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江戸時代の武家への金貸し
武家は禄高や金目の物を担保を金を借りていたと聞きました。 本当ですか? 本当とすると2000石の旗本が一軒の金貸しからちょくちょく金を借りて合計が5000両ほどになるのは、無理なことですか? 金貸しに貸せる金があるかどうかではなく、2000石の旗本が5000両借りれるかどうかです。
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借りられます。 これにはチョットしたカラクリがあります。 金貸しから借りていた訳ではありません。 武家の収入は全て米です。 この米を必要な分だけ現金化して使っていました。 この武家の米を現金化する人達が札差と呼ばれていました。 武家は一般に特定の札差を使っていました。 今年札差に渡す米の量よりも、多い現金が必要な場合には来年の分を担保としました。 ということで、別に質屋のような担保物件なしに、現金が手に入りました。 これを毎年繰り返していくと、その場の現金は無限に入手できることになります。 札差の帳簿上は貸付金が膨大なものになります。 札差は武家から受け取った米を市中で販売しました。 札差に経済的な体力が無くなればお役目辞退ということになり、その場で武家は倒産ということになりますが、同時に札差も経営不安ということで市中で相手をされなくなってしまい結局自分も倒産することになります。 という妙なバランスで維持されていました。 時代小説に出て来るような武家で金貸しから金を借りるのは、御家人と呼ばれる階級やまた者とよばれる旗本などの家臣の中で、低位の下級武士か、あるいは俸禄を絶たれた浪人だけです。 蛇足 武家以外の庶民向けには、現在の銀行に相当する役割を両替商と呼ばれる人達がやっていました。 現在と同じように両替商(銀行)に相手にされなくなった人はヤミ金からお金を借ります。 このヤミ金に相当する人達が金貸しと呼ばれていました。 道楽息子やぐうたら亭主が勝手に金を借りるのは何時の時代でも同じです。
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- Pinhole-09
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利息が高いので可能なのです。 大名貸という武家への貸付は、幕府の公定金利の 上限の年一割二分(12%)の利子をとっていました。 大名の弱みに付け込み一割五分もありました。 つまり7年もたてば、元金は利子として回収されます。 元金はそのまま。 そこへ又借金利子は倍、利子さえもう払えず、利子は 借金に書きかえられ、その後は利子を少しずつ返す にとどまり、帳面上の借金は鰻登りにふえます。 つまりある年数以上武家が潰れなければ、金貸しは 儲かるのです。 元金が完済しないのにさらに金を貸すこともあります。 他に見返りがある場合です。 (普通この金貸しからはもう借りられず、他の金貸し に頼ることになります) 年収の10倍位までの借金をさせても金貸しは心配 しません。 ただ怖いのは武家の破産で、新しい貸し金は元が とれません。 明治維新で大名の消滅で借金がちゃらにされた際、 目先が効かず維新の直前に金を貸したため、潰れた 金貸しも多かったそうです。
お礼
なるほど。全額返してもらうことを前提に貸しているのではないのですね。 参考になりました。
- ithi
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no.1です。 たぶん借金返済は余程のことがない限り、返済は出来ないことは前述しました。そういえば、旗本ではないですが、薩摩の島津氏も500万両の借金を250年賦で支払うことにしたとかありましたね。 それを覚悟で貸す方としては、たぶん旗本の領地にある利権か困ったときには動いてもらうということを見込んで貸しているのかもしれませんね。とにかく旗本を破綻させては元も子もないでしょうから。
お礼
ご回答ありがとうございます。 参考になりました。
- m-jiro
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こんばんは 一般論としてこの程度の借金が広く行われていたかどうかはわかりませんが、3千石の旗本が4万両もの借金をしていたという例があるのでご紹介します。 備中の帯江戸川家。幕末には目付・大目付として長州征伐などに登場しますから御存知かもしれません。 その帯江戸川家の借金は嘉永元年に4万2095両。知行高は3千石でしたが、領内に新田が多かったことで実高は約5700石、年貢収入は約2900石ありました。ですから借金額は年貢収入の約15年分にもなります。 そうでなくても借財が多かったうえに、弘化3年に甲府勤番となったためすさまじい借財になりました。これに対して倉敷の豪商が仕法(財政再建)を請負います。家屋の作事は雨漏の修理のみとか殿様の酒は独酌でといった注文を出しているのもおもしろいですね。 この借金も慶応頃には黒字になっていますが、その理由は米価が暴騰したためだとか。 参考資料: 「旗本財政の豪商仕法」片山新助/著 「倉敷の歴史5」(倉敷市発行)に収載 「新修倉敷市史4」の147ページ
お礼
ご回答ありがとうございます。 実際の例、参考になりました。
- ithi
- ベストアンサー率20% (1972/9602)
tontonzumou さん、こんばんわ。 2000石の旗本ということは実収が5公5民として1000石です。それで家族や家臣や小物などの人数が40人位ですから、70石から80石を経費とすると、大体920石程度ですから、お金に換算すると920両です。たぶんこのままつましく暮らせば、暮らしていけるでしょう。ただ、質問者様の5000両の借金のことを想定してみると、2000石の知行取りなので、豊作の年や飢饉の年などがあるのと、その年の米の価格などの変動もあるのですが、大体4年半分の借金です。ということは4,5年先の年貢が抵当に入っているということですから、余程のことがない限り、返済は出来ないでしょう。 また、利子も莫大なものになるでしょうね。年5%としても250両ですよ。 おそらく、先祖代々の家宝でも売らないと返済は無理です。
補足
ご回答ありがとうございます。 質問は金を借りるときに借りることができるかどうかです。 時代劇では割合簡単に借りているように思えます。
お礼
私が見たのは、旗本に金を貸す「金貸し」でした。札差では分かりにくいと名を変えた? 皆さん、大変参考になりました。 ベストアンサーは札差について書いてくださったNo.4さんに贈ります。