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輪廻転生はあり得ない
輪廻転生は あり得ない。ですよね? 同じ遺伝子を持った人間が 過去にいるわけがないから。
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- NemurinekoNya
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《輪廻》を意味するサンスクリット《saMsAra》には、いろんな意味がありますから。 http://spokensanskrit.de/index.php?script=HK&beginning=0+&tinput=saMsAra&trans=Translate&direction=AU 《生まれ死に変わる》という意味だけではありませんから・・・(ニコニコ)。 え~と、 《saM-sR》からできる言葉ですので、 sam:together sR:go→gam と考えれば、 《般若心経》の有名な《オマジナイ》 波羅僧掲帝(はらそぎゃ~て~):pAra-saM-gate(ぱ~ら・さんがて~・完全に、ともに〔彼岸に〕行った) の意味かもしれません。 ここに、《saMsAra》の本質があるのかもしれません。 ここは勇気を出し、顕教的視点を捨てさり、 《密教眼・密眼》をもって、《saMsAra》を読む!! 《ともに、お手々をつないで、到彼岸》ことこそ《saMsAra》の本当の意味に違いない!! 大乗の極意が《saMsAra》に隠されているに相違ない。 さらに、 《saMsAra》には《world・世界》の意味があるので、 即身成仏偈の 《重々帝網なるを即身となづく》 が表明されているに違いない。 しからば、 《saMsAra》の本義は、《即身成仏》の義に他ならない!! 《saMsAra》から、いわゆる《輪廻》の意味は捨ててもよく、これを《即身成仏》の義とする。 ネコの《密眼》は、こんな結果をはじき出しました!! けれども、 いかが?
- NemurinekoNya
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こんばんは。 わたしは、仏教で広く一般に説かれるかたちの輪廻説を信じていません。 荒唐無稽なファンタジー、空想物語だと思っています。 ですが、 輪廻を否定する気にもなりません。 生き物が死後、他の生き物に生まれ変わるかどうかということは、 科学の範疇外ですし、 科学で輪廻の存在を否定も肯定もできない、と考えています。 ですから、 輪廻は《信》に属する部分だ、と言っているのです。 ただ、 《輪廻》説が宿命論、運命論などになれば、 それは、仏教の説く《輪廻》説から逸脱している、と言います。 その誤りを指摘します。 そして、 広く一般に信じられている《輪廻》説が古くさく、使いものにならないのなら、 《輪廻》説本来の考え方から逸脱しない範囲で、リファインされてもよい、 とも考えています。 輪廻説を方便や比喩ととらえてもよいでしょう。 人間は、悪魔にも、神のごとき存在にもなれる、未完成の発展途上の存在である。 (だから、ガンバレ!!) ───キリスト教的に言うならば、悪魔と天使の間を絶えず行き来する存在、とか─── 輪廻説の主張は、つまるところ、こういうことなので、 そんなに目くじらを立てて、輪廻説を否定なさらずともよろしいのでは? 生まれ死に変わることに重点が置かれているわけではないので。 輪廻の期間を人の一生と限定し、 その中で人は、何度も死に、新しく生まれ変わる。 このような輪廻観があってもいいと思いますよ、わたし。
お礼
こんにちは。ご回答をありがとうございます。 次のくだりですね 問題は。 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 生き物が死後、他の生き物に生まれ変わるかどうかということは、 (あ) 科学の範疇外ですし、 (い) 科学で輪廻の存在を否定も肯定もできない、と考えています。 ですから、 (う) 輪廻は《信》に属する部分だ、と言っているのです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ (う)の根拠は (あ)ですよね。 (あ) 生き物が死後、他の生き物に生まれ変わるかどうかということは、科学の範疇外であるか? やっぱりまだ疑いが残ります。 ( あ-1 ) 《科学の範疇外》とは どういうことか? ( a ) 科学によっては知り得ない ( b ) 知り得るかどうかにかかわらず 知ろうとしなくてよい ( c ) 科学が知ろうとしてはいけない ☆ ( c )はあり得ません。( b )は けっきょく知ろうとする人間は出て来る。ので そんなことは言っていられない。 (あ-1-a ) 生き物が死後、他の生き物に生まれ変わるかどうかということは 科学によっては知り得ない となるようです。 でしたら 問題は こうなるようです。 (え) 人間が死後ふたたび生まれ変わるという命題について その生まれ変わりには 同じ DNA の者はいない。ここまでは 科学によって知り得ることだ。 ☆ このことの確認をもとめている。のが この質問です。 また (え)の意味に関する限りで (え‐1) 同じ DNA をもって生まれ変わるという意味での輪廻転生は あり得ない。 (お)◇ 輪廻説を方便や比喩ととらえてもよいでしょう。 ☆ これは もともと文学的な表現のあやとしてみとめられると言って来ています。 (か)◇ 生まれ死に変わることに重点が置かれているわけではないので。 ☆ これは そうではないと思います。《死んでは生き 生きては死に その生まれ変わるを繰り返す》のが 輪廻転生だと考えられるからです。 (き)◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 人間は、悪魔にも、神のごとき存在にもなれる、未完成の発展途上の存在である。 (だから、ガンバレ!!) ───キリスト教的に言うならば、悪魔と天使の間を絶えず行き来する存在、とか─── 輪廻説の主張は、つまるところ、こういうことなので、 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これは 受け容れられません。《生まれ変わる》が抜けている輪廻転生説は これまた あり得ないと思われます。 ▲(ヰキぺ:輪廻転生) 死んであの世に還った霊魂(魂)が、この世に何度も生まれ変わってくることを言う。 ▲ ( goo 辞書:輪廻転生) ~~~~~~~~~~~~~ http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/idiom/%E8%BC%AA%E5%BB%BB%E8%BB%A2%E7%94%9F/m0u/ 人が生まれ変わり、死に変わりし続けること。 ▽ 仏教語。「輪廻」は車輪がぐるぐると回転し続けるように、人が何度も生死を繰り返すことを指す。「転生」は生まれ変わること。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ですから ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 輪廻の期間を人の一生と限定し、 その中で人は、何度も死に、新しく生まれ変わる。 このような輪廻観があってもいいと思いますよ、わたし。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 現段階でそのようには捉えられていません。そして そのようにあたらしい定義に変えようとするのは おそらく《一生を超えて生まれ変わり 死に変わりしつづける》という部分があるか無いかで おおきな違いがあるので どちらかひとつの定義にする必要があるものと思われます。 もし《生まれ変わり 死に変わることを ひとの一生のあいだという時間に限る》ということであれば まづ《転生》という言葉は 死語となります。 そしてそのようなあたらしい定義での《輪廻》は けっきょくおそらく《われに還ること。われに立ち帰って自己を知ること》であるとか あるいは《自己到来・自己還帰》であるとかの用語で言われていることと同じではないかと考えられます。
- 0fool0
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生まれ変わった記憶がありませんので、わかりません。 ちなみに生まれ変わりとは肉体の復活の事ですか? 別の親(他人ですね)から、かつての遺伝子配列で生まれたら、大変です。 前提が違うと思います。 同じ肉体に回帰しない限り、輪廻転生で無いと言うなら、その通りだと思います。 でも生まれ『変わり』って言いますね。
お礼
0ふーる0さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 ★ 同じ肉体に回帰しない限り、輪廻転生で無いと言うなら、その通りだと思います。 ☆ 《身と心〔および プラス・アルファ〕》なる人間の存在が 同じひとりの人である《わたし》として 一生だけではなく 二生も三生もと何度も生まれ生きることがあるのか? という問いです。 どうですかね。 あぁ いえ。そういう輪廻転生は あり得ないですよね? と問うています。
- daidou
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はて? 輪廻とはDNAの同一性とは関係ないものであるはずです。 そもそも、人が人に生まれ変われるという保証すらない。 来世は犬猫かもしれないし、虫けらかも知れない。 輪廻転生は、肉体が滅んでも自我が存在を続け、他の生き物として生まれ変わるという事。 もちろん、記憶とか経験は失って白紙状態に戻った上で、ですね。 自分が自分であると認識している意識。 これが記憶とか経験値を完全にリセットされて、別の筺体で初めからやり直すっていうのが輪廻転生です。 DNAは筺体の設計図ですから、別に同じである必要はありません
お礼
だいどうさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 ★ 輪廻とは DNA の同一性とは関係ないものであるはずです。 ☆ でしたら その《生まれ変わり》であることが どのようにして分かるのでしょう? 別人に成っていたら 生まれかわりとは言わないでしょう。 ▲(ヰキぺ:輪廻転生) 死んであの世に還った霊魂(魂)が、この世に何度も生まれ変わってくることを言う。 ▲ ( goo 辞書:輪廻転生) ~~~~~~~~~~~~~ http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/idiom/%E8%BC%AA%E5%BB%BB%E8%BB%A2%E7%94%9F/m0u/ 人が生まれ変わり、死に変わりし続けること。 ▽仏教語。「輪廻」は車輪がぐるぐると回転し続けるように、人が何度も生死を繰り返すことを指す。「転生」は生まれ変わること。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ★ 肉体が滅んでも自我が存在を続け ☆ 《自我》などというええ加減なことを言わないでください。 【Q:自我という概念はない】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8323505.html であるはずです。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 自分が自分であると認識している意識。 これが記憶とか経験値を完全にリセットされて、別の筺体で初めからやり直すっていうのが輪廻転生です。 DNAは筺体の設計図ですから、別に同じである必要はありません ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《 DNA は筺体〔だけ〕の設計図です》か? ★ 《自分が自分であると認識している意識》・・・が・・・別の筺体で初めからやり直す ☆ この《意識》が 《自我》のことであるらしいですが そうだとして その意識ないし自我が 《同じ人間としてのわたし》であることを・つまり生まれ変わりであることを 自覚させているのでしょうか? つまりそのとき 遺伝子が違っていても その意識ないし自我があれば 同一の自分であると分かるのでしょうか? ところで あなたは 過去の人としては 誰だったのでしょう? 《記憶とか経験値を完全にリセットされて》しまっているから それは分からない のでしょうか? それとも分かりますか? これ以上は おつきあいしたくありません。
補足
ひょっとして 《別人になって生まれ変わることはありうる》ということなのですかねぇ。 でも それでは 《自分が自分であることの意識》も 別人として成り立っていることになってしまう。
- NemurinekoNya
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われわれの体を構成する細胞は、物質の交換を行うことによって、時々刻々変化しています。 DNAも、細胞の分裂による複製ミスなどが起き、情報内容が変化しています。 放射線を浴びたりしますと、遺伝子が損傷したりもします。 修復に失敗することもあれば、修復ができないこともあります。 さらに、分子・原子レベルで見るならば、電子の交換などが起きています。 数字は忘れてしまいましたが、数ヶ月ほどで、肉体を構成している物質は、完全に入れ替わってしまいます。 物質レベルで見た場合、自身の同一性を示す根拠を見出すことができません。 仏教の《諸行無常》を持ち出すまでもなく、 これは科学が教えてくれることです。 であるならば、 自身の同一性の根拠を《こころ》に求めるしかないでしょう。 経験的に、《わたし》は《こころ》と《肉体》にしか存在していないのですから。 その《こころ》も、日々刻々変化している。 同一の《こころ》はない。 《こころ》に同一性の根拠を見出すこともできない。 記憶すら変化する。 にもかかわらず、 われわれは、自己は恒常不変なものと考える。 恒常不変なる自己の存在を仮定する。 心身ともに同一でないのに、 そのように概念設定する、仮設する。 それが、そもそも、間違いのはじまりである。 現代的にリファインすると、 こんな風に仏教は考えます。 あるのは、過去の因の結果である、現在の《からだ》と《こころ》である。 それほどメチャクチャな話ではないと思いますが・・・。 ☆☆ ですから わたしならわたしの前世の人間は分かるかという問題ですから。《心》が生まれ変わったところで 人間存在がそうなったとは言えないでしょう。 ◇ご紹介したNO13の証明(?)は、そのようなことをいっていませんよ。 この証明が主張しているのは、《こころ》は連続している、ということです。 ───この証明は、ゼノンのパラドクス、《アキレスとカメさん》を内容的に含んでいます。しかも、人間は、緩慢に、ユックリと死んでゆく!!─── そして、 《こころ》は、常に変化しているわけですから、前世の自分がどうであったかを、忘れても不思議ではないでしょう。 自身の死という衝撃的な場面に直面し、記憶喪失に陥ったのかもしれません(わらい)。 さらに、科学を借りますと、《記憶》は物質の形で脳の中に蓄えられています。 死んで、物質性を失っていますので、《記憶》の大部分が失われても、それほど不思議なことではないでしょう(わらい)。 科学的なものを使って、何とでも言い逃れできますよ。 もっともらしい理屈をつけることができます。 ファンタジー・空想の部分ですから(わらい)。 と同時に、 科学的知識を使って、《輪廻転生》を否定できないことの一例になるのでは。 でも、 わたしが真面目にこんなことを考えていると誤解しないでくださいよ。 わたしは、《輪廻説》に対して、かなり懐疑的なのですから。 しかし、だからと言って、《輪廻転生》を積極的に否定するつもりもありません。 信仰に関わる部分ですから、《無根拠》でいいんじゃないですか。 わたしは、自身の科学的な立場から、《いのち》は一回性のものではない、という考えに強い共感をおぼえています。 水素やヘリウムなどが集まり、恒星となる。 恒星は、人間と同じように成長、老いの過程を経て、超新星爆発などを起こして、核融合で作ることができなかった鉄以上の重い原子を作る。 その爆発で生成されたものが長い年月を経て集まり、惑星ができる。 そして、恒星の残骸から、わたしたちの肉体が構成される。 そして、わたしもそう遠くない未来に死に、物質にかえり、その物質が新たな生命の体を構成する。 仏教の《輪廻説》とは異なりますが、わたしは、そこに《いのち》の連続を見ます。 《いのち》を愛しく感じます。 生き物の《いのち》の平等を見ます。 ということで、 何も仏教の《輪廻転生》説を、それほど、目の敵になさらなくてもよろしいのでは。 仏教の《輪廻》説は、《いのち》の平等の根拠の一つでもあるのですから。 《殺生》が何故いけないのか、その説明の一つになっており、 《不殺生》につながっているのですから。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ◇ 物質レベルで見た場合、自身の同一性を示す根拠を見出すことができません。 ☆ 《物質レベルで見た場合》は いまどうでもよいはずです。 ◇ であるならば、 / 自身の同一性の根拠を《こころ》に求めるしかないでしょう。 ☆ それでもよいですが 一般に納得され得ましょうか。 あるいは仮りにそうだとしても その《こころ》の前世・現世・来世というのは その同じであることが 証明され得ますか? ◇ 経験的に、《わたし》は《こころ》と《肉体》にしか存在していないのですから。 ☆ でも《経験的に》のほかにもプラス α があってそれを含めて《人間存在》を捉えるのは 《現実》だと思われます。 ◇ にもかかわらず、 / われわれは、自己は恒常不変なものと考える。 ☆ いえ。そんな大げさなことではなく 《信長》なる人物は その死後ふたたび生まれ変わって来ているか? という問題です。それだけです。戦国時代にその一生があった。そのほかに同じ信長が 二度三度とあらたに生まれて来ているのか? です。《恒常不変》かどうかは 問うていません。 ◇ 恒常不変なる自己の存在を仮定する。 ☆ 仮定していません。 ですから 《輪廻転生》を定義してくださいと言いました。輪廻転生が 転生と言うものだから それは無い。つまり生まれ変わりは あり得ないと言っているだけなのですから。 ◇ あるのは、過去の因の結果である、現在の《からだ》と《こころ》である。 ☆ ですから この《過去》というのは いま生きているワタシの生まれる前のいわゆる前世のことですか? もしそうなら それはない。あり得ないと言っています。 ◇ NO13の証明(?)・・・が主張しているのは、《こころ》は連続している、ということです。 ☆ ですからそれは 《輪廻転生》に当てはまるのですか? ◇ 《こころ》は、常に変化しているわけですから、前世の自分がどうであったかを、忘れても不思議ではないでしょう。 ☆ では やはり輪廻転生はあるという見方ですね? 前世の自分を《忘れても》かまいません。そんなことは どちらでもよいのであって 忘れても前世の自分がいて 現世の自分に生まれ変わっているというのなら それは 遺伝子が違うからには ひとりの同じ人間ではない。なのに どうして《信長》の生まれ変わりだと言い張るのか? こういう問いです。言えないはずだと言っています。 ◇ 《輪廻転生》を積極的に否定するつもりもありません。 ☆ 《同じ人間が過去にいたとは 考えられない》なら 《否定する》しかないのではありませんか? このことは 経験事象として扱っての科学知識です。 ◇ 信仰に関わる部分ですから、《無根拠》でいいんじゃないですか。 ☆ という取り扱いにはなりません。 ◇ わたしは、自身の科学的な立場から、《いのち》は一回性のものではない、という考えに強い共感をおぼえています。 ☆ いえ。それは・つまり《いのち》の問題は 経験思考を超えている領域にも伸びるのだと思います。でもこれは 輪廻転生とは関係しません。 ◇ 仏教の《輪廻説》とは異なりますが、わたしは、そこに《いのち》の連続を見ます。 ☆ ですね。輪廻転生は 証明され得ません。 ◇ 仏教の《輪廻説》とは異な ☆ る主題について論じても話は始まりません。《輪廻転生》は無い。あり得ない。という主題です。
- NemurinekoNya
- ベストアンサー率50% (540/1073)
こんばんは。 書き忘れましたが、横山紘一の記述は、彼の考えではなく、 今から1500年くらい前に書かれた『瑜伽師地論』と呼ばれる、瑜伽行派の百科事典のような書物です。 瑜伽師地論 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%91%9C%E4%BC%BD%E5%B8%AB%E5%9C%B0%E8%AB%96 1500年くらい前の著作ですから、 科学的知識には自ずと限界があります。 空想・ファンタジー的な要素が入るのは致し方ないのでは。 ☆☆ とは何か? 《神の霊》でよいですか? 非経験の場。非思考の庭。 ◇これは、《乾闥婆》(けんだっば)です(笑い)。 《ガンダルヴァ・gandharva》!! 《乾闥婆》状態だから、中有・中陰状態が終わるまで、《お線香の煙》を捧げるんです。 《乾闥婆》のご飯は、《香り》!! http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%AB%E3%83%B4%E3%82%A1 言葉がないので、《心霊》という言葉を用いましたけれど、 基本的に仏教では、 《こころ》を実体的なものととらえず、 《こころ》の諸作用の連続(としての相)としてとらえます。 現象的に、《相続》の関係で結ばれていると考えるので、 《霊》なる存在を立てません。 たとえると、 《こころ》とは 川みたいなもの。 ナイル川はあるけれど、その川の水の成分は、日々刻々と変わっている。 方丈記のこれ、 「行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。」 確かに、目の前にナイル川と言葉で指し示されるものはあるけれど、 それは概念設定されたもので、 実在ではない・・・。 で、 12世紀の『認識と論理』という本には、 ───────── 心というものはすべて、次の瞬間の心と結びつくものである。 死ぬときの心も、心にかわりはない。 (だから、死ぬときの心は、次の瞬間、すなわち、次生のはじめの心と結びつく。) ───────── と、三段論法(?)を用いて、《輪廻》の存在を証明(?)しています。 こうした考え方をするので、 仏教の論理の中では、 あるかどうか分からない《霊》なる仮定を採用しなくてもよい、 ということになります。 説明すると、面倒くさいので、 《霊》という言葉を使いましたけれども。 この証明(?)を破るのは、意外に難しい・・・。 だって、 この証明(?)は《アレ》と同じだもの!! わたしは、 口が裂けても、 《アレ》が何であるか、 申し上げませんけれども(ニコニコ)。 ちなみに、仏教にも《jiva・命》という言葉がありますけれど、 これは、《霊》や《いのち》とはまったく違うものなので、 そこのところ、よろしくお願いします。 ☆☆ はあると言えるでしょうか? いや やはりダメでしょうね。そう思うのは自由だとしても では過去の誰の生まれ変わりなのか? ◇水の中身が変わっているように、別人ですよ。 わたしだって、日々刻々、中身が変わっているのですから、 一瞬前のわたしと、今のわたしが同じものであるとは言えない!! 同一であると考えるのは、 《ドグマ・独断》に過ぎないのでは(ニコニコ)。 同一性なんてものを仮定するから、おかしなことになるのでは? ここでさりげなく、 ライプニッツの《不可弁別者同一原理》を提出する。 ───────── ライプニッツは、識別できない2つの個体はないとする不可識別者同一の原理を立てた。この原理は、Xのもつ全ての性質をYがもち同時にYがもつ全ての性質をXがもつとき、X=Yが成り立つことを示すものと解されている。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%8C%E4%B8%80%E6%80%A7 ───────── 一瞬前のわたしと、今のわたしは、 すべてが同じでないので、 同一ではない!!
お礼
ねこさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ◇ これは、《乾闥婆》(けんだっば)です(笑い)。 / ガンダルヴァ・gandharva》!! ☆ ですけれど それが どう生まれ変わりに関係しますか? ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 12世紀の『認識と論理』という本には、 ───────── 心というものはすべて、次の瞬間の心と結びつくものである。 死ぬときの心も、心にかわりはない。 (だから、死ぬときの心は、次の瞬間、すなわち、次生のはじめの心と結びつく。) ───────── と、三段論法(?)を用いて、《輪廻》の存在を証明(?)しています。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ですから わたしならわたしの前世の人間は分かるかという問題ですから。《心》が生まれ変わったところで 人間存在がそうなったとは言えないでしょう。 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~ 水の中身が変わっているように、別人ですよ。 わたしだって、日々刻々、中身が変わっているのですから、 一瞬前のわたしと、今のわたしが同じものであるとは言えない!! ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ そういう問題ぢゃないぢゃないですか。《日々刻々 中身が変わっている》にもかかわらず ねむりねこにゃさんなら その人として 続いているではないですか。そういう人間が 生まれる前に 同じねむりねこにゃさんとして 存在していたことはあるのか? という問題です。あっても・つまりいたと言うとしても 遺伝子は違うのだから 同じ人間ではない。となります。 ◇ ~~~~~~~~~~~~~ 同一であると考えるのは、 《ドグマ・独断》に過ぎないのでは(ニコニコ)。 同一性なんてものを仮定するから、おかしなことになるのでは? ~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ぢゃあ 輪廻転生の定義をおしえてください。それにもとづいて話をすすめなくては話が成らない。 おそらくその定義においても ◇ ~~~~~~~~~~~ 一瞬前のわたしと、今のわたしは、 すべてが同じでないので、 同一ではない!! ~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ というような問題は扱っていないでしょう。生まれてから死ぬまでの一生としてひとりの人間です。その前と後に 同じ人間がいたかという話です。 いないからには 輪廻転生は成り立たない。こういう問いです。
- NemurinekoNya
- ベストアンサー率50% (540/1073)
DNAはタダの物質ですよ。 〔両親の〕肉体の遺伝的情報を伝えるための、タダの物質、化学物質。 そして、この遺伝的情報をもとに、肉体が作られる。 心霊的なモノの同一性と、 肉体の情報を司り、その同一性を維持するDNAとは関係ないのでは? よもや、 《DNA》に《こころ》の情報が書き込まれている、 とお考えではないですよね~。 とはいえ、 肉体と心霊的なモノとはまったく無関係ではない。 両者は、相互干渉するので、不可分の関係にある。 ところで、 いろいろと探したのですけれども、 なかなかいいのが見つからなかったので、 横山紘一著 『唯識の哲学』 平楽寺書店から引用します。 ───────── 「彼の中有に住する者が、同類の有情たちを見て、(彼らとともに)遊びたいと欲し、(彼らの いる)生処に行きたいという欲望を起こす。その時、母と父とが交会して出す精血(精子と卵子)に対して彼に間違った見解(顛倒見)が生じる。すなわち、この時、この顛倒者は母と父とが相互に邪行(交会)を行っているのを見るが、しかし、母と父とが邪行を行っているとは見なく、彼は間違った考えを起こし、それを自分が行っていると見る。そしてその邪行を見終って彼に貪欲が生じる。すなわち、もし女になろうと欲せば父に交会しようとする貪愛が生じ、男になろうと欲せば母と交会しようとする貪愛が生じる(中略)。 この時、恍惚となった母と父とは貪愛が激しい状態に達して精液を出す。 その後に各々、一滴の精血を出す。するとこの二滴の精血は母胎において結合し、あたかも熟した牛乳が凝結するように凝結した一つの固まりとなって存在する。そこに一切種子識であり、異熟所摂であり所依を執受する阿頼耶識が結合凝結する(和合依託sammūrcchati)。この濃厚な精血の固まりが生じ、同時に、この間違った見解をもつが故に中有が滅する。そしてその中有が滅すると同時に、かの一切種子(識)の功能によって他の微細な根と大種とが結合して生じ、および精血が固まって余の有根の彼同分が生じる。この状態に識が住した結合相続(pratisandhi)といい、また羯羅藍(こんららん)の位という。」 ───────── 死んでから再生するまでの間(中有)については、 http://tobifudo.jp/newmon/betusekai/shiu.html これを読むと、 人が死ぬと、 何で《お線香》をあげるかが分かります。 《お線香の煙》は《御飯》であった!!
お礼
◇ 心霊的なモノの同一性 ☆ ねむりねこさんが こういう概念を持ち出して来られるとは ちょっとおどろきです。 まづは ご回答をありがとうございます。 ◇ 心霊 ☆ とは何か? 《神の霊》でよいですか? 非経験の場。非思考の庭。 だとすると それは必ずしも《モノ》ではないですね。 DNA と同じようなモノではない。つまりは ぎゃくに言って 神の霊なのですから 神が全体としてひとつであるからには――それが たとえばブッダターとしてひとに宿ると言うときなど――けっきょく 誰にとっても《同一性》を持つ。とは言えるはずです。 でも 非経験ですよ。経験事象ではありません。 つまり じっさいには《同一性》であるかどうかなどは 分かりません。 ◇ 肉体と心霊的なモノとはまったく無関係ではない。 / 両者は、相互干渉するので、不可分の関係にある。 ☆ これは 主観内面における言わば神学の問題です。 《無関係ではない》と或る主観が感じ思えば その主観としてそのようであることが真実であると それとして なります。 つまりは言いかえるなら 《無関係だ》と或る主観が思えば その人の内にあっては そのことが真実となります。 つまり決まっていません。どちらでもありうる。のが 神の霊です。《相互干渉するかしないか》 これも分かりません。おのおの主観が 自由にえらぶ。それだけのことです。 そういう意味では ○ 輪廻転生 ☆ はあると言えるでしょうか? いや やはりダメでしょうね。そう思うのは自由だとしても では過去の誰の生まれ変わりなのか? と問うたとき その人を特定し得ないからではなく そうではなく たとえば信長が われの前世だと特定し得たとしても そのことの事実性は ゼロである。からです。遺伝子が違うのに 《同じひとりの人間》であるとは言えないからです。 ◇ 横山紘一著 『唯識の哲学』 ☆ の説明は ただの想像です。生まれ変わりではありません。
- 雪中庵(@psytex)
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輪廻転生があり得ないのと同程度に、外的存在性が 自我意識とは無関係に独立しており二次的に意識が 発生している、という現在のいわゆる「素朴唯物論」 もまた無い、という直感の反動が、輪廻転生という イメージに転化したのであろう。 色即是空や色心不二、物心一如といった経文に、 身の回りの短期的な意識、衝動的な充足に流されて、 即物主義的に流されがちな意識に対する警句が顕著 だが、その教えを補強する方便として、輪廻転生に おける因果応報が案出されたと思われる(毒を以て 毒を制す、ていう)。 大陸系の我の強い性格をして、社会性のタガにはめ るためには、強固な教義を持つ一神教という方便が 必要だった=迂闊に“科学的”にそのタガを外すと 社会的劣化を招く=より大きな科学的(社会全体の 幸福量の最大化)に間違っている事になる。
お礼
ご回答をありがとうございます。 (あ) ★ 外的存在性が 自我意識とは無関係に独立しており二次的に意識が発生している ☆ よく読み取れないのですが: (い) 《外的存在性》とは 何のことですか? 人間に属する或るハタラキでしょうか。 (う) 《外的存在性が 自我意識とは無関係に独立しており》――むつかしいです。《わたしの意志していない何かのことを その意識すらもなく ついやっちゃった》というようなことを言っているのでしょうか? (え) そのとき 《二次的に意識が発生している》とは どういう事態でしょう? 前項の振る舞いをやっちゃったとき そのあとで気づきますね。そしてそのコトについて意識する。その場合の意識を 《二次的に発生する》と言うのでしょうか? (お) ★ 現在のいわゆる「素朴唯物論」 ☆ (あ)の事態を そう呼ぶということですね。《素朴唯物論》とは 世の中はただモノからだけ成っているといった見方のことでしょうか。 (か) ★ 現在のいわゆる「素朴唯物論」もまた無い、という直感の反動 ☆ 《世の中は 色と金だといった見方》 これもまた無いと ひとは直感するのですね? そういう直感を持ったとき それでも目の前を色と金とが大手を振って歩いて行く。のを見る。そうすると 直感は持ったが それを保ち得ずに その反動として・その揺れ戻しそのものが ★ 輪廻転生というイメージに転化したのであろう。 ☆ ですか。 (き) ということは――そうだとして―― 元に戻ったという意味になりますね。輪廻転生ということを 世間ではしきりに言う。いやいや そんなものはあり得ないと判断した。ただしそうは意志を決めたものの 世の中のありさまは その意志を保ち得ないほど素朴唯物論が満ち溢れている。結果 その意志を持ったものの 揺れ戻しに遭ってしまった。つまりは 輪廻転生は 《イメージ》としてありうると思ってしまう誘惑がおそい これに負けた。 ――こういうことでしょうか? (く) どうですかねぇ。単純に 死んだあとも何度も生まれ変わるといった《思想》になじんだということではないのでしょうか? (け) ★ 色即是空や色心不二、物心一如といった経文に・・・(つまり 第二段落の全体) ☆ 《即物主義》すなわち 前後の見境なくそのときその場でのモノや利益を問い求める風潮は ひとつに世の中の一部の人びとだけだということ。もうひとつに その風潮は 《色即是空や色心不二》などの世界観によって素直なものに直されるとは思えない。のではないか? (こ) だからそのオシエを補強する必要があった。すなわち ★ その教えを補強する方便として、輪廻転生における因果応報が案出されたと思われる(毒を以て毒を制す、ていう)。 ☆ これは 或る程度じっさいにはチカラあったのではないかと考えられますが それでも基本的には・つまり理論としては いただけないと考えます。 (さ) つまり 《因果応報》の説は けっきょく そのとき・その場におけるワタシの思いや振る舞いが 過去からの悪因悪 果としても善因善果としても(あるいは無記の因果関係としても)その結果となっていると見ると同時に 未来に対して悪因悪果かつ善因善果として推移すると唱えたことになるものだからです。 (し) 意味がありません。 実際じょうチカラあったと見るというのは 当人がたとえば自分の振る舞いにかんして 善因だと思い込んだらその線でのみものごとを捉えるようになる。そして 善果を得れば やあやあ 因果応報説は すごい。えらいことを考えたひとがいるものだと言って 主観に都合のよいように解釈する場合があるからです。 (す) ★ 大陸系の我の強い性格をして、社会性のタガにはめるためには、強固な教義を持つ一神教という方便が必要だった ☆ ぢゃあ 《稲作農業をおもな産業とする社会にあっては 集団志向がつよいので 我は強くはない》けれども やはり《社会のタガをはめるため》に 輪廻転生および因果応報説を持って来た。という見方になるのでしょうか? (せ) それとも いや そうではない。農耕民のあいだでは むしろ《非科学的に》タガを外すのだから 違うという見立てなのでしょうか? (そ) つまり最後の段落は そのあと(それを言ったあと)全体としての世界観は どう整合性がつけられましょうか? (た) まとめとして 輪廻転生は そのこと自体 ありえない。けれども 世の中の社会力学(肩書やシガラミ)の作用する関係じょう 生まれる前の生や死んだあとの生というものが イメージとして人びとに持たれるような《人間のよわさとその気持ち》があるのだ。――でしょうか? (ち) 輪廻転生は ありえない。このことに同意していただいた。ものと思います。
- Masami_Fujii
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哲学的思考を持っていると御自身ではお考えなのですから、質問者自身で 証明してみましょう。そうすれば証明への第一歩となるでしょう。 こんなところで投稿するなんて無駄ですよ。隗よりはじめよと言いますし。
お礼
ご投稿をありがとうございます。 《こんなところで》油を売っていないで ご自分の研究にいそしむなり お金儲けにはげむなりなさってはいかがでしょう。
- ビート スクール(@beatschool)
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アイデンティティを輪廻転生に求める人もいるということでしょうか?
お礼
びーとすくーるさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 そうですね。質問者が得ている感触ですが アイデンティティまでのことは思っていないのでしょうね。 輪廻転生があると思っている人であっても そのような生まれ変わりがあり得るという想像そのものをたのしんだり あるいは ものの言い方に利用したりするのでしょうね。せいぜい そこまでではないでしょうか。 輪廻転生は 文学的な表現のあやであると――つまり それなら自由に使っていいでしょうから――言っていたほうがよいと考えての質問です。
お礼
こんばんは。ご回答をありがとうございます。 二点です。 サンサーラを輪廻と訳す限りでは 転生をともなった意味合いとして 捉えられがちです。ですから 輪廻( metempsychosis )という語は 用いないほうがよいかと思います。 もし用いるのならば 輪廻転生の意味ははっきりと捨てたという断わり書きが必要だと考えます。 もうひとつは サラティ( √sR )には 流れる( flow )の意味があり サンサーラには 《この世 secular life 》の意味があります。 ◇ 《saMsAra》から、いわゆる《輪廻》の意味は捨ててもよく、これを《即身成仏》の義とする。 ☆ ということは 《動態としてのさとり≒無住処涅槃≒実存思想》のことだと理解しますが どう訳すかは かなり重要になって来ると思います。 ですから そのときには 《輪廻転生は あり得ない》と言っていることになるかと思います。