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方便であれば偽っても良いのか
オウムもイエス・キリストも奇跡を説いてきた。 現代人であれば奇跡が偽りであることは皆知っている。 しかし奇跡を用いるのは単なる方便であるから偽りであっても良いと考える人は多いよーである。 どーやら奇跡にまつわる問題の根源はこの辺りに在りそーである。 果たして方便、つまり1つの教えに導くためのプロセスであれば偽っても良いと言えるのか。 人の道においては断じて良くはないと明言します。 何故なら一度偽りの方便が認められると、あらゆる偽りが方便の衣を着てまかり通るよーになり、全ての物事が偽りで満たされてしまうからである。 偽ることは悪である。 これは絶対であり、如何なる例外も認めてはならない。 どのよーな屁理屈を用いても偽ることは悪である。 真理の探求においてはこれが基本である。 哲学である。 それでもなお方便であれば偽っても良いと言えるのか。
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- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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★(No.8お礼欄) ただ真の教えであれば奇跡などを用いて偽り、人を惑わすよーなことは決してしないはずであると確信しているのです。 ☆ 回答者の考えは いわゆる宗教のオシエに 《真のオシエ》などというものはあり得ないと言っています。 いかに信仰から得られたもの(ヒラメキなど)だとしても そのオシエはあくまで《考える》ものです。経験思考の問題です。 経験思考にとって 変わらざる真実としての《真のオシエ》などはあり得ません。あったら 経験世界を超えています。 ですから ついでに言えば 大きく捉えてください。つまり 《奇蹟をふくめたタトエとしてのウソ・イツワリ》と《真のと呼ばれるところのオシエ〔もじつはひとつの虚構なのである〕》とは 人間が考えるべき経験的にして有限の相対的にして移ろいゆかざるを得ない内容であるしかない。こうです。どちらも同じなのです。 相対的でうつろいゆかざるを得ない内容のものごとによって ひとが惑わされるなら 惑わされるひとがわるい。そのオシエの内容が絶対の真理だと受け留めたその人間のほうがわるい。のですよ。(初犯は 見逃されますが)。 (弱みをにぎられて ふと ふらっと勧誘されてしまったにしても何にしても 二度目からは騙されるほうがわるい。だって 占いも同じことです。占いは 世の中にまだ比較的に好意をもって受け取られているインチキ宗教です)。(弱みの問題にもなります)。
こんにちは。 「ウソも方便」が既に本質を言い露わしています。 とワタシは思考します。 道を説く人の限界と思考いたします。 ワタシに算数を教えた先生との会話で 「解らない事が有ったら質問しなさい」との 部分に「解らないので、どの様に質問したらイイのか を教えて下さい」と云うモノが在りました。 解らない事を解らせる為に「ウソ」は無いでしょうに、 この先生は、以後ワタシに対して冷淡で在りました。 これが限界説の理由です。
お礼
まーいさん、ありがとうございます。 >道を説く人の限界と思考いたします。 あらゆる物事に限界はあります。 信仰の限界、信頼関係の限界、親子の限界、夫婦の愛の限界、生命の限界、・・・・などなど。 奇跡など用いてちょろまかそーとするのが信仰の限界点なのか。 イエス・キリストも限界点に達してたゆーことなのか。 限界を知ったらそこで休めばよろしい。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
○ Q:もし奇跡がまかり通ったならこの世界はどーなる http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8368433.html その回答No.4です。―― 1. 奇蹟が持ち出されていたなら まづその内容を確認し 実際に起こり得る《奇蹟に近い》出来事であるのか それともまるで起こり得ないことであるのかを見定めなくてはならない。 2. 次に《実際に起こり得ない奇蹟》の場合には それが どのような文章や発言の全体の中で持ち出されているのかを見究める必要がある。 3. 通常は 単なる想像の世界のものごとについては タトエとして用いられるものであり それだけのことである。 4. しかもそのタトエは――方便としての場合をふくめて―― では何を目的として使われたタトエであるのか。このことをも見定めなくてはならない。 5. ★ 方便として正当化され ☆ るかどうかは 問題ではない。奇蹟は初めから ウソであると分かっているし そう了解されている。タトエだから正当化されるということも あり得ない。 6. タトエはタトエとして用いるというのみであり それは 正当化するか否かの問題とは別である。方便として有効であるからと言って タトエがそしてその事例としての奇蹟が 《正当化される》ことは 話の筋が違う。正当化するもしないもない。ただ表現の手段であるに過ぎないのだから。 7. ★ 奇跡が一つの教えに導く ☆ これも あり得ない。いや 無効のこととしてはあり得る。つまり オシエの成立としてはあり得る。けれども オシエは 信仰の問題であるなら 無意味である。わづかにその信仰ないし神の仮りの説明として・つまり補助線として 役に立つと言えば そのことまでである。 8. つまり オシエは それが信仰にとって有効だと見てしまったときには そのオシエをけっきょく神としている。補助線を神としている。ことになる。あり得ない。観念の――インチキの――神となる。 9. ★ イエス・キリストが用いた奇跡が偽りであることは誰でも知っている。 ☆ この《用いた》というのは 聖書記者が イエスの言葉や振る舞いとして記録した話に出て来たという意味であり それだけのことである。奇蹟をおこなったかどうかは分からない。つまり 奇蹟がウソ・イツワリであることは 初めに分かっていることである(5)〔のだから いちいちそれを指摘しても話にはならない〕。 10. つまり 奇蹟の話をどのように有効にあるいは無効に用いたかを もしそうなら議論したほうがよい。 11. ★ もし奇跡がまかり通ったならこの世界はどーなる ☆ ウソだと分かっている奇蹟が そのまま事実だとしてまかり通ることはない。もしほんとうにまかり通ったとしたら それは どうなるかの問題と言うよりは そのまかり通った時点で 人びとは 一時的にしろ精神が錯乱したということであり そうとしか考えられない。精神錯乱の直るのを俟つしかない。 12. (7)の再考ですが つまり ★ 奇跡が一つの教えに導く ☆ についてですが これは・つまり《オシエ》の問題として考えることは 奇蹟物語の有効性をうらなう基準にはならない。 13. つまりオシエが成立したとしても それは 意味がない。(経験思想としてなら・つまり信仰とは別箇の話としてなら それなりに用いられて行くかも知れない)。 14. つまり 信仰の補助線を有効に活用するしかない。というかたちで 奇蹟物語は 役立つことはあり得る。オシエとは関係ない。 15. 奇蹟物語が《オシエにみちびいた》としても 何にもならない。補助線にたどりついただけである。しかも 補助線が補助線であることを オシエの場合は知らない。または 知っていても無視する。オシエこそが大事であると自己主張をする。つねに 商売のための・観念の――インチキの――神をかかげたり いだいたりする。 16. 奇蹟の話にこだわることが インチキ宗教を活気づけてしまう。
お礼
>奇蹟の話にこだわることが インチキ宗教を活気づけてしまう。 こだわりたくはないと思ってはいます。 ただ真の教えであれば奇跡などを用いて偽り、人を惑わすよーなことは決してしないはずであると確信しているのです。
- hekiyu
- ベストアンサー率32% (7193/21843)
いやあ、久しぶりによい意見を聞きました。 人の道さんも、たまにはよいことを言いますね。 下手な鉄砲も数打ちゃ当たる。 偽るから、宗教が堕落したのです。 奇跡、つまり現世利益です。 つまり、金銭欲であり、病気治癒であり 長寿です。 信じれば良いことがあるよ、儲かるよ、ということです。 布教をする技術として、奇跡、つまり金銭欲を 満たそうとした訳です。 そして、いつの間にやら、手段が目的になって しまいました。 教えはどこへやら、で現世利益ばかりを追い求める ことになったのです。 だから、宗教は地獄の底まで堕落してしまった のです。
お礼
ありがとうございます。 >偽るから、宗教が堕落したのです。 宗教はもともと堕落していたのか、それともいつの頃からか堕落し始めたのかは定かでない。 とにかく宗教は堕落しました。 中身は無く、ただただ布教技術だけ磨くよーになりました。 だから真に求めるべきは宗教ではなく哲学であると感じております。
- 0fool0
- ベストアンサー率18% (134/738)
貴方の存在が偽りの存在を担保している
NO,3です。さらに、お尋ねのようですから、少しだけ考え方を纏めます。普通は、再回答はしないのですが、これから出かけなければならないので、ポイントはずれるかも知れませんが、それは勘弁して下さい。 「偽ることは悪である。」……単に客観的な、というか、人間の道徳規範としての「善悪の判断」の問題です。 普通に人間社会で暮らしていれば、「偽る」ことは多々あります。「偽る」ことを認識することによってこそ、「真理の探究」が可能なのです。……「現実には、理想どおりいかない」ということです。「人間というのは、そうした矛盾を抱えながら生きている」ということを理解しないと、人間の本当の姿は見えてきません。 この2つはどのよーに共存できるのでしょうか。……「共存できる」のではなくて、「共存している」のです。このことは、人間というのは、「善悪の判断」のような道徳規範のみで生きている者ではないということ、「人間とは、清濁あわせもって生きている、そのようなもの」なのだと理解し、飲み込まなければ、到底「人間を理解する」ことに到達しません。 あなたには、納得できないかも知れませんが、 「偽ることは悪である。」ということにのみこだわっていると、到底「人間を理解する」ことに到達しないのだと思います。 自分自身の心に素直に向き合ってみましょう。本当に、「何事も偽っていない」と、胸を張って自信が持てますか?もし、「何事も偽っていない」と、自信を持っていわれるのであれば、おそらく、私の回答は、あなたには、全く意味のないものだと思いますので、無視して下さい。
お礼
>人間というのは、「善悪の判断」のような道徳規範のみで生きている者ではないということ、「人間とは、清濁あわせもって生きている、そのようなもの」なのだと理解し、飲み込まなければ、到底「人間を理解する」ことに到達しません。 つまりあなたの回答を総合的に判断するとその答えは、「方便であれば偽っても良い」と結論しているのではないですか。
- 雪中庵(@psytex)
- ベストアンサー率21% (1064/5003)
方便とは偽る事だ。 分かっていない事を、分かったように言う。 その事によって、社会がうまく運営されたり、心が安らいだりする。 分かりもしない本質を、日常の概念をこねくり回して、分かったつもりになって、自尊心を満たすのと変わらない。
お礼
>その事によって、社会がうまく運営されたり、心が安らいだりする。 ほんとーにそー思うのでしょうか。 ほんとーにそー確信しているのでしょうか。 もしひとたび偽りの方便が許されたら、あらゆる物事が方便の名のもとに偽りで満たされるかもしれないとは考えないのか。 またそれで良いってことなのか。
方便であろうが、なかろうが偽ってはいけません。 「オウムも……良いと考える人は多いよーである。」……「偽りであっても良いと考え」ているのではなくて、単に信じているだけだと思います。偽りであるかどうかは別にして、「偽り」だと認識していないのです。 「果たして方便、つまり1つの教えに導くためのプロセスであれば偽っても良いと言えるのか。」……導く方は、「偽っている」と自覚していない可能性もあります。 「偽ることは悪である。」……そのとおりです。 「これは絶対であり、如何なる例外も認めてはならない。どのよーな屁理屈を用いても偽ることは悪である。真理の探求においてはこれが基本である。」……宗教の世界では、そうかも知れませんが、普通に人間社会で暮らしていれば、「偽る」ことは多々あります。「偽る」ことを認識することによってこそ、「真理の探究」が可能なのです。(*^_^*) おわかりでしょうか?
お礼
ありがとうございます。 >「偽ることは悪である。」……そのとおりです。 一方、 >普通に人間社会で暮らしていれば、「偽る」ことは多々あります。「偽る」ことを認識することによってこそ、「真理の探究」が可能なのです。(*^_^*) この2つはどのよーに共存できるのでしょうか。
- kurinal
- ベストアンサー率10% (128/1195)
こんばんは。 「目的」について。 人権侵害的でなければ。
お礼
> ☆ 回答者の考えは いわゆる宗教のオシエに 《真のオシエ》などというものはあり得ないと言っています。 No9の回答者が限界説ってものを示しました。 私もあらゆる物事に限界はあると考えます。 どのよーな信仰にも限界はある、どのよーな信頼関係にも限界はある、親子であっても限界はる、夫婦であっても限界はある、もちろん人間の生命にも限界はある、・・・・などなど。 奇跡など用いてちょろまかそーとする辺りが信仰の限界点なのかと。 イエス・キリストもその限界点に達してたゆーことなのでしょう。