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功利主義を否定する人に質問します。
トロッコ問題、カルネアデスの板、臓器くじ・・・etcの問題は究極の選択を迫られるますよね。 現実でも同時多発テロとか大震災とかこのような状態はあったかと思います。 そこで「多くが助かる為には少数が犠牲にする」という考えを悪い、と思ってる人に聞きたいです。 1、2、3のどれに当てはまりますか? 1:どんな理由であれ直接、罪の無い人を殺害する事が悪い思う。 (不慮の事故とか、善意が裏目に出るとかは故意の殺人扱いはされません。) 2:自分の家族とか恋人とか友達等がいたら・・・と思う。 (例えば、家族とか恋人とか友達等の大事な人か、そうじゃない人のどちらかならそれを理由に判断をする等。これだと場合によっては少数を選ぶ事もあり得るし、多数を選んだとしても私情の問題になりますね。) 3:その他 (自分自身の気分みたいな例でも構いません。) ただし「少数も多数も何がなんでも救う」「自分が犠牲になる」という以外の答えでお願いします。 色々努力した、犠牲を無くしたくても無くせない、みたいなどうしようもない状況だとします。 ここで、どうしても答えが見つからない人は無視して構いません。
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功利主義を否定も肯定もしない者です。 究極の選択、というのは永久機関と同じような 自己矛盾を含んでいると思います。 究極の選択をするしかないのだ、という状況下は そのまま膠着状態でいられることはありません。 火急の状態だから、究極の選択が必要になる。 でも、それはどの選択も出来なかった場合に、 自動的にどれかの選択を選ばせられる、という点が 常に語られない、という矛盾です。 問いの一番は、極論すれば、見捨てる、という殺意と、 その実行の主体が誰なのか? という必要条件が満たされていません。 見捨てることと殺すことは本来区別すべきものですが、 ここでは設問に添って択一のために同列に扱います。 死刑でなく殺害、という言葉を使われたと言うことは、 私刑の延長線上にある殺人を正当化することで殺意を 理性的必然に置き換えられるか、という理屈に見える からです。 それを援用しました。 所で、このような極限状況下で、理性と呼べるものが どの程度の信頼性があるか極めて疑わしいものです。 殺人は起きるものであり、良い悪いは起きる前の犯罪に 対してそれを制御・抑止する意図を言葉にしたものに過ぎません。 つまり、これから誰かを殺そうとする者には、その意思を 明示しない限り社会によっても法によっても止める術が ない、という事実です。 この事実の前に、根拠を示した殺意の良し悪しを問うこと 自体が矛盾をはらんでいます。 事前なら空論だし、事後ならただの批判に過ぎない。 その事件そのものに何ら影響を及ぼせない、という矛盾です。 二つ目の、自分の愛する身内を見知らぬ他人より優遇することの 是非を問うているように読めますが、先ほどの良し悪しを問うことの 無意味さ、という「矛盾点の穴」から見ると、もう一つの矛盾点が 見えて来る。 真に身内と他人、何れか片方しか救えない場合に、どちらを 選んだとしてもどちらも批判されることであり、同時に善悪を 決定できないことでもある。 法的に何らかの枷を与えても 暫定的な処遇を導くために為される限定的な便宜でしかない。 つまり、相反するどちらを選んでも、片側から見れば功利主義になる。 正しく、盾と矛と同じ意味の構造を持つ、矛盾そのものです。 時間切れでいずれかを選ばざるを得なければ、どちらを救うか 決めることが出来なかった、言いかえれは命の軽重を決めることが 出来なかった、というネガティブな正論を選択したことにもなる。 これは自らに対して功利主義と言うことも出来る。 何故なら、単なる保身から生まれた優柔不断にすぎないから。 命に差をつけた傲慢な悪、として扱われるよりは、仕方なく 片方を見捨てざるを得なかった、或る意味で被害者として 振る舞うことを選択した、とも見做せるのです。 意思を放棄し、やむなくそうなったとしても、選択をしたことには 違いない。 だが、そこには仕方がなかった、という、自らの意思 ではないのだ、というエクスキューズに取って代わられている。 三つめは、強いて言えば、この理論(?)を考えることは 何らかの躊躇を産みます。 一つ目に指摘した通り、意思の 決定が出来なくても何れかの答えが「出てしまう」状況下において、 躊躇することは時間的な意味でも選択肢の自由度の点でも 自ら決定出来る意思の自由度をどんどん失っていくプロセスに 他なりません。 電車のレール上に落ちた人を助けるため自分も下りるかを 考えている間に電車が来てその人が死んでしまった。 結局、考えるだけで何もできない。 そういう、矛盾です。 殆ど起承転結などのプロセスを経ずに、一瞬の決意によって 死ぬ者もいれば死中に活を見出し、双方とも助かる場合もある。 でも、それらは一瞬の意思決定であり、善悪を問うたり軽重を測る 事前・事後の「批判」とは相いれないものです。 先ほど述べた矛盾により、その意思決定自体に対して、考えあぐねる ことは何ら影響を及ぼせないからです。 あらかじめ用意した答えの通りに、その刹那行動できるか。 これは恐らく99%、否、でしょう。 事前であれ、事後であれ。 恐怖に克つ、というようなこともその意思決定をしてのけた者には 然したる意味は持たないでしょう。 皆、口をそろえて言うはずです。 必死だった、頭がその一念で一杯で、他に何も考えられなかった、と。 助けようと思う。見捨てて立ち去りたいと思う。いずれも、「助ける」という 意思決定の外でグルグル回るだけの、「意思ではないもの」です。 つまりは、ただの「思考実験」でしかない。 この問いは、その矛盾によって、実は答えが存在しないものだと思います。 一瞬の意思決定をしたのか、できなかったのか。 ただ、その事実だけがあるのだと思います。 どちらかを選ばねばならない、ように見える状況下で、どちらも選ぼうと 行動した。 その結果が是と出るか、それとも非と出るかは、人事を尽くして 天命を待つ、そのものでしょう。 思考ゲームとして扱うなら、議論を呼ぶ内容ですが、真剣に悩む問題としては ブービートラップになると思います。 文字通り、愚か者の罠、です。 哲学的な考察の中で、無意味と言うものの意味を問う分野になら 何がしかの考察に結びつくかも知れません。 でも、どこまで行っても、考えれば考えるほど、その刹那の選択から 遠く離れていくばかりです。 自分の意思で、常に我が身を捨てて、公の最大価値を得るために 行動する、ことを自らに課し続けたとします。 でも、究極の選択をしなければならない時が目前にあれば、そこに 或る者は思考という躊躇により、自ら選ぶ意思を放棄するか、可及的に 速やかに思考を停止し、一念発起して反射的に行動を起こすか。 誰を選んで誰を見殺しにするか、ということよりもむしろ、躊躇するか しないか、ということこそ、自らに問うてみる価値のある質問足らんと 思う次第です。 蛇足ですが、エマージェンシー事態の思考ばかりしている人と、 エマージェンシーの訓練ばかりしている人がいるとします。 現実に、いますね。 どちらかを選ぶための訓練も、恐らく常識的にいずれの組織でも あるでしょう。 救急隊員ならトリアージ、戦時に於いては戦列の並び、銃前、銃後。 それらは、全て、個人の思考による選択ではなく、ルールとして 個人の思考と意思決定を制限し、徹底した従属を求めるものです。 そして、その多くは、誰かを見捨てる、という選択ではなくて、自らの 意思や行動を、誰に、どこに集中するのか、最悪の場合、誰一人 救うことが出来ずに自分だけ生き残るとしても、出来るだけ沢山の 人を、救える可能性が高い順番で、手遅れならすぐに次にシフトし、 自分も死ぬ危険性をギリギリまで待たずに、確実に回避するように 組まれているはずです。 戦争を別にすれば、ですが。 結論から言えば、単なる思考実験の域を出ない質問ならば、その場に ならなければ誰一人、決まった答えなど出せません。 この問いに於いて、答えは思考によって出すものではないからだと 説明しました。 その故です。 そして、現実論としてであれば、トリアージなどの緊急活動ルールに 従って、いかに躊躇なく活動できるか、その訓練と部隊化の中に 最初から予測できる答えが残された時間や資材、人的余裕によって 生存確率のパーセンテージで表される文脈の中にしか、答えは存在しない。 いずれにしても、それに際して、強い意思のみが存在し、思考停止、 頭真っ白、ただひたすらに「必死」になれるかどうか。 それのみが、この設問に対しての、唯一誠実に近い答えではないか、と 私は考えます。
1 ですね。 貴方の考えを分かりやすく言えば、4人死ぬよりその代わりに3人死ぬほうがましだから、その3人には死んでもらっってほしい(死んで当然だ)という意見が正しいということのようです。 その3人に死を強制することは出来ません。死にたくないとごねるのは人間として当然のことです。 ただ、 その3人が自発的に「いいよ、私たち、死んであげる」といって死ぬ分にはそれが特に悪い行動だとはいえないと思います。勝手です。
- kurinal
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こんばんは。 あ、それはですね。 「やっちゃいけないことは、やっちゃいけない」ということ、なんです。 (それは本来、功利主義に内在している、と思うのですが、 「それを超えて、やっちゃっていいんじゃない?」というのを功利主義である、 という人が、見受けられますね。)
- 雪中庵(@psytex)
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全ての人は平等です。 しかし、その平等の基準は、その社会性において集団の精神的 充足量の総和を最大にする事であり、未来への延長において、 現在の人の中で、若くて将来性のある人や、社会への貢献度の 高い人に生き残るべき価値を与えます。 もし絶対に誰かが死なねばならないなら、全ての人の幸せの ために命を投げ出す喜びが生じます。