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クリスチャンは 良心がないのか?
たとえば 【Q:エレミヤ書31:31以降の《あたらしい契約》】 http://okwave.jp/qa/q8459256.html についてクリスチャンの方々に質問していますが いっこうに回答がありません。 これは クリスチャンも 一部の人びとと同じように良心をなくしたのかとうたがわれるのですが そうではないでしょうか? クリスチャンの存在意義は どこにあるでしょう。
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お礼を拝読しました。たくさん有難うございます。 後の参考にさせていただきます。 >エレミヤ書問題は 要するに 解釈を述べて明らかにすることだけです。それを互いに受け留め批評しあうことができれば 言うこと無しです。 これは余談ですが、「互いに受け留め批評しあう」というくだりから、ふと私の手にしている聖書を眺めてみました。 「新共同訳」というものです。 今春カトリックの高校を卒業した我が子から借りたもので、我が家のかかりつけの病院(聖公会)院長も読んでいるとのことでした。 で、もしかするとクリスチャンの方々はただ単に、聖書の共同訳以上のもの、つまり垣根を越えた自由な交流や批判、受容といったものを各々が敢えて望んではいないし、またその必要も無いと思っているのかもしれないのでは。。? (それとも、私が知らないだけなのかもしれません。語弊や誤解があったらお詫びします。すみません。) >☆ この意味は 《ユダヤ人が 神によってその救いから除外されたのではないか》という疑いを消したということにあると考えます。言い方がどうであれだと思います。 その言い方なのですが、、 聖なる神の言葉にしては、あからさまにユダヤ教を蔑む記述が存在します。 例えばガラテヤの信徒への手紙4の「二人の女のたとえ」です。 30 しかし、聖書に何と書いてありますか。「女奴隷とその子を追い出せ。女奴隷から生まれた子は、断じて自由な身の女から生まれた子と一緒に相続人になってはならないからである」と書いてあります。 31 要するに、兄弟たち、わたしたちは、女奴隷の子ではなく、自由な身の女から生まれた子なのです。 5 この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛にに二度とつながれてはなりません。 キリスト教というのはユダヤ教をアップデートした新しい教えであるとbragelonneさんはおっしゃいます。 でもその新しいキリスト教というのは、生まれ出でたユダヤ教のことを蔑みます。 聖なる神の言葉として。 bragelonneさん、ユダヤ教を蔑まなければキリスト教というものは成立し得ないものなのでしょうか。 (bragelonneさんの「世界に全体として 神はひとつ。名が違うだけ。とまで成れば かなり障害は消えたでしょうし 消えて行くでしょうと思います。」は理想なのですし、実際これに似た事を世界に説く者はいったいどれだけいるのでしょう。) >>イエスの思想とパウロの思想では相反するものも少なくありません。 >>キリスト教の本質としては、はたしていったいどちらなのでしょう。 >>それとも、このようなことを考えること自体意味の無いことなのでしょうか。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ >☆ 《わたしにとって生きることは キリスト〔を生きること〕である》と言ったパウロですから 《相反するもの》は無いと思うのですが ありますか? 生前のイエスは自身の死後ユダヤ教をアップデートせよ、その際には同胞であるユダヤ教徒を「女奴隷」と蔑むようになどと遺言でもしていたのでしょうか。 >7. 言いかえると モーセの律法が あたかも民衆の集団としての秩序をまもるために与えられたのだと言おうとするかのように もうそのような集団としての規範は 要らないと言った。少なくとも その交通規範が 《神》なのではないとはっきりと伝えた。集団ないし組織の倫理規範が オシエをかかげる宗教であると理論づけた。そしてこのシュウキョウは 要らないのだと。 >☆ 基本とし 9. 《すくい》は 目に見えるところから来るのではない。(パウロは 宣教をおこなったが オシエを組織宗教としてかかげ触れ回れと言ったわけではないはずです)。 パウロはそもそも集会、そして教会についてどう考えていたのでしょう。 7.では「集団ないし組織の倫理規範がオシエをかかげる宗教は要らない」。 でも、コリント信徒への手紙にて「集会の秩序」のように詳細に新たなオシエをパウロは記載していますよね。 31 皆が共に学び、皆が共に励まされるように、一人一人が皆、預言できるようにしなさい。 32 預言者に働きかける霊は、預言者の意に服するはずです。 33 神は無秩序の神ではなく、平和の神だからです。 聖なる者たちのすべての教会でそうであるように。 34 婦人たちは・・・ 37 自分は預言する者であるとか、霊の人であると思っている者があれば、わたしがここに書いてきたことは主の命令であると認めなさい。 38 それを認めない者は、その人もまた認められないでしょう。 >4. つまり まだ《ねたむ神》とも呼ばれた民族の神にしたがい 非常に窮屈な律法のもとで生きることをつらぬいた。それゆえ イザヤ書やエレミヤ書の預言などが 成就し むしろユダイズムは開かれて行った。神がみづからを 一段と高いところに揚げて もう民族の神であることを棄てたわけですから。 「民族の神であることを棄て」た。 そして、その民族の代わりに集会さらには教会を新たな共同体としてパウロは重要視していたのではないでしょうか。 そしてたとえば集会や教会に拠らない信徒というのは、いったいどういう位置づけになるのでしょうか。 何か聖書の中に記載などがあるのでしょうか。 以上はちょっと気になる素朴な疑問です。 どうぞ御笑覧下さい。 ※聖アウグスティヌスのイメージはあのような俳優なのですね。。 ドパルデューが演じたらどうだったでしょうか。なんて。
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- kurinal
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Ano.9です。 >「★ 統治 ☆ 話がちがいます。」 そうですか。 >「クリスチャンの存在意義は どこにあるでしょう。 」 ♪「kissは、目にして」
No.6、7です。お礼と補足を拝読しました。 >☆ この論文をかかげられたことは まさにエレミヤ書をめぐる質問のほうへのご回答であるかと思います。 >ちょうど今日 同じ内容の質問をあらたにもうけました。 私がこの論文をかかげた理由は、No.6で頂いたbragelonneさんのお礼 > ○ このエレミヤ書の問題について こういった問いに目をやったことがあって 何も答えないのは クリスチャンとして おかしい。 を拝見して、bragelonneさんがこだわっている「このエレミヤ書の問題」について私なりに考え、このご質問の意図を推察したうえで、(本来こちらのご質問に答えるべきはずなのに何も応答が無いとbragelonneさんが酷くお嘆きの)クリスチャンの一意見をよかれと思って載せたに過ぎません。 お見受けしたところ、bragelonneさんの批評がたくさんついているようです。 ですので、あまりお気に召さなかったのかしら、参考意見として載せたのは不適当だったのかしら、などと今ではちょっぴり後悔しています。 (ちなみに私のほうは、先の質問「宗教の倒錯」のNo.8の内容の理解が出来ておりません。 いったいどんな意味があってそのように書かれたのであろうか?と、まだ一歩も前に進んでいない状態です。) 以上です。 ご希望に添えずにすみません。
お礼
ご回答をありがとうございます。 小原論文は 少し趣きが違っていました。(分かりませんでした)。気にしないでください。 ☆☆ クリスチャンとして おかしい。 ★ クリスチャンの一意見をよかれと思って載せたに過ぎません。 ☆ すみません。このことであらそうつもりはなかったのですが 小原論文を批判したことで 議論をいどむ・あるいは受ける恰好となったようです。 エレミヤ書問題は 要するに 解釈を述べて明らかにすることだけです。それを互いに受け留め批評しあうことができれば 言うこと無しです。 小原論文は 最後の結論で 《神の名の違いを相対化したり 信仰を類型として把握したりすること》という方向が提起されています。まさにこの方向で こちらから答えました。その点では 趣旨が合っているかと思います。その点をつけ添えます。 ★ 先の質問「宗教の倒錯」のNo.8の内容の理解が出来ておりません。 ☆ これについてひとつのご返答をします。 ☆☆(その回答No.8) ~~~~~~~~~~~~~~~ ▲(ローマ書11:28) 福音について言えば、イスラエル人は、あなたがたのために神に敵対していますが、神の選びについて言えば、先祖たちのお陰で神に愛されています。 ☆ とでも言って あたたかく受け容れてあげなきゃあ仕方ないでしょうね。 つまりですから もういっさいが自由なわけなのだと思います。世界に全体として 神はひとつ。名が違うだけ。とまで成れば かなり障害は消えたでしょうし 消えて行くでしょうと思います。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ この意味は 《ユダヤ人が 神によってその救いから除外されたのではないか》という疑いを消したということにあると考えます。言い方がどうであれだと思います。 そのNo.7のお礼欄で アウグスティヌスのドラマをおしえていただきありがとうございます。 そうですね。全部は見切れていませんが やや《聖なるもの》を推し出しているとの感はありました。 ドラマになるとは やや意外でした。 あと よろしかったら同じくNo.7のお礼欄での問い求めにかんして この補足欄にてわたしからの考えを書き込みます。
補足
【Q:宗教の倒錯】 No.7お礼欄に対応します。 いくらか重たい主題が残っているようです。 ★(No.7お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~ 以下のような捉え方でよろしかったでしょうか。 「民族宗教であったユダヤ教から民族という枠を飛び越え、ユダヤの戒律と決別し、普遍宗教としてあまねく人びとを救済していった」 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 次のように考えます。 1. エワやアダムをそそのかした――ほんとうは かれらが内面においてそういった心の・意志の片向きを持ってしまって 悩み戸惑い考えて行ったということだとは思うのですが そこに物語としては登場して来たところの――蛇を ユダヤ民族は あたかも悪魔と見なしたのですから そのチカラと闘った。つまり イエスは 民族の一員として蛇なる悪魔のハタラキに立ち向かった。 2. モーセのときにも《青銅の蛇》の話が出て来ているからには この蛇との戦いは 民族に固有のものだと捉えられる。 3. ですから ユダイズムという枠の中で おのが民族のために闘った。そう生きたし またそのために死んだ。神の子を名乗ったという違反が 高等法院の人びとから咎められたわけで そのことで処罰されるというようなユダイズムにも従った。 4. つまり まだ《ねたむ神》とも呼ばれた民族の神にしたがい 非常に窮屈な律法のもとで生きることをつらぬいた。それゆえ イザヤ書やエレミヤ書の預言などが 成就し むしろユダイズムは開かれて行った。神がみづからを 一段と高いところに揚げて もう民族の神であることを棄てたわけですから。 5. パウロが 律法を 隣人愛をとおして 全うするのだと言ったのは むろんイエスの言葉に拠っています。 ▲ (マタイ福音5:17ー18 / イエスの発言) ~~~~~~~~~ 17: わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。 18: まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 6. ユダイズムの中にあってそれに従うことによって その民族としての特殊性や片寄りを超えて 普遍なる神を指し示すことが出来たのだと思います。 7. 言いかえると モーセの律法が あたかも民衆の集団としての秩序をまもるために与えられたのだと言おうとするかのように もうそのような集団としての規範は 要らないと言った。少なくとも その交通規範が 《神》なのではないとはっきりと伝えた。集団ないし組織の倫理規範が オシエをかかげる宗教であると理論づけた。そしてこのシュウキョウは 要らないのだと。 8. つまりはあらためて 普遍なる神を指し示した。つまり 個人の信仰の問題をのみ扱うようにした。《すくい》は そのようにおのおの主観内面の問題だと示した。決して オシエとしての・組織としての・社会的な権威によるものとしての《救済行為》ではないのだと。 9. 《すくい》は 目に見えるところから来るのではない。(パウロは 宣教をおこなったが オシエを組織宗教としてかかげ触れ回れと言ったわけではないはずです)。 10. 神という神は 名が違っても すべて全体としてひとつである。と 言わず語らずに宣言した。これは 今ならノーベル賞ものだと思います。(もっとも 日本人は この命題ないしこの思いは ごくふつうに自然に持っているようですが)。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ところでbragelonneさん、これは素朴な疑問なのですが、 イエスその人本人は、後を託したパウロの行いや教え、死後自分が三位一体云々と祀り上げられたことについて、いったいどのように思っているのでしょうね。ちょっと気になりました。 イエスの思想とパウロの思想では相反するものも少なくありません。 キリスト教の本質としては、はたしていったいどちらなのでしょう。 それとも、このようなことを考えること自体意味の無いことなのでしょうか。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 基本として言って 《わたしにとって生きることは キリスト〔を生きること〕である》と言ったパウロですから 《相反するもの》は無いと思うのですが ありますか? あるいは ▲ (パウロ:ガラテア書5:24) キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。 ☆ とも言っているのですが どうでしょう。 ★ 三位一体なる神 ☆ については ヨハネ福音を主なものとする聖書記事からみちびき出した神論です。純然たる神学です。 すべてをいまは端折りますが この神論が経験思想の舞台にかかわるとすれば 次のような想定じょうの認識になるとわたし自身は 捉えています。 つまり ▲ (創世記1:27) 神はご自分にかたどって人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。 ☆ というくだりを活かして 次の図式が得られると理解します。 ○ (ひとは カミの似像である。) ~~~~~~~~~ ――ひとと社会の成り立ちについての図式―― 光のたとえ・・・・・・・・・光(光源・・・・・・発耀・・・・・明るさ・暖かさ) 三位一体なる神・・・・・神(父なる神・・・子なる神・・・聖霊なる神) ____________________________ スサノヲ市民( S )・・・アマテラス公民( A ) ____________________________ 身体〔の運動〕・・・・・精神・概念(記憶・・・・・知解・・・・・意志) ・・・・・・・・・・・・・・・・・↓・・・・・・・ (↓・・・・・・・↓・・・・・・・↓) [S者/S圏] 個体・・・・・・・・・・・・家 族 ( 秩序・・・・・労働・・・・・・愛) 社会主体・・・・・・・・自治態勢(自治組織・・〔生産〕・・共同自治) 経済主体・・・・・・・・生産態勢(組織・・・・・・生産・・・・・・・経営 ) 政治主体・・・・・・・・・↓ ・・・・・・・↓・・・・・・・・↓・・・・・・・・↓ [A者/A圏] ・・・・・・・↓・・・・・・ ・↓・・・・・・・・↓・・・・・・・・↓ 社会科学主体・・・・・社会形態(社会組織・・経済活動・・・政治 ) 〃・・・・・・・・・・・・・(国 家 : 司法・・・・・立法・・・・・・・行政 ) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 神を・つまりすでに普遍なる神を 光にたとえるなら 子の父は 光源であり 父の子は その発耀であり 父と子とのまじわりから発出する聖霊は その明るさ・あたたかさであるというものです。 そこには時間的なへだたりはなく 三つの位格は 一体である。 また この三つの位格に分かれるとは言え 無限を二で割っても三で割っても 商はやはり無限であるように 父と子と聖霊とは 互いにひとしく それぞれの個は全体とひとしく 全体はそれぞれの個とひとしい。というものです。 父なる神は 人間の自然本性にあっては 精神の秩序作用としての《記憶》に 子なる神は 精神が精神するというかのようなハタラキとしての《知解》に そして聖霊なる神は 記憶と知解にもとづき生きることの中軸としての《意志》に それぞれ当てはまるというタトエです。 ★ キリスト教の本質 ☆ としてではなく・つまりオシエや宗教としてではなく おのれの身と心とをあたかも超えた《非思考の庭》においてヒラメキないし観想のかたちで得られる人間論ないし社会観としての問題です。 神にあって三つの位格が一体であるかのように 社会にあっても三権分立が 互いに――この場合は時間的なズレをともなって―― 分業=すなわち協業している。そのようにして 一体であり これが 共生のひとつのかたちであるというタトエです。 真理(神)にあっては 時間の間を置くことなく 正解が得られているけれども 人間の経験世界では 時間的なズレをともなって ときに 正解が得られそれが実現されることもあるかも知れない。 この三位一体論もしくはそれの社会理論への応用は それをイエス・キリストは後世に託したと言ってよいものと思います。 もっともっとあたらしい理論づけが出て来るかも分かりません。
- kurinal
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B様。 >「クリスチャンに限らず 一般の人びとは 良心なんてないんだという見方でしょうか。 撞球の球みたいなものですか。」 「「統治」なんて、ないんだ」というくらいだと思います。
お礼
★ 統治 ☆ 話がちがいます。
- kurinal
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B様、こんにちは。 私の知る限りでは、 1 「私たちが、コレをしているのは、「そうしなさい」と、されているから」 2 「これを知れば、アナタも納得されるでしょう」 3 「「上」から、「これが良い」と言われてそうかと思っていたが、突如「やっぱり、ダメ」と言われて、買ったものを捨てた」 こんな感じです。 まとめると、「「権威」に従い、拠って、生きる」 さらには、 「コッチの牧師がダメだったから、アッチの牧師に行ってみよう」 そんなことも、あるようです。
お礼
ご回答をありがとうございます。 クリスチャンに限らず 一般の人びとは 良心なんてないんだという見方でしょうか。 撞球の球みたいなものですか。
お礼を拝見しました。有難うございます。 >このエレミヤ書のあたらしい契約をめぐる問題 以下は今回ご提示の問題を私なりに理解しようと思いたまたま目にしたものです。 「宗教多元主義モデルに対する批判的考察 ――「排他主義」と「包括主義」の再考」 http://www.kohara.ac/research/2007/12/article200712b.html 「 ところが、キリスト教の中には、その歴史の始まりから優越的置換主義への傾斜が存在していた。それはユダヤ教とキリスト教の関係において典型的に見られる。キリスト教が「新しいイスラエル」として、「古いイスラエル」であるユダヤ教に取って代わるという考え方は、「ヘブライ人への手紙」をはじめとし、新約聖書の中に見られる。ユダヤ教の「聖書」は「旧約聖書」と呼ばれ、「新約聖書」が「旧約聖書」に取って代わる。旧約聖書も新約聖書もキリスト教の正典とされたが、両者の間には救済論的な序列があると言わざるを得ない。このようなユダヤ教に対するキリスト教の優越的置換主義が、ヨーロッパ社会における反ユダヤ主義の一因になったと考えられる。その意味でも、優越的置換主義は、単に神学的な議論にとどまらない社会的影響力を持っていると言える。そして、そうであるからこそ、多元主義モデルの中に潜んでいる優越的置換主義を見過ごしにすることはできないのである。また、排他主義、包括主義の中に、それぞれの体系内部で自足した、キリスト教中心の優越的置換主義が機能していることは言うまでもない。」 次に本サイト(私はokwave利用です)で「宗教多元主義」と打ってみました。 すると検索結果として上から三番目に「なぜ神は多様か。」という過去の質疑があがりました。 そこでのBAはbragelonneさんで、質問者さんは全面的に同意なさっています。 いかがでしょう。 bragelonneさんは過去において重複ないし概ね似た質疑をなさっているように私には映るのですが。。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ◆ 小原 克博:宗教多元主義モデルに対する批判的考察 ――「排他主義」と「包括主義」の再考 A Critique of the Pluralist Model: "Exclusivism" and "Inclusivism" Revisited ☆ この論文をかかげられたことは まさにエレミヤ書をめぐる質問のほうへのご回答であるかと思います。ちょうど今日 同じ内容の質問をあらたにもうけました。 これにつきましては あらためて読んだあとで 補足欄にしっかりとしたお応えをしたいと思います。 いまひとこと述べるなら こうです。 1. 《優越的置換主義》というラべリングは いかがか。 2. つまり 《主義》というのは オシエをそのまま何も考えずに受け容れるというマチガイを意味し得ますから 摂りませんし(つまり 組織宗教の立ち場は 論外であると見るまでに 価値がないと見ています。理由はいま ほかのわたしの書きこみにゆだねます) また 《優越的》というのも単純なラべリングに過ぎない可能性があると思っています。 3. 宗教ともなれば どこも《主義》に固まっていますし その主義による姿勢は 他に対して《優越的》です。 4. 肝心なのは 《置換》の内容です。それを 《エレミヤ書のあたらしい契約》問題は提起しているはずです。 まだ読んでいないので 前提としての話になりますが こういった感触を持ちました。 ● 【Q:「なぜ神は多様か。」】 ☆ なる質問を初めとして ★ bragelonneさんは過去において重複ないし概ね似た質疑をなさっているように私には映るのですが。 ☆ これは そのとおりですと言うべきなのか つまり わたしの書きこみは すべて同じ主題です。直接に述べるか間接に触れるか または 間接に問題を捉えているだけとしてかかわっているか の違いであって みな同じ主題です。人間の自由というそれです。 そして ではそういった同じ主題のもとに書き込むという姿勢の中で 何故エレミヤ書問題は 別なのか? これは 特別です。つまり 今回提起なさった《クリスチアニズムとユダイズム または 新約聖書と旧約聖書 これらのあいだの違いをどのように捉えるか》にかかわっていて それによると 両者の同じ内容のところと違うところとが明らかになります。それによってさらには 《神とは何か? あなたの神は どういう神か?》が明らかになります。 人間の自由は 《真理》との関係によって決まると考えますので この真理たる神が明らかにならなければ 話が始まらないという問題 これがあるからです。 《神の多様性 ないし 多元性》の問題は 一般論です。総論です。個別にクリスチアニズムとユダイズムとの対照をしなければなりません。《あたらしい契約》論は 鍵を握ると考えます。
補足
◆ 小原 克博:宗教多元主義モデルに対する批判的考察 ――「排他主義」と「包括主義」の再考 これを批判します。 1. ◆ 宗教多元主義 ☆ これは じっさいのこととしては あり得ないことです。あり得るのは 多項主義とか多主体主義とかです。 ◆ 宗教的多元性(religious diversity) ☆ とありますが これは 多様性です。同じ一つの元のもとにある形態の違いです。 《元》は すでに あらゆるものの源を意味するとすれば そうなります。つまり みなもとは 全体としてひとつしかないとなるはずです。 全体としてひとつの元でないならば・つまりその意味で多元主義ならば 一つひとつの元は 他の元からは独立しており自由であるのですから もはや互いに話が出来るかどうかが分からなくなります。つねにどこまで行っても 平行線である可能性が出て来ています。 つまり 人間の持つ判断のひとつの基準である経験合理性が あてはまるか当てはまらないかが分からなくなります。そういう情況では もはや議論は成り立たないと思ったほうがよいはずです。 ◆ 正義と悪、光と闇、生と死といった二元論的区分を強調する表現が好んで用いられる。 ☆ 経験事象としての《正義と悪 光と闇 生と死》なら ものごとの源ではありえないのですから 二《元》とは言いません。もし善悪の二元論――たとえば ザラトゥシュトラやマニケーイズムがそうだと言われる――であるなら その一元としての善と一元としての悪とは 互いに対立していてしかもどちらも元でありうるということになります。これは あり得ません。善なる一元から悪が生じたと見るか それとも悪なる一元から善が生じたと見るか いづれか一つであるしかあり得ません。 言いかえると 善なら善の一元論のもとに・つまりその非経験の場としての善のもとに 相対的な移ろいゆく善と悪とが生じているという世界はあり得ます。二元論はあり得ません。話が出来なくなります。 ◆ 多元主義の代表的人物ジョン・ヒック(John Hick)は「実在者」(the Real)という概念を措定し、それを、どの特定の宗教の神的実在をも超えた「一者」(the One)と考える。その一者に連なる道が多数存在するという意味での多元主義であり、 ☆ これは 一元論です。ただし観念の神である臭いがしますが。 2. ◆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ( α ) 排他主義では、救済は自分の宗教によってのみ達成される。 ( β ) 包括主義では、救済は他の宗教においても可能であるが、最終的な救済は自分の宗教によってのみ達成(完成)される。 ( γ ) 多元主義では、すべての宗教が等しく救済の可能性を有しており、その点に関して、宗教の間に優劣はないと考えられる。 ( γ-1 ) そして、多元主義者の立場からは、他の二つの類型は、他の宗教への寛容を欠いた望ましくない態度と見なされる。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 議論の筋からすでに離れてしまいさえするのですが 初めにおいてすでに批評し批判してまいります。 (あ) この議論は 《救済》とは何か? が定かではない。 (い) あるいは 《宗教》とは何か? を明らかにしていない。 (う) 宗教と信仰とは けっきょくのところでは 似ても似つかないふたつのものである。という立ち場からは すべての宗教は ただただあたまの中で神をにしろ救済をにしろ人間の思考ないし観念として捉え思っているというだけの心的かつ社会的な現象である。 (え) 宗教は 信仰が思考を超えている非経験の場をあつかうというのに対して ただ人間の思い考えるところを理論としてにせよ観念体系としてにせよ まとめたものであるに過ぎない。信仰ということ自体をも・そして神をも救いをも 人間の思考の対象としてあつかうに過ぎない。 (え‐1) ● ~~~~~~~~~~~~~~~~~ 「・・・「究極的な神的実在(the ultimate divine Reality)」という「トポス」の上に「宗教的多元論(religious pluralism)」を打ち立てる世界最高の寛容な宗教に禍あれ、とでも言うほかはあるまい」(袴谷 1990、126)という辛辣な批判 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これは 百パーセント あたまの中の観念だけで操作している思考であるに過ぎません。つまり《神》をも 人間の思考の能力があつかえるという前提に立った発言です。《信じる》という行為を知らない。 (お) ( β )の〔他称としての〕包括主義はもし《最終的な救済》が他の宗教によっては不可能だというのなら ( α )の〔やはり他称としての〕排他主義と同じである。 (か) ( α )の排他主義は もし他の宗教も同じように《救済は自分の宗教によってのみ達成される》と言っていると知ったときには その発言内容の違いを明らかにしなければならない。相対世界に生きる人間にそれが出来るか? (き) ( γ )の多元主義は 《すべての宗教が等しく救済の可能性を有しており》と言うだけではなく 《宗教ではない思想やあるいは宗教を持たない人間もが 等しく救済の可能性を有している》とも同時に言っていなければならない。そうでないと 宗教の唯我独尊となる。いや それでよいということなら なぜそれでよいかと論証しなければならない。 (く) ( γ-1 )は 問題が違う。《多元主義者の立場からは、他の二つの類型は、他の宗教への寛容を欠いた望ましくない態度と見なされる》というのではなく そうではなく・排他主義も包括主義も同じくであるが 《宗教によって救済された姿を実証し論証すること》が先決である。もしそれが 他にすぐれて唯一のかたちにおいて証明されたのなら 《他の宗教への寛容を欠いた態度》は 採ってしかるべきである。批判とともに。 ☆ すでに議論の筋からはずれているのですが でもこのように前提としての議論を明らかにしなければならないと考えての上です。 (け) ◆ 2.宗教の神学における三つの類型 1)排他主義 ☆ この段落の議論には 信仰の問題は皆無と言ってよいと思う。取り上げない。 (こ) ◆ 第二バチカン公会議での宣言「我らの時代に」(Nostra Aetate)において、カトリックは他の宗教の真理性を否定しないことを確認し ☆ これは 表現がマチガイです。《真理性》は――もし主観真実としての真実性ではないとしたら 神としての絶対普遍なる真理のことですから―― 人間のおこなう表現の中に《真理》があるとか無いとか それを肯定するとか否定するとかいうことは 出来っこないと知るべきです。 (さ) ◆ (a)救済はキリスト教以外の宗教においても成し遂げられる。ただし、それはキリストにおける神の恵みが普遍的な効力を持っているからである。 ☆ これは 表現がヘタである。《救済》は 非経験の場なる神であれば・それがどんな名の神であろうと その神のもとにあるというのが 信仰論の中核を成す。と言えばよい。 その神を キリスト・イエスが指し示したのだと。 (し) ◆ (b)包括主義者にとっても、排他主義者と同様、救済はキリスト論的に根拠づけられている。ただし、それは排他主義のように認識論的な意味においてではなく、存在論的な意味においてである。つまり、排他主義では、キリストにおける神の恵みを認識することなしに救いへと至ることはできないが、包括主義では、キリスト論的な意味での恵みを認識しなくても、キリストの普遍的恵みが存在論的に救いを保証してくれる。 ☆ 前項と同じである。 《認識》だけでは 思考としての・想像としての・観念の神でしかない。 《存在論的》というのは 信仰のことである。 (す) ◆ (c)包括主義者は、他の宗教の中に真理契機を認めるが、それは彼らが所有している本来の真理の一部、あるいは、その不完全な形に過ぎないと考える。 ☆ 《真理》は 往来をあるいているわけではない。非経験の場だと知るべきである。だから《自分たちが所有している本来の真理》などという観念のあやつりは 御免こうむりたい。 ◆ キリスト教は完全な真理を有しているが故に他宗教に対し優位に立っており ☆ ふざけてはいけない。人間は真理を知ることは出来ない。出来たと或る主観が感じさけぶことがあっても。 ◆ キリスト教以外の宗教はキリスト教の真理にどの程度一致しているかによって、その価値を計られることになる。 ☆ かく言うおまえは 神か? 真理を知っているのか? (せ) ◆ 3)多元主義 (c)いかなる宗教も、最終的・絶対的・普遍的な真理を保持していると言うことはできない。 ☆ これは 或る主観はおのが主観として 真理を見たということがあるという可能性を開けておかねばならない。真理に道をあけねばならない。ただし 宗教は 単なるオシエでしかない。信仰ではない。
bragelonneさん、こんにちは。 bragelonneさんのご質問に回答しないことがどうして良心をなくした(と疑われる)ことになるのでしょうか? 過去に似た質問をなさっていらっしゃるとか、そういった覚えはありませんか?
お礼
こんにちは ましゅまろ3さん。ご回答をありがとうございます。 ★ 過去に似た質問をなさっていらっしゃるとか、そういった覚えはありませんか? ☆ ええ そうです。あります。そして クリスチャンの方からも回答を寄せてもらっています。対話をしっかりとしたこともあります。 ただ このエレミヤ書のあたらしい契約をめぐる問題では――げんみつな記憶ではありませんが―― まづ回答がなかったと思います。 あるいはまた このあたらしい契約をめぐる議論を この質疑応答の場で内容のあるものとしておこなった記憶がありません。(クリスチャンでない方とはあります。ねむりねこにゃさんという方 ひとりくらいですが)。 ですから 考えてみると これは 無難な表現として言って 良心の問題ではないかと思いました。 つまり ○ このエレミヤ書の問題について こういった問いに目をやったことがあって 何も答えないのは クリスチャンとして おかしい。 こう考えてマチガイではないと思うに到りました。 この考えにあやまちがあるでしょうか?
補足
次の論文への批判として 回答No.7補足欄からのつづきです。 ◆ 小原 克博:宗教多元主義モデルに対する批判的考察 ――「排他主義」と「包括主義」の再考 (そ) ◆ 3.多元主義モデルに対する批判的考察 : 優越的置換主義の問題をニッターのモデル論は克服できているであろうか。 ☆ 取り上げません。 ◆ 4.ケース・スタディ:1)ヨーゼフ・ラッツィンガー ☆ どうでもよいと見ます。 ◆ 2)トニー・ブレア ☆ 《西洋的価値》であれ《普遍的価値》であれ その中身を説明しなければ話は始まらない。そんなものはない。または 人間が把握することは出来ない。というところから始めなければ。 (た) ◆ 3)井上哲次郎 ☆ たぶん日本教のもんだいであると思う。 もし自然生成としてのシントウではなく やはり国家神道として広く捉えられるものは シントイズムであり これは 宗教としては 日本教であると見ます。 すなわち 唯一神は アマテラスであっても何であってもよいようで 問題は 多神教という内実を持った一神教だという規定をします。 日本教なる一神教――まぼろしの見えない総本山のもとに各宗派がつどう。 ( i ) シントウイズム ( ii ) ブディズム ( iii ) コンフシアニズム ( iv ) クリスチアニズム ( v ) マルクシズム ( vi ) ・・・ * 総本山なるまぼろしは 一般に《クウキ》として現実である。 * むろんこの多神教は じつのところ一神教であって やはり排他的である。 * よそからの宗教は 日本教のひとつの宗派・支部としてのみ《家族》として待遇される。その限りで《平和・寛容》が 通用する。 * かつては 日本教・自民党宗や日本教・社会党支部などがあった。 ◆ 宗教の神学は、諸宗教とその関係とを考察の主たる対象としてきたが、「宗教」に分類されない教育勅語、国民道徳のような「非宗教」の中にも、宗教に大きな影響と制限を与え、宗教の根幹を瓦解させていく力(擬似宗教的な力)があることを十分に認識しなければならない。 ☆ という日本教のもんだい。 (ち) ◆ 多神教の歴史的実相を隠蔽し、同時に、単純化され、偏見に満ちた一神教のイメージを再生産する危険性を免れ得ない。この日本流の優越的置換主義では、一神教世界とのコミュニケーションを取り結ぶことはきわめて難しいと言わざるを得ない。 ☆ おおむねそのとおりだと考えます。 (つ) ▼ 原理主義のポストモダン性とは、何よりもヨーロッパ-アメリカによるヘゲモニーの武器としての近代性を拒絶するところにある――そしてこの点において、イスラーム原理主義はじっさいに範例的なケースである――ことが認識されなければならない(ネグリ/ハート 2003、197)。 ☆ めちゃくちゃである。《原理主義》にならなければ 欧米の自己優位主義的帝国主義とも距離を取れないし 批判することができないと言ったにひとしい。 (て) ◆ 聖書に忠実であろうとした正統主義信仰の人々(排他主義者)の方が、新神学の自由主義者たちよりも、相対的にナショナリズムに対する免疫力を備えていたのである(宮田2003、72)。 ☆ だって。よう言うわ。 (と) ◆ ある集団を暴力的として排除するだけでは、なぜ暴力と結びつくのか、それを回避するために何ができるのかという問いの芽を摘むことになってしまうであろう。 ☆ ひとの意志 つまり自分のも他人のもこの自由意志をないがしろにする意志行為が 暴力である。その起源である。 (な) ◆ ~~~~~~~~~~~~~ 神学的に言えば、神は人間にとってその存在の起源でありながら、同時に〈他者性〉の起源でもある。それゆえ、神や人の〈他者性〉を顧慮しない者は、最終的に認識主体の絶対主義へと至る危険性――偶像崇拝の危険性――を絶えず内包している。すなわち、他者の〈他者性〉を受け入れることのできない者は、他者を自己に従属させようとするのである。 ~~~~~~~~~~~~~~ ☆ おそらくこのように《神と他者性》とをあたかも同一視することは 一方では確かに隣人愛を実行する方向へみちびきうるが 他方では この他者性をも神をもやはり 自分のあたまの中の倫理規範の一環として捉えているに過ぎなくなる。そのあたまによるなら 神と同一視しているから その他者は 自分と同じ陣営にいるのだと錯覚してしまう。その限りで その《他者を自己に従属させようとする》。意識せずにであると思われる。 (に) ◆ 西洋的価値を中心とする優越的置換主義を積極的に相対化していくためには ◆ 日本の文脈に即して言えば、それは「宗教間」対話を成り立たせるための種々の作法(類型論の考察)を突き詰めていくだけでなく、むしろ、「宗教」概念からこぼれ落ちてきたものが何であったのかを歴史的に遡及する道程である。 ☆ 《優越的置換主義の相対化》および《信仰の類型論の考察》についての一案として: δ ブラフマニズム:梵我一如 梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神 我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我 ε ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如 無梵:空・シューナター・ゼロ 無我:アン‐アートマン;ニルワーナ ζ ブディズム:仏仏一如 仏:アミターバ / マハーワイローチャナ 仏:如来蔵・ブッダター(仏性) η クリスチアニズム:霊霊一如 霊:神・聖霊 霊:《神の宮なるわれ》 θ (プラトン?):霊霊一如 霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ) 霊:《われ》 ι 《もののあはれを知る》 霊:かみ(自然および超自然) 霊:われ(自然本性) そしてこれらは 宗教ではなく 個人のワタシの信仰のもんだいである。
- iseab
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残念ながら 俺は 幸福の科学も 創価学会も信じてません そして 勿論 あなたも 信じるに足らない人です 運営が削除してくれるので○○等要らない
お礼
★ 幸福の科学も 創価学会も ☆ いちいち例に出すこともなかったですかね。 削除されそうですが ご回答をありがとうございました。
それはクリスチャンの方に良心がないのではなく、あなたの質問に意味がないのでしょう。「あなたの質問の存在意義は、どこにあるでしょう」ということです。自分のいたらなさをかえりみることなく他者を疑うことこそ「良心をなくした」ふるまいと言わねばなりません。
お礼
れっどがーべらさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 ★ それはクリスチャンの方に良心がないのではなく、あなたの質問に意味がないのでしょう。「あなたの質問の存在意義は、どこにあるでしょう」ということです。自分のいたらなさをかえりみることなく他者を疑うことこそ「良心をなくした」ふるまいと言わねばなりません。 ☆ もしそうなら そういうふうに説明するのが クリスチャンのもつ最小限の良心であるということではありませんか? そして それとは別に れっどがーべらさんご自身が ★ あなたの質問に意味がないのでしょう。 ☆ と推測して言っていること これは どのような根拠でそうなのでしょう? 理由もなく 花一匁を繰り返すのは 良心を捨てた人間であるとうたがわれますよ。 ★ 自分のいたらなさをかえりみることなく他者を疑うことこそ「良心をなくした」ふるまいと言わねばなりません。
- yaasan
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熱心な宗教者は忙しくてこんなサイトを利用する事はありません。 利用している程度のクリスチャンではあなたの質問にマジレスできるほど聖書に精通している人はいません。 ただそれだけ。
お礼
やあさん――ん?―― こんにちは。ご回答をありがとうございます。 ★ 熱心な宗教者は忙しくてこんなサイトを利用する事はありません。 ☆ 利用していないクリスチャンは いま別としてください。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 利用している程度のクリスチャンではあなたの質問にマジレスできるほど聖書に精通している人はいません。 ただそれだけ。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ その発言は 侮辱にあたるのではないですか? つまり 知らなければ 知っている人にたずねる。というのが ふつうのクリスチャンのとる道でしょう。 よって 良心を捨てている。といううたがいが出て来るのです。
- Willyt
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キリスト教社会の2千年の歴史を見ると、ローマ帝国が滅びた後は毎年のように戦争がどこかで行なわれて来ましたね。確かに平和の維持ということに関してはその役割を果たせていないと言っていいでしょう。日本を見ると300年近い廃案時代、250年を超える江戸時代という平和な時代を経験しており、戦後の日本も70年近くの間、全く戦争がありませんでしたね。 中国も王朝が盛んなときには国内はよく治まっており、外国に対する戦争も中国4千年の間殆どしかけておらず、外部からの侵入に対処するだけでした。これは儒教や仏教の功績が大きいと言えるのではないでしょうかね。 一神教ではこれに対抗するものを叩きのめすのが正義とされていることが戦争を誘発するのではないでしょうか。オスマントルコが600年もの間平和を保てたのは他宗教に対する寛容があったからだそされていますね。インカやアメリカインディアンに対するキリスト教徒の遣り口がその非寛容を象徴していますね。
お礼
そうですね。ゐりとさん まづは ご回答をありがとうございます。 ☆☆ クリスチャンの存在意義は どこにあるでしょう。 ★ これについて ない というご回答でしょうか。 曲がりなりにも平和をたもった状態を示してみなさい。非寛容に片向き排他的な態度を捨てないで生きることしか出来ていないではないかと。 そうですね。 そういった社会一般の問題とともに・と言いますか むしろ社会一般の問題の解決を志向するためにこそ 個人一人ひとりの生活態度としての思想が 重要であるというふうにも考えます。 つまり 聖書の解釈についても 一人ひとりの受け留め方が おおきな鍵を握るのだと。 なので これを問うているのですが もし何度も問うても回答がないとすれば それは すでに良心を捨てたのではないか。こううたがわれます。という問いです。 どうでしょうかねぇ。
お礼
ましゅまろ3さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 ★ で、もしかするとクリスチャンの方々はただ単に、聖書の共同訳以上のもの、つまり垣根を越えた自由な交流や批判、受容といったものを各々が敢えて望んではいないし、またその必要も無いと思っているのかもしれないのでは。。? ☆ ん? 何だか二重にヒネリが入っているような見方ですね。 1. これは 聖書という資料の翻訳ですから それでもう《自由な交流》を果たしたとは思っていないと思います。 2. 中には つまりカトリックはカトリックで プロテスタントはプロテスタントで それぞれ自分たちの信仰個条や聖書解釈でよいと思っている人はいるでしょうね。つまり もう話し合いはしないのだと。(しても 相手は 石頭だから 話にならないと互いに思っている場合があるかも知れません)。 3. たとえば イエスはこう言っています。 隣り人が飢えていたときに食べさせ渇いていたときに飲ませたなら その小さな者にしたことは わたし(キリスト。次のくだりでは 《王》と表現されている)にしてくれたことだ。と。 ▼ (マタイによる福音書/ 25章 ) ~~~~~~~~~~ 40: そこで、王は答える。 『はっきり言っておく。 わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、 わたしにしてくれたことなのである。』 45: そこで、王は答える。 『はっきり言っておく。 この最も小さい者の一人にしなかったのは、 わたしにしてくれなかったことなのである。』 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 4. すなわち 小原克博論文に出て来た《神と他者との同一視》の問題です。 つまり――それが 信じるとしてではなく考えるの問題としてあたまの中の観念の規範となったのでは 困りますが(ですから 何でもかでも他者につかえるとは成らないし 信じるをとおして実行できるという問題であるからには 負担に思うことはさらさらないのですが)―― これは《自由な交流や批判、受容といったもの》を望んだり実践したりするという問題になります。 5. つまり聖書から離れたかたちで一般に 《良心》の問題だと言ってよいと考えます。そして聖書のほうにもどって クリスチャンを名乗る人には その良心のことを問題にしてもよいのだと思います。話し合いをこばむことは 褒めたことではないでしょうね。 * ★ bragelonneさん、ユダヤ教を蔑まなければキリスト教というものは成立し得ないものなのでしょうか。 ☆ 基本は次のようです。違いとしては イエスがキリストであると認められたときには 旧約のアブラハムからの神とわれとの関係は 成就したと見るかどうかが ひとつ。見るなら 世界の全体として神は 名が違っても ひとつであると成った。 そしてもうひとつは その具体的なあり方として モーセの律法――つまり 集団の秩序のための倫理規範〔をあたかも神と見立てて守ること〕――によるのではなく そうではなく アブラハムの個人としての内面における信仰によるのだと宣言し直したことです。つまりここでも 主観内面のもんだいであるからには 他人がオシエや規範を持ち出してごちゃごちゃ言っても それは信仰ではなく むしろ神にさからう行為であると成ったこと。 このような違いを強調しなければならないと思ったときには 多少きつい調子でユダイズムをさげすむことさえする(した)のだと思います。 ★ (bragelonneさんの「世界に全体として 神はひとつ。名が違うだけ。とまで成れば かなり障害は消えたでしょうし 消えて行くでしょうと思います。」は理想なのですし、実際これに似た事を世界に説く者はいったいどれだけいるのでしょう。) ☆ イエスのあと それと同じ趣旨としては 《神は人びとの罪を覚えなくなる。神を知れと言っておしえる必要がなくなる》というエレミヤ書(およびヘブル書)の成就のことを語ったなら 説いたことになると思います。 指摘のあった小原克博論文も 《世界の唯一神のそれぞれを相対化し それぞれの信仰を一般的な類型として捉えること》を提案していて この《神は ひとつ。あらそう謂われは無い》という方向に触れていると思います。 つまり この二千年のあいだに 流れは出て来ているし たとえばほかでもないこのわたしが 信仰類型論は やりました。(No.6補足欄の (に)です)。けっきょくまったくそれぞれが相対的なあり方をしていると言ってよいはずです。 * ★ ガラテヤの信徒への手紙4の「二人の女のたとえ」 ☆ における《奴隷》は 社会制度だと思うのです。律法の規定としては それなりにかかわっていますし 信仰としては 何のかかわりもない。ということだと見ます。 ▼ (パウロ:ガラテア 3:23-24 ) ~~~~~~~~ 信仰が現れる前には、わたしたちは律法の下で監視され、この信仰が啓示されるようになるまで閉じ込められていました。 こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。わたしたちが信仰によって義とされるためです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ という基本の主旨を言いたいために ユダイズムとの違いを強調して さげすむことはあったのだと思います。 言いかえると ともかくイエスはキリストであると《宣教》をする時に そのときに同時に《世界におけるもろもろの神を相対化するのだ》という言い方をまだ出来なかったのではないかと思われます。 * ★ 生前のイエスは自身の死後ユダヤ教をアップデートせよ、その際には同胞であるユダヤ教徒を「女奴隷」と蔑むようになどと遺言でもしていたのでしょうか。 ☆ まづ奴隷は 良くないことだとしても社会の秩序を保つためにつくった制度です。(債務奴隷と戦争奴隷)。 《女奴隷》は ユダヤ民族のことではなく ハガルのことでありその子イシュマイルは アラビア人の祖先だと言われています。 ともかく一民族つまりおのれの民族が第一であった(その団結によって身をまもる)時代が長くつづいたのであり その思潮・風潮が色濃く必要以上に出ているようにわたしも思います。《日本海》と口に出して言うことすら 民族愛に反するといったあたまの中の渦巻きが消えないようではあります。 * ★ でも、コリント信徒への手紙にて「集会の秩序」のように詳細に新たなオシエをパウロは記載していますよね。 ☆ これについては 別の角度から考えてみます。次のくだりを取り上げます。 ▲ (パウロ:コリントの信徒への第二の手紙) ~~~~~~ 2:15 ・・・救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りです。 2:16 滅びる者には死から死に至らせる香りであり、救われる者には命から命に至らせる香りです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これは 次のような質問として考えたことなのですが つまり 【Q:滅びる者にとっても キリストの良い香りと言うのは】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6646197.html ですが 結論としては 《死と命》とは 無神論と有神論とに分かれるということではないか。です。したがって《滅び》というのも 信仰(有神論および無神論)に拠らずに人間のあたまですべてを考え統治するという理性による思考の至上主義がほろびる。ということではないか。(強引ですが 趣旨ははずれていないと思います)。 つまり もろもろの神の相対化は すでに視野におさめていたはずですが 神(有る神)と《無い神》との区別つまり 表現として区別はされるが互いに同等であること これは視野に入っていなかったかも分かりません。でも キリストの 相対化とともに その普遍性を推し出したからには やはりすでに趣旨の中に入っていた。のではないか。 というふうに考えるならば 《集会の秩序》や仲間内の約束ごとのような取り決めは そのときその場で・またはその時代と社会にとって必要であるのなら 成されて行ったと思われるのです。つまり 基本である信仰に直接かかわることとしてではなく 生活共同のために秩序が重んじられるといった配慮ではないかと考えます。 * ★ 「民族の神であることを棄て」た。 / そして、その民族の代わりに集会さらには教会を新たな共同体としてパウロは重要視していたのではないでしょうか。 ☆ パウロのつとめは ユダヤ人以外の人びとへの宣教です。しかも各地に散らばっていたユダヤ人とのつながりを頼りにしてのものでした。 いまでは ユダイズムとの区別ははっきりしたでしょうし(イエス=キリスト問題がはっきりすればそれでよい) 世界の各地のいわゆる土着の信仰(およびそれの宗教化したオシエやナラワシ)との区別という問題が 残っているとすれば残っているかも分かりません。かつては排除し迫害しまくったわけですから。 という問題だけではないかと楽観していますが どうでしょう。民族の神(のその閉鎖性)は お互いに揚棄すべきでしょう。 ※ ドパルデューは もういいです。ロシアに行ったんですか?
補足
おぎないです。 ★ 教会 ☆ は けっきょく個人の主観内面における信仰の問題に帰着するからには 見えざる教会というかたちに取って代わられて行くものと思います。 ○ 教会(エクレシア > エグリーズ) これは ムラ(市町村)議会です。民会とも呼びます。 そういう元の意味に戻して 宗教色を取り払って 用いればよいと思います。 ○ 教会(チャーチ・キルへ < キュリアコン(主の〔家〕)) これは ですから おのおの一人ひとりの心にあるわけですから・そしてそのことの連帯なわけですから 目に見えない教会として捉えればよいと考えます。 あるいは オシエは要らないと言っているのですから 《教会》というのも ふるいかも知れません。 あたらしいよいコトバがあれば 使うとよいと思います。キヅナとか そういった意味内容だと考えられます。