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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:中臣氏と小野氏)
奈良・霊安寺の由緒に関する中臣氏と小野氏の関係
このQ&Aのポイント
- 奈良・霊安寺の由緒には小野富人を右大臣とする記述があるが、実際は中臣金が右大臣であった。
- 中臣金は壬申の乱で大友皇子側につき、敗れて処刑された。
- 小野富人と中臣金、または中臣氏と小野氏には直接的な関係はないようだ。
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- Pinhole-09
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回答No.3
- Pinhole-09
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回答No.2
お礼
わーい、ありがとうございます! 回答くださってとても嬉しいです! 小野富人が小野妹子でないという証明のやり方、とてもいいですね。 参考になりました。 だいたい小野富人という人物、正史に記録がないんじゃないかと思うんですよね。 小野富人で検索しても霊山寺の由緒しか出てこないし、ウィキで小野妹子を見ても、子として毛人、広人のふたりしか名前があがっていない。 まあ、正史に名前がなくとも実在していた可能性はあるんですが。 たしかに日本書紀などの正史は疑ったほうがいいですね。 >通説では、大友皇子は即位していませんが、これは天武天皇方の日本書紀が言っている一方的な話なので、実は即位していて、大友朝の右大臣として小野富人は実在したということが考えられます。 右大臣の中臣金って大友皇子側についてた人間なんですよね。 それが原因で処刑されてます。 ということは小野富人という人物は実在していたかもしれないけど、右大臣だったとは考えにくいのでは? 天武朝の右大臣だったということはよけいに考えにくいしなあ。 >基本的に怨霊を恐れて位階を追贈する古代日本人。 あ~、なるほど、死後に右大臣の位を追贈されたのかもしれませんね。 おっしゃるとおり死後、高い位を授けられた人物は大勢いますね。 有名な怨霊の菅原道真なんかもそうだったと思います。 崇徳上皇、好きです。 白峯神宮、お参りに行きましたよん。 明治天皇が崇徳上皇と淳仁天皇をここに祀ったんですよね。 淳仁天皇は藤原仲麻呂の乱で天皇を廃され淡路へ流罪となった方。 長らく天皇と認められていなかったのを明治天皇が1870年に淳仁天皇という諡号を贈ったということだったと思います。 白峯神宮が創建されたのは1873年。 明治天皇は怨霊を神として祀ることで自らの守護神としようとしたのでしょうね。 >崇徳上皇はあまりにも強力な怨霊で公にされましたが、大友皇子も公にはされていませんが、実際は天皇となっていたものの『日本書紀』で抹殺してしまったので、あとから怨霊を恐れて追贈している可能性があります。 なるほど、私もそういう可能性はあると思います。 あと気になるのは小野富人という名前が神武天皇紀に登場するトミヒコ(ナガスネヒコ)と名前が似ていることです。 中臣金も「トミ」とあって似てるといえば似ている。 トミヒコはニギハヤヒを神として奉じていたのですが、 「海部氏 系図」によれば、ニギハヤヒは河内の国に天降ったあと、大和国の 鳥見(とみ)の白辻山(生駒山付近)に移ったとあるそうです。 http://www.ryosenji.jp/engienkaku.html ↑ 「霊山寺の所在する富雄の里は、古事記には「登美」であり、日本書紀では「鳥見」の地となっています。」と記されていて、ニギハヤヒが住んだ鳥見と同じ場所ではないかと思えるのです。 ニギハヤヒとトミヒコの妹が結婚して生まれたウマシマジノミコトは物部氏の祖とされています。 なので、霊山寺があるあたりは物部氏の土地ではないかと思われるんですが、物部氏と小野氏には何か関係があるのかな、と思ったりもします。 すばらしい回答をありがとうございました。