まとめてお答えします。
1. 奇蹟が持ち出されていたなら まづその内容を確認し 実際に起こり得る《奇蹟に近い》出来事であるのか それともまるで起こり得ないことであるのかを見定めなくてはならない。
2. 次に《実際に起こり得ない奇蹟》の場合には それが どのような文章や発言の全体の中で持ち出されているのかを見究める必要がある。
3. 通常は 単なる想像の世界のものごとについては タトエとして用いられるものであり それだけのことである。
4. しかもそのタトエは――方便としての場合をふくめて―― では何を目的として使われたタトエであるのか。このことをも見定めなくてはならない。
5. ★ 方便として正当化され
☆ るかどうかは 問題ではない。奇蹟は初めから ウソであると分かっているし そう了解されている。タトエだから正当化されるということも あり得ない。
6. タトエはタトエとして用いるというのみであり それは 正当化するか否かの問題とは別である。方便として有効であるからと言って タトエがそしてその事例としての奇蹟が 《正当化される》ことは 話の筋が違う。正当化するもしないもない。ただ表現の手段であるに過ぎないのだから。
7. ★ 奇跡が一つの教えに導く
☆ これも あり得ない。いや 無効のこととしてはあり得る。つまり オシエの成立としてはあり得る。けれども オシエは 信仰の問題であるなら 無意味である。わづかにその信仰ないし神の仮りの説明として・つまり補助線として 役に立つと言えば そのことまでである。
8. つまり オシエは それが信仰にとって有効だと見てしまったときには そのオシエをけっきょく神としている。補助線を神としている。ことになる。あり得ない。観念の――インチキの――神となる。
9. ★ イエス・キリストが用いた奇跡が偽りであることは誰でも知っている。
☆ この《用いた》というのは 聖書記者が イエスの言葉や振る舞いとして記録した話に出て来たという意味であり それだけのことである。奇蹟をおこなったかどうかは分からない。つまり 奇蹟がウソ・イツワリであることは 初めに分かっていることである(5)〔のだから いちいちそれを指摘しても話にはならない〕。
10. つまり 奇蹟の話をどのように有効にあるいは無効に用いたかを もしそうなら議論したほうがよい。
11. ★ もし奇跡がまかり通ったならこの世界はどーなる
☆ ウソだと分かっている奇蹟が そのまま事実だとしてまかり通ることはない。もしほんとうにまかり通ったとしたら それは どうなるかの問題と言うよりは そのまかり通った時点で 人びとは 一時的にしろ精神が錯乱したということであり そうとしか考えられない。精神錯乱の直るのを俟つしかない。
12. (7)の再考ですが つまり
★ 奇跡が一つの教えに導く
☆ についてですが これは・つまり《オシエ》の問題として考えることは 奇蹟物語の有効性をうらなう基準にはならない。
13. つまりオシエが成立したとしても それは 意味がない。(経験思想としてなら・つまり信仰とは別箇の話としてなら それなりに用いられて行くかも知れない)。
14. つまり 信仰の補助線を有効に活用するしかない。というかたちで 奇蹟物語は 役立つことはあり得る。オシエとは関係ない。
15. 奇蹟物語が《オシエにみちびいた》としても 何にもならない。補助線にたどりついただけである。しかも 補助線が補助線であることを オシエの場合は知らない。または 知っていても無視する。オシエこそが大事であると自己主張をする。つねに 商売のための・観念の――インチキの――神をかかげたり いだいたりする。
16. 奇蹟の話にこだわることが インチキ宗教を活気づけてしまう。
お礼
> 9. ★ イエス・キリストが用いた奇跡が偽りであることは誰でも知っている。 ☆ この《用いた》というのは 聖書記者が イエスの言葉や振る舞いとして記録した話に出て来たという意味であり それだけのことである。奇蹟をおこなったかどうかは分からない。つまり 奇蹟がウソ・イツワリであることは 初めに分かっていることである(5)〔のだから いちいちそれを指摘しても話にはならない〕。 聖書にはイエス・キリストが奇跡を行う様子が描かれている。 イエス・キリストは奇跡を行っていないのであれば、聖書はウソを書いていることになる。 イエス・キリストは偽ってはおらず、聖書が偽りであるとゆーことか。