法華経は、地涌の菩薩の出現という抽象的な言葉で、しかも、ほとんど、「妙法蓮華経」の五文字の讃嘆の書となっていますので、この五文字の意味合いの深さが無ければ、むしろ他の仏法の教えよりも、内容は知識的には豊かではないのです。
その中で、その五文字以外に深い意味合いのある部分が「常不軽菩薩」について書かれているところでしょう。
どんなに酷いことをされても、常にその人の中に仏の可能性の命を見て、敬う心、尊敬しあがめるこころを貫いた菩薩です。
ですので、その菩薩の精神の中に、そちらの言われる、「受任、自己犠牲、寛容、敵対者の尊重」といった精神のすべてはあると考えることはできます。
でありつつ、言うべき時に言うべきことを言わず、おとなしく従順でしかないという意味でもなく、むしろ正しいことは率先して言い切る精神も日蓮の信徒の思想ではどこでも語られていますよね。
常に、本気で相手のことを考える姿勢です。
もちろん、どんな悪人に対してもです。
どんな札付きの悪人でも、親兄弟、時にはヤクザからさへ見捨てられてしまうような極悪人ですら、さびしい時はびしい同じ人間です。
長い長い因果の末に、そうなってしまっただけなのです。
過去をほじくり色眼鏡をかけて見てしまうのではなくて、
その未来の可能性をその命の中に見つけて、同じ人間として友として接する心、
これってその未来に関して、その悪い癖を諌めないでいいということでもないですよね。
勇気があるならば、またほんとうに色眼鏡をかけていない友達であれるならばなのですが、むしろ諌めることこそ、ほんとうには、そんな人たちですら感謝の心を持つのですよ。
そんな勇気や、嘘偽りのない真心の世界を、
私達の大地のふるさとのような温かい心を、
実際に、私達凡夫が獲得する道が、妙法蓮華経の五文字に謙虚な心で唱える信仰で、磨かれてゆくというのが、
法華経の中に秘められてきたその五文字の宝、秘法なのです。
これは「なぜそうなのか」までは説明可能です。
その素晴らしさ自体は、本当に謙虚な形で信じて実践してみなければ解りませんので、その意味ではそれを「難解難入」の秘法とも説き続ける教えともなっていたりします。
それは、感性の面で、
私達、現代文明人、論理脳は発展しても、感性が弱まって、自我を突き抜けられず、本根のところでは自己中心になってしまいがちな信頼しがたい心を全面的に変えてくれるものです。
まず、感性が深くなればその状態は訪れるのですが、その感性脳は、感性を見つめるだけの深さがないと、論理脳のようにはそれを分析していいものをより出して技術を発展させるというような進化ができないところ、
その感性を、深めるあるとても大きな大きなパワーを宿しているのがその五文字だからなのです。
ほんの少しでもいいですので、妙法という言葉「妙(たえ)なる法」と意識して、あとは無心に南無妙法蓮華経と、自分より優れた存在にへりくだる心で唱えてみてください。
すると赤ちゃんが、おかあさんの言葉を理屈抜きにやがて理解してゆくように(言葉をおぼえてゆく意識内部には理屈もありますが略します)妙なる法という以上の意味合いを、たった2文字のその中に感じてゆけるようにもなります。
すべては、たった五文字なので、そのへん外国人でも同じです。
鍵は謙虚さです。
だから信仰と呼ばれているわけです。
残りの3文字の「蓮華経」も、簡単にこう考えるだけ、こう意識してみるだけで同じように充分であるわけです。後はただ無心に唱えるだけでいいわけなのです。
「蓮華」というのは、私達のそれがあるゆえに、争いや自己チュウの醜い煩悩が起こってしまう欲望の世界を、五感の深さの世界からコントロールできるので、しかも無意識も含めた形でそれが出来るので、人間としての規律も楽に守れるようになるし、かといって、お堅い禁欲主義の心にもならず、自在に五感を楽しみながら、悪にそまらないという、蓮華の花の例えを一応ほんの少し意識しながら、後は無心に唱えてみるだけでいいのです。
最後の経は、声という意味ですが、これは音声にこそ、本当に感じた感動や感慨や人としての想いのすべてが、その奥の奥から現れるという深い意味はありますが、ともかく、声という単純な意味でも奥は深いとだけ謙虚に思って唱えればそれでいいということになるのです。
面白いですよ。
別に徒党なんて組む必要ないですから^^、口パクでもいいので(とくに最初は、人に聞こえない所で声を出せたらそれにこしたことはないですが)
隠れ法華経徒^^でもいいですので、まず無心に唱えてみてください。
感性が自然に豊かになってきますし、時には深い落ち着きが得られたりします。
信心はそのあとから、その自信で、人にも語ってゆくところから出発すればいいわけです。
か、かくレホケキョウトをネットでひそかにふやしてゆきましょう^^。
そしてそれで、人の心がアフリカの子供たちの目の輝きの奥にあったりする、人間の大地感覚の故郷の地点をなにがしか感じられることで、それを法華経の「地涌の菩薩」になぞらえるのが、法華経の読み方、実践的な読み方の世界になることを、そこからご自分で気が付いてゆけばいいわけです。
人に反対されたり、むしろ命がけの伝道となってさへ信じるというのが信仰の心の姿勢なのですけど、それは人の長い因果で生まれた心と対立し喧嘩することを意味しているのではないです。
そのぐらいの謙虚な心が、この五文字が実際に生きて来るかどうかの決め手であり鍵だということなのです。
ですので、伝道の心は必須でも、やがて、ほんとうに信頼できる地涌の菩薩どうしが出会ったら、そこで仲間を作ってでも増やしてゆけばいいだけなのです。
不軽菩薩の魂を、雲の上の理想にまつりあげるのではなくて、
実際の私達の命に刻み、私達の命の中のその輝く心の宝物を実際に獲得して、そこから賢人政治まで実現して世の中から苦しみを無くし、楽しみを増やしてゆく、すばらしい社会を実現してゆくまでを、
地涌の菩薩の出現として寓話的に例えた仏典が法華経なのだと思います。
学問として読んでいたらたぶん、その宝自体には気づきすらしないでしょうし、むしろ豊かですらない仏典かもしれませんが、こうして、
本来の信仰の道として読めば、まさに「諸法の王」であり、というよりそれ以上に今の私達の心に必須の薬であり、妙薬であり、宝であり宝塔である、そんな宝を秘めた寓話なのだと私は思ってますしそう主張したいです。
冗談はともあれ、
どうか、本当に隠れてでもいいですので、学問的にではなくて、信奉する意思を持ち、謙虚な心で実践的に読み込んでみてください。
「日蓮の教えを魂の底から愛し信奉する者の一人より」
参考になりましたでしょうか。