するものであれば自ずと道徳的な努力、勤勉を説くことになるのでしょうか。 私の頭にはとても難しい話のようですので、また一人別のクリスチャンの解説をリンク致します。 佐藤優氏 (プロテスタントで元長老派(カルヴァン派))です。よろしければどうぞ。 「日本人のためのキリスト教神学」 http://webheibon.jp/blog/satomasaru/2012/11/post-33.html 「なぜいま、キリスト教を問題にするのか。(3)」にて佐藤氏は「カール・バルトが日本的なキリスト教理解に対し懐疑的な立場を表明している」ことに言及しています。 もしよろしければbragelonneさんにこれについてご意見をお聞きしてもよろしいでしょうか。 「西欧的な神学」に対する「日本の神学」のありようについてです。 よろしくお願いします。

bragelonne
質問者

お礼

 ましゅまろ3さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  ユダヤ人敵視や敵対感は これをすでに明白に否定する声明は出されていると思っていましたが 次の2011年の著書のなかで触れたということは知りませんでした。  このブノワ・セーズ 本名ラッツィンガーさんには よい印象を持てませんでした。在任の最後のころには やさしくなったかなと感じたのですが とにもかくにも 目つきがきつい。と初めから感じていました。小原克博氏も批判していました。  ▼ (キリスト殺害の責任「ユダヤ人にはない」、ローマ法王) ~~~~~  http://www.afpbb.com/articles/-/2788702?pid=6903280  これまでキリスト教徒はユダヤ人すべてにキリスト殺害の連帯責任があるとみなしてきた。そのため、ユダヤ人は残忍な迫害と反ユダヤ主義の標的となってきたのだ」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この論理がおかしいことは 分かっていたはずです。  《すべてのユダヤ人に責任がある》などという見方は 日本人なら聞いただけで一蹴するはずです。(お隣りの国々の中では 大きいほうの国ですら 指導層と庶民とを分けたようです)。  菅原道真が言わば冤罪に遭ったことについて ぎゃくに日本人は われわれ市民がチカラ弱かったから 為政者の横暴を止められなかったと歎きます。われわれは 思いやりにみちあふれています。  そのつてで行くなら法王らも すべての冤罪については じんるいすべての連帯責任であるというくらいのことでも言えばよいのにです。  記事にしたがうならば 《キリスト教徒》に連帯責任があるということだそうですが 上村静の指摘を俟つまでもなく あたかも復讐をなすかのようにユダヤ人迫害をし続けた歴史は これまた現象としては はっきりしています。ローマ教会・なかんづく法王たちが それについて 責任があることは 明明白白なのではないのでしょうか。  このラッツィンガー氏が 反省しているとは思えないのです。  ちなみに 聖職者による児童虐待と法王庁の銀行における黒いカネのマネーロンダリングなど 法王庁にはひどい問題があると思っています。  自己解体すべしだと思っています。         *  ★ イエス自身は、自らを咎め処刑に至らしめた人々に対し何と言っていたのでしょうか。  ☆ 定番としては 次のくだりが示されます。  はりつけになったその姿で・・・:    ▲ (ルカ福音 23:34) ~~~~~~~~~~~~~~   http://www.biblegateway.com/passage/?search=Luke23&version=BDS#ffr-BDS-25988d  Jésus pria:  ――Père, pardonne-leur, car ils ne savent pas ce qu'ils font [d].  Footnotes: d.(Luc 23:34) Ces paroles de Jésus sont absentes de certains manuscrits.  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 脚注が言うように どの資料にもある文句ではないようです。ですから あまりにも出来すぎなようにも感じられるかも分かりません。言ってもおかしくないとは思いますが。         *    ★ 誰一人として神の国の門のことなど知り得ないのですよね。  ☆ ええ。しかも 信徒どうしのあいだでは――ということは 教会の中ではですが―― そういった将来のことについても いま現在の考えを述べ合うということになり 議論がなされているようなのです。その枠を取っ払ったら どうなるか。教会の外にいる人びとには 神のこころは及ばないのか? とクリスチャンたちはみづからに問うべきでしょう。         *  ☆☆ ムラオサ(市町村長)は 当番制がよいとか うんぬん  ☆ につきましては 将来のことですので 気球を揚げたようなかたちのものです。飛躍した内容の提案のほうが いまどのように考えるかへと 人びとはみちびかれて行くのではないかというズルイ魂胆です。  その時になれば 内容は固まって行くでしょうし いまからでも考えている人はいるかも知れません。いまは 風の吹くのを俟ちつつ ささやかにみづからもおのれのチカラの及ぶ限りで風を送るという地道な生活なのではないでしょうか。         *  ○ 【Q:キリスト教とその信者に反感を持つ理由】  ☆ をめぐるやり取りの中から 《弱者へのいたわり・助け合い》は けっきょく無宗教で――たとえばムラ(市町村)が予算をももうけて――おこなうとよいと思います。宗教やその団体によらなければ出来ないというのは まづしいように思います。  ★ 佐藤優氏 (プロテスタントで元長老派(カルヴァン派))です。よろしければどうぞ。   「日本人のためのキリスト教神学」  ☆ これについては 補足欄にてお応えしたいと思います。  ひさびさに充実したやり取りが出来て来ていて うれしくたのしいです。ありがとう。

bragelonne
質問者

補足

 ( a )● 佐藤優:「日本人のためのキリスト教神学」   目次: http://webheibon.jp/blog/satomasaru/archives.html  ★ 「西欧的な神学」に対する「日本の神学」のありようについてです。  ☆ をめぐって 勝手にですがむしろこちらから基本的なことをのべて 問い求めを伸ばしてみたい。こう考えます。  1. ずばり 《神学》は 普遍的なものであり 《宗教》についてこそそのありようが 民族ごとの・地域ごとの類型を成していると言うべきだと考えます。  2. 《神》について・あるいは《〔神と我れとの関係としての〕信仰》について 基本的な理解や成り立ちは 普遍的な内容があると考えます。したがって 《西欧的ないし日本的》と分けた見方は 信仰や神学についてではなく 集団としての宗教〔の根づき方など〕のことだと捉えます。  3.( b ) ● (藤代泰三『キリスト教史』1979) 私はつぎのようなキリスト教史の類型を考える。すなわちギリシア類型、ラテン類型、ローマ類型、ゲルマン類型、アングロサクソン類型、アジア類型である。・・・  ☆ これは 宗教の――オシエの土着化としての――類型です。  4. それに対して 《信仰》についての類型論は きわめて単純に次のように互いに対等・同等な中身を持つ。と見ます。エレミヤ書の《あたらしい契約》のイエス・キリストによる成就のあと このような完全に相対化した見方が出来るようになったと捉えます。  ( c ) 信仰類型論   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモ。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如    無梵:空・シューナター・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如    仏:アミターバ / マハーワイローチャナ    仏:如来蔵・ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)  4. 《信仰》について 佐藤優の見解は 次のような引用で示されます。  ( d )● (第15回 「神論(2) 生成する神(3)」)~~~~~  フロマートカは、   〈信仰は、私たちの内部から、私たちの心から、または私たちの理性から生じるのではない。   感情的に宗教的経験の快さを求めても信仰にはならない。   自分の思考によって人の生の秘密を味わい尽くし、そして自分や他人の経験から論理的な結論を導いたとしても信仰にはならない。   宗教教育を受け、導かれたとしてもそれはほんとうの信仰ではない。   どれだけ人の心の憧れが崇高であろうと、どれだけ人の理性が力強く鋭くあろうと、どれだけいわゆる宗教教育が重要であろうと、信仰は人間が一定の務めを呼び掛ける声を聞いたときに初めて本質的に生じるのである。〉   (『人間への途上における福音』   (Evangelium o ceste za clovekem, Kalich/Praha, 1958、16頁)  と強調します。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 個人すなわち わたし の問題であると言っており これに賛成します。  5. ただし その《務めを呼びかける声を聞いたとき》の問題として 次のような見解については さらにそれを突き抜けるように発展させたいと考えます。  ( e )● (第16回 「神論(2) 生成する神(4)」) ~~~~  人間は自由意志を持ちます。自由意志によって神の呼び掛けを拒否することもできます。  しかし、それは神に対する反逆であり、呼び出された人の破滅を意味します。  神の召命に対して、無条件に従うことが人間に課された義務なのです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち この神の呼びかけをこばむ場合 これは けっきょく《無い神》を受け容れた(つまり 信じた)ことであると捉えます。それも 有神論とまったく同等の信仰であり ( c )の信仰類型論に入れておくべきでした。  神に対する《反逆》は 神に触れたということです。神は その心をも受け留めるでしょう。  もし反逆があるとしたら 拒否もしなければ受け容れることもしないようなのっぺらぼうの世界観をいだくことにあるのではないか。なぜなら 自由意志の放棄につうじると見られるからです。  6. 《信仰》のありか について 次のようです。  ( f ) ● (第16回 「神論(2) 生成する神(4)」)~~~~~  ・・・神の庭にはひとつひとつ形の異なる無数の花や樹木が植わっている。同じものはない。神に使命を託された者たちも多様である。真の信仰があるところでは常に何か新しいもの、固有なもの、独特なもの、真似できないものが生まれている。〉(フロマートカ前掲書、18~19頁)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち この《神の庭》というのは 神じたいとしては《非経験の場》のことであり これをワタシが受容したときには わが心に《非思考の庭》が成るというかたちで見い出されるそのような人間存在のかたちではないか。  ( g )(非知=非経験の場 ⇒ 非思考の庭) ~~~~~~   ○ 《非知》とは     経験事象      可知        既知        未知      不可知(知り得ないと知った)    非経験の場      非知(知り得るか知り得ないかが知り得ない)     ○ (非知なる非経験の場(神)⇒わが心なる非思考の庭)~~~~~~   非経験の場 (非知・絶対・無限・つまり 神)  _______________________   非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。ヒラメキ):信仰  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市):宗教   感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)  ________________________  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ( d )でフロマートカが 《信仰》と《宗教》とを分けたのは 《非思考の庭》と《思考の緑野》との区別をげんみつにしておきたいというところからだと見ます。  7. さすがにプロテスタントだけあって 教会批判にもするどいものがあります。  ( h )● (第17回 「神論(2) 生成する神(5)」) ~~~~  使命の召命は唯一主の力と恵みによることを人々は忘れている。  「恩恵のみ(Sola gratia)」はここでも当てはまり、無条件に通用するものである。イスラエルの教会、使徒の教会、さらに教会史全体におけるあらゆる出来事の意味とは、いずれも宗教、礼拝、聖職、神学のうぬぼれに対する主の闘いだと言える。〉(前掲書19~20頁)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    8. ですが プロテスタントも 《万人司祭》というかたちで聖職者たることの弊害を克服しえたとしても けっきょく《教会》組織を持ちました。あるいはつまり 《上からの召命・使命を承ける》というかたちをその組織にかかわらせて捉え実行するのならば 個人の・信仰のみ( sola fide )という原則が やはりオシエを主体とする宗教のほうに限りなく寄って行きます。  ( i )●(同上) この世の歴史における出来事は、天上の「主の会議」によって決定されます。この会議で語られた「神の言葉」は、自然や人間によるあらゆる抵抗を排除して実現します。この神の言葉を伝えるのが、召命を受けた者の務めです。  9. 《神のことば》との関係は われ一人の内面にのみかかわる。という自由を徹底させることは 大事だと考えます。そのときには 組織は要らない。となるはずです。ふつうの(無宗教の)社会的な集まりであったり あるいは信仰関連としてであっても勉強会であったりすればよいはずです。つまり 集団としての宗教は もうどこにも見当たらないようになっていると考えます。

noname#190677
noname#190677
回答No.14

bragelonneさん、別質問「ローマ教会・・・」について拝見しました。 そして、当時社会の最底辺と見下されていた人々(障碍者、病人、穢れある職につく者)や異邦人等を自ら受容したイエスのふるまいについてあらためて思いを馳せました。 >自分たちの集まりや社会の中から 《異質〔と見なした​者〕を排除する》といううごめき その今村氏の排除の理論がいずれの社会においても普遍的にあてはまるのなら、排除に対する受容というイエスの思想や行動もまた普遍的であり、宗教や信仰の別なく私たちに問いかけてくるものと思われます。   一方、「イエス・キリストがその排除された第三項である」ことについては、すみません、あまりピンときませんでした。 私自身がキリスト教の「原罪─代理贖罪─復活」や「すくい」に関していまだによくわからないし惹かれないからなのでしょう。 (生まれながらにして罪があるとか、死んで生き返るとか、こういったものは普遍的とは言い難いです) 我が家のかかりつけの病院に礼拝堂がありそこで家族が祈る姿を幾度も目にしたこと、渡欧の折に美術などの西洋芸術をより深く鑑賞したいということ等々、キリスト教も含めヨーロッパの精神史を理解したいと常々思います。 でも、生と死とか、永遠とか、、いつまでたっても私にはわからないことだらけです。 >そう言えば 触れてもらっていたと思うのですが カルワンの思想が どうもひとつの問題であるようです。(youtube でアメリカ人が 議論しているのを知りました)。 カルヴァンの椅子を一昨年ジュネーヴの教会で見かけました。 ごくシンプルな木製の椅子でした。 カルヴァンについては(先の私の質問で)bragelonneさんが言及なさっています。 bragelonneさんはあまりお好きではないみたいですね。 >★ 教会 >☆ は けっきょく個人の主観内面における信仰の問題に帰着するからには 見えざる教会というかたちに取って代わられて行くものと思います。 >○ 教会(エクレシア > エグリーズ) >これは ムラ(市町村)議会です。民会とも呼びます。 >そういう元の意味に戻して 宗教色を取り払って 用いればよいと思います。 私が想起するキリスト教の教会というのは、キリスト教を信仰する人々の家族的な共同体であり、もっといえばキリストの体そのものです。 それは中世の美術から受けた私のイメージです。 パウロもガラテヤの信徒への手紙で「兄弟たち」としたためています。 洗礼についてはまったく存じ上げませんが、それはキリスト教教会(家族)の一員となる儀式なのでは。 また、イエスは洗礼については何か述べているのでしょうか。 bragelonneさんが理念として掲げる「教会(民会)」といま現在ある市町村議会との違いは「キヅナ」でしょうか。 先の私の質問で民主制について触れていらっしゃったので、両者の差異につきもっと説明があれば、よりもっとわかりやすいのではないかと思いました。

bragelonne
質問者

お礼

 ましゅまろ3さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。    ★ 一方、「イエス・キリストがその排除された第三項である」ことについては、すみません、あまりピンときませんでした。  ☆ 当時ユダヤは むろん ローマの支配下にありました。この従属からの解放のためにということで 主戦論もあったわけです。イエスの人気があまりにも高いので 担がれてこの解放戦争を 安易に始めなければよいがと思っていた人びとが いたわけです。  ▼ (ヨハネによる福音書 11:47-51 ) ~~~~~~~~~  47: そこで、祭司長たちとパリサイ派の人々は最高法院を召集して言った。    「この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。  48: このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう。」  49: 彼らの中の一人で、その年の大祭司であったカヤパが言った。    「あなたがたは何も分かっていない。  50: 一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。」      Vous ne voyez pas qu'il est de notre intérêt qu'un seul homme meure pour le peuple, pour que la nation ne disparaisse pas tout entière?    http://www.biblegateway.com/passage/?search=jean+11&version=BDS  51: これは、カヤパが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司であったので預言して、イエスが国民のために死ぬ、と言ったのである。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この《みなの代わりに ひとりがいけにえとなる》といった考え( 11:50 ) が《排除される第三項》を表わすようなのです。  ( a )★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  私が想起するキリスト教の教会というのは、キリスト教を信仰する人々の家族的な共同体であり、もっといえばキリストの体そのものです。  それは中世の美術から受けた私のイメージです。  パウロもガラテヤの信徒への手紙で「兄弟たち」としたためています。  洗礼についてはまったく存じ上げませんが、それはキリスト教教会(家族)の一員となる儀式なのでは。  また、イエスは洗礼については何か述べているのでしょうか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ まづイエスの言葉としましては 次を取り上げます。(いくつかありますが 省略にしたがい 次のみを挙げます)。  ▼ (ヨハネによる福音書 3:5-8 ) ~~~~~~~~  5: イエスはお答えになった。    「はっきり言っておく。    だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。     à moins de naître d'eau, c'est-à-dire d'Esprit, personne ne peut entrer dans le royaume de Dieu.     http://www.biblegateway.com/passage/?search=jean+3&version=BDS  6: 肉から生まれたものは肉である。    霊から生まれたものは霊である。  7: 『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。  8: 風は思いのままに吹く。    あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。    霊から生まれた者も皆そのとおりである。」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 問題は 水による洗礼のときに 聖霊による洗礼がともなわれることだと思います。ということで 聖霊によるものだけでよいではないかという物言いです。  ですから 水による洗礼を受けていない人は 聖霊によるそれを受けていても 神の国の門の前で足止めを食らわされるのだという笑い話があります。  この( a )として述べておられることは その中から 次のような宗教臭を取り除いてくだされば おおいに共感するところです。  ・ 《キリスト教》というその《教 つまり オシエ》は要らない。  ・ オシエを信じるのではなく 神を信じるのですから。  あるいは 余計なことを添えるなら   ・ キリスト者たちの家族のひとりと成ることは じつは すでにひとは生まれたときから そう成っている。つまり どの名前の神を信じる家族からであれ すでに生まれたときに その神の子たちと呼ばれる家族と成っている。それ以外の人間存在はあり得ない。  と。もっとも《兄弟姉妹どうし》となると このような同世代における間柄がいちばん 遠慮無しにけんかをするのだそうで たぶんそういうことになるのではないかとは思います。それほど仲良しだということで。・・・  ★ 教会(民会)  ☆ 昔は 《寄り合い》という集会がありました。いまでは コミュニティ・センターとかに成っているのでしょうか。  いつでも誰かがいて 自由に集まれる場があるとよいでしょうね。  市議会はそれとして また別にあればよいと思います。  ムラオサ(市町村長)は 当番制がよいとか 裁判員制度のように無作為抽出で市民が代わり番こになればよいとかと思い そう言っています。  いまでは素人のほうが よいのではないでしょうか。  その代わり それを支える市役所の事務職の人びとは 充実したものになって欲しいですよね。このムラ(市町村)において 国際的に外交をもおこなうのですから。よい意味で優秀な人たちがアマクダリして来て欲しい。  ★ カルヴァン  ☆ については――ちなみに すでに当時において コーワン( Cauvin )という発音になっていたらしいですね―― ちらっと回答をしたおぼえがあります。  さがしてみますと:  【Q:キリスト教とその信者に反感を持つ理由】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7204518.html  その回答No.7でした。  次のような批評を読んだことがあります。  ○ (フランツ・ボルケナウ on カルワン) ~~~~~~~~~~~~  (『封建的世界像から市民的世界像へ』1934  水田洋ほか訳 1965 §4 p.205 )  個人的道徳が問題とされるかぎり カルヴァン主義は二つのおもな点をふくんでいる。  第一の点は世界と人間との堕落を確認することである。それは 個人の反社会的利己主義を地上の唯一の起動力と宣言することを意味し また行為と結果とが偶然的関係にあるということの確認を意味する。この第ニの点は決定的である。  ○ (同 p.208 )~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  あかし〔つまり 勤めが神の栄光を現わす道だという証拠〕という〔かれらの〕考えの全内容は無限の道徳的努力であって ただしどんな方向からしてもこの努力を合理的に正当化することはできないという完全な自覚をともなった 無限の努力なのである。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  カルワンについて 希望のあることばを引いておきます。  □ (カルワン:聖晩餐について 1541) ~~~~~~~  しかし神が我々を生まれ変わらせる生命は霊的であるから 我々を保持し強固にする食物は霊的でなければならない。  まことに いつか我々が彼の天の遺産を所有するため 彼は我々を招くばかりでなく 希望によってすでに我々にまたある程度これを所有させていること 彼は我々に生命を約束したばかりでなく 我々を死から解放しすでに生命へ移動させたことを理解しなければならない。  神は我々をその子として扱い その聖霊によって我々の心に刻む 彼の言葉である不滅の種子によって我々を再生したのである。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

noname#190677
noname#190677
回答No.13

いつもたくさん有難うございます。 >このような違いを強調しなければならないと思ったときには 多少きつい調子でユダイズムをさげすむことさえする(した)のだと思います。 相応の必要に迫られての当時の記述ということですね。 それは私にもよくわかります。 でもやはりそれは、《善悪二元論のもと》、読み手に対して《他者(異教徒、異民族、異端)≒悪霊、サタン》に対する漠然とした恐怖心や敵愾心を、読むたびごとに増幅させるおそれがあった(ある)と言えるのではないでしょうか。 >《女奴隷》は ユダヤ民族のことではなく ハガルのことでありその子イシュマイルは アラビア人の祖先だと言われています。 >ともかく一民族つまりおのれの民族が第一であった(その団結によって身をまもる)時代が長くつづいたのであり その思潮・風潮が色濃く必要以上に出ているようにわたしも思います。 私の勇み足についてのご教示有難うございます。 たしかにそうですね。 《女奴隷》をユダヤ教徒と誤って解釈するクリスチャンなどまさかいらっしゃるわけないですものね。 どうかご容赦下さい。

bragelonne
質問者

お礼

 お早うございます。ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  でもやはりそれは、《善悪二元論のもと》、読み手に対して《他者(異教徒、異民族、異端)≒悪霊、サタン》に対する漠然とした恐怖心や敵愾心を、読むたびごとに増幅させるおそれがあった(ある)と言えるのではないでしょうか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ そうですね。《悪魔》問題については たぶん決着がついていると思うのですが まぁ すくわれる・すくわれないの区別が強調されていることについては 弁護はたじたじですね。  《異端・異教》については それに対する――現象として起きた歴史上のマチガイだけではなく―― それを批難する聖書の文章にも きびしいものがあると思います。  ★ 《善悪二元論のもと》  ☆ ではないと思うのですが――なぜなら ユダヤ人が 神の子を名乗ったイエス・キリストに一たんつまづいたとしても けっきょくはすくわれると言っているからですが・また 異邦人も 割礼のあるユダヤ人と同じく清いのだと言われたからですが―― 善人悪人やあるいはすくわれる人と救われない人との区別について きわめてきつい表現が見られることも 事実だと思います。  いちど取り上げたことのあるくだり:  ▼ キリスト者は いつもキリストの香りとなっており すくわれる者にとっては 生命から生命へ到らせる生命の香りであり すくわれない者にとっては 死から死へ到らせる死の香りである。  ☆ けっきょく《死へ到る》というのは それまでのその人の《わが心にさからったマチガイなる生き方》これが ほろびる。と言っているのだと捉えます。ふるい人を脱ぎ あたらしい人を着よ。という表現をパウロもしています。(コロサイ書3:9‐10)。  まぁ そういう表現の仕方としてのクセなのでしょうね。  そこから 十字軍やら魔女裁判やらの失態が出たのだと言われれば そうだと言わざるを得ませんが わたしは その問題では ローマ教会が出来てヒエラルキアとして成る組織宗教となったことは それ以前のパウロの言う《宣教》の時代とは 問題を異にするとは思っています。  かんたんに言えば 律法〔なるオシエ〕によって救われるのではないと言っていたのが その律法に代わるものだとは言え《文字》で書いたあたらしい聖書のオシエを至上命題としてかかげ組織をつくって 個人の信仰を集団として個人が行動するような宗教としてしまった。  宗教は 信仰という蝉の抜け殻であると規定します。オシエを神としているからです。  もう一点 つけ添えます。  組織宗教となってしまった原因のひとつに 《洗礼》という儀式(あるいは サクラメント)があると思っています。  けれども アブラハム・つまり信仰の人であるアブラハムについても その信仰のシルシに割礼という目に見える形をほどこすようになっています。    イエスのあと キリスト者は これを捨てましたが あらたに洗礼というカタチが現われました。  これは 《神の道をまっすぐにせよ》と言って キリスト・イエスの先駆者となった洗礼者ヨハネが まさにその悔い改めのシルシとして 川に入ってミソギをするかのように浸水(バプテスマ)を始めたのでした。  イエスも それはそれとして このヨハネに従い洗礼を受けています。そこから いわゆる直伝の・つまりイエスにつらなる弟子たちの手による洗礼が 脈々と受け継がれるという制度になってしまいました。  水による洗いにしてもその洗礼のときに 問題は イエスが去ったあと《弁護者(パラクレート)》とも呼ばれる聖霊が 一人ひとりの心の窓をおとづれるということにある。つまり 聖霊による洗礼が 大事であり欠かせない。わけですが シルシにも・カタチにも 神秘があるということで 水による洗礼が サクラメントと見なされこれまでなおつづいて来ています。  習慣ないしナラワシということは――慣れはおそろしいわけで―― 容易にはなくならないかも知れません。つまり わたしのように水による洗礼は要らないと言っている人は ほとんどいないと思われます。(むろんこのことは わたしは師匠のアウグスティヌスにも逆らっています)。  問題は 人びとの心に 汲めども尽きない泉の水のごとく元気が湧く つねに元気が湧く ということにあると思います。バプテスマとは そういうシルシなのだと考えます。聖霊によるバプテスマ・つまり見えないシルシで そうなれば もうだいじょうぶなのだと思います。  つまり 宗教は要りません。聖職者も要りません。研究者は 必要でしょう。勉強会としてあつまってもだいじょうぶでしょう。  ・・・・  筆にまかせてのように成ってしまいました。  そう言えば 触れてもらっていたと思うのですが カルワンの思想が どうもひとつの問題であるようです。(youtube でアメリカ人が 議論しているのを知りました)。  そんなこんなです。

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