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惟喬親王は小野氏の誰かと関係が深かったのでしょうか
惟喬親王は小野宮と呼ばれていたそうですね。 小野宮という広大な邸宅に住んでいたので小野宮と呼ばれていたというようなことを読んだ記憶がありますが http://kotobank.jp/word/%E5%B0%8F%E9%87%8E%E5%AE%AE ↑こちらの説明では小野親王と呼ばれた惟喬親王が住んでいたので、平安京の烏丸小路の西・冷泉小路の北にあった邸宅のことを小野宮と呼ぶようになったと書いてありますね? 井沢元彦さんによれば、惟喬親王は隠棲後、小野の里に住んでいて小野氏と関係が深かったとしておられます。 そして小野小町は惟喬親王の乳母ではないかとも言っておられます。 その理由は (1)惟喬親王が小野氏と関係が深いと考えられる。 (2)『小町が孫』という歌人がいるところから小町は一般に言われているように生涯独身ではなかった。 という2点で、決定打とは言い難いです。 惟喬親王は小野小町以外の小野氏の誰かと関係が深かったというようなことはないのでしょうか?
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- あずき なな(@azuki-7)
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この時代の親王とか王族は住んでた場所で呼ばれることも多いです 聖徳太子は上宮に邸宅があったので上宮王(かみつみやおう)とも呼ばれてますし ちなみに小野小町はあの小野妹子の子孫であることはご存知かと思います 藤原氏が代々天皇の側近であったように 遣隋使で功績があった妹子の子孫の小野氏が宮中とつながっていても不思議は無いですね 現に小町は宮中に仕えていましたし ちなみに小町はバツ2だったという説もあります 冷泉小路の北に「尾野」という地名が当時あったそうですが そこにすんでたからたまたま小野を名乗っただけでは? 余談ですが小町にも当然子孫はいて 戦国時代の御子神典善は後に小野次郎衛門となって小野派一刀流を確立したのですが 彼も小町の子孫と言われています
- chomicat
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井沢元彦氏の小説は大胆な推理で非常に興味深いですね。 小野小町と惟喬親王の関係ははっきり言って不明です。 同時代の人間とて小野小町(当時の女性には名前も苗字も無い)は伝説の人であり、全国其れこそ北海道から沖縄まで所縁の地や墓所があるくらいですから後世、推測されて色々な意見が出たとしてもおかしくはありませんね。(小町100歳の像など見たら本当にぞっとします。岩倉の補陀落寺と逢坂山の月心寺にあります) 小野一族には確かに多くの名のある人が居ます。 昨年も小野一族の小野毛人(えみし、妹子の子)の墓に行ってきました。険しい崖をよじ登らねばなりませんがちゃんと杖が用意してあります。(^^) 余談はさておきお尋ねの件ははっきり言って判りません。 只、小野宮はご指摘の・・・ >惟喬親王が住んでいたので、平安京の烏丸小路の西・冷泉小路の >北にあった邸宅のことを小野宮 この場所は無いと思います。 冷泉小路は現在の地名は冷泉通で東西の通りですが西の端は鴨川より東のみです。(平安時代から変わってませんが東の端は若王子神社) 一方、烏丸小路は現在の烏丸通でもっと西にある南北の通りですから両者が交わる事もないので前述の記述は成り立たないと思います。 京大に保存されている古地図の「皇都往古図」で見る限り「小野宮」は内裏の南東、今で言う東堀川通の綾小路と仏光寺通に跨る地に見られます。 綾小路通も仏光寺通も幅四丈(40尺:12m)で屋敷の大きさは地図によればその3倍ほどの幅ですから36m四方くらいで、当時としては他の有力者の屋敷と大差がありません。 まあ手書きの後世の地図ですから正確なものでないにせよ、朱雀大路(現在の千本通)は幅二十八丈(84m)となっていますし内裏の南東にある「冷泉院」は見る限り小野宮の10倍以上ありそうです。 後世の我々は歴史上の事は推定でしか考えられませんし、事実とはかけ離れた事の方が多いのです。 小説は小説として楽しまれたら良いのでは無いでしょうか? 余談ですが惟高親王の母は「紀氏」の出。 紀氏は政治力が無かったので惟高親王は相続争いに敗れたと云われます。 紀氏の中で有名な「紀貫之」の墓は比叡山の坂本側の山中にあり坂本ケーブルの途中の駅で降りて歩けば見に行く事が出来ます。 答えになっていなくてすみません、失礼しました。
お礼
回答ありがとうございます。 小説は小説として楽しめばいい、というのはひとつの方法ですが 真理を追究したいと思うのもまたひとつの方法であって 他人にとやかくいわれるすじあいはないものと存じます。 おっしゃるように、後世、推測されて色々な意見が出たとしてもおかしくはないし、実際そうなっていますね。 小野小町は仁明天皇の更衣だという説もありますが、井沢説同様、やはり決定打にかける。 ただ多くの研究家が様々な説を出すことによって、歴史研究が進んでいることも事実です。 私はとにかく惟高親王が小野宮と呼ばれていた理由を知りたいのです。 井沢先生に質問すれば、「惟高親王が小野宮と呼ばれていたのは彼の乳母が小野小町だったからだ」とお答えになるでしょう。 しかし、井沢説は絶対とは私には思えない。 それで井沢説についてふれたわけです。 小町100歳の像ながどの寺にあるとか 惟高親王の母親が紀静子であるとかいうようなことは すでに調べましたので、質問はしておりません。 また紀貫之や小野えみしの墓は質問とどういう関係があるのでしょうか? ただ、小野宮の所在についての指摘はたいへんありがたく思います。 ありがとうございました。 心より感謝申し上げます。
お礼
回答ありがとうございます。 >この時代の親王とか王族は住んでた場所で呼ばれることも多いです >聖徳太子は上宮に邸宅があったので上宮王(かみつみやおう)とも呼ばれてますし 聖徳太子は飛鳥時代、惟喬親王は平安時代で時代が大きく異なります。 できれば平安時代の例を提示いただけないでしょうか。 >遣隋使で功績があった妹子の子孫の小野氏が宮中とつながっていても不思議は無いですね 平安時代には小野篁という人が役人としておりましたね。 >現に小町は宮中に仕えていましたし 小町が宮中に仕えていたという史料はないはずです。 ネット上にはそれがあたかも史実のように書いてあるサイトが多くてびっくりしますが 小町が仁明天皇の更衣だったとするのは山村美佐さんの説です。 「続日本書紀」842年に小野吉子なる人物が正六位上に任じられています。 正六位上は更衣の位に匹敵します。 そして「古今和歌集」に登場する女性歌人のうち、三条町は文徳天皇の更衣、三国町は仁明天皇の更衣なので、町は更衣をしめし、小野小町とは小野吉子のことで、仁明天皇の更衣だったのではないかと推理されたのです。 小町と「小」がついているのは姉がいたからではないかと。 井沢説では小町は更衣ではなく、惟喬親王の乳母だったとしています。 >冷泉小路の北に「尾野」という地名が当時あったそうですが そこにすんでたからたまたま小野を名乗っただけでは? なるほど、「尾野」という地名があったのですね。 参考になります。 ただ、ここからただちに尾野から小野宮になったとも言い切れないと思います。 奈良・東大寺の転害門(てがいもん)の前にある町は手貝町といいます。 手貝町という地名と転害門という門名に関係があることは明らかでしょう。 記紀神話に登場する神々も同じ名前でも様々な表記の仕方があります。 このように日本では漢字は重要視されず、その音が重要視されていたと思われるふしがあり、 尾野という地名は小野氏の小野からきたものではないとも言い切れないと思います。