bragelonneさん、長いことおつきあい下さり有難うございます。
> Vous ne voyez pas qu'il est de notre intérêt qu'un seul homme meure pour le peuple, pour que la nation ne disparaisse pas tout entière?
ご教示有難うございます。
祭司長等とパリサイ派の人々がかかわっている、ということなのですね。
ところで、イエス自身は、自らを咎め処刑に至らしめた人々に対し何と言っていたのでしょうか。
何か激しい恨みの言葉でも発していたのでしょうか。
すでにご承知かとは存じますが、近年このようなニュースがありました。
http://www.afpbb.com/articles/-/2788702?pid=6903280
「キリスト殺害の責任「ユダヤ人にはない」、ローマ法王」
もしこのように謝る必要があるのなら、、、というか、イエスの死後いったいどれだけの時が流れたのでしょう。
約2000年、、、ですか。
私がこの件について「すみません、あまりピンときませんでした。」とお茶を濁した理由はこれです。
キリスト教の教義からはbragelonneさんのお説のように「イエス・キリストがその排除された第三項である」とみなせましょう。
でも、イエスの場合は(語弊があるかもしれませんが)その活動ゆえの、活動が関わっていたわけですよね。
他方、キリスト教が狭小な民族主義、戒律主義と決別し世界宗教へと飛躍するためとは申せ、旧いだの神殺しだのとの理由でスケープゴートとみなされたのは、いったい誰、何だったのでしょうか。
イエスもそうだったのかもしれませんが、気が遠くなるほどの年月において第三項排除効果の憂き目に遭ってきたのは、むしろユダヤ教でありユダヤ人のほうだったのではないでしょうか。
(「排除の構造」今村仁司 ちくま学芸文庫を読みました。著書の論考がキリスト教ユダヤ教の時代にも言い得るのか私にはよくわからないと一言申し上げておきます)
> à moins de naître d'eau, c'est-à-dire d'Esprit, personne ne peut entrer dans le royaume de Dieu.
>☆ 問題は 水による洗礼のときに 聖霊による洗礼がともなわれることだと思います。ということで 聖霊によるものだけでよいではないかという物言いです。
無知な上にあまり無責任なことを申し上げる立場ではないのですが、、
敬虔であるがゆえに神の啓示を受けたと真に説く先人たちが数多現れたのでしょうし、bragelonneさんのお説に近いものもあったのではないでしょうか。
>ですから 水による洗礼を受けていない人は 聖霊によるそれを受けていても 神の国の門の前で足止めを食らわされるのだという笑い話があります。
そうなのですね。
bragelonneさんのように水による洗礼は不要とお考えになる方も、、また既存の教会で洗礼を受ける方もまた、いらっしゃってよろしいのではないでしょうか。
誰一人として神の国の門のことなど知り得ないのですよね。
>★ 教会(民会)
>市議会はそれとして また別にあればよいと思います。
>ムラオサ(市町村長)は 当番制がよいとか 裁判員制度のように無作為抽出で市民が代わり番こになればよいとかと思い そう言っています。
bragelonneさんのお説ですが、その教会(民会)にはやはりムラオサなどがやはりいるのでしょうか。
また、現在の市町村長の選出方法と等しく当番制であるのが理想とお考えでしょうか。
>【Q:キリスト教とその信者に反感を持つ理由】
> http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7204518.html
>その回答No.7でした。
ご教示有難うございます。
その中のNo.21:noname#145878は私です。
(病院内ボランティアの経験を述べましたが、当時大学生だった私は、《奉仕》の精神ではなく、入院中お世話になったお返しとか助け合いという意味での《我欲》でもって無償で務めていました。大した事はしておりませんが。)
>個人的道徳が問題とされるかぎり カルヴァン主義は二つのおもな点をふくんでいる。
現世において神の国の実現を志向するものであれば自ずと道徳的な努力、勤勉を説くことになるのでしょうか。
私の頭にはとても難しい話のようですので、また一人別のクリスチャンの解説をリンク致します。
佐藤優氏 (プロテスタントで元長老派(カルヴァン派))です。よろしければどうぞ。
「日本人のためのキリスト教神学」
http://webheibon.jp/blog/satomasaru/2012/11/post-33.html
「なぜいま、キリスト教を問題にするのか。(3)」にて佐藤氏は「カール・バルトが日本的なキリスト教理解に対し懐疑的な立場を表明している」ことに言及しています。
もしよろしければbragelonneさんにこれについてご意見をお聞きしてもよろしいでしょうか。
「西欧的な神学」に対する「日本の神学」のありようについてです。
よろしくお願いします。
お礼
ましゅまろ3さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 ★ で、もしかするとクリスチャンの方々はただ単に、聖書の共同訳以上のもの、つまり垣根を越えた自由な交流や批判、受容といったものを各々が敢えて望んではいないし、またその必要も無いと思っているのかもしれないのでは。。? ☆ ん? 何だか二重にヒネリが入っているような見方ですね。 1. これは 聖書という資料の翻訳ですから それでもう《自由な交流》を果たしたとは思っていないと思います。 2. 中には つまりカトリックはカトリックで プロテスタントはプロテスタントで それぞれ自分たちの信仰個条や聖書解釈でよいと思っている人はいるでしょうね。つまり もう話し合いはしないのだと。(しても 相手は 石頭だから 話にならないと互いに思っている場合があるかも知れません)。 3. たとえば イエスはこう言っています。 隣り人が飢えていたときに食べさせ渇いていたときに飲ませたなら その小さな者にしたことは わたし(キリスト。次のくだりでは 《王》と表現されている)にしてくれたことだ。と。 ▼ (マタイによる福音書/ 25章 ) ~~~~~~~~~~ 40: そこで、王は答える。 『はっきり言っておく。 わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、 わたしにしてくれたことなのである。』 45: そこで、王は答える。 『はっきり言っておく。 この最も小さい者の一人にしなかったのは、 わたしにしてくれなかったことなのである。』 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 4. すなわち 小原克博論文に出て来た《神と他者との同一視》の問題です。 つまり――それが 信じるとしてではなく考えるの問題としてあたまの中の観念の規範となったのでは 困りますが(ですから 何でもかでも他者につかえるとは成らないし 信じるをとおして実行できるという問題であるからには 負担に思うことはさらさらないのですが)―― これは《自由な交流や批判、受容といったもの》を望んだり実践したりするという問題になります。 5. つまり聖書から離れたかたちで一般に 《良心》の問題だと言ってよいと考えます。そして聖書のほうにもどって クリスチャンを名乗る人には その良心のことを問題にしてもよいのだと思います。話し合いをこばむことは 褒めたことではないでしょうね。 * ★ bragelonneさん、ユダヤ教を蔑まなければキリスト教というものは成立し得ないものなのでしょうか。 ☆ 基本は次のようです。違いとしては イエスがキリストであると認められたときには 旧約のアブラハムからの神とわれとの関係は 成就したと見るかどうかが ひとつ。見るなら 世界の全体として神は 名が違っても ひとつであると成った。 そしてもうひとつは その具体的なあり方として モーセの律法――つまり 集団の秩序のための倫理規範〔をあたかも神と見立てて守ること〕――によるのではなく そうではなく アブラハムの個人としての内面における信仰によるのだと宣言し直したことです。つまりここでも 主観内面のもんだいであるからには 他人がオシエや規範を持ち出してごちゃごちゃ言っても それは信仰ではなく むしろ神にさからう行為であると成ったこと。 このような違いを強調しなければならないと思ったときには 多少きつい調子でユダイズムをさげすむことさえする(した)のだと思います。 ★ (bragelonneさんの「世界に全体として 神はひとつ。名が違うだけ。とまで成れば かなり障害は消えたでしょうし 消えて行くでしょうと思います。」は理想なのですし、実際これに似た事を世界に説く者はいったいどれだけいるのでしょう。) ☆ イエスのあと それと同じ趣旨としては 《神は人びとの罪を覚えなくなる。神を知れと言っておしえる必要がなくなる》というエレミヤ書(およびヘブル書)の成就のことを語ったなら 説いたことになると思います。 指摘のあった小原克博論文も 《世界の唯一神のそれぞれを相対化し それぞれの信仰を一般的な類型として捉えること》を提案していて この《神は ひとつ。あらそう謂われは無い》という方向に触れていると思います。 つまり この二千年のあいだに 流れは出て来ているし たとえばほかでもないこのわたしが 信仰類型論は やりました。(No.6補足欄の (に)です)。けっきょくまったくそれぞれが相対的なあり方をしていると言ってよいはずです。 * ★ ガラテヤの信徒への手紙4の「二人の女のたとえ」 ☆ における《奴隷》は 社会制度だと思うのです。律法の規定としては それなりにかかわっていますし 信仰としては 何のかかわりもない。ということだと見ます。 ▼ (パウロ:ガラテア 3:23-24 ) ~~~~~~~~ 信仰が現れる前には、わたしたちは律法の下で監視され、この信仰が啓示されるようになるまで閉じ込められていました。 こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。わたしたちが信仰によって義とされるためです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ という基本の主旨を言いたいために ユダイズムとの違いを強調して さげすむことはあったのだと思います。 言いかえると ともかくイエスはキリストであると《宣教》をする時に そのときに同時に《世界におけるもろもろの神を相対化するのだ》という言い方をまだ出来なかったのではないかと思われます。 * ★ 生前のイエスは自身の死後ユダヤ教をアップデートせよ、その際には同胞であるユダヤ教徒を「女奴隷」と蔑むようになどと遺言でもしていたのでしょうか。 ☆ まづ奴隷は 良くないことだとしても社会の秩序を保つためにつくった制度です。(債務奴隷と戦争奴隷)。 《女奴隷》は ユダヤ民族のことではなく ハガルのことでありその子イシュマイルは アラビア人の祖先だと言われています。 ともかく一民族つまりおのれの民族が第一であった(その団結によって身をまもる)時代が長くつづいたのであり その思潮・風潮が色濃く必要以上に出ているようにわたしも思います。《日本海》と口に出して言うことすら 民族愛に反するといったあたまの中の渦巻きが消えないようではあります。 * ★ でも、コリント信徒への手紙にて「集会の秩序」のように詳細に新たなオシエをパウロは記載していますよね。 ☆ これについては 別の角度から考えてみます。次のくだりを取り上げます。 ▲ (パウロ:コリントの信徒への第二の手紙) ~~~~~~ 2:15 ・・・救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りです。 2:16 滅びる者には死から死に至らせる香りであり、救われる者には命から命に至らせる香りです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これは 次のような質問として考えたことなのですが つまり 【Q:滅びる者にとっても キリストの良い香りと言うのは】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6646197.html ですが 結論としては 《死と命》とは 無神論と有神論とに分かれるということではないか。です。したがって《滅び》というのも 信仰(有神論および無神論)に拠らずに人間のあたまですべてを考え統治するという理性による思考の至上主義がほろびる。ということではないか。(強引ですが 趣旨ははずれていないと思います)。 つまり もろもろの神の相対化は すでに視野におさめていたはずですが 神(有る神)と《無い神》との区別つまり 表現として区別はされるが互いに同等であること これは視野に入っていなかったかも分かりません。でも キリストの 相対化とともに その普遍性を推し出したからには やはりすでに趣旨の中に入っていた。のではないか。 というふうに考えるならば 《集会の秩序》や仲間内の約束ごとのような取り決めは そのときその場で・またはその時代と社会にとって必要であるのなら 成されて行ったと思われるのです。つまり 基本である信仰に直接かかわることとしてではなく 生活共同のために秩序が重んじられるといった配慮ではないかと考えます。 * ★ 「民族の神であることを棄て」た。 / そして、その民族の代わりに集会さらには教会を新たな共同体としてパウロは重要視していたのではないでしょうか。 ☆ パウロのつとめは ユダヤ人以外の人びとへの宣教です。しかも各地に散らばっていたユダヤ人とのつながりを頼りにしてのものでした。 いまでは ユダイズムとの区別ははっきりしたでしょうし(イエス=キリスト問題がはっきりすればそれでよい) 世界の各地のいわゆる土着の信仰(およびそれの宗教化したオシエやナラワシ)との区別という問題が 残っているとすれば残っているかも分かりません。かつては排除し迫害しまくったわけですから。 という問題だけではないかと楽観していますが どうでしょう。民族の神(のその閉鎖性)は お互いに揚棄すべきでしょう。 ※ ドパルデューは もういいです。ロシアに行ったんですか?
補足
おぎないです。 ★ 教会 ☆ は けっきょく個人の主観内面における信仰の問題に帰着するからには 見えざる教会というかたちに取って代わられて行くものと思います。 ○ 教会(エクレシア > エグリーズ) これは ムラ(市町村)議会です。民会とも呼びます。 そういう元の意味に戻して 宗教色を取り払って 用いればよいと思います。 ○ 教会(チャーチ・キルへ < キュリアコン(主の〔家〕)) これは ですから おのおの一人ひとりの心にあるわけですから・そしてそのことの連帯なわけですから 目に見えない教会として捉えればよいと考えます。 あるいは オシエは要らないと言っているのですから 《教会》というのも ふるいかも知れません。 あたらしいよいコトバがあれば 使うとよいと思います。キヅナとか そういった意味内容だと考えられます。