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自由主義に関する質問
- 自由を表に出した思想と言っても、「自由主義」や「新自由主義」、「リバタリアニズム」などいろいろな自由思想があります。
- 私の自由思想がどういう自由思想の「ジャンル」になるのか教えてください。
- このような考え方はどのような思想の「ジャンル」になるのでしょうか?
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的外れかも知れませんが・・・。 私には、あなたの質問文は、(かなり古いですが)ウェーバーの言う「近代人としての自覚」を思い出させました。ウェーバーはもちろん認めていませんが、彼は当時のアナーキスト達の精神を理解し、それに共感する面を持っていたようです。 「理解する事」と「認める事(受け入れる事)」とは別の話だ、というのが、マックス・ウェーバーの立場です。そして「それぞれの自由の価値」は、平等に「理解せよ」と。さらに「それぞれの自由の価値」の間の争いは、「論理的には絶対に解決不可能」である事も、「理解せよ」と。 「論理的に解決不可能な事」を認識しているのが、近代人としての「自覚」なのだと。だからこそそこから、「責任倫理」という実践的な行動規範が生まれる。それらを言ったのが、「職業としての学問」と「職業としての政治」という、ウェーバーの著作(じつは論文)だと思います。
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- booter
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私もkannzou001さんと同じく質問させて頂きたい&勉強させて頂きたい立場ですが 他の回答者の補足として記載します。 言葉足らずの点があるかもしれませんがご容赦下さい。 まず自由の定義を明確・簡潔に言語化してみようと思います。 自由とは何でしょうか? 過去に遡れば、人類の歴史とは、身分などの固定により本来人間がとりうるべき選択肢が取れなかった事にあると思います。 職業選択の自由を例に取れば、武士の子であれば武士にはなれましたが、農民の子であれば滅多な事では武士に取り立てて貰えませんでした。また武士にも上級武士、下級武士というヒエラルキーがあり、下級武士の子であれば上級武士にはなれなかったのです。奴隷の子は奴隷、工員の子は工員という訳です。乱暴に言えばそれらは職業選択の自由が無かったのです。 ”どの職業も自由に選択できない”という基本的人権に達しない状態があった場合、それは”自由が無い”と言っても差し支えないでしょう。更に時代は変わって”どの職業も自由に選択ができる”という選択肢が得られた場合、”自由になった”というのは間違いではないと思います。 繰り返しも含みますが、自由とは、人が社会の中で本来取りうるべき選択肢の幅と、その選択肢を選ぶ権利を指します。 つまり、社会にどういった影響を与えようともどういった行動をしても良い、というのが自由なのではなく、社会における人間個人の権利が侵害されているのを回復する到達点が自由なのです。到達点はどこでもいいんじゃない? とその定義を放棄する事は、一見「自由」の範疇に見えますが、私は上記の理由によりそうではないと思っています。 例えば、とある地方で許婚の慣習があり、名家などに一般の女性が嫁入りしなければならなくなった際には「女性に自由が無い」という事になります。 束縛はあっても、そこの旦那さんがとても良い人で、マンネリで不器用であっても家族を愛してくれるような人格であれば、幸せになれます。 しかし、飲む打つ買うの三拍子で仕事もしない、家族も放置で暴力も振るうとなればそれは不幸せです。 そして後者の場合に女性が相手を選べるようになった時、自由があるという事になるのです。 そして、周囲の人間が、上記の前者後者の両方の例を指して、どこに嫁ごうが、それは女性の自由だよ、というのは到達すべき着地点ではないと思っているのです。 更に言うと、上記の自由の他、自分自身に統制が効かず、人に迷惑をかける「放縦」も到達すべき着地点とはならないので、自由の範疇には含まれないと思います。 自身の行動により得るべく個人の権利を得たのではなく、社会に対してマイナスの影響を与えた場合、「人が社会の中で本来取りうるべき選択肢の幅と、その選択肢を選ぶ権利」とは認識されません。 他者に迷惑をかけない限り、社会的に見て愚かであるとも、自分に行動の自由が付加されるというのは「愚行権」に当たるでしょう。 さて、話しをお題に戻しますと、自由の種類とは「人が社会の中で本来取りうるべき選択肢の幅と、その選択肢を選ぶ権利」はどこまでにするか? という範囲の定義の問題になると思われます。wikipediaを読む限りでは、基本的自由が新自由主義、より強力な自由主義がリバタリアニズムであると理解しましたが、kannzou001さんの自由が「定義はなんでもいいんじゃない? 」というのであるならば、上記の新自由主義、リバタリアニズムは強力に定義を決める話しなので、新自由主義、リバタリアニズムには含まれないと思います。 恐縮ながら、この「定義を決めない」というスタンスを指す用語を私は存じ上げません。 私は購入してまだ未読なのですが、この基礎的な答えがJ.S.ミルの自由論にあると思っております(三ヵ月後辺りに読む予定)。 ちなみにいくつか告白しますと、モンテスキューの法の精神は自分の中で咀嚼できず、現在読了にチャレンジするも上中下巻のうち上巻で挫折しております。 あとはリバイアサンなども読みたいのですが、その基礎知識となる聖書も読んでおきたいので、自分の中でこの問題を総体として理解するにはしばらく後になってしまいそうです。 こんな感じで浅学の状態なのですが、それらの知識が無い状態として踏まえ、この回答お読み頂ければ幸いです。
お礼
読ませて頂きました。 >恐縮ながら、この「定義を決めない」というスタンスを指す用語を私は存じ上げません。 了解しました。 多分そうだと思います。 有難う御座います。
こんにちは. それはインターネット(投稿)に多くみられる, 『 ご都合主義 』ではないでしょうか. あるいは『 Rock & Roll Night 』主義 (モトハル‐サノ‐イズム) 例1 ~平等を確保すべき~ は, カトリックの思想に似ているのかな.とも思ったんですが. その反対も自由ということでしたので.. こんなので御満足いただけたら世の中平和なのでしょうが. 困ってます.(´ω`;)
お礼
『 ご都合主義 』・・・。 まさにその通りですね。 否定しません。 カトリックの思想に似ていると仰られたので、カトリックの思想に関して少し調べて見たいと思います。
- wiz0621
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そもそも新自由主義やリバタリアニズムは国家と個人の関わりの在り様を 示す言葉ですが、それでもなお、個人レベルでそれを当てはめることも まさに"自由"であるという深遠さにおいて、あえて当てはまる 言葉を考えてみるのならば 『自由放任主義』 が近いかなぁ、と思います。 フランス語でレッセ=フェール(なすに任せよ)といった方が 通りが良いかもしれません。 ぱっと字面を見ただけでは、一つ間違えると自分勝手と取られかねないですし、 唐詩の『歳々年々』のような、虚無的な儚さに美を感じるくらいが 関の山にも思われます。(まぁそれでも充分なのかもしれませんが) とはいえこの自由放任主義の思想は人間の歴史において 興味深い発展を見せたことがあります。18世紀に"最初の経済学者"アダムスミスが 体系化した結果、一時代においては人間社会の爆発的発展に寄与したんです。 なぜこのやる気があるのか無いのか判断できないような 思想が肯定されたのでしょうか。 自由放任主義はすべて自由という前提からさらに以下のようなステップで 考えを進めました。 前提として、各人の行動は各々の最良の結果をもたらすように動くとします。 この場合の人間の行動は、最終的な得を得られる行動、つまり自分に利益をもたらす 取引相手の利益を増進させるように動く、それが繰り返されれば、 全ての取引相手の利益となる、と考えるわけです。 実のところ我々が現在生きる、"資本主義"の基本概念はここにあります。 共産主義者や宗教家なんかが資本主義批判をする場合、人間は奪い合う夜盗のごとき 生き物だという人間不信をすべての前提に置いていますが (まあ、実際彼ら自身と彼らの作る社会がそうだからしょうがないんでしょうが) この思想はあくまで、人間とは相手の利益をも総合的に考える、 つまり信用の生き物だとしているわけです。 以降の資本主義概念は、信頼を破る犯罪者にどの程度の懲罰を与えるべきか否か、 いかにして信用を証明すべきかについての議論によってでさらに分岐していきました。 残念ながら現在に到るまでに、単純な自由放任主義では解決できない問題が 存在することが示され、この思想には反証がいくつか挙げられています。 とはいえ、もちろん肯定や否定する理由を限定するのは自由らしからぬものですし、 自由放任主義とは違う道を辿るのも、留まるのも、さらに旧来の人間がついぞ 気付かなかったこの先を志向するのももちろん自由ではあるわけです。 自由主義に唯一共通することは、それを虚無の儚さに終わらせずに、 ルネサンス期の芸術家レオン・バッティスタ・アルベルティが 記したように、『人はあらゆる者に成れる可能性を持っている』というただ一点を示すことに 尽きるのではないでしょうか。
お礼
回答有難う御座います。自由放任主義ですか。なるほど・・・。 それに関しての説明、有難う御座いました。とても参考になりました。 有難う御座います。
- hekiyu
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絶対的相対主義でしょうか。 質問者さんの考えだと、人を殺すのも自由 てことになりますね。 その根拠として、絶対的な相対主義がある ということではないですか?
お礼
>質問者さんの考えだと、人を殺すのも自由 >てことになりますね。 そういう事になります。 誤解のないように念のため説明を付け加えさせて頂きますが、私は殺人をやって良いとは思っていません。倫理的な根拠はありません。「ダメなものはダメ」それだけです。その感情的根拠の下「殺人はダメ」と言う意思を持つ事は、私の自由です。倫理的根拠などなくて良いのです。だって自由ですから。 しかし、「人を殺す事に関しての倫理的に絶対否定する事」は、私の考えでは答えが出せず、断念してしまいましたが、私は出来るだけ倫理的根拠を求めます。今回の質問もそれに近いかもしれません。それも私の自由です。 殺人をする人も、その殺意の自由意志を施行している。と言うだけです。 だからって許せません。それも私の自由です。 と言う根拠として「絶対的な相対主義」があるかもしれませんが、お恥ずかしながら、私は「絶対的な相対主義」と言うのを正しく理解していないため分かりません。今後調べて見たいと思います。 有難う御座いました。長文ごめんなさい。
- atomonados
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>このような考え方はどのような思想の「ジャンル」になるのでしょうか? 相対主義だと思いますよ。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E5%AF%BE%E4%B8%BB%E7%BE%A9 >もしかして、自由○○思想とか以前に、ここまで来ると放任主義、無関心者、無責任者とかでしょうか。 そうですね。そう思えます。しかし,相対主義なら,違う見方を発案してみたらどうでしょうか。相対主義が評価されるとしたら,自己の観点に固執しない柔軟性にあるとぼくは思いますよ。
お礼
回答有難う御座います。 wikiを読ませて頂きましたが、そこの「例えば、背が高い人は、彼よりも背が低い人がいなければ想定しえない。逆に、背が低い人も、彼より背が高い人がいなければ想定しえない。このため、相対主義の前提に立てば、他者に全く依存しない絶対的に背が高い人は存在せず、背が高い人と背が低い人とは相互依存関係にあると言うことができる。」 と言う例の考え方は、まさに私の考えに近いと思いました。 相対主義に関しては、wikiをざっと読んだだけなので理解は浅いと思いますが、相対主義に関して調べて見たいと思います。 有難う御座います。
私の印象だと、たぶん、あなたはまだ、社会に出てらっしゃらない方なのでしょう。家族もお持ちではないでしょう。だから責任など考えないでいいのですし、何者にも与せず、神のような視点をとれるのです。 私の読んだ限り「~~主義」というより、そもそも主義をお持ちではない。そして相手の言い分を深く考えようとはなさっていない。富の不平等が何をもたらすか?とか、仕事の正当な対価とは何か?などについて、十分な考察をなさっていないように思います。そこで言葉を探すと、失礼ながら「世間知らず」となりますか。 しかし、あなたが大変な苦労をなさって、家族も維持なさっているのにもかかわらず「自由だ」とおっしゃるなら、裁定の必要なしと主張しているという意味で、筋金入りの「無政府主義者(アナーキスト)」と呼びたいと思います。
お礼
素晴らしい。きっと貴方は、プロファイリングなどを仕事でやっておられるような、立派な方なんでしょうね。 あるいは、そのような卓越した能力があると「思い込んでいる勘違い屋さん」か・・・。 そのどちらかでしょうね。
お礼
>「理解する事」と「認める事(受け入れる事)」とは別の話 あぁ、これはまさに私の考え方そのものですね。 でも私は、アナーキストではないですね。でも私の知らない深層心理では、それを望んでいる一面はあるかもしれません。うーむ。 ウェーバーの著作・・・。是非読んでみたいと思います。 和訳されていれば良いのですが・・・。 ddtddtddt様の文章を読む限り、まさに私の考え方に近いです。 有難う御座いました。