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記憶する手
私の手は二つあって どちらにも五本の指が付いている。 掴む事もできれば、離す事もできる。 いろいろな物を触っては確かめ 在るという感触を伝えてくれる。 この手は 冷たさも暖かさも、痛みも知っている。 感覚という記憶が詰め込まれているかのようだ。 私が今までやってきた事も、みなこの手が成し遂げてくれた。 私の思うがままに動き、動かしてきた。 けれど この手は道具ではない。 道具とは手の延長となる物。 太く、そして皺だらけのこの手は一体何なんだろう? 何がしかの希望がある時、人は手を見ない。 見る必要がない。 手を見るという絶望のシグナルは何を伝えようとしているのだろう?
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こんばんは 石川啄木の「一握の砂」の「我を愛する歌」で はたらけど はたらけど猶わが生活(くらし)樂にならざり ぢつと手を見る これと同じ心情では? 人間は生きているだけで立派だと思います 幸せは「他人に親切にすること}と「感謝すること」のキャッチボールだと思います たくさん楽しみながら生きていきましょう 「人間 パンダの様な幸せはいりません 考える事があるから幸せなのです」
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- hekiyu
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"記憶が詰め込まれているかのようだ。" ↑ 西洋では、デカルトのように心身二元論的な考え方が強く 身体は魂の入れ物に過ぎない、と考える 傾向があります。 しかし、最近では内蔵にも記憶物質が発見され 心身は実は一元的に捉えるべきではないか ということが提唱されています。 もしかすると、手にも記憶物質があるのかも しれません。 ”この手は道具ではない。” ↑ 心身二元論的にいえば、手を含めた身体は 総て魂の道具です。 ”手を見るという絶望のシグナルは何を伝えようとしているのだろう? ” ↑ 手は二本あります。 一つは神様を、もう一つは私を顕します。 死と生と言い換えてもよいです。 神様だけをみても、私だけをみても、それは 方手落ちになります。 生だけでも死だけでも方手落ちです。 だから、両手を合わせると心が静まります。 神様と私が合体するからです。 生死は一体であることを悟ります。 だから、絶望したら手を合わせなさい、という シグナルです。
お礼
ありがとうございます。 >心身は実は一元的・・ 色心不二という言葉もありますね。 でも、自分の体のことも心のことも、実はよく分かっていない それが本当ではないでしょうか。 私ももちろんそうです。 >一つは神様を、もう一つは私を・・ 人は、手の神様や、目の神様を持っている・・ そんなことも思い浮かんできます。 私の意志以上の働きが宿っている そんなふうに感じる時があると思います。 神の手、神の目がある、というのか・・ 人間って不思議ですね。 宗教によっては 仏教では、五感それぞれにおいて心があり世界があるともされています。 一種の精神分析だと思いますが、私もよく分かりません。 そのへんの深いところに入っていけば、或いは答えが見つかるのかもしれませんが 一般論でいいと思っています。 >生死は一体 なかなか悟れませんね・・
- kurinal
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こんばんは。 >「手を見るという絶望のシグナルは何を伝えようとしているのだろう?」 「絶望」を見る人に伝えているのか。
お礼
私の体験を振りかえってみて思う事ですが・・ 手を見る時って 絶望の中にあって、絶望を脱しつつある時、 じゃないかっていう気がします。 自分ではまだ絶望の中にいるつもりなんだけど 絶望を脱したという証明書の方が早く来てしまう。 その不思議な証明書を、まじまじと見てしまう。 手は絶望の脱出証明書みたいな 人は一瞬のうちに乗り越えられるという予感を得ることがある・・ 手はその力を示している だんだん そんな感じがしてきましたね・・。 ありがとうございました。
- 雪中庵(@psytex)
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手は触覚であり、光なき目である。 初期には不定形で口がなく、どこでも細胞膜が凹んで食物を 中に取り込んでいた単細胞生物でも、ゾウリムシになると 進行方向が定まり、前に向けて細胞口という取り込み口が できて、その周辺に感覚点が集中している。 生命にとって、摂食が最大の環境との接点であり、有害な 物を取り込まないように、口の周辺に感覚器官が集中する のである。 手のない魚でも口の周りに触覚が発達しているものが多い。 人類においては視覚が発達し、距離をおいたものを判断し、 視覚を中心とした五感の相関において、予測や想像によっ て道具や農耕のように環境を加工するようになった。 それに伴い、口の代わりに、触覚より遠くに伸びる「手が口 ほどに味わう」ようになって、手の感覚が鋭敏になったのだ。 目は、個体発生の過程において、多少過ぎてから同じ細胞 から分化することから、目は脳の一部と言えるように、脳の 情報処理の主な機能を担っている大脳皮質において、手は 舌と並んで最大の領域を占めている事から、脳の出先器官 だと言える。
お礼
>生命にとって、摂食が最大の環境との接点であり、有害な 物を取り込まないように、口の周辺に感覚器官が集中する のである。 手のない魚でも口の周りに触覚が発達しているものが多い。 やはりそうでしたか・・ 実は、プラナリアの再生の実験についての興味深い記事を最近読みました。 ある特定の餌を与えたプラナリアを幾つかに切って再生させて、以前から与えていた餌と違う餌を用意したところ 再生したどのプラナリアも以前の餌の方に向かって行ってしまったというのです。 脳の無い部位から再生したプラナリアには、以前から摂取していた餌の記憶が無いはずです。 にも関わらず、以前の餌の方に行ってしまったというのは不思議です。 細胞が記憶しているのでしょうか・・ 感覚の記憶は脳の働きのみによらない・・ という事があるのかもしれません。 よく、手が覚えている、とか 体が覚えているとか言いますが 実際にそうした事がそのままである・・可能性があると思います。 やはり、手は道具じゃない・・ >脳の出先器官・・ ん~、微妙です。 ありがとうございました。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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こんにちは。 他人の手をもそこに見るということを伴なわないならば 話はすすまないと考えます。
お礼
「手を見れば分かる」 という言葉もありますね。 働く手は見れば分かる それは 自分の手を見て知っているからなんでしょう。 ささくれて汚れた手は勲章もの 水仕事でカサカサになった手は愛おしい いろんな手がありますよ・・ 例によって・・ 出発進行 という号令 出たようです。
- 0fool0
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失調
お礼
順調ではない という状況 には違いない のだが 手を見る のではなくて 手が 見ろ と言っているのかもしれない 私を忘れたのか・・と
- Y Y(@yy8yy8az)
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人の感性の度合いを上、中、下と分けた場合aboutさんは上、になるかと思います。 刺激されます。 だから、考えてみました。 艱難汝を玉にす、なんて金言がありますが、じっと手を見るという行為は自身の艱難に直面している姿ですね。 一見、負けてしまいそうな姿ですが、まだまだ心の底にエネルギーがあるようです。 そのエネルギーが自身の手を見つめさせるのでしょう。 そしてそのエネルギーの元と云えば、それは“個”を生み出した「大心」。 こんなことを思いました。
お礼
>エネルギー・・ 「力」ってことなんでしょうね 「パワー」ともいう 火事場の馬鹿力ではないが 求心的に何かが渦を巻いて深いところに到達すると、 出てくるものがある・・ そんな感じに似てますかね 「大心」への呼びかけでしょうかね・・ お~い 自分よ 本当の自分よ 出てこい 出番だぞ・・ っていう感じでしょうか ありがとうございました。
お礼
>幸せは「他人に親切にすること}と「感謝すること」のキャッチボールだと思います いい表現だと思います。 人との絆がプツッと切れてしまった時・・ 不可能と思える事に直面した時・・ 手を見るような気がします。 ありがとうございました。