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奈良・霊安寺の由緒に関する中臣氏と小野氏の関係
- 奈良・霊安寺の由緒には小野富人を右大臣とする記述があるが、実際は中臣金が右大臣であった。
- 中臣金は壬申の乱で大友皇子側につき、敗れて処刑された。
- 小野富人と中臣金、または中臣氏と小野氏には直接的な関係はないようだ。
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まず由緒がでたらめ説。 小野妹子の子というのを疑ってみます。 607年に遣隋使で派遣されているので、当時若くても20歳前後と推測。 小野富人が672年に右大臣ということは、若くとも30歳と推測。 小野氏は勢力が強くないので、右大臣になったとしてもそのくらいと考える。 すると、富人は、642年生まれ。 607年で20歳の妹子は、642年には55歳。人生50年よりはるか昔、55歳で子どもはなかなか非現実的。 なので、小野氏が創建かかわったていたので寺が、小野氏をヨイショしていると考えられます。 次に由緒が正しいと考える説。 通説では、大友皇子は即位していませんが、これは天武天皇方の日本書紀が言っている一方的な話なので、実は即位していて、大友朝の右大臣として小野富人は実在したということが考えられます。 なぜ天皇家は後になって天皇号を大友皇子に追号したのか。 基本的に怨霊を恐れて位階を追贈する古代日本人。 代表的なのは、保元の乱(1156年)で政争に敗れ、讃岐へ流された崇徳上皇。 崇徳上皇が、日本最大の怨霊になったのは有名な話。『保元物語』で「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」と言って怨霊になったと言われたのですが、実はこの保元の乱後、平清盛が台頭し、以後武家が政治を動かす世の中となって、この話が実現されました。 結果、明治維新で大政奉還されるまで、天皇家は政治を行えませんでした。 で、実は天皇家はこのことを700年間忘れていませんでした。なぜなら明治天皇は慶応4年(1868年)8月18日に自らの即位の礼を執り行うに際して勅使を讃岐に遣わし、崇徳天皇の御霊を京都へ帰還させて白峯神宮を創建したのです! 崇徳上皇はあまりにも強力な怨霊で公にされましたが、大友皇子も公にはされていませんが、実際は天皇となっていたものの『日本書紀』で抹殺してしまったので、あとから怨霊を恐れて追贈している可能性があります。 ということをこの寺の由緒で語ることで、ひそかに天武朝に反旗を翻していたのかもしれません。
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- Pinhole-09
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No.2 です。 小野氏の本拠は近江、滋賀郡、小野村(いまの大津市の中) と WIKI の「小野氏」の項にあります。 大津京の近江朝廷側につかなかった件は、理由もふくめ 詳しいことは判りません。 世渡り上手とも思えず、閨閥などかなと想像しています。 (大海人ー海ー小野妹子の渡海) 天武朝になってからの小野氏(小野妹子の息子の小野毛人) 添付 URL の叙位された人物の項をご覧ください。 その子の小野毛野は持統朝で中納言になり、小野氏は朝廷 で最も高位であったとあります。 (WIKI の小野毛野の項より) 壬申の乱における小野氏の行動については、記録がありませんが、 功績があったので高く処遇されたもと推定されます。 小野氏の系図に富人は見当たらず、傍流でしょう。 傍流で右大臣(左大臣?)にまであったとすると、よほど才覚が ないと無理であり考えられません。 以上は寺の由緒書きの信憑性に、問題がないという前提に、 立っています。 箔を付けるための粉飾があれば変わります。
お礼
なんども回答ありがとうございます。 小野毛野が持統朝でもっとも高位であった。 その理由は壬申の乱で功績があったからだと考えられる、ということですね。 大変参考になりました!
- Pinhole-09
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「小野氏」の線から考えました。 小野氏の本流の領地は近江にありました。 しかし壬申の乱で近江朝廷にはつかず、大海人側に つき、天武朝廷では要職に任じられています。 奈良の小野に領地がある、小野氏傍流の小野富人 は近江朝廷についていました。 右大臣とありますが右大臣は別人で殺されていますから 明らかにこれは誤りです。(右大臣関係の役職か) 乱ののち本流のおかげで死を免れ、故郷の小野に 隠遁して僧になりました。 なかなかの人物と思われ、仏法のほか医薬にも 通じていて住民から頼られ、死後も庵が病気治癒 のお守りになり、のちに朝廷にも聞こえるように なったのでしょう。 小野氏本流が大海人側についた理由は人間関係で しょうか。 小野氏は小野妹子の関係で中国の医薬に詳しいとも 考えられます。
お礼
わーーい、ありがとうございます~。 回答くださってとても嬉しいです! >小野氏の本流の領地は近江にありました。 しかし壬申の乱で近江朝廷にはつかず、大海人側に つき、天武朝廷では要職に任じられています。 これは仮定ではなく、史実なのですか? >右大臣とありますが右大臣は別人で殺されていますから 明らかにこれは誤りです。(右大臣関係の役職か) ですね! >小野氏は小野妹子の関係で中国の医薬に詳しいとも 考えられます。 これはすごーく着眼点がいいですね! 小野氏ってよくわからない人物が多いですよね? 小野妹子の息子に小野毛人ごいう人物がいるので 小野妹子は蘇我馬子と同一人物で(中国風の名前にすると似てるとかなんとか)小野毛人は蘇我蝦夷のことだという説を読んだ記憶もあります。 小野小町という女性がいますが、歌しか残っていないので、どんな人なのかよくわからない。 あと、小野篁。 この人は昼は宮中に、夜は閻魔庁に勤めていたなんぞという伝説があるんですが、なんでこんな伝説ができたのか、さっぱりわからない。 篁が閻魔庁に出入りするのに使ったという井戸が京都の六道珍皇寺にあるんですが、珍皇寺という寺の名前が?? 篁は珍妙な皇帝であるとでもいわれていたのでしょうか? 小野氏について、もっといろんなことがわかれば、小野富人の謎もとけるかもしれない、と思ったりもします。 素晴らしい回答をありがとうございました。
お礼
わーい、ありがとうございます! 回答くださってとても嬉しいです! 小野富人が小野妹子でないという証明のやり方、とてもいいですね。 参考になりました。 だいたい小野富人という人物、正史に記録がないんじゃないかと思うんですよね。 小野富人で検索しても霊山寺の由緒しか出てこないし、ウィキで小野妹子を見ても、子として毛人、広人のふたりしか名前があがっていない。 まあ、正史に名前がなくとも実在していた可能性はあるんですが。 たしかに日本書紀などの正史は疑ったほうがいいですね。 >通説では、大友皇子は即位していませんが、これは天武天皇方の日本書紀が言っている一方的な話なので、実は即位していて、大友朝の右大臣として小野富人は実在したということが考えられます。 右大臣の中臣金って大友皇子側についてた人間なんですよね。 それが原因で処刑されてます。 ということは小野富人という人物は実在していたかもしれないけど、右大臣だったとは考えにくいのでは? 天武朝の右大臣だったということはよけいに考えにくいしなあ。 >基本的に怨霊を恐れて位階を追贈する古代日本人。 あ~、なるほど、死後に右大臣の位を追贈されたのかもしれませんね。 おっしゃるとおり死後、高い位を授けられた人物は大勢いますね。 有名な怨霊の菅原道真なんかもそうだったと思います。 崇徳上皇、好きです。 白峯神宮、お参りに行きましたよん。 明治天皇が崇徳上皇と淳仁天皇をここに祀ったんですよね。 淳仁天皇は藤原仲麻呂の乱で天皇を廃され淡路へ流罪となった方。 長らく天皇と認められていなかったのを明治天皇が1870年に淳仁天皇という諡号を贈ったということだったと思います。 白峯神宮が創建されたのは1873年。 明治天皇は怨霊を神として祀ることで自らの守護神としようとしたのでしょうね。 >崇徳上皇はあまりにも強力な怨霊で公にされましたが、大友皇子も公にはされていませんが、実際は天皇となっていたものの『日本書紀』で抹殺してしまったので、あとから怨霊を恐れて追贈している可能性があります。 なるほど、私もそういう可能性はあると思います。 あと気になるのは小野富人という名前が神武天皇紀に登場するトミヒコ(ナガスネヒコ)と名前が似ていることです。 中臣金も「トミ」とあって似てるといえば似ている。 トミヒコはニギハヤヒを神として奉じていたのですが、 「海部氏 系図」によれば、ニギハヤヒは河内の国に天降ったあと、大和国の 鳥見(とみ)の白辻山(生駒山付近)に移ったとあるそうです。 http://www.ryosenji.jp/engienkaku.html ↑ 「霊山寺の所在する富雄の里は、古事記には「登美」であり、日本書紀では「鳥見」の地となっています。」と記されていて、ニギハヤヒが住んだ鳥見と同じ場所ではないかと思えるのです。 ニギハヤヒとトミヒコの妹が結婚して生まれたウマシマジノミコトは物部氏の祖とされています。 なので、霊山寺があるあたりは物部氏の土地ではないかと思われるんですが、物部氏と小野氏には何か関係があるのかな、と思ったりもします。 すばらしい回答をありがとうございました。