- ベストアンサー
大名人質の妻子はなぜ逃げたのか?江戸での生活に疑問
- 大名の人質となった妻子が江戸から逃げた理由について疑問があります。人質生活とはいえ、大名の家族はそれなりの待遇を受けていたのか、それとも厳しい環境だったのか気になります。
- また、逃亡した場合でもバレる可能性があり、武家諸法度違反になると信用を失い、一族の没落につながることも考えられます。そのため、逃げることは簡単な決断ではなかったのかもしれません。
- また、大名の妻子が帰郷することは許されなかったのかも疑問です。彼女たちは目の黒いうちに故郷に帰ることを望んでいたのかもしれません。
- みんなの回答 (5)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
momokakikinkan さん、こんにちわ。 前述したように江戸時代の初期の頃は大名の家族は江戸ではなく、領地に住んでいました。だから、しっかりとした幕藩体制を確立するために参勤交代と人質としての家族の江戸での居住を推し進めたのです。それまではいつどの大名が反乱を起こすかもしれないので、関所での確認項目としてのそういう言葉が残っているのでしょう。もちろん、大名と領地との隔離を行うことによって、反乱をたくらまないようにするためという理由も成り立ちます。
その他の回答 (4)
- ithi
- ベストアンサー率20% (1972/9602)
momokakikinkan さん、こんばんわ。 大名の人質となった妻子はどうして江戸から逃げたかったのですか? 理由がよくわかりません。 人質生活とはいえ、将軍と契りを結んだ大名の家族なら、それなりの待遇を受けていたんじゃないんですか?それとも、奥の院みたいなところにぎゅうぎゅう詰め飼い殺しでストレス溜まりまくりですか? 不安定だった江戸初期を除いて大名家の家族は江戸に住んでいました。江戸時代も天下泰平な安定期になると、大名の正室と家族は江戸の藩邸(上屋敷)に住みます。だから、自分たちの屋敷の中で生活しているので、必ずしもストレスがたまることはないと思います。また、田舎である所領に比べ、江戸の方が興味深いことが多く、そのため、所領に行くことを嫌がった大名もいたほどです。 大名家の姫君がほかの大名に嫁ぐと、その藩の上屋敷に住みます。つまり、大名の家族は側室の子供でない限り、江戸に住んでいるのです。だから、世子である嫡子以外所領などは行ったこともないという人が多いのです。 幕末になると、規制が多いにゆるんでしまいましたが、幕府の大名統制の方法として効果がありました。 彼女達は目の黒いうちに故郷に帰ることは許されないのでしょうか? 明治維新以降になると思います。しかし、前述のごとく、所領に行ったこともないので、田舎暮らしをするようだと嫌っていたらしいです。
お礼
ご回答ありがとうございました。
補足
つまり、出女なんてまず現れないのに、言葉で"入鉄砲と出女に気を付けろ"的な言い方が今まで残って、教科書にも載っちゃってる感じなのでしょうか?
- tanuki4u
- ベストアンサー率33% (2764/8360)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E4%B9%85%E3%81%AE%E6%94%B9%E9%9D%A9 文久の改革 1862年 参勤交代の緩和 - それまで隔年交代制であった大名の参勤交代を三年に一度に改め、江戸在留期間も100日とした。また人質として江戸に置かれていた大名の妻子についても帰国を許可することとなった。これは幕府制度確立以来の根本制度の変革であり、幕府権力の低下も意味し、国内外に大いに反響を呼んだ[3]。 1863 家茂上洛 1864 家茂再上洛(このあと、将軍は江戸にいなくなる) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E5%88%A9%E5%AE%9A%E5%BA%83 「元治元年(1864年)7月14日、禁門の変に際し、三条実美らをともない、兵を率い京都に向かう。7月21日、禁門の変の敗北を知り、山口に引き返す。」 ※ つまり、文久の改革以前であれば、江戸で人質であったはずの、嗣子も藩主といっしょに「山口」にいたということになります。 ※ 妻子を江戸に人質にしておくことは、「効力」があったと推測されます。 1864 長州征討 1868 鳥羽伏見の戦い
お礼
ありがとうございました。
江戸三百年の歴史がひとまとめというか団子になっておられるようです。 >大名の人質となった妻子はどうして江戸から逃げたかったのですか? 江戸時代に入ってから大名同志が人質をとったことはありません。 あくまでも、徳川家=幕府対諸大名です。 家康が関ヶ原で勝った直後に人質として受け入れた妻女はあります。 戦国時代の名残です。 有名なのが前田利家の妻であったまつの行動が有名です。 これも、まつ自らが江戸へ乗り込んで、前田家への政治的攻略を阻止したものです。 1596年 伊予宇和島藩主藤堂高虎が弟正高を江戸に住まわせ、秀忠に近侍させた(江戸証人の初め) 1600年 前田まつが江戸へ移住する。 1604年 肥後人吉藩主相良長毎が老母を証人として江戸に住まわせた。(西国大名の江戸証人の初め) 1607年 幕府が諸大名に江戸証人を置くことを命じる。 (大阪にはまだ淀君、秀頼が健在で、これに対する牽制です) 1624年 島津家久が妻子を江戸に住まわせる。 この後、諸大名が妻子を江戸に住まわせるようになる。 以上の経緯のように、奥方様が江戸住まいとなったのと、人質としての江戸証人とは若干異なります。 この頃に奥方様が国へ帰りたいと言っても、旦那さんである殿様が許さなかったでしょう。 江戸証人=謀反の意志がないことを示すための証人 以降の時代には、奥方様になるような女性は江戸生まれ江戸育ちの人が多くなりました。 見たこともない、遠い地方の領国などなんの魅力もなかったでしょう。 1868年 江戸城明け渡しと同時に大名が領国へ帰ることとなりパニックになったのは奥方様たちでした。 1869年 華族制度が定められて、旧大名は東京に在住することを命じられたときに最も喜んだのが奥方様たちでした。 >奥の院みたいなところにぎゅうぎゅう詰め飼い殺しでストレス溜まりまくりですか? 寺社詣で、などと称して頻繁に屋敷外へ遊びに行きました。 歌舞音曲を楽しむためには、その心得のあるお女中を雇って楽しんでいました。 お殿様や御家老に頼めば、専門の人達を屋敷に呼び入れることも出来ました。 大名家の奥方様やお姫様同士の交流もありました。 江戸城の大奥のように閉じ込められていた訳ではありません。 そもそも、生まれたときからそういうものだと教育されれば、別に不自由も不満も感じません。 >彼女達は目の黒いうちに故郷に帰ることは許されないのでしょうか? 皆さん江戸生まれ江戸育ちです。 帰る故郷は江戸市内の実家です。 冠婚葬祭、節句など必要な行事があれば戻れました。 稀にお殿様の領国からお嫁入りする人もいました。 こういう人の場合には帰ってみたいと思われた人もいたでしょう。 時代小説ななどで、入り鉄砲に出女と言われているのは、 幕府に対して謀反を企てる大名が事前に奥方様を国へ返すことを阻止する為だった、言われていますが、そんな無駄なことを考える大名はいませんでした。 江戸時代は、何でも前例主義でしたから、家康時代の考え方が、何の反省もなく形式上受け継がれていただけです。 これでは、小説になりませんから、作者が面白可笑しく尾ひれを付けて創作しただけの話です。
お礼
詳しいご回答ありがとうございました。まず、奥さんの地元=旦那(大名)の領地と思って質問しましたが、大名によっては国替えもありますし、よく考えればおかしい話でした。江戸生まれ江戸育ちで外出OKなら、それなりに暮らしていけそうですね。
- tanuki4u
- ベストアンサー率33% (2764/8360)
想定ではなく、実績から政策は採用されます。 関ヶ原の戦いの段階で 「石田はまず会津征伐に従軍していた諸大名の妻子を人質に取る作戦を発動した。しかし、加藤清正や黒田如水の妻子が逃亡、さらに細川忠興の正室である細川ガラシャが、人質に取られることを拒否し、細川邸に火を掛け自害[25]するなど失敗に終わった。」 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E3%83%B6%E5%8E%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84 ここより引用 逃げたかったというよりは、反乱に至る危険性を下げるための政策として「妻子の人質」政策が取られた。 生々しい政治の世界で「○○かもしれないしぃ」というのは考慮されない。 実際に、人質にしようとしたら逃げられて、反対勢力になった。という関ヶ原の戦いの経験値はでかい。
お礼
そうだったんですね。ご回答ありがとうございました。
お礼
江戸時代260年を一括りで考えちゃいけませんね。そういうことでしたか。どうもありがとうございました。