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《神》という言葉は 《方便》だ。
《神》という言葉は 《方便》である。 《神》という漢字 《かみ》という日本語・その発音 みな方便だ。 《補助線》である。《神》を知る上で引いた補助線でしかない。 補助線は 神本体ではない。 タトエであり 仮りの表現であり シルシである。 方便として用いているに過ぎない。 これを問います。どうでしょう。
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> 《神》という言葉は 《方便》である。 ⇒確かに、そのとおりでしょうね。その内容、というか、経緯・背景・目的・当為などを、例によって箇条書きしながら考えてみたいと思います。すでにどこかのスレで読んだことのあることも含まれるかも知れませんが、その節は悪しからず。 (1)その昔(ある意味では、現代も)、人間は弱い存在でした。天変地異・生老病死・内憂外患など、常に危険に翻弄されて、どう考え、判断し、対応したらよいか…。何かに頼りたくなったであろうことは容易に推量できます。 (2)神はそのような状況の中から要請されたことでしょう。キリスト教のような、いわゆる一神教にとっては、神は「絶対者」です。信徒らは、「すべてを神に仮託」していました。 (3)ただし、そういう絶対的存在者としての神といえども、人間のすることに直接手を下すことはしない(実は、「できない」)。ですから、悲惨なことが起こって、神に泣きついても、神は何もしない(実は、「できない」)。せがんでも、せいぜい「それはあなた(人間)自身の問題です。自分でよく考えて対応するように」とか言うのが関の山…。 (4)一方、哲学者が「神の存在を想定する」ことがあります。それは、人間に分からないこと、人間の智恵を越えることを司る者として「全能神」を想定するような場合です。つまり、哲学者にとっての神は、人智を越えるものを統括する、統覚者的存在です。 (5)キリスト教徒が「絶対性」を神に仮託するように、哲学者は「人智を越えること」を神に仮託する。何のためか。1つには、人間が持てる知力を尽しても分からないことがあっても、それを等閑視することのないようにするためである。あるいはその探求や模索を厭い、不可知論などに陥ってしまうようなことを阻止するためである。すなわち、「(神への)一時預かり」という措置を講じるためである、と考えます。 (6)ゆえに、神を想定することは、最も人間らしい知的営為の1つであり、古今東西の人々の英知であるとも思います。私は特に宗教を奉じている篤信者でも何でもありませんが、上に述べたような神(的絶対者)には、こよなく親しみを覚える者です。 (7)ですから私は、特定宗教の入信の誘いなどにはまったく関心がありませんが、仏典であれ聖書であれコーランであれ、その「教えそのもの」には大いに関心・興味を抱く者でもあります。その教えを考えることはまさに「哲学する」ことでもあると感じています。 (8)(「絶対性」を神に仮託する)第2の理由は、地球上の生命全体の生殺与奪の力を持ってしまった人間が、独断で「人間帝国」を造ったり、相互の対立抗争の果てに、自分自身を含む地球生命全体を滅ぼしてしまうことが起こらないようにするための方策の1つである、と考えます。 (9)繰り返しますが、神とは、「人智の及ばないことを統覚し、それを司る絶対的存在者」のことを呼ぶ別名でしょう。ですから、当然ながら、フォイエルバッハも言うように、「神とは、まさしく人間自身、人間の自己写像」に過ぎません。 (10)ところが我々人間は、知識を増やすことに汲々として、肝心な「智恵」を育むことに意を用いない傾向があると思います。アインシュタインは言ったそうです。「無限なものに2つある。宇宙の広がりと人類の愚かさだが、前者については確信がない」、と。これすなわち、「人類の愚かさについては確信がある」ということではないでしょうか。こういう愚かさから逃れようと願うならば、真摯に学んで「本当の智恵」を求めることにこそ腐心すべきではないでしょうか。 (11)かつて外国の新聞で読んだ記事によると、人間は99.7%の確率で自滅する、とのことです。「中途半端に頭がよくなる」と、破壊する能力が創造の能力を上回って、地球もろともダメにしてしまう、というのです。数値の信憑性は定かではありませんが、その内容、言わんとすることは、「さもありなん」ですね。つまり人間は、ほとんど「自殺に近い形で滅亡する」可能性が高いということであり、それも「中途半端に頭がよくなった」ことが原因になる、ということでしょう。 (12)とはいえ、一縷の望みはあります。「自滅の確率が100%ではない」ということです。我々は、残る0.3%にこそ頭を使うべきだと思います。そのためにこそ、「こういう問題を考えましょう!」。そのためにこそ、「哲学しましょう!」。 以上、ご回答まで。
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- kazu708
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いえ 実在してるのは確かです あなたにも見える筈 今は あなたに 見たいと言う意思が無いから見えないのです TVと同じ 見たく無いチャンネル(番組)は点けないでしょ・・ 見たくなったらチャンネルを合わせれば 誰にでも見えますよ
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ いえ 実在してるのは確かです ☆ この命題・この発言が拠って立つ基礎は 良心・信教の自由ないし一般に表現の自由です。 おのれの主観の内に そのようなことが起こっているのならば そのことの真実がさらに ほかの人びとの真実でもあることを願っているのでしょうから そのときには 《実在していないと思う人があっても それは 同じことに帰着するのですよ》というような言い方になる。このことを つまりここは哲学カテなのですから 余計なおまけとして申し添えました。 ★ あなたにも見える筈 ☆ それは 主観内面における言わば《予感として》です。 一般に・厳密には 《ひとは神を見て 生きて行くことは出来ない》となるでしょう。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~ 今は あなたに 見たいと言う意思が無いから見えないのです TVと同じ 見たく無いチャンネル(番組)は点けないでしょ・・ 見たくなったらチャンネルを合わせれば 誰にでも見えますよ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ でもたとえば パウロの事例は どうですか? 当時はユダヤイズムのキリスト派としての信仰を持つ人びとを パウロは迫害していました。そのとき――すなわち 決してチャンネルを合わせようと思ったわけではないのに―― 向こうからチャンネルを合わせられてしまった。ダマスコの街道で どうにも出来ない――人間が人間である――状態に落ち入らせられました。 見たくないという自己表現は その見るもの(つまり対象 つまり神)のことを知っているということではないでしょうか。言いかえると 見たくないというかたちで知っている。あるいは 見ていない・信じていないというかたちで じつは信じている。 神が除外されるようなことはないわけですから。
- kazu708
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そうです 神は文字では無い ちゃんと 実在してるのだから
お礼
かず708さん こちらでも こんにちは。ご回答をありがとうございます。 ★ 神は文字では無い ☆ 言葉でもない。発音でもない。 心にあると言っても 取り出して見せるわけには行かない。 よって ★ ちゃんと 実在してるのだから ☆ というのは おのおのの主観内面における真実ではありますが。 余計なおまけになりますが じつは――仮りの表現であるからには――《神は実在しない》と言っても 同じことになります。 神は有ると言っても神は無いと言っても 神本体は 痛くも痒くもなく そのまま――これも仮りの言葉ですが――《存在しつづけている》わけです。ちがいますか?
- 雪中庵(@psytex)
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真実が無である時、方便は詭弁ではない。 自我成立のための相補としての環境そのものが方便であり、 そこへの無の射影が物理であれば、方便を詭弁とし、自らに 真があるが如き自負こそ虚妄。 方便(=いい加減な認識に階層現象表面的定性化によって 派生する存在性)の罪(肉体的な自己チュー)を背負い、無の 射影(物理)の示す他我の途(全宇宙の自覚化)を果てしなく ゆく事(博愛)のみが救い。 物理を厭い、肉体的惰性(自己顕示)に流される蒙昧は、真の 自我の目覚め以前に死す水子として供養されよ。
お礼
ぷしゅてくすさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 1. ★ 真実が無である時 ☆ 《真実》は ひとの主観内容にかんして主観としての判断において《おのが心にさからっていない。または たとえ逆らっている部分があるとしても 全体としてこれこれの自己表現は おのれの意志によって よし・然りと判断したものである》ことを意味すると取ります。 2. ところが ★ 無 ☆ は 分かりません。どういう意味でおっしゃっているのか? 《心にも無いこと》という場合 じつはあとで――自分が気づかなかっただけであって――心の中に確かにあったものだったと気づくことがあります。(むろん 文字通り《無い》場合もありますし そのほうが多いでしょう)。 けれども 《有る・無い》が 哲学の問い求めにおいて つねにそのままで意味が明らかであるとは限りません。そうではないでしょうか。 3. ★ 真実が無である時、方便は詭弁ではない。 ☆ 通念として勝手に意味をさだめて解釈しつつ 読んで行きますが・そして議論を端折りますが ○ 方便は けっきょくつねに決して《詭弁》ではない。 のと違いますか? 方便はそれを用いる表現者の意図やその方便じたいの目的内容がさだまっています。方便じたいに 《詭弁》にからむ要素はないのではないでしょうか。 詭弁を弄するときそのために 話の中に方便を用いる場合は けっこうあります。 4. ★ 自我成立 ☆ この《自我》も 決して自明ではありません。わたしの見方では 文学の表現を別とすれば 《自我》はあり得ないと考えます。あるのは 《わたし・自己・自分など》だと。 5. ★ 自我成立のための相補としての環境 ☆ 自我をワタシと採るなら この命題は マチガイです。 ひとが周りの環境の中に存在するとき そこには互いに関係性が 人間の生まれつきの条件として・自然本性として あると見ます。 しかも わたしがわたしであるとき――そのようにおのが意志において自由だという理論上の境地にあるとき―― わたしは 身の周りの人びとや自然や社会の環境とのあいだに ただ理念や理論としてだけではなく 実際問題として大いに《関係性》はあります。つまり早い話が ひとは 社会にあって《共生》しています。 このとき ○ わたし(ここでは 自我)と環境とのあいだには 関係性があることはあっても 《相補性》は 基本的にありません。 相補性というのは 互いに他(相手)がいないと 存続し得ないというものです。 関係性は もともとひとが《環境》の中に存在しているという人間の条件として認識したものです。ですから 微妙でしょうが この関係性のさらにほかに(その上に階を重ねるごとく・屋上屋を架すがごとく)《環境がなければ人間は生きて行けない》という認識を積み重ねるものではないでしょう。 (そう言うことはあったとしても それは その場その時の感慨を述べたものに過ぎないと見ていいでしょう)。 6. ★ 自我成立のための相補としての環境そのものが方便であり、 ☆ 環境は――あるいは 自分よりほかの人びとは―― すでに生まれて来ていて存在しています。ひとは その条件をあたえられたものとして受け取ります。そのとき その環境が――つまりは人どうしは互いが互いにとってこの環境でもありますが―― いちいち《方便》であるか無いかなどとは ひとは問いません。そうではないですか? 7. ★ 〔* 方便である環境=〕そこへの無の射影が物理であれば、 ☆ もういちいちツッコミは控えますと すなわちこのような前提に立てば: 8. ★ 方便を詭弁とし、自らに真があるが如き自負こそ虚妄。 ☆ 前半については (3)で反駁しました。 この後半の自己表現に接して やっとひとつのことが分かりました。それは 先に触れるのですが どうもぷしゅてくす氏は ひとと対話をしないというエートスがあると受け取っていたこと その原因がここにあった。と思いました。 すなわち ★ 自らに真があるが如き自負 ☆ これが 人一倍つよいのだということ。やっと分かりました。(推測と納得とは違いますから)。 言っときますが: ○ (自己表現とは) ~~~~~~~~~~~ だれもみなおのが真実にもとづき 広く一般にも真実である内容を考えます。 ですから みづからの考えは 共同主観(常識)に成る・それに反しないという――すなわちその意味で《真である》という――自負を持っています。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ この自負が ★ 虚妄 ☆ でないか? と問われれば ふつうのまともな人は あぁ それはそうだ いっつも間違えたり どこか見落としがあったり おれは無知もいいとこだとこたえるでしょう。つまり 虚妄だと言われれば はいそうですとこたえます。 ただし だからどうだとは ならないでしょうね。さらに精進をし研鑽をかさねて行きますとこたえるはずです。 9. ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~ 方便(=いい加減な認識に階層現象表面的定性化によって 派生する存在性) の罪(肉体的な自己チュー)を背負い、 無の射影(物理)の示す他我の途(全宇宙の自覚化)を 果てしなくゆく事(博愛)のみが救い。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ もうここからは《いい加減》にお応えしますが たとえば《博愛》を言うのなら・また《他我の途(全宇宙の自覚化)》を言うのなら――他我や《相補的》な環境には この質問者であるぶらじゅろんぬなる人間も入っているのですから―― ちょっとは対話を果たしたら どうなんです? いつまで ★ 自己チュー ☆ なる姿勢を保持するのですか? 方便を詭弁とし ふつうの自負を虚妄と言い ★ 階層現象表面的定性化 ☆ を・つまりは方便を・つまりは 神なら神としての方便をむしろ用いない。仮りの現象としての世の中のことが――世間虚仮というごとくにでしょうか――方便でしかないとしても この方便を用いようとしないのは 自己チューというよりは自己溺愛のようなものではないかい。 10. ★ ~~~~~~~~~~~~~~~ 物理を厭い、肉体的惰性(自己顕示)に流される蒙昧は、真の 自我の目覚め以前に死す水子として供養されよ。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 人と人とのマジワリを厭い 観念的惰性(自らに真があるがごとき自負の城)に閉じこもるイディオット(*)は その無の道・死の脇道を引きかえし 火の子としてよみがえり わたしたちと対話をせよ。 * idiot : " one's own " http://www.etymonline.com/index.php?term=idiot&allowed_in_frame=0
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お礼
そうですね。まづは ご回答をありがとうございます。 これは すでに全体としてひとつのまとまりを持った論文ですので わたしからの応答としては わたし自身が 神もしくは信仰ならびに〔信仰の偽造物としての〕宗教にかんして考えるときの発想や 基礎的な前提となる視点・視座をしるして 互いのさらにこれからの問い求めへのあらたな出発点とします。 § 1 日本語における《かみ》をとらえる。 大野晋(古語辞典等)によりますと 日本語の《かみ(神)》は文献〔あるいは民俗学等々〕で分かる限りでは 次のような意味を持ったと言います。 ○ かみの原義 ~~~~~~~ 1. カミは唯一の存在ではなく 多数存在している。 2. カミは何か具体的な姿・形を持っているものではない。 3. カミは漂動・彷徨し ときに来臨して カミガカリ(神憑り)する。 4. カミは それぞれの場所や物・事柄を領有し 支配する働きを持っていた。〔産土神・山つ霊・海つ霊。またそれぞれの――石ならや磐座(いはくら) 木なら神籬(ひもろき)といった――依り代がある〕 5. カミは――雷神・猛獣・妖怪・山などのように――超人的な威力を持つ恐ろしい存在である。 6. カミはいろいろと人格化して現われる。〔明つ神・現人神〕 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ この(6)の《神の顕現 ないし 人格神》は (3)の《神憑り》――つまりアニミズム=《ヨリ(依り憑く)》なる原始心性の神がかりを一段高いところから人為的に演じて神のことばを得ようとするシャーマニズム――を採り入れたものと考えます。ですから ほんとは《見えない》〔(2)〕のが 原義だとも受け留められます。 カミがまったく姿を現わさないかと言えば 例外の事例があります。ヒトコトヌシ(一言主)のカミが 現実の姿になったところを 雄略ワカタケルは葛城山で見たし 話もしたと言います。一言主の神は こう名乗ったそうです。 《あ(吾)は悪事(まがごと)も一言 善事(よごと)も一言 言離(ことさか・言い放つ)の神 葛城の一言主の大神ぞ》 (古事記) いろんな説があるかと思いますが たとえば――日本語の世界だけではありますが――《神鳴り=雷》 これなどは 自然の感覚で《おそれ》ならおそれ(怖れ・畏れ)を 原始心性そのままに表わしているのではないか。とは思います。つまり 神の――人間の心にとっても・そのコトバとしての――起源としてです。 § 2 信仰をもともなった歴史知性の誕生ならびに宗教の興り はじめに図式をかかげます。 -1:原始心性=《ヨリ(憑り)》:アニミスム&シャーマニスム 0 :歴史知性=《イリ(入り)》:世界への入り。《世界‐内‐存在》 +1:超歴史知性=《ヨセ(寄せ)》:《ヨリ》を束ね 《イリ》をも 社会力学上(政治的に) 寄せる。 スーパー歴史知性とは 《依らしむべし 知らしむべからず》なる見地をしばしば生みます。 ヨリ→イリ→ヨセの順序を歴史的に想定したのですが では なぜ 最後にヨセが 出て来たのか。これは 要らぬものという理解に立ちます。(人によっては 必要悪と言ったりします)。これが 宗教の始まりだと考えます。 言いかえると イリなる歴史知性においても ヨリなる原始心性におけるアニミスム自然本性の要素を備えているでしょうから(つまり アニマル・スピリットをむやみに捨て去ることはないでしょうから) その非科学的な――反科学的ではなく 非科学的な――心性として いわゆる信仰(非思考)をも持っています。単純に 超自然のちからを かみと呼んだことでしょう。 ところがこの時空間を知った・すなわちおのれは時間的存在であると知った・また 人間は死すべき存在であると知った歴史知性 この言ってみれば潜在的にはすでに近代人の理性を持ち合わせたヒトから スーパー歴史知性とよぶべき《ヨセ》なる人間類型が出ました。 単純に言えば ヨリ・アニミスムを備えたイリ歴史知性は その信仰において 神との共生をふつうの社会的な(ムラの)人生としており 実際に或る種の儀式として 神との共食を持ちます。つまり 穀物の収穫に感謝し供え物をして 共に味わうわけです。つまり《まつり(奉り・祀り・祭り)》です。 ヨセは このマツリを 一段高いところから(ふつうのイリ歴史知性を超えたところの精神において) 《まつりごと》として制度化したというものです。マツリゴトとは 個人の信仰やムラムラの生活を束ねる宗教であり政治です。 古事記には こうあります。 その(仲哀タラシナカツヒコ天皇の)大后 オキナガタラシヒメの ミコトは 当時(そのかみ) 神を帰(よ)せたまひき。 四百年ごろのことだと推測されますが 具体的には九州のクマソもしくは半島の新羅を討つというくだりで出て来ます。 これは あたかも その昔のシャーマンを思い起こさせます。そして 違いは すでに人びとは一般に イリ歴史知性なる有限な存在としての自覚を持ったあとだということです。かくて ヨリ・シャーマニスム+イリ歴史知性で ヨセなるスーパー歴史知性の誕生というわけです。鬼っ子かも知れません。 § 3 信仰とは わが心なる《非思考の庭》が成ること これも図式で示します。 ○ 信仰とは 《非知》の領域である ~~~~~~~~~~~ 経験 可知 既知 未知 不可知(知り得ないと知った) 非経験 非知(知り得るか知り得ないかが知り得ない) ○ (非知なる非経験の場(神)⇒非思考の庭)~~~~~ 非経験の場 (非知・絶対・無限・つまり 神) _______________________ 非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。ヒラメキ):信仰 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市):宗教 感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観) ________________________ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
補足
No.8のねわーねすさんも 対抗する見解を寄せてくれました。それと同じように拮抗する見解を寄せてもらいました。 こちらを BA としました。