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KYは草の根民主制への第一歩
- KYとは草の根民主制への第一歩ではないか。
- 民主制はクウキを読む必要もクウキをかたちづくる必要もない。それこそ民主制の雰囲気は空気のようなものだ。
- KYは広い意味での会議における同調の風潮を読まないこと。この風潮を読まないKYこそ未来社会への旗手である。
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ようやく質問者のおっしゃるクウキが何かわかったような気がします。感覚的にですが。 つまり、先生の言うことは聴かねばならない、とか、お上が言うのだから従わなければならない、などの、権力による強制力のようなことかなと。 合っていますか? それで大体OKならば、そういうクウキは別に必要ないでしょうね。権力という機能や強制力、決定権については必要だろうと思いますが、立場の上のものが言うのだから、個人的な見解でも自身を曲げなければいけないとか、そういうことは必要ないと思いますよ。 例えば、名画と言われているからといって必ず感動しなければならないなどということがないのと同じで、権威ある人が言うからと言って、従わなければならないなどということはないということですよね。 ただ、権威や権力を持っている人は強制力や決定権、人事決定権なども持っていますから、ある程度言うことを聞かないと自分の立場が悪くなってしまうとか、そういう計算はみなさんあるのではないかと思いますが、苦い話ですよね。 ただ、実際、政権などにしてもコロコロ変わるのは、国民に駄目出しされているからであって、日本の議会制民主主義は、機能している方だと私は思います。 話は咬み合ってきましたか?
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- NemurinekoNya
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こんにちはです。 ちょっと遠回りします。 で、ロールズ大先生の《無知のヴェール》(the weil of ignorance)!! http://note.masm.jp/%CC%B5%C3%CE%A4%CE%A5%F4%A5%A7%A1%BC%A5%EB/ http://kotonohabox.seesaa.net/article/167450382.html KY = 《無知のヴェール》をかぶること と考えれば、 KYでもまったく問題無し。 ロールズ大先生の考えによれば、 《青人草・あおひとくさ》なる《民草・たみくさ》が、たとえ、他人に対して一切興味なし、自分のコトしか関心がなくても、自由・平等などの《正義》(?)を導き出すことは可能なので。 なのですが、ロールズ大先生、大切なことをひとつ隠している。 《民草》は、十分にお利口さんじゃなければならない。ロールズ大先生は、《民草》が《理性》を有し《合理的判断》を行えることを前提としているのだった。 だから、 《民草》がおバカさんだと困るんですよ。 KYを決め込むためには、《お利口さん》になってもらわないと。。。 ちなみに、 《無知のヴェール》の《無知》は《おバカさん》の意味ではありません。 「他の人のことを《知らない》」、「自分の置かれている相対的な位置・立場・境遇を《知らない》」の《知らない》の《無知》です。知識や情報を有していない、の意味です。 だっけ、 ───────── 無知のベールにおおわれれば、自身の位置が分からなくなるため、合理的な利己心によって、すべての人の被害を最少化する「正義の選択」をするようになる ───────── となる。 自己中、つまり、利己心バリバリであっても、冷静に自分の損得勘定ができる《合理的精神》(?)を有してさえいれば、「正義の選択」は可能になるというわけです。 結局、 「日本人に《考える》を望むのは無理なのか?」 http://okwave.jp/qa/q8153007.html ですね~。 結論としては、 西洋人のいうところの《理性》なんて大層なものはいらないとは思うのですけれど、 KYを決め込むためには、 相手のつく《嘘》だけは敏感に嗅ぎつける《嗅覚》が、もしくは、自分が損をしないように自分の損得勘定程度は行えるチカラが必要である。 そして、 その場で醸し出されるお上のご意向・クウキに対して徹底的に鈍感であることに徹し、そのクウキを「察しよう」と考えてはいけない、そんなことを思ってもならない、 と思うんですが、わたし。。。 日本人が《青人草》、《草人間》であることは、古事記のこの記述 ───────── イザナギ 「汝(いまし=桃)、吾を助けしがごと、葦原の中つ国に現(うつ)しき《青人草》の。。。」 イザナミ 「愛(うつく)しき我(あ)が汝兄(なせ)のみこと、かくしたまはば、汝(いまし=イザナギ)の国の《人草》。。。」 ───────── より、あ・き・ら・か(笑)。 日本人はイザナギを祖とする《アマテラス世界》の人間である、と考えちゃ~いけない。 日本人は、《草》、《雑草》でさあ~。 《あしかび》さんから生まれたんでさ~。《あしかび》さんのごとく自然発生したんでさぁ~。 大地を離れて、お二階に上がったら、たちまち枯れてしまう。 生命力や活力が失われてしまう。 日本人は《草人間》だから~、 ひょっとしたら、 西洋人のいうところの《理性》をもっていないかもしれない(笑い)。。。 ロールズの無知のヴェールを足がかりにして、 こんなことをすこし考えてみました。
お礼
そうですね。何やらどこかに社会としての仕掛けがあって ひとつにそれは地雷のようであるので踏まないように注意することであるとか ひとつには落とし穴のようであるので地雷と同じように探知しつつ歩かねばならないであるとか なかなか大がかりな舞台装置がありそうな感じを受けましたが――おっと まづは ねむりねこさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。―― そんなことでもなくて 単純に《エポケー》していればよい。といったことなのでしょうか。いや まだ分かりませんが。 つまりまづ ▲ (無知のヴェール) ~~~~ http://note.masm.jp/%CC%B5%C3%CE%A4%CE%A5%F4%A5%A7%A1%BC%A5%EB/ 「無知のベール」とは、自身の位置や立場について全く知らずにいる状態を意味する。 一般的な状況はすべて知っているが、自身の出身・背景、家族関係、社会的な位置、財産の状態などについては知らない、という仮定である。 ~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ というのは 単純に思考を中断する《エポケー》のことかと思いました。 ただし そのあとでは すでに前もって これこれのかたちで思考をせよという指示も付いているのですね。 ▲ ~~~~~ 無知のベールにおおわれれば、自身の位置が分からなくなるため、合理的な利己心によって、すべての人の被害を最少化する「正義の選択」をするようになる、というのがロールズ教授の教えだ。 ・・・自身に戻ってくる損が最も少ない方を選ぶようになる。 自身の強みと相手側の弱みが分からないからだ。 ~~~~~~ ☆ 《合理的な利己心》によってそれぞれがみづからにとって《損失の最小化》を目指すように思考するのだと。 それが 社会的な公正という意味で正義ということなのでしょうか。 《自身の位置や立場について全く知らずにいる状態》ということは 社会の中における《自身の出身・背景、家族関係、社会的な位置、財産の状態などについては知らない》ことを意味するというなら けっきょく《知らない振りをする》というよりは 社会という大通りを歩きながら《自分自身にかんする情報は 地雷だと思えとか そこは落とし穴だから 回り道をしなさいとか》そういうふうに振る舞うということでしょうか? まわりくどい。とまづは思いますね。 《合理的な利己心》は――No.1でアダム・スミスの話が出て触れたところの《人びとから同感を得られるような利己心》とも言いかえられるようですが―― だったらすでに初めから《自己の利益を追求》していても それほど違いはないようにも思われます。 ただし別の側面で違いがあるかも知れません。スミスの同感に裏打ちされた利己心は 相手の利己心にもはたらきかけ 互いにその利己心を満たそうとする行為だと考えられるからです。 つまり《損失の最小化》と言うよりは 互いに《利益の互恵性》を図ることであるという側面です。 あるいはそして別段 《社会的な公正や正義》を意識しているわけではありません。結果としては 社会の利益を富ませる。 ところで クウキを読まないという KY が どういう情況で現われるかと言えば: それぞれ互いに損失の最小化を図る もしくは互いに利益の実現を目指すというとき 一般にその社会の政治的な権力や経済的なチカラを持つかその持った人びとに近くあるかする人びとが 既得権益を保守するために人びと一般の上に何らかのクウキを漂わせて自分たちの意向にしたがわせようとする。そのときそのクウキを読まない。ということだと思いますが そこで《無知のヱール》をおのおのがかぶるなら どうなるか? これは 保守の側の思うがままそのクウキのただようがままになる。ということではないのでしょうか? でも そうする。というわけですが ではそのとき《損失の最小化》や《利益の共有かつ分配》は どうなるか? けっきょく社会の指導層の画策するがままに そして多少は損失の回避や利益のおこぼれに与かりつつ ことは成るということでしょうか。 《クウキ》の問題は 純粋理論によってはと言いますか幾何学的な論理の充用によっては 埒が開かないのではないでしょうか? すなわち もし ◇ KY = 《無知のヴェール》をかぶること ☆ だとすれば この無知のヱールをかぶるのは 従業員だけではなく経営者もそうすると説明されていましたから けっきょく政治家らも皆そうするということであり つまりは みんながみんな 《 KY 》になる。ということになりそうです。 これは 見込めませんよね? ロールズの議論はそれとして使えるかもしれませんが たぶんこの問題ではまだよく分かりませんでした。どうでしょう。 ◇ ~~~~ 日本人はイザナギを祖とする《アマテラス世界》の人間である、と考えちゃ~いけない。 日本人は、《草》、《雑草》でさあ~。 《あしかび》さんから生まれたんでさ~。《あしかび》さんのごとく自然発生したんでさぁ~。 ~~~~~~ ☆ これは イザナキとイザナミ夫婦の世代から次の世代において 姉のアマテラスと――長男のツクヨミと――そして次男のスサノヲ これら三はしらの神々のあいだで 《アマテラス公民-スサノヲ市民》の連関制が出来たということであって それ以前には 父親のイザナキも母親のイザナミもいる世界があった。あるいは あしかび(葦黴)から生命が始まっているといった世界。 スサノヲは アマテラスらのいるタカマノハラを追いやられたゆえ アシハラのミヅホの国に住んだ。そこから――つまりアマテラスの〔じつは おそらくスサノヲとのあいだの子のその子すなわち〕孫がアシハラに降り来たったところから―― お二階の住人たる公民アマテラスと一階に住む市民スサノヲとに分かれた。 初めっから この二階建ての家になっていたわけではないということ。 民草であり うつしき(現実の)青人草だと言うそうです。
- kurinal
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B様、こんにちは。 「主張」があって初めて、取り上げて(吟味して)もらえるのであって、 例えば、今日びの若い女性は 「社会保障が老人に偏っているせいで、自分たち(若人)は、生涯まともな結婚ということが出来ないかも知れない」(→若年層にも一定の「保障」を!)と主張し始めている。 対して、老人たちが手厚い社会保障を要求(主張)したのかというと「それが当たり前」とか「権利だから」というだけだろう?・・・「老人たちに手厚い社会保障を!」という主張を、見ただろうか? そんな「主張」があったとして、若者たちが首肯するだろうか
お礼
K さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 ★ 「老人たちに手厚い社会保障を!」という主張を、見ただろうか? ☆ すなわち 高齢者ないし先発の世代に社会保障が厚いというのは 主張を聞いたことがないにもかかわらず 現状がそうなっている。これは 明らかな言葉では言い表わされてないところのクウキによって そうなっている。――ということでしょうか? でもこれは 初めからの仕組みの内容であるのだから あとは 実態に合わせた内容に改善するだけのことではないのですか? 年金の支給年齢を遅らせるとか。 ★ そんな「主張」があったとして、若者たちが首肯するだろうか ☆ ですから いまからの改善という話ではないですか? あるいは ★ ~~~~ 例えば、今日びの若い女性は 「社会保障が老人に偏っているせいで、自分たち(若人)は、生涯まともな結婚ということが出来ないかも知れない」 (→若年層にも一定の「保障」を!)と主張し始めている。 ~~~~~~~ ☆ こういった主張が出始めていても それは上からのお墨付きのクウキになるのでなければ現実にその声が通るのは むつかしい。ということでしょうか。 《クウキ》は わたしたちの前に壁のごとく立ちはだかりますか?
- 雪中庵(@psytex)
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民主主義は、利己主義とは異なる。 むしろ相性が悪い。 民主主義は、単なる自己主張の場ではありません。 民主主義の核は、多数決だけではなく、少数派の意見を 無視する事なく、論議を尽くして相互理解を深める事です。 それは単に議論するだけでなく、互いの立場を理解し、 社会貢献の見地から、短絡的な利己を抑制する事も 肝要です。 人の迷惑を顧みず、ルールを無視し、利己や自己顕示の ための自己主張を続けるのとは、自ずと異なります。
お礼
ご回答をありがとうございます。 果たして回答であるのか うたがいますが 強いてそうだと受け留めるとすればですが: ☆☆(趣旨説明欄) ~~~~ KY はダメだと言われるときのクウキはそれをも読むことだけは読んでおいたほうがよいはずだが 読んだ結果として KY という現象が起きても構わないし 起きたほうがひとは よりいっそう自由である。 ~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ここなどに対して ★ ~~~~ 民主主義は、利己主義とは異なる。 むしろ相性が悪い。 民主主義は、単なる自己主張の場ではありません。 ~~~~~ ☆ と考えるとの自己主張を示して回答するところとしては: 1. KY と言われる《クウキを読まない》姿勢と振る舞いは 煮詰めて言えば《利己主義》である。 2. 利己主義は 民主制とは違うので 将来の草の根民主制に向けて KY が何か役割りを果たすとは思えない。 こういう内容でしょうか? でしたら・もしそうだとしたらですが 借問します。 3. 《利己主義》とはどういう思想で 《民主主義》とは何であるか? 定義ないしもう少し詳しい説明をしてください。 4. たとえば古いところでですが アダム・スミスは むしろ個人の利得となるところを一人ひとりが追求しつつ 社会公共の利益を大きくしていくといった考え方を提起しています。早く言えば 博愛主義だとか利他主義だとかという――自己の生きることおよびその利益をむしろ返り見ないところの――思想をしりぞけています。 4-1. むろんスミスの場合には その一方でいわゆる《同感 sympathy 》の理論を説いていて けっきょくその利己的な行動についても他人や社会が妥当だとみとめる中身であることを要請しているわけです。 4-2. さて あなたの定義する《利己主義》とは そして《民主主義》とは 果たして現実性があるのでしょうか? 5. スミスの見解がいまも決して《少数派》ではありませんが あなたの文面がどこへ向かっているのかと推察するなら 《〈単なる自己主張〉をおこなうだけの少数派》をなじっているというところでしょうから言いますが 5-1. 《自己主張》と《単なる自己主張》とそして《自己主張ではない自己表現と言いますかつまりはひとに向けての発言》 これら三つの区別は どのようになっていますか? 5-2. もしそれら三つの区別が妥当性を持った内容としてみなさんにみとめられないとすれば 《少数派》というものに対しては ひとまづ無条件にそれとして《無視することなく 議論を尽くして相互理解を深めること》が大事なのではないですか? 6. 重ねての問いかけになります。 ★ ~~~~~ それは単に議論するだけでなく、互いの立場を理解し、 社会貢献の見地から、短絡的な利己を抑制する事も 肝要です。 ~~~~~~~ ☆ このとき やはり用語の内容がはっきりしません。 6-1. 《社会貢献 ないしその見地》 これが自明だとは思えません。(4)等で触れたように 個人の生活のためとしてその利益を追求することがむしろ社会の富を増進するという意味では貢献することが出来る。場合がある。ただ単に社会貢献と言っても どうすればよいかは 自明ではありません。 6-2. 《利己》が そのようにその中身についてやあるいはそれのもたらす結果について 幅広い意味合いがあるのは別としても それが《短絡的》だというのは これまた 自明ではありません。(4)の議論からすれば 《同感》が得られない内容としての利己ではないかと こちらが推測しはしますが けれども《短絡か長考か》によって《同感の可能性》は決まりません。短絡的な思考としての利己であっても 人びとの同感を得て 社会貢献をなすことが出来る場合もあるのです。 6-3. 《互いの立ち場を理解し》と言っていますが 果たしてあなたが今まで 相手の立ち場を理解し相互理解に到るようにつとめたことがありましたか? つねに回答しっぱなしです。しかも同じ文句でです。 7. ★ ~~~~~ 人の迷惑を顧みず、ルールを無視し、利己や自己顕示の ための自己主張を続けるのとは、自ずと異なります。 ~~~~~~~~~~ ☆ この中で《ルールを無視する》ということは さすが なさっていないようです。そのほかのことは 敢えて民主制にもとづく発言をこころがけるなら 《人の迷惑を顧みるかどうか / 利己 / 自己顕示 / それらのための自己主張 / しかもそれらとしての同じ振る舞いを延々とつづけること》 これらは〔敢えて民主的な発言をこころがけるなら〕けっきょくお互いさまですよ。 7-1. もしご自分の自己表現としての投稿が《人の迷惑をつねに省みており 利己ではなく自己顕示でもなく しかるべき自己主張をおこなっているのみである》と言い張るのなら そう言ってみなさい。 言うだけでよろしい。検証しようとも思いませんから。言うだけでよろしい。ただしみなさんが 証人となります。
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お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ ~~~ つまり、先生の言うことは聴かねばならない、とか、お上が言うのだから従わなければならない、などの、権力による強制力のようなことかなと。 合っていますか? ~~~~~ ☆ ええ。さらにふりかけをつけ添えるなら それはすでに言葉で伝えることを超えているというのが ミソです。 先生や先生の意をいだいた親らが 生徒らにすでに顔をしかめるだけで 《言うことを聞きなさい。したがいなさい》という意味のことを伝え得ているなら それは《クウキ通信》です。 つまりは お上が言っていることに逆らおうとしたら その場の周りの人たちが一斉に声も音も立てずにブーイングをし出したとか そのしかめ面だけで その人の心を決めつけようとする。出る杭を打とうとする。そのような情報通信のあり方。 ★ 立場の上のものが言うのだから、個人的な見解でも自身を曲げなければいけないとか、そういうことは必要ないと思いますよ。 ☆ ええ。このことです。そして 歴史上そのようなしかるべき潮の流れをかたちづくろうとしているのは じつは KY と呼ばれるその行為ではないか? というところまで議論を伸ばして問うているわけです。 上層部が言うのだからと言っても 問題は何を言うかその中身であって 誰が言ったかは関係ない。そんな子供だましみたいなクウキ通信は どうでもよい。――と KY の人が言っているとしたら それこそが あたらしい時代の幕開けなのではないか? しんじんるい。 ★ 例えば、名画と言われているからといって必ず感動しなければならないなどということがないのと同じで、権威ある人が言うからと言って、従わなければならないなどということはないということですよね。 ☆ このことを KY の場合は 身をもってからだで表現しているはずです。 これは もともとそういう振る舞いの仕方が 自然で人間的で道理にかなっていて 人間にとってきわめて自由な・希望に満ちた人間のすがたなのではないか? ★ ただ、実際、政権などにしてもコロコロ変わるのは、国民に駄目出しされているからであって、日本の議会制民主主義は、機能している方だと私は思います。 ☆ これはですね。たぶん――いえ そういう事態なのだと思うのですが それでも何かあたらしい潮の流れを嗅ぎ取ろうとするならば―― おもには外国との関係において 《クウキ通信》による権威づけや権威の保守が必要だと人びとにおいて考えられたからではないかと思います。 原発事故での対応のまづさも――つまり国内問題も――かかわっているでしょうが 情報隠しにかんしては 自民党も同じようなものだと思われますから おもに国際関係における危険さのような思いが 政権をふたたび昔の政党にもどした。のかと思っています。 ★☆ 話は咬み合ってきました〔ね〕。
補足
● 宇宙の法則 ☆ とは 人間が知ることのできるものなのですか? 知ることが出来るとすれば それは 神ではないでしょう。 なぜならば すでに人間の知識の中におさまるものだから。 人間の知識の内容をもって 神として作ったとなります。 ぢゃあ 何でも神として作ることが出来ることになります。 鰯の頭に 宇宙の法則が凝縮されているのだから イワシノアタマが 神なのだと言えることになります。 知り得ないとすれば それは 神ですが その神の名前は 何でもかまわないとなります。 アルケーに限りません。知り得ないのですから アルケーであるとも知り得ないのです。 ただし仮りに ブラフマンとでもヤハヱーとでもあるいは《無い神》とでも 自由に名づけて自分自身の神とすることが出来ます。 神とは そういう存在(ないし非存在)です。 思考における論理を超えています。 無根拠として存在します。 この無根拠を心にいだくときひとは 意外とチカラが得られるものです。 そのパタンには 無根拠すら無いととなえる無神論もまったく同じかたちで入るのです。 無根拠は 無いと言われてもビクともしないからです。 問題は タコツボ問題です。閉じるかひらいているか。 ふとつの名前の神が唯一だとは 言っても自由だとは言え 人間は知り得ないのです。つまり断定できません。 ぎゃくに《全体としてただひとつの神》とは言えます。無根拠とは そういうものです。 その神の名前が さまざまに呼ばれている。そういうかっこうです。 全体という蛸壺なら それはひらいています。全体より大きいものはないからです。