(A‐1) ★ (No.17お礼欄) 我々は真理の探求という深く果てしない精神の働きを通してのみ神に近づくことが出来るのである。
(N‐1) ◆ (日蓮= S 学会版) 我々はダルマと呼ぶ真理を問い求めて生命の深みに分け入ってその根源を南無妙法蓮華経というチカラだと知った。法華経の如来寿量品第十六の文底に秘された独一本門の真理であり唯一の神である。神に近づくというよりも この神のチカラを――それは目に見えないから霊と言わねばならないが――このわれらが身と心とに受け取るのだ。
(A‐2)★ そして神は万物の根源、宇宙の法則であるアルケーの神であることが分かるようになるのである。何者も真理の探求なくして神が何たるか知ることは出来ない。
(N‐2)◆ 宇宙の法は ダルマである。万物の根源は 生命である。法華経は 生命の書なり。しかもその生きたチカラは 《文底》にあって 久遠実成の自受用報身なる日蓮というブッダそのものなり。唱題すれば誰でも実感して分かる。何ものもこの真理のチカラを体現せずして神が何たるかを知ることは出来ない。
(A‐3)★ 神は霊ではなく宇宙の法則である。
☆ 宇宙の法則というのは 一般に人間の思考・認識の問題におさまる。それを神と言うのは あまりにもくだらない。
(A‐3‐1)★ 神は幽霊などではありません。
☆ あまりにも幼稚である。幽霊とは何かについても 重々伝えてある。
(A‐3‐2)★ 真理の探求をせずただただ非思考の庭に漬かっている限り、何が何だか分からないから抜け出すことはできません。
☆ 《神は宇宙の法則だ》だの《神は幽霊などではありません》だのと言っているようでは たしかに非思考の庭が何であるかを理解することはむつかしいかも知れない。
(A‐4)★ ~~~~~~~~~~~~~~~~
本尊に対して題目を唱えるとは偶像崇拝といってアホのやることである。
彼らなりに非思考の庭を目指しているわけである。
真理の探求ではない。
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☆ 《宇宙の法則 / アルケーの神》 これは 紙でつくった本尊ではなくそういう形のある偶像ではないが けっきょく思考の問題におさまるのなら《観念の神》であって 観念の偶像崇拝であるにほかならない。
《非思考の庭》は ひとが《目指す》ものではない。神の名を受け容れたときに成るものである。もともとその潜在するチカラもしくは磁場がひとに生まれつきあったと想定されるもの。アートマン(霊我)。タターガタ・ガルバ(如来蔵)。ブッダター(仏性)・自性清浄心。
この非思考の庭を《目指す》などという理解では 《真理の探究ではない》。
(A‐5)★ 自己催眠とは非思考の庭を求めて漬かり続けることである。 / 真理の探求ではありません。
☆ 《非思考の庭》が分かっていないのだから 無理はないのかも知れない。
★(A‐4)本尊に対して題目を唱えるとは偶像崇拝といってアホのやることである。
☆ 紙に文字を書いた物を偶像とするということは 神の仮りの(偶)かたち(像)なのだから そのことをわきまえていれば 偶像崇拝にはならない。
法華経の文面そのものではなくその《文底》なる真理だとか 生命の奥なるチカラと言っているのだから その神は 霊であり目に見えない。そのチカラが――わが非思考の庭をとおして(たとえば アートマンなる霊として・またはブッダターなる霊として)――はたらくと言っているのだから 特に問題はない。
問題は それが唯一の神であって――ここまでもまだ問題はない―― それ以外には神はないと言い出したときに起きます。神は 日蓮なる久遠仏の生命なるチカラであって それ以外は 偽物でありダメだと言い出したときに起こります。
南無妙法蓮華経は 神の単なるひとつの補助線であるということをもう見ないように・見えないように・意識しないように 自己催眠をかけた。補助線がすでに正解であると見なすように 自己催眠をかけた。蛸壺をみづからつくり そこに閉じ籠った。あとは この煙幕によって他人の言うことに聞く耳を持たなくなった。
☆☆ > どうです? アルケー教と似ていませんか?
(A‐6)★ だから万物の根源、宇宙の法則、アルケーを除いて如何なる神も存在しないと結論できるのである。
(A‐6)(その全体)★ ~~~~~~~~~~~~
アルケー教ではなく、正しくは人の道である。
アルケーとはもともとは万物の根源を意味した。
古代より万物の根源が何であるかについて多くの哲学者が問い求めてきた。
人の道は万物の根源は宇宙の法則であると理解した。
そして万物の根源、宇宙の法則は神であると悟ったのである。
だから万物の根源、宇宙の法則、アルケーを除いて如何なる神も存在しないと結論できるのである。
あくまでも真理の探求によって得られた結論である。
非思考などではありません。
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☆ そのように《思考して認識が得られた》と言っているのではありませんか? これが 観念の偶像に対する崇拝です。思い込みとも言います。つまりは 自己催眠。そして しゃべる蛸壺と化す。
結論:
《アルケーの神 / 宇宙の法則》 これは 《南無妙法蓮華経》とまったく同じ自己催眠による万物根源而蛸壺之神である。
信者の数と資金力とが ちと違う。
お礼
ところで質問の本題についても回答して頂きたいのですが。 この質問の本題とは、次のことを問うているはずなのですが。 ある宗教がカルトに乗っ取られ一般社会からは邪教の烙印を押されたとする。 このとき次の2つについていずれがより真相に近いと考えられようか。 1.その宗教はもともと邪教であったが故にカルトに乗っ取られたのであり、その結果ますます邪教化していった。 2.その宗教はもともとは邪教ではなかったがカルトに乗っ取られた結果、そのカルトの行いによって次第に邪教化していった。 まず哲学の問題として質問の形を整えるとこのようなことを問うております。