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仏教の輪廻転生で転生するものは何ですか?

輪廻転生についてお尋ねします。輪廻転生で転生するものは何でしょうか? 魂なんでしょうか?いろいろな生き物に転生するようですが例えば同じ人間に転生したとします。人間Aが人間Bに転生したとします。その時にAとBで共通なものはなんでしょうか? 記憶、性格、知能などは同一ではないですよね。 何かの共通点がないとAとBは無関係な人ということなりはしないでしょうか? それからついでに日本の仏教では死んだ人はすべて仏になるのでしょうか? それとも仏になる人と輪廻転生する人に分かれるのでしょうか? それともみな輪廻転生しているのでしょうか?

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  • jack-a3
  • ベストアンサー率37% (302/797)
回答No.1

仏教の元となったバラモン教では、人間には永遠不滅の我(アートマン)が備わっており、それが輪廻すると考えられました。これがすなわち魂。 仏教にでは魂はないとされます。輪廻するのは意識であるとし、死ぬと意識は途絶えますが、輪廻したときに生まれる意識に引き継がれる、とされます。意識は魂ではないし、死後に霊魂が肉体を離れて漂うとか、生まれ変わった肉体に憑依するなんてことは否定されてます。 仏教において、死んで仏になる人は解脱した人のみです。解脱できなかった人は輪廻します。で、解脱する方法についていろいろな宗派ごとに異なってます。 おおざっぱに言って、鎌倉時代までの仏教では、いろんな修行や座禅で自分を高めることで解脱できると考えてました。 ですが、あるとき「ぶっちゃけ、我々凡人ではどんだけ修行しても解脱なんかできねーよ」って逆のほうに悟りました(笑) ここで、阿弥陀仏って仏さんがいます。この仏さんは「私は浄土という場所を作り、そこに迷える人を集めて指導することでみんなを解脱に導きます」って宣言することで仏になりました。 で、法然って人が「我々は自分だけでは解脱できない。だから阿弥陀仏の情けにすがって浄土に生まれさせてもらい、そこで修行することで解脱することを目指そう」と言い出します。これが浄土宗。で、浄土に生まれ変わる方法についてまたいろんな議論があり、浄土宗もいろんな派閥が生まれますし、また浄土真宗ができます。 浄土真宗は「南無阿弥陀仏」を唱えるだけで死後すぐに浄土に生まれ変わると説きます。教えが単純なのと、めんどくさい修行やしきたりがほとんどなく、布教のうまさもあって一気に広がり、日本で一番門徒が多い宗派になりました。 南無阿弥陀仏とは「阿弥陀仏を信じ、従います」という意味です。 なので、浄土真宗系を信仰して「ナンマンダブ」と唱えている人は、輪廻しないことになってます。それがいいのかどうかはいろいろ意見あるでしょうが。

stmim
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 なるほど転生するのは意識ですか。それは自分という気がしますね。 浄土宗では浄土で修行して輪廻からはずれるのですね。 輪廻から逃れたいとするならそれはいいですね。

その他の回答 (8)

回答No.9

不幸にも君は転生するんだよ。 転生するのは魂でもなんでもなく君そのものだ。 しかしそのためには君は死ぬことになる。 全財産没収だ。 そして裸で転生するんだ。 君の今回の疑問は、君が自分とは何かがわからないことに発している。 仏陀に昇華する悟りとは、まさに今期にないもので、自分自身を悟る自己の自覚だ。 君の死後、君は自らを忘れ、人からも忘れ去られる。 何も残らない。

stmim
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 アラブの大富豪の息子に転生したいと思います。 プライベートリゾートを開発して、優雅に過ごす夏の日 いいですね。プライベート豪華客船を船会社につくらせて世界を遊覧するのもいいかも。 カーギルとかカーネギーとか財閥の一族の子息でもいいかもしれないですね。 転生ということは、そういう可能性だってありますよね。

  • Tefu_Tefu
  • ベストアンサー率27% (87/322)
回答No.8

stmimさん お礼ありがとうございます。 >以前他の方が質問されていましたがスッタニパータで仏陀は地獄のことを詳細に述べています。あれは何なのか? バラモン教の信徒であった人々は、当時、輪廻転生を信じていたんだと思います。 こうなると、ある種の偏見を持った思想の人を説得するのは難しいのが誰にでも分かると思います。 信徒が信じていることを変えることは、ほぼ、不可能に近いと考えます。 そこで、ブッダは悪いことをした行いの代償として、それが、わが身に自己投影として思考の中入るにはどうしたらいいか考えた。 ブッダはバラモン教を熟知していたので、比喩として、地獄を説明したと思われます。 彼らは自分達が信じている地獄を語られたので、ブッダの説法を受け入れたのでしょう。 ブッダの考えは、偏見に苦しむ信徒を正しい思考に導くことで、自由にすることだったのでは。 これは、私達も利用できそうな有効な対機説法ですね。 対機説法 仏陀が教えを説示する場合,その相手の精神的能力 (→機根 ) や性質などに応じてそれにふさわしい手段で説法することをいう。比喩的な表現として「応病与薬」というのと同じ意味である。

stmim
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 なるほど仏教は方便的なやり方をするのですね。 ただ、なんかあの地獄の記述の箇所は違和感がありますね。 他の人が仏陀が言ったことにして書いたのかな、とも思います。

  • nToTn
  • ベストアンサー率28% (28/99)
回答No.7

まず、仏教の経典は、仏陀入滅の500年後に文章化されたものです。 それまでは、口伝(暗唱)で保存されていました。 また、文章化された後、長年に亘って様々な経典が、仏陀以外の人々によって、新たに追加されています。 つまり、現存している仏教とは、約2600年に亘る、いろいろな人の研究成果の寄せ集めということです。 さて、以下は、仏教ではなく、現代の「スピリチュアル」というものの考え方です。 比喩的な表現になりますが、魂とは、大きな魂が一つだけあって、そこから枝分かれしたものが個人の魂(のように見えるだけ)であるといわれています。 あらゆる生命の個々の魂は、その大きな魂一つに含まれている、同一の存在なのです。 人が死ぬと、枝が引っ込んで、枝の中身は、大きな魂に吸収されます。 人が生まれると、枝が出っ張って、個人(のように見える存在)になります。 しかし、枝の中身はあくまで、大きな魂の一部にすぎません。 そう考えると、いろいろな現象の辻褄が合うような気がします。 枝が出っ張るとき、その魂は当然、大きな魂の一部を使用しているため、その一部の記憶を含んでいます。 その記憶にアクセスできた人は、過去生を思い出したことになります。 その人個人にとっては、輪廻転生したように思えますが、それはたまたま、ある一部の記憶にアクセスできただけにすぎません。 人が死んで、大きな魂に吸収されれば、その人個人の記憶も大きな魂に飲み込まれて個人が消えてなくなるように見えます。 しかし、もともと大きな魂が一つあるだけで、個人の存在とは、自分が居るという思い込みや錯覚に過ぎないのです。 「悟る」とは、何らかの方法で、大きな魂へのアクセスを得ることです。 現代の「悟ったと自称する人」は、「自分は居ない」と口をそろえて言います。 この場合の「自分」とは、突き出た枝のことです。 突き出た枝(自分)は、大きな魂の一部に過ぎない、ということを、「自分は居ない」と表現するのです。 イエスにしろ、仏陀にしろ、万人に対する深い慈愛にあふれています。 すべての人、あらゆる生命が、一つの大きな魂と同一存在であることを悟れば、自分=すべての生命、すべての生命=自分、であるため、「自分を愛すること」=「万人を愛すること」、であるわけです。 別に無理して「万人を愛さなければならない」などと考えなくても、自然と慈愛にあふれてきて、「思わず万人を愛してしまう」のが当然なのです。 以上、私が勝手に、辻褄が合うと思いこんでいる内容ですが、いかがでしょうか? 仏教という、2600年前の常識の上に成り立った表現を、現代の常識で理解するのは非常に困難な作業であると思います。 仏教も現代のスピリチュアルも、全く同じ現象を、それぞれの時代のそれぞれの視点で表現しているだけのような気がします。 私自身は霊感など全くありませんが、身近にとんでもない霊感のある人がいたため、五感以外の第六感がこの世に実在するということを、信じざるを得なくなりました。 そして第六感の存在を踏まえて、宗教を盲信するのではなく、自分にとって辻褄が合っていると思える内容を、私は信じています。 ちなみに、私は、「宗教団体」が大嫌いです。

stmim
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 魂とは大きな塊がひとつだけあって自分たちはその枝の1つに過ぎないというのは興味深い考えですね。 仏教の輪廻転生では同時期に生きている他の人は他人ですが、魂が大きな塊と考えると他人も自分もその塊の一部ということで親近感が湧きますね。

回答No.6

stmimさん。 魂とか、人間が生まれ死んでいくということについての思いとか思索、或は直観認識が欲しいご質問ですね。 転生ってあるのかもしれませんが、前世の記憶を保持しているなんて言うのはあり得ないと存じます。 何故か、それは転生と矛盾する現象ですから。違う人生に生まれるのが転生でしょうから。 魂についても一定の見識なくして語っても童話みたいなものですね。 魂って個となった全大洋だと思いますので、その個は海表のさざ波の一つ一つでしょう。 だからそれを転生ということは言えます。 しかし同一個人とは言えない。 転生はあるが、波である個の形状型式に海水というか大洋が入っている状況ですから、その形状や型式が現れるだけでしょう。 私はそのように思っていますよ。

stmim
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 確かに毎日私の体の一部は尿や汗、二酸化炭素となって体外に放出されてそれらはいろいろなものに取り込まれて、生物の一部になったり、大地の一部になったりしていますよね。魂とはそれに近いものかもしれないですね。 ただ、私の体を出て行ったものはもはや私とは無関係な気がします。 そうすると転生があったとしても無意味なのかなと思います。

  • Tefu_Tefu
  • ベストアンサー率27% (87/322)
回答No.5

stmimさん こんばんは 輪廻転生しないで納得されたのでは? 全ての物は変化する、諸行無常と釈迦は説かれたと思います。 死後のことは、分からないから「無記」です。 「縁起と知彗」によって、悟ったのだと。 全ての物は無関係ではありません。人間も日々、新陳代謝によって身体を維持しています。 だから、物質は変化します。魂については、有るのか無いのかも分からない。 これから、人間の体は変化していると分かります。誕生→子供→大人→老人→死 人は自分の知識から、生老病死はどうにもならないと苦しみます。 でも、よく考えてみると、毎日、自分が変化していることに悩むのは人間だけではないのかと? だって、喜怒哀楽は人間を生かすための身体の仕組みであって、実際、鎮痛剤を使えば痛み等感じない。 天国や地獄も、観たこともないのに、ただただ、自分が今までに経験した痛みや喜びから想像しているだけだと。 人間の身体も親からの遺伝子を受け継いだ物だし、元を辿れば、単細胞生物の進化した物なんだと。 人間だけ変化しないっておかしいでしょうと。 まぁ そうは考えても、私は神はいると信じるのですが。 宇宙はエントロピー増大則のよると、混沌に向かうそうです。 しかし、熱の圧力の差から、海や川に発生する渦(散逸構造)が物の形を維持しているのではないかと思います。 惑星は円運動ですし、DNAは二重らせん構造です。 まだまだ、人は、いつも見ているはずの光や熱についてもですが、知らないことが多すぎるようですね。

stmim
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 私も仏陀は自分の知らないことは語らない人だと思っていました。 しかし、以前他の方が質問されていましたがスッタニパータで仏陀は地獄のことを詳細に述べています。あれは何なのか? 変化の方向はエントロピーが増大する方向に向かいますが、もう一つエネルギー的に安定な方向に向かうということがあります。モノが形を保っているのはエントロピーが低い状態ですが、それはモノが飛散するよりエネルギー的に安定だからです。

  • sunabo
  • ベストアンサー率35% (24/67)
回答No.4

DNAのヌクレオチドの並び方のある部分。

参考URL:
http://www2.biglobe.ne.jp/~ashida/kurekousen/2-1.htm
stmim
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 DNAということだと遺伝とはまた違うのでしょうか?

  • ithi
  • ベストアンサー率20% (1972/9601)
回答No.3

stmim さん、こんばんは。 記憶、性格、知能などは同一ではないですよね。 何かの共通点がないとAとBは無関係な人ということなりはしないでしょうか? 確か人間の魂です。ですが、輪廻の中で、記憶、性格、知能の中に必ず、前世の因縁で、どの天、人、修羅、餓鬼、畜生、地獄のいづれかの道に落ちます。これを転生といいます。六道の中ので絶えず回ることを輪廻といいます。つまり無関係であると同時に関係があります。 それからついでに日本の仏教では死んだ人はすべて仏になるのでしょうか? 死んだ人に対して供養を十分に行えば仏になるでしょう。 それとも仏になる人と輪廻転生する人に分かれるのでしょうか? それは死んだ人に対する供養の十分、不十分によって分かれます。 それともみな輪廻転生しているのでしょうか? 輪廻転生している人は供養が不十分な人たちです。

stmim
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 つまり六道のどれかに行くかは前世によるけど転生した生き物としては無関係ということですね。そうするとやはりそれは自分からは無関係な存在という気がします。 供養しないと転生できるなら私の希望としては転生したいなと思っているので、供養してほしくないです。

  • koosaka
  • ベストアンサー率43% (78/179)
回答No.2

たとえば、あなたが「輪廻転生」して、畜生道に落ち、サルやベビやアリになったとします。 サルやヘビやアリはどんなことをすれば、天道に行けるのでしょうか? 善い行いをすれば、天道に「輪廻」する? では、サルやヘビやアリにとって、善い行ないというのは、いったい何でしょうか? 同胞に対して、せっせとエサを運んだら、それを「善行」というんでしょうか? サルやヘビやアリが「善い行ない」をすれば、地獄に落ちることなく、天道に行けるということでしょうか? ちょっと考えられません。 では、肉体が死んでも「魂」は生き残り、サルやヘビやアリの肉体に「魂」が乗り移るということでしょうか? だとしたらサルやヘビやアリの「魂」は何処へ行ってしまうのでしょうか? 邪魔だといって、どこかへ捨てられてしまうのか? 「輪廻転生」とは「魂」が輪廻する、と言っているのでしょうか? だとすると、地獄に落ちて、火の山に行っても、血の海に行っても、何も苦しまないんじゃないでしょうか? 「魂」なんだから。 そしてあなたの言うように、その「魂」には、私が人間だった時の「記憶」が含まれているのか? それとも含まれないのか? 含まれないとしたら、「輪廻転生」したものは私ではないことになる。 「六道輪廻」というけれど、みんな私とは別になり、私とは関係なくなる。 だとしたら「輪廻転生」というのは、あっても無意味。 こうして考えてくると「輪廻転生」という説は矛盾だらけ。 では、こう考えたらどうでしょうか? 「輪廻転生」は、「たとえ話」で、比喩です、実際に存在するものではない。 人間の心の在り方、境涯を言ったものです、と。 道徳的に良い行ないをすれば、心は平和、それが天道。 道徳的に悪い行ないをすれば、心穏やかでなく、焦燥に駆られ、苦悩に陥る、それが地獄。 食べ物をガツガツと欲すれば、それが餓鬼道。 以下同文。 日本仏教が、人が死ぬとみんな仏になるというのは、天台宗の最澄の唱えた、「天台本覚論」に基づく、日本的な考えで、人間は死ねば自然に帰る、それを「仏」に言い代えたもの。 「山河草木悉有仏性」といい、自然にはあまねく「仏性」があるという思想による。 「天台本覚論」によれば、人間は本来生まれつき「仏性」を有するという。 だから死んでも、人間は「仏性」を有する。 この思想は「輪廻転生」という説に反する。 だから日本人はあまり「輪廻転生」を信じない。 死者の「魂」は天に昇ることなく、生者の身近で、生者を見守っているという。 動物になったり、地獄に落ちたりしない。

stmim
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 私の考えとしては輪廻転生は存在しないと思っています。ただ同時に輪廻転生があったらいいなとも思っています。 確かに虫に転生したら修行は無理そうですね。ただ他の生き物に食べられて終わりということになりそうです。そうすると修行が可能なのは人間に生まれた時で、あとはお休み期間なのかもしれません。 虫でも卵から生まれるので生まれる時に人間だった魂が転生するのかもしれません。そうするとすべての虫は元は人間だったのかも。 地獄に落ちた場合はそこでやはり肉体を得るのでしょうね。魂だけだと仰る通りに何も苦痛を感じないでしょうから。 魂だけが輪廻転生するならそれは私にとっては他人(他者)であって、それがどうなろうとも私には関係ないということになりそうです。 輪廻転生がたとえ話で実際には存在しないとすると、仏僧が苦行をする意味は何なのでしょうか?もし実際にないなら何もしなくてもいい気もします。 日本人は転生しないのですね。そうすると転生自体はもともと存在しないのですね。

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