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人はなぜ争うのか
- 人は本質的に争う生き物であり、互いの知性理性が抑制することで均衡が保たれている
- 人類は絶え間なく戦争を繰り返しており、裁判所の存在もそれを物語っている
- 『人』のノは互いが頂点で五分に支えているが、実際には力関係が存在し均衡が保たれている
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漢字の原型である亀甲獣骨文字では、人という字は一人の人間を 模したものとされています。ですから、支えあうのでも支配するのでもなく、 人という字はそもそも一身独立し、ただ一人で立っているのです。 そして、自身の独立を疎外する他人が現れたとき、 人は自らの足で立つために、争うのです。 ここで克己も争いではないか、と思われるかもしれませんが、 これは単に人が人としての自己の統合ができていないだけで、 自らの人としての基軸が複数ある状態、つまりは、 内側に他人を抱えているだけなのです。 争いとは、単純なものではありません。 もちろん暴力や搾取といった形を取る場合もあるでしょう。 しかし、まったく逆の、非暴力や慈善という形を取っても、 他人の基軸に反するそれは、まごうことなき他人に対する闘争なのです。 自ら立とうとするかぎり、つまり争う限り、それは人であり続けるし、 争いは全く誇るべきことである、と私は思います。 そして立ち上がることをやめたとき、隷属を選んだときに、 つまり人は何らかの力関係なりがありどうにか均衡が保たれている状態を 現実と定義したときに、争いは終わります。 立つことをやめたそれは、もはや人という字ではなくなるでしょうね。
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- suzumenokox
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わがままとわがままがぶつかり合うから。そして未熟さと蒙昧さから何がわがままかを的確に判断することが難しいから。わがままがぶつかり合う世の中では安心して暮らすことができません。その結果円滑な自己発現からの社会貢献という適材適所の協調体制への流れが阻害され、社会としてエントロピー増大のエネルギーに負けて‘閉塞・衰退・退廃‘の地滑りに飲み込まれる危険性が増大します。そうならないために、自由なわがまま以前の‘社会的動物として避けて通れない前提条件‘をわきまえることが大切になると私は思います。
お礼
回答ありがとうございます。 >わがままとわがままがぶつかり合うから。 利己ですね。人間誰しも利己的なものを有していると思いますが、問題はそれを如何にコントロールして自己を社会貢献へと繋げるかですね。そのためにも社会的動物としての特権ともいえる知性の磨きを怠ることなく高めていかなければならないと私も思います。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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こんにちは。 哲学としての けんか をしなさ過ぎるからでしょう。 けんかを知らないから ようしない。 よって 後先を考えないあらそいのほうへ何故か導かれる。 ★ 争い本能を互いの知性理性が抑制する事で均衡が保たれいる様 ☆ この見方が 言ってみればよわい。 知性理性がまづけんかをする。結論が出るまで議論する。 そうしていれば――《抑制》などというものは糞くらえです―― おだやかな生活の共同性を成り立たせて行けるでしょう。
お礼
回答ありがとうございます。 >哲学としての けんか をしなさ過ぎるからでしょう。 確かに最善の解決法なり結論が出るまで妥協せずにとことん議論するという方はあまり見かけませんね。 特に我々日本人は出来るだけ角が立たないよう丸く丸く収めようとしますから。 知性を究極まで磨き上げるならば争いも相当収まると思います。
- idonoyoko
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「人はなぜ争うのか」 まあよく言われるのは、競争して強くなったり、優れたものが生み出される原動力になっていたりとするなどの説は、黙っていても安易に聞こえて来そうですね。 でも実は、もっと進化した価値に辿り着いた者たちは、競争そのものを愚かな事として認知するようになります。 いつもこの地球のどこかで、銃弾が飛び、テロに怯え、商売敵をあの手この手でやり込め、他者の明日に関しては無関心、更にはそれをも利用して自分の益を貪る隠れた合法悪の横行、そうした教えを義務教育中からも敢行させているような粗末極まりない教育の動機など・・・とんでもないような愚思想愚行為の追行に人類は日々暇がありません。 そうしたことがなくなり、お互いの明日の安心の約束と安心の実現を希求し具体的行動をもって具現しあう存在の日常の方がどれだけ優れ尊いことか。 今のような争いの世を、薦めたり目指したりしている宗教はほとんどなく、あったとしてもそうしたものは胡散臭く思える直感を人間は持ち備えています。 争うより、お互いが支え合っていく状態の方が、実は難しいのです。 つまり今の世は単に「安易な楽な方を採っているいるだけ」というわけです。 幾ら頭が良い人でも、能力を総動員して結果的にそうするのなら、人類の成長の足を引っ張っているだけで、隠された悪の思想ですし愚以外の何物でもありません。
補足
回答ありがとうございます 「安易な楽な方を採っている」ためですね。 しかし楽な方を選択するのは人間の本質ではないでしょうか。 現在洗濯板で洗濯する人はほぼ見かけませんし
- kanto-i
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本質を見失って、目先に囚われたとき争いが起きます。 多分、ほとんどの人は「平和」や「健やか」や「安全」や「安心」などは大切に思うところでしょう。 それを忘れて「自分が楽しい」「自分が嬉しい」のみを優先させたとき、争いになります。 金がたんまり欲しいがあると、搾取や騙すこともいとわない。 を選んだとすると、根本にある平和や安心や平等などが壊されますから。 多くの人に喜ばれる仕事からの、金銭入手という平和的解決を図るやり方を選べば 戦争などの争いにはならない。 与えて得るより、奪い取ることを望んだときに争うわけです。 家庭崩壊も国家崩壊も、争いによって壊れていくのは同じ原理ですね。 子育ても愛情表現より点数を稼がせるやり方は、子供の時間と自分の考えを深めるチャンスを奪ってますね。 何だか崩壊している子供が増えたのは、そんなことかと思いました。 揉め事が多いところをじっくり見ていくと、奪い合ってることが見えてくると思います。
補足
回答ありがとうございます 正に、御指摘の大切なものを優先させることよりも利己的姿勢を選択する在り方、そこが要であると私も思います。 どうして目先に囚われ利己の暴走を抑制出来ないのでしょうか?
- LHS07
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支えあうことが本能ではなくて、基本的には共感することが本能であると思います。 争いも一人では競争することもなく、より深い共感のために、争うのだと思います。 争った後でも、お互いアドバイスとかして話し合いますよね・・・だから。
お礼
回答ありがとうございました
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お礼
回答ありがとうございます。 > ・・・人という字はそもそも一身独立し、ただ一人で立って いるのです。 これは初めて学びました。考えてみれば当然ですよね。この世の人は誰一人同じ者はおらず、一人一人が独自の意思を持っているわけですから。 > 他人の基軸に反するそれは、まごうことなき他人に対 する闘争なのです。 表面上の動静に関わらず、基軸の違う独立人(基軸が同じ独立人は有り得ないが)同士が交わり接するときは争い乃至摩擦が不可避なのも道理としてよくわかります。 > 立ち上がることをやめたとき、隷属を選んだときに、 つまり人は何らかの力関係なりがありどうにか均衡が 保たれている状態を現実と定義したときに、争いは終わります。 この隷属を受け容れる習性こそが人間社会に安定を齎している(社会を機能させている)のかもしれませんね。法や道徳倫理感という怪物に隷属することでこそ。
補足
人は自己内に争い 人は自己外と争い その内外の均衡が保たれてはじめて立つ、といえるのかも知れませんね 「人は立つために争う」と。 人のノは自身の内外に於ける基軸を表しているのでしょう。 この場合、人を国歌に置き換えると解りやすいですね。 そうすると、事実上争いを前提放棄する憲法9条が何を意味するか、考えただけでも空恐ろしくなります。 皆様回答ありがとうございました。