> 《神》という言葉は 《方便》である。
⇒確かに、そのとおりでしょうね。その内容、というか、経緯・背景・目的・当為などを、例によって箇条書きしながら考えてみたいと思います。すでにどこかのスレで読んだことのあることも含まれるかも知れませんが、その節は悪しからず。
(1)その昔(ある意味では、現代も)、人間は弱い存在でした。天変地異・生老病死・内憂外患など、常に危険に翻弄されて、どう考え、判断し、対応したらよいか…。何かに頼りたくなったであろうことは容易に推量できます。
(2)神はそのような状況の中から要請されたことでしょう。キリスト教のような、いわゆる一神教にとっては、神は「絶対者」です。信徒らは、「すべてを神に仮託」していました。
(3)ただし、そういう絶対的存在者としての神といえども、人間のすることに直接手を下すことはしない(実は、「できない」)。ですから、悲惨なことが起こって、神に泣きついても、神は何もしない(実は、「できない」)。せがんでも、せいぜい「それはあなた(人間)自身の問題です。自分でよく考えて対応するように」とか言うのが関の山…。
(4)一方、哲学者が「神の存在を想定する」ことがあります。それは、人間に分からないこと、人間の智恵を越えることを司る者として「全能神」を想定するような場合です。つまり、哲学者にとっての神は、人智を越えるものを統括する、統覚者的存在です。
(5)キリスト教徒が「絶対性」を神に仮託するように、哲学者は「人智を越えること」を神に仮託する。何のためか。1つには、人間が持てる知力を尽しても分からないことがあっても、それを等閑視することのないようにするためである。あるいはその探求や模索を厭い、不可知論などに陥ってしまうようなことを阻止するためである。すなわち、「(神への)一時預かり」という措置を講じるためである、と考えます。
(6)ゆえに、神を想定することは、最も人間らしい知的営為の1つであり、古今東西の人々の英知であるとも思います。私は特に宗教を奉じている篤信者でも何でもありませんが、上に述べたような神(的絶対者)には、こよなく親しみを覚える者です。
(7)ですから私は、特定宗教の入信の誘いなどにはまったく関心がありませんが、仏典であれ聖書であれコーランであれ、その「教えそのもの」には大いに関心・興味を抱く者でもあります。その教えを考えることはまさに「哲学する」ことでもあると感じています。
(8)(「絶対性」を神に仮託する)第2の理由は、地球上の生命全体の生殺与奪の力を持ってしまった人間が、独断で「人間帝国」を造ったり、相互の対立抗争の果てに、自分自身を含む地球生命全体を滅ぼしてしまうことが起こらないようにするための方策の1つである、と考えます。
(9)繰り返しますが、神とは、「人智の及ばないことを統覚し、それを司る絶対的存在者」のことを呼ぶ別名でしょう。ですから、当然ながら、フォイエルバッハも言うように、「神とは、まさしく人間自身、人間の自己写像」に過ぎません。
(10)ところが我々人間は、知識を増やすことに汲々として、肝心な「智恵」を育むことに意を用いない傾向があると思います。アインシュタインは言ったそうです。「無限なものに2つある。宇宙の広がりと人類の愚かさだが、前者については確信がない」、と。これすなわち、「人類の愚かさについては確信がある」ということではないでしょうか。こういう愚かさから逃れようと願うならば、真摯に学んで「本当の智恵」を求めることにこそ腐心すべきではないでしょうか。
(11)かつて外国の新聞で読んだ記事によると、人間は99.7%の確率で自滅する、とのことです。「中途半端に頭がよくなる」と、破壊する能力が創造の能力を上回って、地球もろともダメにしてしまう、というのです。数値の信憑性は定かではありませんが、その内容、言わんとすることは、「さもありなん」ですね。つまり人間は、ほとんど「自殺に近い形で滅亡する」可能性が高いということであり、それも「中途半端に頭がよくなった」ことが原因になる、ということでしょう。
(12)とはいえ、一縷の望みはあります。「自滅の確率が100%ではない」ということです。我々は、残る0.3%にこそ頭を使うべきだと思います。そのためにこそ、「こういう問題を考えましょう!」。そのためにこそ、「哲学しましょう!」。
以上、ご回答まで。
お礼
そうですね。まづは ご回答をありがとうございます。 これは すでに全体としてひとつのまとまりを持った論文ですので わたしからの応答としては わたし自身が 神もしくは信仰ならびに〔信仰の偽造物としての〕宗教にかんして考えるときの発想や 基礎的な前提となる視点・視座をしるして 互いのさらにこれからの問い求めへのあらたな出発点とします。 § 1 日本語における《かみ》をとらえる。 大野晋(古語辞典等)によりますと 日本語の《かみ(神)》は文献〔あるいは民俗学等々〕で分かる限りでは 次のような意味を持ったと言います。 ○ かみの原義 ~~~~~~~ 1. カミは唯一の存在ではなく 多数存在している。 2. カミは何か具体的な姿・形を持っているものではない。 3. カミは漂動・彷徨し ときに来臨して カミガカリ(神憑り)する。 4. カミは それぞれの場所や物・事柄を領有し 支配する働きを持っていた。〔産土神・山つ霊・海つ霊。またそれぞれの――石ならや磐座(いはくら) 木なら神籬(ひもろき)といった――依り代がある〕 5. カミは――雷神・猛獣・妖怪・山などのように――超人的な威力を持つ恐ろしい存在である。 6. カミはいろいろと人格化して現われる。〔明つ神・現人神〕 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ この(6)の《神の顕現 ないし 人格神》は (3)の《神憑り》――つまりアニミズム=《ヨリ(依り憑く)》なる原始心性の神がかりを一段高いところから人為的に演じて神のことばを得ようとするシャーマニズム――を採り入れたものと考えます。ですから ほんとは《見えない》〔(2)〕のが 原義だとも受け留められます。 カミがまったく姿を現わさないかと言えば 例外の事例があります。ヒトコトヌシ(一言主)のカミが 現実の姿になったところを 雄略ワカタケルは葛城山で見たし 話もしたと言います。一言主の神は こう名乗ったそうです。 《あ(吾)は悪事(まがごと)も一言 善事(よごと)も一言 言離(ことさか・言い放つ)の神 葛城の一言主の大神ぞ》 (古事記) いろんな説があるかと思いますが たとえば――日本語の世界だけではありますが――《神鳴り=雷》 これなどは 自然の感覚で《おそれ》ならおそれ(怖れ・畏れ)を 原始心性そのままに表わしているのではないか。とは思います。つまり 神の――人間の心にとっても・そのコトバとしての――起源としてです。 § 2 信仰をもともなった歴史知性の誕生ならびに宗教の興り はじめに図式をかかげます。 -1:原始心性=《ヨリ(憑り)》:アニミスム&シャーマニスム 0 :歴史知性=《イリ(入り)》:世界への入り。《世界‐内‐存在》 +1:超歴史知性=《ヨセ(寄せ)》:《ヨリ》を束ね 《イリ》をも 社会力学上(政治的に) 寄せる。 スーパー歴史知性とは 《依らしむべし 知らしむべからず》なる見地をしばしば生みます。 ヨリ→イリ→ヨセの順序を歴史的に想定したのですが では なぜ 最後にヨセが 出て来たのか。これは 要らぬものという理解に立ちます。(人によっては 必要悪と言ったりします)。これが 宗教の始まりだと考えます。 言いかえると イリなる歴史知性においても ヨリなる原始心性におけるアニミスム自然本性の要素を備えているでしょうから(つまり アニマル・スピリットをむやみに捨て去ることはないでしょうから) その非科学的な――反科学的ではなく 非科学的な――心性として いわゆる信仰(非思考)をも持っています。単純に 超自然のちからを かみと呼んだことでしょう。 ところがこの時空間を知った・すなわちおのれは時間的存在であると知った・また 人間は死すべき存在であると知った歴史知性 この言ってみれば潜在的にはすでに近代人の理性を持ち合わせたヒトから スーパー歴史知性とよぶべき《ヨセ》なる人間類型が出ました。 単純に言えば ヨリ・アニミスムを備えたイリ歴史知性は その信仰において 神との共生をふつうの社会的な(ムラの)人生としており 実際に或る種の儀式として 神との共食を持ちます。つまり 穀物の収穫に感謝し供え物をして 共に味わうわけです。つまり《まつり(奉り・祀り・祭り)》です。 ヨセは このマツリを 一段高いところから(ふつうのイリ歴史知性を超えたところの精神において) 《まつりごと》として制度化したというものです。マツリゴトとは 個人の信仰やムラムラの生活を束ねる宗教であり政治です。 古事記には こうあります。 その(仲哀タラシナカツヒコ天皇の)大后 オキナガタラシヒメの ミコトは 当時(そのかみ) 神を帰(よ)せたまひき。 四百年ごろのことだと推測されますが 具体的には九州のクマソもしくは半島の新羅を討つというくだりで出て来ます。 これは あたかも その昔のシャーマンを思い起こさせます。そして 違いは すでに人びとは一般に イリ歴史知性なる有限な存在としての自覚を持ったあとだということです。かくて ヨリ・シャーマニスム+イリ歴史知性で ヨセなるスーパー歴史知性の誕生というわけです。鬼っ子かも知れません。 § 3 信仰とは わが心なる《非思考の庭》が成ること これも図式で示します。 ○ 信仰とは 《非知》の領域である ~~~~~~~~~~~ 経験 可知 既知 未知 不可知(知り得ないと知った) 非経験 非知(知り得るか知り得ないかが知り得ない) ○ (非知なる非経験の場(神)⇒非思考の庭)~~~~~ 非経験の場 (非知・絶対・無限・つまり 神) _______________________ 非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。ヒラメキ):信仰 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市):宗教 感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観) ________________________ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
補足
No.8のねわーねすさんも 対抗する見解を寄せてくれました。それと同じように拮抗する見解を寄せてもらいました。 こちらを BA としました。