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クリスチャンは 良心がないのか?
たとえば 【Q:エレミヤ書31:31以降の《あたらしい契約》】 http://okwave.jp/qa/q8459256.html についてクリスチャンの方々に質問していますが いっこうに回答がありません。 これは クリスチャンも 一部の人びとと同じように良心をなくしたのかとうたがわれるのですが そうではないでしょうか? クリスチャンの存在意義は どこにあるでしょう。
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お礼を拝読しました。たくさん有難うございます。 後の参考にさせていただきます。 >エレミヤ書問題は 要するに 解釈を述べて明らかにすることだけです。それを互いに受け留め批評しあうことができれば 言うこと無しです。 これは余談ですが、「互いに受け留め批評しあう」というくだりから、ふと私の手にしている聖書を眺めてみました。 「新共同訳」というものです。 今春カトリックの高校を卒業した我が子から借りたもので、我が家のかかりつけの病院(聖公会)院長も読んでいるとのことでした。 で、もしかするとクリスチャンの方々はただ単に、聖書の共同訳以上のもの、つまり垣根を越えた自由な交流や批判、受容といったものを各々が敢えて望んではいないし、またその必要も無いと思っているのかもしれないのでは。。? (それとも、私が知らないだけなのかもしれません。語弊や誤解があったらお詫びします。すみません。) >☆ この意味は 《ユダヤ人が 神によってその救いから除外されたのではないか》という疑いを消したということにあると考えます。言い方がどうであれだと思います。 その言い方なのですが、、 聖なる神の言葉にしては、あからさまにユダヤ教を蔑む記述が存在します。 例えばガラテヤの信徒への手紙4の「二人の女のたとえ」です。 30 しかし、聖書に何と書いてありますか。「女奴隷とその子を追い出せ。女奴隷から生まれた子は、断じて自由な身の女から生まれた子と一緒に相続人になってはならないからである」と書いてあります。 31 要するに、兄弟たち、わたしたちは、女奴隷の子ではなく、自由な身の女から生まれた子なのです。 5 この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛にに二度とつながれてはなりません。 キリスト教というのはユダヤ教をアップデートした新しい教えであるとbragelonneさんはおっしゃいます。 でもその新しいキリスト教というのは、生まれ出でたユダヤ教のことを蔑みます。 聖なる神の言葉として。 bragelonneさん、ユダヤ教を蔑まなければキリスト教というものは成立し得ないものなのでしょうか。 (bragelonneさんの「世界に全体として 神はひとつ。名が違うだけ。とまで成れば かなり障害は消えたでしょうし 消えて行くでしょうと思います。」は理想なのですし、実際これに似た事を世界に説く者はいったいどれだけいるのでしょう。) >>イエスの思想とパウロの思想では相反するものも少なくありません。 >>キリスト教の本質としては、はたしていったいどちらなのでしょう。 >>それとも、このようなことを考えること自体意味の無いことなのでしょうか。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ >☆ 《わたしにとって生きることは キリスト〔を生きること〕である》と言ったパウロですから 《相反するもの》は無いと思うのですが ありますか? 生前のイエスは自身の死後ユダヤ教をアップデートせよ、その際には同胞であるユダヤ教徒を「女奴隷」と蔑むようになどと遺言でもしていたのでしょうか。 >7. 言いかえると モーセの律法が あたかも民衆の集団としての秩序をまもるために与えられたのだと言おうとするかのように もうそのような集団としての規範は 要らないと言った。少なくとも その交通規範が 《神》なのではないとはっきりと伝えた。集団ないし組織の倫理規範が オシエをかかげる宗教であると理論づけた。そしてこのシュウキョウは 要らないのだと。 >☆ 基本とし 9. 《すくい》は 目に見えるところから来るのではない。(パウロは 宣教をおこなったが オシエを組織宗教としてかかげ触れ回れと言ったわけではないはずです)。 パウロはそもそも集会、そして教会についてどう考えていたのでしょう。 7.では「集団ないし組織の倫理規範がオシエをかかげる宗教は要らない」。 でも、コリント信徒への手紙にて「集会の秩序」のように詳細に新たなオシエをパウロは記載していますよね。 31 皆が共に学び、皆が共に励まされるように、一人一人が皆、預言できるようにしなさい。 32 預言者に働きかける霊は、預言者の意に服するはずです。 33 神は無秩序の神ではなく、平和の神だからです。 聖なる者たちのすべての教会でそうであるように。 34 婦人たちは・・・ 37 自分は預言する者であるとか、霊の人であると思っている者があれば、わたしがここに書いてきたことは主の命令であると認めなさい。 38 それを認めない者は、その人もまた認められないでしょう。 >4. つまり まだ《ねたむ神》とも呼ばれた民族の神にしたがい 非常に窮屈な律法のもとで生きることをつらぬいた。それゆえ イザヤ書やエレミヤ書の預言などが 成就し むしろユダイズムは開かれて行った。神がみづからを 一段と高いところに揚げて もう民族の神であることを棄てたわけですから。 「民族の神であることを棄て」た。 そして、その民族の代わりに集会さらには教会を新たな共同体としてパウロは重要視していたのではないでしょうか。 そしてたとえば集会や教会に拠らない信徒というのは、いったいどういう位置づけになるのでしょうか。 何か聖書の中に記載などがあるのでしょうか。 以上はちょっと気になる素朴な疑問です。 どうぞ御笑覧下さい。 ※聖アウグスティヌスのイメージはあのような俳優なのですね。。 ドパルデューが演じたらどうだったでしょうか。なんて。
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- iseab
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例えばって あなたのokwaveでの回答が来なかっただけだが? それだけでクリスチャンの存在意義の話になるの? そんな事しなくても クリスチャンの存在意義は各教会に書いてますから 行って読めば判ります
お礼
いせえいびーさんではなく いせえびさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 例えばって あなたのokwaveでの回答が来なかっただけだが? それだけでクリスチャンの存在意義の話になるの? ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ それなんですが どうでしょうか。 つまり たとえば世間の近所づき合いを避ける・しないということは 一般にそういう行き方の場合には 仕方がないとなります。そして この質疑応答の場で 何でもかでも質問に答えなさいということにもならないでしょう。 けれども 何度も質問をしてじゅうぶんにその質問がクリスチャンの眼に入るという情況において 知らぬ存ぜぬをとおすことは 法に触れるわけではないながら 良心が問われてもよいのではないでしょうか? クリスチャンの思う生き方は 果たしてどのようなものでしょうか? 幸○の○学とかいうところは 各地の支部へ行って DVD を視聴してくださいという答えでした。クリスチャンも 右へならえというようなことなのでしょうか? ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ そんな事しなくても クリスチャンの存在意義は各教会に書いてますから 行って読めば判ります ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ その労をいとわず取ることが クリスチャンの中に一人や二人くらいいてもおかしくないのではありませんか? これこれこういうことですよと回答を寄せるという労です。 創○学○の場合ですら 公式サイトや会員のサイトで 思想内容についての資料がじゅうぶんに読めるようです。 そして このいまの質問の場合は まづどこのサイトにもなくまたほかの誰も言っていないと思います。 よって クリスチャンの良心は廃れた。こう思うほうへと うたがいを深めています。
お礼
ましゅまろ3さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 ★ で、もしかするとクリスチャンの方々はただ単に、聖書の共同訳以上のもの、つまり垣根を越えた自由な交流や批判、受容といったものを各々が敢えて望んではいないし、またその必要も無いと思っているのかもしれないのでは。。? ☆ ん? 何だか二重にヒネリが入っているような見方ですね。 1. これは 聖書という資料の翻訳ですから それでもう《自由な交流》を果たしたとは思っていないと思います。 2. 中には つまりカトリックはカトリックで プロテスタントはプロテスタントで それぞれ自分たちの信仰個条や聖書解釈でよいと思っている人はいるでしょうね。つまり もう話し合いはしないのだと。(しても 相手は 石頭だから 話にならないと互いに思っている場合があるかも知れません)。 3. たとえば イエスはこう言っています。 隣り人が飢えていたときに食べさせ渇いていたときに飲ませたなら その小さな者にしたことは わたし(キリスト。次のくだりでは 《王》と表現されている)にしてくれたことだ。と。 ▼ (マタイによる福音書/ 25章 ) ~~~~~~~~~~ 40: そこで、王は答える。 『はっきり言っておく。 わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、 わたしにしてくれたことなのである。』 45: そこで、王は答える。 『はっきり言っておく。 この最も小さい者の一人にしなかったのは、 わたしにしてくれなかったことなのである。』 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 4. すなわち 小原克博論文に出て来た《神と他者との同一視》の問題です。 つまり――それが 信じるとしてではなく考えるの問題としてあたまの中の観念の規範となったのでは 困りますが(ですから 何でもかでも他者につかえるとは成らないし 信じるをとおして実行できるという問題であるからには 負担に思うことはさらさらないのですが)―― これは《自由な交流や批判、受容といったもの》を望んだり実践したりするという問題になります。 5. つまり聖書から離れたかたちで一般に 《良心》の問題だと言ってよいと考えます。そして聖書のほうにもどって クリスチャンを名乗る人には その良心のことを問題にしてもよいのだと思います。話し合いをこばむことは 褒めたことではないでしょうね。 * ★ bragelonneさん、ユダヤ教を蔑まなければキリスト教というものは成立し得ないものなのでしょうか。 ☆ 基本は次のようです。違いとしては イエスがキリストであると認められたときには 旧約のアブラハムからの神とわれとの関係は 成就したと見るかどうかが ひとつ。見るなら 世界の全体として神は 名が違っても ひとつであると成った。 そしてもうひとつは その具体的なあり方として モーセの律法――つまり 集団の秩序のための倫理規範〔をあたかも神と見立てて守ること〕――によるのではなく そうではなく アブラハムの個人としての内面における信仰によるのだと宣言し直したことです。つまりここでも 主観内面のもんだいであるからには 他人がオシエや規範を持ち出してごちゃごちゃ言っても それは信仰ではなく むしろ神にさからう行為であると成ったこと。 このような違いを強調しなければならないと思ったときには 多少きつい調子でユダイズムをさげすむことさえする(した)のだと思います。 ★ (bragelonneさんの「世界に全体として 神はひとつ。名が違うだけ。とまで成れば かなり障害は消えたでしょうし 消えて行くでしょうと思います。」は理想なのですし、実際これに似た事を世界に説く者はいったいどれだけいるのでしょう。) ☆ イエスのあと それと同じ趣旨としては 《神は人びとの罪を覚えなくなる。神を知れと言っておしえる必要がなくなる》というエレミヤ書(およびヘブル書)の成就のことを語ったなら 説いたことになると思います。 指摘のあった小原克博論文も 《世界の唯一神のそれぞれを相対化し それぞれの信仰を一般的な類型として捉えること》を提案していて この《神は ひとつ。あらそう謂われは無い》という方向に触れていると思います。 つまり この二千年のあいだに 流れは出て来ているし たとえばほかでもないこのわたしが 信仰類型論は やりました。(No.6補足欄の (に)です)。けっきょくまったくそれぞれが相対的なあり方をしていると言ってよいはずです。 * ★ ガラテヤの信徒への手紙4の「二人の女のたとえ」 ☆ における《奴隷》は 社会制度だと思うのです。律法の規定としては それなりにかかわっていますし 信仰としては 何のかかわりもない。ということだと見ます。 ▼ (パウロ:ガラテア 3:23-24 ) ~~~~~~~~ 信仰が現れる前には、わたしたちは律法の下で監視され、この信仰が啓示されるようになるまで閉じ込められていました。 こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。わたしたちが信仰によって義とされるためです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ という基本の主旨を言いたいために ユダイズムとの違いを強調して さげすむことはあったのだと思います。 言いかえると ともかくイエスはキリストであると《宣教》をする時に そのときに同時に《世界におけるもろもろの神を相対化するのだ》という言い方をまだ出来なかったのではないかと思われます。 * ★ 生前のイエスは自身の死後ユダヤ教をアップデートせよ、その際には同胞であるユダヤ教徒を「女奴隷」と蔑むようになどと遺言でもしていたのでしょうか。 ☆ まづ奴隷は 良くないことだとしても社会の秩序を保つためにつくった制度です。(債務奴隷と戦争奴隷)。 《女奴隷》は ユダヤ民族のことではなく ハガルのことでありその子イシュマイルは アラビア人の祖先だと言われています。 ともかく一民族つまりおのれの民族が第一であった(その団結によって身をまもる)時代が長くつづいたのであり その思潮・風潮が色濃く必要以上に出ているようにわたしも思います。《日本海》と口に出して言うことすら 民族愛に反するといったあたまの中の渦巻きが消えないようではあります。 * ★ でも、コリント信徒への手紙にて「集会の秩序」のように詳細に新たなオシエをパウロは記載していますよね。 ☆ これについては 別の角度から考えてみます。次のくだりを取り上げます。 ▲ (パウロ:コリントの信徒への第二の手紙) ~~~~~~ 2:15 ・・・救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りです。 2:16 滅びる者には死から死に至らせる香りであり、救われる者には命から命に至らせる香りです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これは 次のような質問として考えたことなのですが つまり 【Q:滅びる者にとっても キリストの良い香りと言うのは】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6646197.html ですが 結論としては 《死と命》とは 無神論と有神論とに分かれるということではないか。です。したがって《滅び》というのも 信仰(有神論および無神論)に拠らずに人間のあたまですべてを考え統治するという理性による思考の至上主義がほろびる。ということではないか。(強引ですが 趣旨ははずれていないと思います)。 つまり もろもろの神の相対化は すでに視野におさめていたはずですが 神(有る神)と《無い神》との区別つまり 表現として区別はされるが互いに同等であること これは視野に入っていなかったかも分かりません。でも キリストの 相対化とともに その普遍性を推し出したからには やはりすでに趣旨の中に入っていた。のではないか。 というふうに考えるならば 《集会の秩序》や仲間内の約束ごとのような取り決めは そのときその場で・またはその時代と社会にとって必要であるのなら 成されて行ったと思われるのです。つまり 基本である信仰に直接かかわることとしてではなく 生活共同のために秩序が重んじられるといった配慮ではないかと考えます。 * ★ 「民族の神であることを棄て」た。 / そして、その民族の代わりに集会さらには教会を新たな共同体としてパウロは重要視していたのではないでしょうか。 ☆ パウロのつとめは ユダヤ人以外の人びとへの宣教です。しかも各地に散らばっていたユダヤ人とのつながりを頼りにしてのものでした。 いまでは ユダイズムとの区別ははっきりしたでしょうし(イエス=キリスト問題がはっきりすればそれでよい) 世界の各地のいわゆる土着の信仰(およびそれの宗教化したオシエやナラワシ)との区別という問題が 残っているとすれば残っているかも分かりません。かつては排除し迫害しまくったわけですから。 という問題だけではないかと楽観していますが どうでしょう。民族の神(のその閉鎖性)は お互いに揚棄すべきでしょう。 ※ ドパルデューは もういいです。ロシアに行ったんですか?
補足
おぎないです。 ★ 教会 ☆ は けっきょく個人の主観内面における信仰の問題に帰着するからには 見えざる教会というかたちに取って代わられて行くものと思います。 ○ 教会(エクレシア > エグリーズ) これは ムラ(市町村)議会です。民会とも呼びます。 そういう元の意味に戻して 宗教色を取り払って 用いればよいと思います。 ○ 教会(チャーチ・キルへ < キュリアコン(主の〔家〕)) これは ですから おのおの一人ひとりの心にあるわけですから・そしてそのことの連帯なわけですから 目に見えない教会として捉えればよいと考えます。 あるいは オシエは要らないと言っているのですから 《教会》というのも ふるいかも知れません。 あたらしいよいコトバがあれば 使うとよいと思います。キヅナとか そういった意味内容だと考えられます。