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ひとはなんのために
ひとはなんのために生まれてきて存在するのでしょうか? 自分は幸せになるため。人と人が繋がることで、その輪を広げ全ての命が幸せに暮らす為と思っています。 各々が自分の役目を見つけそれをする為。 そして生きている意味を見つける為に生まれてきたのだと思っています。 そして、本当は意味など存在しないと思っています。 だから自分で見つけて生み出すのだと。 皆さんはこの意見をどう思い、自分はどう考えていますか?
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人はなんのために存在するのか? なぜ、人は存在するために理由を求めるのか? そこで、存在するための理由、存在する意味を探す。 幸せになるため。愛する人のため。必要とされるから。精神や魂を磨くため。天国に行くため。欲望を満たすため。目標を達成するため。子孫を残すため。 色々あります。人それぞれの価値観、人生観によって回答は異なるでしょう。それだけ人生の価値は多様です。さまざまな、異なる価値があります。 しかし、生きてる存在は必ず、最後は死を迎えます。だったら、死ぬために生きているでもいいはず。生きるために生きてる、考えるために考えている…。 言い方を変えたら、問題を解決するために生きているとも言えると思います。腹が減ったという問題が出来た、そこでその問題をクリアするために食べる。わからないことに直面した。その問題をクリアするために誰かに答えを聞く。寒いという問題をクリアするために、服を着たり、ストーブを買ってきたりする。同じ悩みを繰り返えしてしまう問題をクリアするために、反省したり知恵を絞ったりする。感情に支配されたり、不安や妬みに襲われて心が苦しくなるという問題をクリアするために、悟りを求めたりする。 結局、意味や理由を見出すのも、その人次第です。見出しても、見出さなくても、同じ心臓の鼓動には変わりありません。だったら自己満足とも言えると思います。人間、意味を見出そうとしたら、なんでも意味付けをします。天体や、血液や誕生日にまで、運命付けをします。占いのことです。他にも、例えば、受験生にトンカツを食べさせたり…。^^; 視点を変えれば、天体の動きを見て、そこに法則を見出して、天文学に発展しました。 知を求め、賢哲を希求する、まさに哲学ですね。人が存在する理由は、進歩するために生きるとも言えると思います。科学や文明や文化がその表れであり、だから人は歴史を振り返る。 生きている意味。存在する理由。僕もなんだかわかりません。20代の僕は、本気で考えることもふとありました。そのとき僕は、自分のアイデンティティを認めてもらいたいのだなと思ったり、充実していないからそう思うんだなと思っていました。何かに熱中していたり、夢中になっているときは、そのような疑問が浮かばなかったからです。仕事で忙しくなってもその疑問から離れることができるけど、だけどそれは不純だなとも思いました。悩んで振り返り、知恵を得るときなんだなと思ったりもします。 僕の答えは、やはり「死ぬために生きてるんだ」と思います。つまり、死から離れて安全な中で生活しているから、人生が空しくなって、それに疑いが生じる。隙ができてるんだと思います。死や危険と隣りあわせなら、それと対峙してたら、心臓は高鳴り、とてもじゃないけど、悩む暇なんてないです。死や危険を避けることで精一杯。まさに闘いです。それは精神的な意味でもいいと思います。何もライオンと対決する必要はない。例えば、恋愛でもいいと思います。好きな人ができてどうするか。心臓が高鳴ります。オレはなんで存在してるんだろう?という疑問よりも、どうしたら想いを伝えることができるか考えると思います。 なんでもいいけど、要は充実しているかどうかだと思います。本気になってるかどうか。自分の人生に夢中になっているかどうか。それは、hosiboshiさんのご意見のように、生きる意味を見つけるため、でもいいと思います。哲学に夢中になっているのならば、それは人生に空しくなって、隙ができて疑いが生じるのではなくて、自ら空しさに挑戦しているのだと思います。いきづまらなきゃ、人生面白くないと思います。虚無を超え、創造する。それは、なんでもありだと思います。 人はなんのために生きるのだろう。なぜ、なんのためにそのような疑問を持つのだろう。疑問という問題をクリアするため?答えを得るため?しかし答えはあるのだろうか?わからない。それでもなお追い求める。それも生きる意味だと思います。誰だって未来のことはわからない。予測はできても、やはり未知です。答えがあるかわからなくても、未来に何が待ち受けているかわからなくても、それでもなお、人間は生き続けてきました。それはやはり、「わからない」からだと思います。何があるかわからない。答えがあるかもしれないし、ないかもしれない。それでもなお、生き続ける。ひたすら、自分の命を、情熱を燃やし続ける。爆発し続ける。それが人生だと僕は思います。
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賛同いたします。 生きていくことは、合致することである、ということでしょうか。鳥は巣立つのに、程よい風を待ちます。花は咲くときに、ちょうど良い季節を待ちます。そのように、リズム、タイミングと出会うこと、それを合致と言うのではないのかと、考えます。そして、鳥に翼が在るように、花に開花が在るように、生きる方向(生き方)を示す姿を、生き物はそれぞれ、自らに持ち合わせています。人間も、その、生きる方向を、兼ね備えています。 それは、ウェル・ビーイング、あなた自身を含む、生きた知恵でもあると思います。 そうして、魂の現存が生まれ、回帰するのでしょう。
お礼
ちょっと難しいですが、大変参考になりました。 ありがとうございます。
- yoh001
- ベストアンサー率34% (24/70)
hosiboshiさん、こんにちは。 僕達の体は60兆の細胞で出来ているそうですが、 その一つ一つが意識を持つ生命体であるようです。 それら細胞生命体が有機的にそれぞれの役目を持って、 一人の人間という上位の生命体に奉仕してくれています。 宇宙の生命体はどうやらこの「個」と「全体」の相互関係の繰り返しで成り立っているように思います。 空を編隊を組んで飛ぶ鳥たちの群れをボーッと眺めていると、 全体がまるで一個の生命体のようです。 僕達地球人という理性を持つレベルにまで発達した生命(魂)は、 自由意志を与えられたのですが、まだ未熟なため、 それを自己中心的に使ってしまい、 全体(地球という生命)に奉仕するという 自然な意識を忘れ去っているようです。 そのため、「地球さん」は重体のようです。 近頃の自然現象、社会現象を観ているとそう思います。 僕達生命は、人間という学習レベルを卒業したら、 hosiboshiさんが、潜在的?に意識しておられる、 ☆という体で体験学習するレベルになるのかも知れません。 個生命は無限に進化し、その進化に応じて より大きな役割と喜びが与えられてゆくのだと思います。
お礼
そういう視点でみるのもいいことだと思います。 私達はたくさんの細胞の働きによって活かされています。 少し働きの悪い細胞さんがいると、とたんに体調を崩してしまいます。 主として責任をもって、気持ちの持ち方を健康に保っていると、60兆の細胞の助けにもなるそうです。 地球のためにも私達が細胞として、出来得る事をしなければなりませんね。 地球も銀河のひとつの細胞なのかもしれません。 銀河もまた宇宙の細胞でしょう。 私達の世界はある世界からみると非常にミクロで宇宙は生き物の細胞のひとつかもしれませんね。 逆に私達の体の中にも無限の宇宙があるのかもしれません。 ご意見ありがとうございます。
- kobold
- ベストアンサー率62% (20/32)
>ひとはなんのために生まれてきて存在するのでしょうか? この質問は科学などでは答えられない質問であり、 哲学や宗教の範疇になると思います ですから一つの答を与えることは、 一つの哲学を作り上げることであり、 一つの宗教の教祖となることではないでしょうか >そして、本当は意味など存在しないと思っています。 >だから自分で見つけて生み出すのだと。 こう答えたのはニーチェでした 「ツァラトストラはかく語りき」などを読めば分かります 今のニヒリズムは100年前に予言したことです > 自分は幸せになるため。人と人が繋がることで、その輪を広げ全ての命が幸せに暮らす為と思っています。 > 各々が自分の役目を見つけそれをする為。 仏教はこういう考え方をしますよね 三界唯一心など いろいろ読んで論理的に納得できるものを探しています ちなみに今は、仏教の勉強中です
お礼
考えが行き着くトコロは同じなのかもしれませんね。 あなた自身がはっきりしなくとも自分なりに今考えているものがあるなら、お聞かせ願いたいのですが。
- Syo-ya
- ベストアンサー率31% (558/1780)
自然の支配者になるためです。 ・・と、いうと、語弊があるかも知れませんが、この場合の自然とは「自分の心」です。 自分の心を完璧に統治、支配して安定状態に達した人は、言い換えれば自然の支配者でもあるんです。つまり神仏です。 逆に、自分の心が、実際の自然と同様に不安定なままの人は、ケダモノ同然なんです。 私たちの肉体はケダモノの性質を持っている、不安定極まりないものです。 でも、だからこそ、それを統治、支配する人が自然の支配者なんです。 つまり、意思の力(意思エネルギー)の向上のために生まれてくるのだと想います。 実際に、ちゃんと躾された人と、そうでない人の人生を比較してみれば、自己を修することの大切さは理解できると想います。
お礼
なるほど、悟りを得るということに近いでしょうか。 大変参考になりました。 ありがとうございます。
- akamanbo
- ベストアンサー率17% (462/2680)
>ひとはなんのために生まれてきて存在するのでしょうか? 私も特に意味や理由は無いと理解しています。 我々が生きているのは結果に過ぎないのですから、「何のため」等考えるだけ無駄です。 考えるとしたら、せいぜい「何をしたいか」程度でありましょう。
お礼
まあ人間にできるのはそのくらいかもしれませんが、生きていること、存在することの凄さに気付くとそれだけではもったいない衝動がでてきます。 ありがとうございました。
- peikan
- ベストアンサー率30% (3/10)
「楽しい想い出を数多く残すために生きているのだ」 貴方と同じ悩みを抱いたとき尊敬する方から教えていただいた 言葉です。ずいぶん前のことです。私がまだ若かった頃です。
お礼
悩んでいる時にその答えがもらえるとありがたいですね。 楽に受け止め前向きになれますから。 自分は悩んでいるわけではないので、少し意味合いが違いますが、それも人として正しい受け止め方と思います。 ありがとうございました。
- russy1
- ベストアンサー率11% (20/178)
私は、意味が無いものしか存在できないのだと思っています。つまり存在するということと意味や目的があるということは両立しないものだと思います。人間も、自分が存在することを知った時に意味がなくなりました。だからあなたの質問は永遠の問題ですが答えが無いから永遠の問題とも言えると思います。存在理由という言葉がありますが、存在と理由は両立しないものなので不思議な言葉です。
お礼
ありがとうございました。
人は何の為に~? それは永遠のテーマですね。 少し後に下がって遠目から見ると、親から生命を受け取りそれを次代に渡す、という命あるもの全てに共通する厳然たるテーマが人間においても又十分な目的たり得ると思います。 しかしそれだけでは地球上で特別に理性が発達した存在としてのおのれのプライドが傷つくので、プライドを満足させる哲学的な目的を持ち込まなければならないのが辛い所です。 その人の価値観・人生観によって生きざまは色々なので「私自身の存在目的は?」と限定して考えるより他はないと思います。だれにも支持される生き方があるのか、またあったとしてそれに意味が果たしてあるか? 突き詰めて考えれば考えるほど丁度ラッキョウの皮をむいて行くように行き着く場所が見つからずに漠然として来るのです。ですからほとんどの人が適当なところで思考をやめ、あいまいなままで自分を納得させる、もしくは「こんな生き方が出来れば快適だなぁ」程度だと思います。そしてそれが現実的で、しかも健康ですらあると思います。(といいますか、私が哲学的存在でないだけか?) そのように回り道をして元に戻ってみると、最初に書いた、単に生命を伝えて行く大きな歯車の一部品だと言う取るに足りない「生きる目的」が妙に幸せで暖かいものに見えて来ませんか。
お礼
とてもわかりやすく暖かい丁寧な意見をありがとうございます。 人と人が繋がることで、その輪を広げ というのは人の命をつないでいくという意味も込めたのですが、舌足らずのようでした。 ついでに全ての命も人間 動物に限ったものではありませんので。 だれにも支持される生き方があるのなら、心をひとつにより多くのエネルギーをという意味で意味があると思います。 生命を伝えて行く これは取るに足りない生きる目的とはとても思えません。人間の全てであってもいいと思います。どれだけ大きな歯車だと思いますか。ここに存在するだけで、どれだけの縁が必要だと思いますか。存在するだけでいいのです。食べることでも話すことでも出会うことでもどれだけの命と繋がって生きているのでしょう。 ましてひとりの子孫を残すなどとても大きな事です。ひとつの宇宙を作るのに匹敵するといえると思います。 逆に全てが取るに足りない小さなことと考える程、宇宙の広がりがわかり、私達の存在が貴重なものとして濃く浮かび上がってきます。
お礼
天体や、誕生日にはちゃんととてつもなく深い意味があります。まだまだ探求の余地もあると思います。それすら意味のないと思うひとにはそれ相応の意味しかわかりませんが。自己満足しなければ、果てはないです。 トンカツはゲンかつぎですね。日本人は昔から大切にしてきました。風流な言葉遊びです。 確かに死ぬ為に生きていますが、それはしたくないですね。死を受け入れることをしたくないです。できれば生きて生きて生き抜きたいです。すくなくともなにか納得して、なにかを繋ぎ成仏したいですね。まあそんなもん関係なしにやってくると思いますが。あがけるだけあがきたいですね。 確かに死が目の前や近くにあると、生き生き輝きますが、それは死にたくないから必死で生きようとするからです。 死が身近にあれば精神的にいい これはバランスですね。安穏とした生活なら刺激が必要でしょう。でも死を身近におけばいいというのは・・・ 武士の考え方など高いレベルの高尚な考え方ならそうでしょうが・・・ あなたの感じでは毎日を一生懸命の意味合いだと思うのですが・・・死を軽々しく口にだすのはあまり好きではありません。生きている実感を得る時ですが、・・・すいません死ぬことについてはうまく言えません。生きることを考えた時考えなくてはいけないことですが、言葉では書けません。それが身近にあることを忘れてはいけませんが、自分はちゃんと納得して死を迎えるために生きているんだというのが精一杯です。毎日たくさんの生き物が死んで、それの上に自分の命があることを、自分達はどこまで実感しているのでしょうか。 恋愛はいいですね。この時は自分の生命がフルに燃えているのをかんじます。感じない時はツライですが。 論よりもっと大切なものがあることを感じました。 長文ありがとうございました。 なんだか失礼な文ですね。意味も正しく受け取っていないと感じるトコロもあるでしょう。すいません。