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人が生きる意味
人が生きる意味とは、「自分が存在していることを確認すること」 だと思うのですがどうでしょうか。 また、このようなことを考えている先人がいたら、教えて頂けないでしょうか。 以上、よろしくお願いいたします。
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意味には主観的な意味と客観的な意味があると思うんだよね。 客観的な意味は主として言語学でいわれることで、言語は社会的な規範だから、自分勝手に意味づけることはできない。 もちろん、自分勝手に「猫」のことを「犬」といったって良いわけだけど、それだと他人とコミニケーションできない。 他人とコミニケーションを取ろうと思ったら、否応なしに規範に従わざるを得ない。 それに反して、人生に客観的な意味があるかといえば、そんなものはなくて、各人が自分の価値観で人生を意味あるものとして意味づけてゆくより仕方がないものです。 他人に私は人生の意味はこのように思うから、あなたもそのように思いなさいといっても、他人は他人で違う価値観があるから、そんなことは余計なお世話で、私は私で自分の人生の意味は見つけるといわれるに決まっています。 「人が生きる意味とは、自分が存在していることを確認すること」といわれてもすぐには人生の意味が見つかるわけでもないし、各人が自分の人生経験とかキャリアなどから総合的に考えてゆくより仕方がありません。 そうして見出した私なりの人生の意味を他人に押し付けるわけには行かないし、私は私で人生の意味を見出し、他人は他人でそれぞれ人生の意味を見出す、そこに共通の意味がなくても仕方がないのではないでしょうか? もし、人生に客観的な、誰でも妥当する意味があるとしたら、それに従わらざる得ない自分というものに私は釈然としないものを感じるでしょうし、他人に強制されたくないという感情を抱くでしょう。 自分の人生なのだから、自分の好きなようにさせてもらいたい、他人に勝手に意味づけてもらいたくない、という反発心も湧いてこようものです。 だから、友人が人生の意味はこうなのよ、といって私に教え諭すようなことを言ったら、私は、そうね、その通りだわね、と賛同する振りをして、内心、余計なお世話だわ、と舌を出すでしょう。 人生の意味がただ一人自分にしかないとしたら、それはひじょうに寂しいことだから、それに真から賛同して一緒に人生を同じ価値観で歩んでゆける伴侶が見つかって、共に同じものに喜びを見出して生きてゆければ最高だけれども、そんな僥倖は滅多になくて、たいていは他人の価値観と自分の価値観が違って相克を引き起こし、離反してゆかざるをえないのが人生です。
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- ふじ-さん おたま-さん(@OtamaFJWR)
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私もNo.11さんと同じく、この回答は、 ーーー 生きる事の本質的目的は、人生を通算した充足量の最大化(生理的拡大×欲求の強さ×それを「人生通算での最大」にコントロールする認識力×その達成度×それを把握する認識力)に収束します。 ーーー であると思います。 みなさん、ご存知ないでしょうが、彼が言っているのは「社会進化の移行 = 現代」という意味で、4000年前の貨幣制度の発明から「ヒト型進化」から皮肉にも「アリ型進化」へ移行している、という【大問題】で、もしアリ型進化へこのまま移行すれば、ヒトという個体の認識力は希薄化し、反射的に生きるだけの個体となる。【認識できなくなる=宇宙の終焉】、を意味する事に、この星の住民は、愚かにも気付いていない。 No.11さんは、過去に自分のお仕事で「社会進化の研究」で、世界中の研究者と競い合った経験がある。実に羨ましい話である。。。
生きる意味を感じられるのは、人が個であるがゆえに ではないでしょうか。 「すなわち生は認識者の実験場であってよろしい。」 「生は危険と勝利の一世界であり、その世界において、 英雄的感情というものも、その舞踏と闘技の場を持 っている」 と、書いたのは、ニーチェである。 ニーチェは、「生はその認識の一手段」 という命題について、次のようにも書いています。 「この根本命題を、心に収めて、ひとはただ果敢にだけ ではなく、悦ばしげにさえも生き、そして悦ばしげに 笑うこともできる。」 (悦ばしき知恵) すごい先人がいたもんですねえ。驚きました。 そこで私も考えてみました。 例えば、世界中の人々を認識しながら行動しようと すれば、何もできなくなってしまい、生きる意味 なんて感じないだけでなく、人に迷惑をかけるだけ。 認識が崩壊して、頭の中がヱヴァンゲリヲンを認識 するようになったりして、人類を原初からやり直す とか言い出したりするのではないでしょうか。 そんなことになるくらいなら、クレーンゲームで Wiiをゲットする方法を考えていたほうがましです。 しかしあのビー玉、重すぎて取れません。 なんとかしてほしいですよね。
>人が生きる意味 意味:内容、意義、ねうち、理由 ということで私なりに考えてみます。 ”人間が生きる理由は、自分が存在していることを確認すること” ”人間は生きているうちに、自分が存在していることを確かめることが出来たら 大成功だ!” まあ、そんな意味のことを仰っておられるのでしょうか。 なんだか分かるような気がします。”自分が存在している”なんてことは、字義通り考えたら”当たり前だろ!”とも思いますから、つまり単なる存在ではなくて「大いなる存在」にならねば存在しているとはいえない、つまり世間に名を残すとか、大きな永続する会社を設立するとか、大きな石つくりの建物なんかを作って後世に残すとか、そんなことを考えておられるのかもしれませんね。つまり 世間的な成功を収めることが生きる意味になる、と仰るのでしょうか。 それはひとつのしっかりした考え方だとわたしも思います。 そういう解釈なら、おおむね一般的な考えだと思います。 世俗的な哲学だといえます。 貴方の思いとちがっていましたら申し訳ありません。
- 0fool0
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貴方がそう考えているのです。 貴方の考えは誰にも判りませんし、その逆も同じでしょう。 貴方と同じ考えの方は過去・現在・未来において沢山いるでしょうし、その逆の方も沢山いるでしょう。 貴方が自身の人生の意義をそこから見出す事が出来るのならば、突き詰めてみるべきでは? 先人がいなければ捨ててしまうような考えなら捨ててしまうべきですし、捨てられないなら先人は関係有りません。
- veradico
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>人が生きる意味とは、「自分が存在していることを確認すること」 だと思う >このようなことを考えている先人がいたら、教えて頂けないでしょうか。 意味のある点ですよね。 後者の点は,哲学者「デカルト」の「方法序説」の「我思う、ゆえに我あり」が 何かの参考になるかもしれません。しかし,「人が生きる意味」の答えとは, 別の次元の話しのように感じます。 「人が生きる意味」の点は,私はこう思います。 (1)「生きる意味を探そうとする気持ちを持つ人間がいる」ことに答えがある。 (2)しかし,その人間が,いずれ死すべきものになっている点が,答えを見出す 障壁になっている。 (3)人間は,同情心や倫理観あるいは創造性などの点で,非常に高い精神性を表 せる素質を持っている。これは,動物から進化したという「説」では証明できず, 「人間の由来は,人間より高い存在者から与えられた」と考える理由になり得る。 (4)「人間より高い存在者」は,人間を含むさまざまな「命」の源泉であり,人間に 生きる目的,生きる意義を与えたはずだ。だから,人は生きる意味を考えようとする。 (5)人間世界は矛盾と悪と死に満ちている。しかし,自然界は,太陽は昇るし, 美しい花は咲くし,渡り鳥はその季節にちゃんとやってくる。だから,人間の生き 方の決め方,要するに,自由意思の部分に,生きる意味を見出す障壁となっている 何かがありそうだ。 (6)だから,「どうせ死ぬんだから,意味なんて考えても仕方ない」と考えるか, それとも,人間として生きる意味の答えを探し続けるかは重要だ。そうでなければ, 人間は,理性のない動植物よりも虚しい存在になってしまう。 結論:人間として生きる意味の答えを探し続けることは重要 ちなみに,「意味」または「意義」は,以下の辞典の説明を参考にしています。 ●価値。重要性。 (大辞泉) ●そのものでなければ果たす(担う)ことの出来ないという意味での、 存在理由。 -〔=そうするだけの価値〕の有る人生 (新明解国語辞典)
- 雪中庵(@psytex)
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物質に「目的」はありません。 しかし、その「無目的=エントロピー増大」は淘汰となり、持続的な情報保存体である遺伝子において、二次的に進化を導きます。 「いや違う!」と主張する事は可能ですが、厳しい生存競争の中で、生き残るために努力しない個体の遺伝子が次世代に伝わり、種の形質となる事はなく、進化は常に、「生きる事」を目的とするよう導くのです。 (あなたが死にたいと思っても、死ねばそのような形質は遺伝せず、やはり全体は「生きよう」とする) 一方、どのような行動も、本質的には任意=意志の充足であり、「意志の充足じゃない」というのも一つの意志として、精神的充足の追及という方向性から逃れることはできません。 生きる事の本質的目的は、人生を通算した充足量の最大化(生理的拡大×欲求の強さ×それを「人生通算での最大」にコントロールする認識力×その達成度×それを把握する認識力)に収束します。 「精神的充足感のため」というのは、刹那的な快楽主義に帰結するのではなく、最大限の大きな目的、最大限の愛と、最大限の認識を兼ね備えたものになるのです(短絡的な快感の帰結は麻薬だが、それが最大充足でないのはご存知の通り)。 であるならば、人が生きるのは、物質的豊かさのためではなく、精神的充足感のためであり、人が働くのは、お金をもらうためではなく、助け合い=愛のためです。 生物として、「生きること」が唯一の目的であるが、社会生命=助け合うために集まっているものとしては、働くことが生きること。 しかし今、そうした「他人を助ける」=愛のために働いている人が、どれほどいるでしょう? 人がとらわれているのは、“お金(や、その源泉としての出世)”という虚構の価値であって。 原始共産制の助け合いから、組織が分業化&拡大する上で、人の意識の社会性を発達させずに、お金や権力といった“馬車馬の目の前のニンジン”で、他律的に社会行動をとらせる道をとったのです。 お金は、本来助け合うために集まったはずの社会において、自己チュー的な意識のまま社会行動をとらせるための“矯正具”として発達したものなので(社会生命として生きる事である労働(助け合い)を、お金をもらうために嫌々働く)、当然、自由意志を束縛する機能があります。 本来、社会的生命として助け合うために集まっている人々をして、弱肉強食のジャングルに変える、悪魔のツール。 要するに今の人は、自ら喜び(自己存在の本質に根ざした生)に目をそむけ、他律的生=「苦痛から逃げる事による生」に堕しているのです。 (「助け合う喜び」から「奪い合って勝つ喜び(幻想)」への変質)
- Mokuzo100nenn
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人一般が生きる意味、それが客観的に有るわけではありません。 貴女一人が生きる意味も、客観的には無い。 ですから、貴女の主観が重要。 意味がある(=重要である)と思うなら、それで良い。 意味がない(=重要でない)と思うも、良し。 われ思う、故に我あり、ってのはパスカルだったかな? これで良いのじゃないでしょうか。これで充分ではないでしょうか。
- customar
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デカルト(思想家・数学者)あたりじゃないの? 数学カテゴリで数学の得意な人らの意見でも聞いてみたら。 自分が存在していないかも知れないという疑問の否定!に立脚した偉人でしょ。 仏教は確認どころかこの世は無(-価値)だってんでしょ。 私個人は両方とも大昔にそういう考え方や関心事は遠慮させてもらうことにしましたけどね。 支持者は、一粒の飯も食わずにその思索をしてればいいんですよ。
- ukiyotonbo
- ベストアンサー率11% (91/788)
独房でも棺桶の中でも有意義に生きてゆけそうです。
それが、人間だけに課せられた(強いられた?逃れられない?)生き方。 あるいは、結局はそれしかできない。 ・・・という気がします。 ところで、先人ではないんだけど、 先日、加島祥造さんも同じようなことを言っているように思いました。 NHK10月19日 ETV特集「ひとりだ でも淋しくはない~詩人・加島祥造 90歳~」で。
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お礼
お礼が遅くなって済みません! ありがとうございました!