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方便であれば偽っても良いのか

     オウムもイエス・キリストも奇跡を説いてきた。 現代人であれば奇跡が偽りであることは皆知っている。 しかし奇跡を用いるのは単なる方便であるから偽りであっても良いと考える人は多いよーである。 どーやら奇跡にまつわる問題の根源はこの辺りに在りそーである。 果たして方便、つまり1つの教えに導くためのプロセスであれば偽っても良いと言えるのか。 人の道においては断じて良くはないと明言します。 何故なら一度偽りの方便が認められると、あらゆる偽りが方便の衣を着てまかり通るよーになり、全ての物事が偽りで満たされてしまうからである。 偽ることは悪である。 これは絶対であり、如何なる例外も認めてはならない。 どのよーな屁理屈を用いても偽ることは悪である。 真理の探求においてはこれが基本である。 哲学である。 それでもなお方便であれば偽っても良いと言えるのか。  

みんなの回答

  • Tefu_Tefu
  • ベストアンサー率27% (87/322)
回答No.20

こんにちは 人の道様(^-^) 嘘を信じている人達が 嘘つきは地獄に堕ちると言っているの??? そして 嘘を信じている人達は救われ 嘘を信じていない人達は救われない そうならば 「有を無と言い 無を有と言う」ことにしよう 「知恵ある者が愚者と言い 愚か者が知恵があると言う」今の世の中のようです また 悟りました(笑) ○○△○○○ 惜しい「人の道」連続体ならず フルハウス bさんに阻まれる

hitonomichi31
質問者

お礼

  >惜しい「人の道」連続体ならず フルハウス bさんに阻まれる 一つ覚えておいてほしいことがあります。 bさんの信仰は嘘で固められた聖書の上に乗っかり、これに若干の修正を加えただけの既製のものにすぎないが、我が「人の道」は全くの自前であり、万物の根源、宇宙の法則、アルケーの神も、有瑠慶本願も、「人の道 十ヶ条」も全て「人の道」の完全オリジナルであるってこと忘れんよーに。 つまり両者は哲学のステージが完全に違うってこと。  

noname#189274
noname#189274
回答No.19

> 「最後の一葉」は芸術であって偽りではないでしょう。 > 画家は写真家より嘘つきってことになるね。 はい、彼は見事な”だまし絵(Trompe-l'œil)”を描いたのですから。 それよりも、 > 何故なら一度偽りの方便が認められると、 > あらゆる偽りが方便の衣を着てまかり通るよーになり、 > 全ての物事が偽りで満たされてしまうからである。 これは人間の弱さ、つまり権威主義志向や盲信の末の 自己正当化や欺瞞の問題であり、何も宗教ばかりが 問われるものではないように思われるのです。

hitonomichi31
質問者

お礼

>何も宗教ばかりが問われるものではないように思われるのです。 宗教は人間精神の行動規範となるべきものであり人間精神に対する教えなのであるから、その教えは他のものより一段と厳しく問われなければなりませぬ。 宗教は人を救うものでなければならず、人が宗教を救うのではありません。        

回答No.18

 ★(No.12お礼欄) ~~~~~~~~~~~~  なるほど、やはりイエス・キリストも大嘘つきであり、ペテン役者であり、ただの人であった訳です。  となると信仰とはやはり自前で作る以外ないって結論に至りますね。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ そういう具体的な道もあります。  すなわち 具体的な・個人にとっての道は ふたつあり得ます。  人間イエスは 大食漢で大酒飲みだとあだ名されたように また大嘘をもついたのだから キリストをも信用できない。――こういうひとつの結論をみちびき出して キリストなどという特定の神は信じない。おれは 《無い神》を信じる。あるいは おれ自身の神を信じる。という行き方。  酒は飲むわ飯は食うわでさんざんな人間イエスについては 信じることは出来ないかも知れないが 神キリストについては 別である。神は神である。――こういう結論をみちびいて やはりイエス・キリストの指し示した神を 心にいだくという場合。  けれども どちらにしても 神は 全体としてひとつである。そう言ったし そのことを身をもって示そうとした。そのキリストを信じるということは 普遍としての神を信じることである。となる。  要するに《有る無い》を問わず 《いろんな名があって違っている》ことをも問わず 神を一人ひとりが自由に心に受け容れる。これが 信仰だと示そうとした。のが イエスという男。  ウソが必要だったとすれば それは 民族という上着ないし甲羅を脱ぎ捨てるためだったかも知れません。民族の内に閉じ籠もることは ダメだと言いたかった。うんぬん。・・・民族は ほぼ独り善がりの宗教と同じです。

hitonomichi31
質問者

お礼

  > ウソが必要だったとすれば それは 民族という上着ないし甲羅を脱ぎ捨てるためだったかも知れません。民族の内に閉じ籠もることは ダメだと言いたかった。うんぬん。・・・民族は ほぼ独り善がりの宗教と同じです。 この観点が正しいとするなら、イエス・キリストとは宗教家というより政治活動家、あるいは民族解放運動家とみなすべきだね。 大食漢で大酒飲みで大嘘つきなら宗教家としては完全に失格である。    

noname#189274
noname#189274
回答No.17

No.14です。お礼をありがとうございました。 O・ヘンリーはさておき、 天地の創造主たる神は奇跡も成しえると考えます。 「古の人々が目の当たりにした奇跡」ということで よろしいのでは? あえて現代の科学的知識でもって古の奇跡を 偽りだのと一刀両断することもないのでは?

hitonomichi31
質問者

お礼

>あえて現代の科学的知識でもって古の奇跡を 偽りだのと一刀両断することもないのでは? これに簡単に答えるなら、信仰とは人を救うものであって人に救われるものではありませんってこと。 真の信仰であれば現代の科学的知識で一刀両断にされるほど弱くはないはずです。 人が試練に耐えるよーに、信仰も試練に耐えるものでないと真の信仰とは言えません。  

noname#189765
noname#189765
回答No.16

おはようございます。 ANo9です。 お言葉に同感です。 >奇跡など用いてちょろまかそーとするのが信仰の限界点なのか。   ⇒漬かると何かがあるかもしれないと思い込ませ、 服を脱がし漬からせ、服を取り上げ、そこから脱け出せなくさせる。 論拠は、時間が限られている命を享受できる方法をチョロマカして 不幸にさせて居るのに、その事を商売にしている。 と思考してしまう事はワタシの宗教感の限界なのでしょう、そして 今、生きている事の自己確認は森羅万象の法則からで、人の道様からの ご教授の「感じるもの」だと信じて居ます。

hitonomichi31
質問者

お礼

  ありがとうございます。 信仰とはやはり自前で作る以外ないのです。 何故なら自分で自分をだますことは出来ないし、その必要も無いからです。 信仰とは純粋に個人的なものでなければなりません。  

回答No.15

 つけたし:  イエス曰く:わたしは 真理であり 道であり いのちである。  これ以上の大嘘はないでしょう。

hitonomichi31
質問者

お礼

  ありがとうございます。  

noname#189274
noname#189274
回答No.14

О・ヘンリーの「最後の一葉」のような 偽り は 悪 なのでしょうか?

hitonomichi31
質問者

お礼

  О・ヘンリーの「最後の一葉」は芸術であって、偽りではないでしょう。 もしもこれが偽りであれば画家は写真家より嘘つきってことになるね。  

  • koiprin
  • ベストアンサー率23% (72/306)
回答No.13

偽ることはいつの時代も悪である。 それは間違いない。 しかし、地球が球体であることが事実と認識されたのは、最近の話。 エラトステネスが唱えたが、常識となったのは、中世以降。 時代が下れば真実も変わる。 つまり、奇跡は、その時代においてはまさに奇跡であったのかもしれない。 なので一概に奇跡=方便とは言い切れないのではないかとも思う。 今は、科学的に違うとわかってしまったことが数多くある。 だから原始キリスト教のような奇跡に対する認識はできないかもしれない。 奇跡って体験してみたいな~。

hitonomichi31
質問者

お礼

>奇跡って体験してみたいな~。 間違ってもオウムには近寄らんほーがえーとゆーておきます。  

回答No.12

 ★(No.10お礼欄) ~~~~~~~~~~  No9の回答者が限界説ってものを示しました。  私もあらゆる物事に限界はあると考えます。  ・・・  奇跡など用いてちょろまかそーとする辺りが信仰の限界点なのかと。  イエス・キリストもその限界点に達してたゆーことなのでしょう。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 信仰は 非思考の庭なる動態として 限界を知らない真理――つまり ナゾです――をそのままわが心に受け容れる意志行為です。またその後の持続行為です。  限界があるというのは オシエのことです。宗教一般です。(むろん 経験事象のすべてにも当てはまります)。  そこで おまけとして 取って置きのイエス・キリストの大嘘をおしえてさしあげましょう。  ナザレのひと・イエスは ヨセフという父親とマリアという母親とから――むろんその交渉をつうじて――生まれたふつうの一人の人間であったわけですが 自身はそうであると同時に(つまり 人間であると同時に) 神の子でありみづからも神であると言ったのです。――これが ひとつのウソです。  もっともこのウソのからくりについて 人びとが納得の行くように説明することも出来ます。  つまりは 何のことはない 例のブッダター(仏性)というあれです。アートマン(霊我)でもよいわけです。この神の霊が 人間にはやどっているといった・人びとの常識にまで成った想定の話を少し拡大して イエスは 《わたしが その神の霊である。つまり ブッダターである。つまり アートマンである》と言ったわけです。  すなわち ふつうは人は 神の霊であるアートマンやブッダターやアルケーの霊を わが身と心とにやどす・つまりそれは 分有するということなのですが イエスの場合は 分有ではなく 自分がその神の霊そのものであると言ったのです。  すなわち イエスはふつうの人間であると同時に その身と心〔と非思考の庭〕とで百パーセントが神の霊であると言いました。――これが 第一のウソです。  第二のウソは 神は どんな名であろうと全体として ただひとつであると言いました。それには ひとつの手法として 十字架にハリツケになって そのまま去って行くというかたちを採った。これによって 神という神は すべてひとつであることが 確認された。  なぜなら 神である(=キリストである)イエスが その十字架上から もしおまえが神の子なら降りて来いとなじられても 降りて行かなかった。降りて行ったなら それは おまえが神であるから出来たことだ 神の奇蹟などは おれたちにはお呼びではないと人びとは思い言い合って おしまいになる。ゆえに 奇蹟を起こさなかった。  またもしただ人間としてハリツケに遭って死んだというだけなら それは せいぜいよくやったな がんばったぢゃないか おまえのことは覚えておいてやるから 往生しーやと言われておしまいである。そうではなく 神がハリツケにされたのである。と語ったわけである。これが 第二のウソだ。  このウソによれば 人びとは 笑おうが泣こうが とにもかくにも 元気が出る。ハリツケのイエス・キリストを見れば ひとは元気を取り戻す。ということになっちゃった。――これがウソの効用。  しかも やがては 名の違う神どうしのケンカは もう用無しとなるはずである。そのために 大嘘をついた。イエスという男。  オシエは どうでもよい。のです。

hitonomichi31
質問者

お礼

  なるほど、やはりイエス・キリストも大嘘つきであり、ペテン役者であり、ただの人であった訳です。 となると信仰とはやはり自前で作る以外ないって結論に至りますね。 何故なら自分で自分をだますことは出来ないし、その必要も無いからです。 信仰とは純粋に個人的なものでなければなりません。 わたしの信仰は「人の道」であり、アルケーを感じることなのであるからそれをもっと大事にしないといけません。    

回答No.11

宗教を論じるときに、「嘘も方便」などとは言わない。TPOをわきまえよう。 「なんで、○○のパーティー欠席したの?」 「あいつ嫌いだからだよ」と答えては後々問題が起きるかもしれないので、 「ちょうど、べつの会合と克ち合ってしまって、、」 などと言うのを「嘘も方便」と申します。。 宗教とは、真理から目を背けて、信仰で幸せになるのが正しい。 そのためには嘘、偽りを積み重ねて体系化するのが宗教ビジネスの基本でしょ。

hitonomichi31
質問者

お礼

  ありがとうございます。    >宗教とは、真理から目を背けて、信仰で幸せになるのが正しい。 これについては以前に次のよーな質問をしたこと覚えております。   正しい漬かりかたとは   このカテの投稿内容を眺めていると、つくづく思ったことがある。 人にとって漬かることが避けられんのなら、正しい漬かりかたとは何かゆーこと。 漬かろーとする人も、漬かろーとしない人も、漬かろーとする心がどーゆーものか聞かしてくれ。