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ローシャルハットの壁
私は壁を見た ひび割れて、少し崩れた粗塗りの土壁 そこに顔を見た 貌という顔 私自身の投影に他ならない 意志が感性の自由の傍観者である時 感性は時に異様なものを見せてくれる 絶望という傍観者の顔を そう 私はその顔をなぞる 幾枚かの壁のうちの二三枚で済む ・ ・ ・ ・ ・ 二日置いて、私は壁を見に行った そこに顔は無かった 崩れずに残った平面がアメーバのように、崩れた部分を覆うように伸びてゆく 土壁は死んではいなかった けれど顔を見せなかった 雨の中で 二日前と全く同じ位置と角度で見ていた はずなのに ・ ・ ・ ・ ・ 感性は変化する 傍観者に二度と同じものは見せない 粗壁を仕切る数本の柱が、黒ずんだ柱だったとは前に気付かなかった 長さ五間の三尺間に立てられた柱は 十枚の壁を連ねているとは知らなかった 古びた建物の全景は、雨の中で一つのものに見えた ・ ・ ・ ・ ・ 私はローシャルハットのテストを受けた 自ら進んで受けたのではない 偶然というその機会は 感性が 意志が傍観者である事を許さぬ証明なのだろうか ・ ・ ・ ・ ・ 意志に絶望はあっても、感性に絶望は無い 絶望を示すという感性は、まだ意志を離れきってはいない 壁に現れた私の顔は無言で語りかける 私はそれに何も言うことができない 壁というローシャルハットの絵柄は 実に鮮やかに、私を映し出してくれた 人はどこまで感性の自由の傍観者であるべきなのだろう?
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- 雪中庵(@psytex)
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「ロールシャッハ」テストは、多様な解釈が可能な図形に、 人の潜在意識が反映して図像を見させる、というものです。 拡大解釈によっては、人の認識は本質的に感受表面での量子 相互作用パターンにおいて(五感の相関した経験の蓄積= 記憶=自我仮説により)先行感覚(光、音)に対して遠くに 行った時の生理的作用(味覚、触覚etc.)を励起させる (予測)事によって生じる時空的広がりの感受も、等価性に 由来するロールシャッハテストだと言える。 その感受表面での量子相互作用に表れるパターン性とは、 各瞬間毎に過去(超光速)と未来(光速下)に対発生する (階層表面的な定性化による仮想的な非光速性に基づく) ものを、過去への超光速=虚数エネルギーを、過去からの 負エネルギーの等価(ベクトル空間では自乗で作用するから) として時系列化する事で、その根底にある自我仮説性(記憶 =進化=超弦>クォーク>素粒子>原子>分子> 細胞>脳(認識体))の相補として、その内なる原理的な階層 現象性を「自我成立のための必要」として、パターンに反映 されたものだからです。 単純な意識では、自己(肉体)と対立し困難を生じる果て しない環境性を見させるが、認識の深まりにより自己存在の 必要として、愛とその充足に満ちたものになり得るのです。
- Tefu_Tefu
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こんばんは ローシャルハットの壁 私は壁を見た ひび割れて、少し崩れた粗塗りの土壁 そこに顔を見た 貌という顔 私自身の投影に他ならない 意志が感性の自由の傍観者である時 感性は時に異様なものを見せてくれる 絶望という顔を そう 私はその顔をなぞる 幾枚かの壁のうちの二三枚で済む ・ ・ ・ ・ ・ 二日置いて、私は壁を見に行った そこに顔は無かった 崩れずに残った平面がアメーバのように、崩れた部分を覆うように伸びてゆく 土壁は死んではいなかった けれど顔を見せなかった 雨の中で 二日前と全く同じ位置と角度で見ていた はずなのに ・ ・ ・ ・ ・ 感性は変化する 傍観者に二度と同じものは見せない 粗壁を仕切る数本の柱が、黒ずんだ柱だったとは前に気付かなかった 長さ五間の三尺間に立てられた柱は 十枚の壁を連ねているとは知らなかった 古びた建物の全景は、雨の中で一つのものに見えた ・ ・ ・ ・ ・ 私はローシャルハットのテストを受けた 自ら進んで受けたのではない 偶然というその機会は 感性を雨で濡れた壊れかけの壁に映し出し 意志が傍観者のごとく振舞う ・ ・ ・ ・ ・ 感性に絶望はあっても、意志に絶望は無い 絶望を示すという感性は、まだ意志を離れきってはいない 壁に現れた私の貌は無言で語りかける 私はそれに何も言うことができない 壁というローシャルハットの絵柄は 実に鮮やかに、私を映し出してくれた 偶然にも意志から感性が自由になる時 傍観者は静かに貌を見つめている。 答え 人は意志から感性が自由になる時 ゾーン体験になれば問題ないので それまでの知識や経験が意志を決める。
お礼
ありがとうございます。 >ゾーン体験 スポーツ選手が、極度の集中状態にあり、他の思考や感情を忘れてしまうほど、競技に没頭しているような状態を体験する特殊な感覚 時間感覚が歪みボールや人の動きがゆっくりに見えたり、極端な時は止まって見えたりという事や、疲労を感じにくいという事が起きている >ゾーン体験になれば・・ よく言いますよね 「入った」とか「入っちゃってる」とか 体験としての共通性みたいなものはあると思います 感覚の集中は それまでフリーで働いていた直感の分まで動員してしまう、のかもしれません 通常における直感の働きは、感覚外にも向けられているフリーな部分があると思います 余力があるという見方もできると思います その分まで感覚に動員し連動した時に、ゾーン体験が起きるのかもしれません 意志による感覚と直感の制御の世界であれば 意志による感性の制御と見なすことができると思います 通常感覚とは異なった状態であっても、それは異常なものではなく 意志における想定内のものであったという・・ >問題ないので・・ と、仰るようになるのでしょう 感性が意志の制御の範囲に納まっていれば、問題ない・・ そうだと思います では 感性が意志の制御を求めた場合は、どうなのでしょう 大きな?マークを突き付けられた場合です 意志が必要とせず捨ててしまうか 或いは、どこまで捨ててよいのかという選択が、傍観者の立場を決めるのでしょう 感性が意志に与えるものは 意志が受け入れられる範囲のものでしかない、と仮定すれば 意志が感性に対して無制限であることが正しい立場なのかもしれない でも そこには一種の怖さ、恐ろしさみたいなものがあるような気がします ためらいが生じてしまうのです 一種の通過点を過ぎてしまうと これでいいのだろうか、という疑いが生まれてしまう 次に来るものは、今までにないものが来る・・ ことだけは確かです だが 私という意志は、それを拒否することができない 意志が知る、知ろうとする範囲外のものが示されてしまう という 私という小さな意志に対する挑戦状を退けることが出来ないのです・・ つまり 私は弱い、意志薄弱なのでしょう 正しい立場どころか 取るに足らぬ事を気にかける 弱虫であるという 弱虫の見た世界・・ そう 蹴っ飛ばしてもらった方が、気が楽になりそうな感じもします。
補足
壁がどのように見えたのか という事を状況説明を交えて述べておきたいと思います。 それは 顔ならぬ顔、貌というお化けがどのように出てきたのか という事でもあります。 たぶん 私と同様の体験をもっている方もおられると思います。 感性の怪物がなぜ出てきてしまったのか また 出てきてしまった秘密みたいなものが、そこにはあると思っています。 平面に対する鑑賞という秘密です。 その私の解釈はまだ浅い段階です。 どなたかヒントを示してくだされば幸いです。 以下、実写・・ 6月某日、急ぎの所用を済ませて帰り道 小さな川の堤防の道端に車を止めて、電話連絡の用を足した 小さな川といっても対岸の堤防までは約20mくらいはある 水面はかなり下の方だ 狭い道で、ところどころに車どうしがすれ違えるように広くなっているところがある その広くなっているところの、左側の白いガードレールすれすれに車を止めて、右側を車が楽に通れるようにした 電話連絡の用が済んで、一息ついた感じだった 車の窓から、右側の方を見ると、堤防の下に家や木が見えた 堤防に沿って家がまばらに続いている ちょうど車の窓の向かいに、古い農家の長屋が見えた 堤防の上からの眺めなので、長屋の上の方の壁がよく見えた 車を止めた道路の反対側には、草が茂っていて、その先には堤防の下にある木もかなり茂っていた 長屋は、それらの緑に包まれた中にあった 長屋は堤防のすぐ下に、道路と並行する形で建てられていた そのへんではよく見かける古い長屋だ 粗壁がまず目に入った ベージュ色の壁が、ちょうど目の高さに横になって続いている 屋根は、あまり良くない瓦なのだろう 屋根全体のグレーの色に濃淡がかなりある その下に粗壁があって、少し対象的な色合いにも見える 粗壁をぼんやりと、懐かしさもあって見ていた 横に続く壁の右寄りのところが、ちょうど目線の向かいになっていて、自然と目に入った 粗壁という言葉が、どうしても荒壁という言葉になって出てくる 漆喰がかかっていない、土で塗っただけの壁は子供の頃の自分の家の壁と同じ感じだった 薄いベージュ色で、藁混じりの土は、荒木田というもので、たぶん近くの畑や田んぼから取ってきて用いたものだ 藁も、その農家で収穫した稲の藁を使っていたのかもしれない 押し切りという道具を使って切っただろう藁の長さは、2、3cmぐらいだと思う 壁を仕上げるためには、この粗塗りの上に砂ずりといって薄いモルタルを塗り、それから白い漆喰をかける でも、お金をかけられない農家では、粗壁のままずっとしてあったのも多い 長屋だけではなく、母屋でもそうだった 私が育った家も、幼い頃は全て粗壁だった ぼんやりとそんな事が浮かんできた 藁が混じって、微妙な凹凸がある土の壁をじっと見ていた ひび割れがたくさんあって、固く折れ曲がったような黒い線が走っている 壁の下の方には崩れたところもある 縦と横の格子状に組まれた竹が、崩れたところの覗いているのは、何となく異質なものがあるといった感じだ 子舞い、といって真竹を細く割って、細い荒縄でからげて結んである もう何十年も経っているのに竹は腐ってはいない 秋から冬にかけて切った竹は腐りにくい その色は壁の色とほとんど同じだが、少しだけ色が濃いように見えた 上から下にかけて見ていったのだが 壁面の端から見ていったとは思えない 視線の突き当りの少し右斜め上から、左斜め下に向かって見ていったような気がする ひび割れの線を見ながら、下の崩れて竹の覗いているところに向かって見ていったと思う じっと、ひび割れを見ていって、目線が竹の格子のところにゆくと それは余りにも急に感触が変わってしまう感じだった 壁の平面が無残にも剥ぎ取られて格子が覗いている 格子の縦と横の奥行きのある空間が急に現れている 柱で仕切られた幾枚かの壁があって 初めに見た壁を見てから、左側の壁に視線を移した こちらの壁は、大きく崩れていて、竹の格子も大きく覗いている いや まてよ 違う 二枚目の壁はほとんど崩れていなかった (後日確認した) ひび割れの線だけがかなりあったのだが、壁のつづきという感じで、飛ばして見ていたのかもしれない 一枚目の壁から三枚目の壁に視線が移るのが早かったのだろう (後日確認した状態では、壁の内部にある貫き板に沿って横方向のひび割れの線がかなり強い感じで走っていた、だがこの時は気がつかなかった) 三枚目の壁をゆっくり見てからだったと思う 視線をゆっくりと、最初のあたりにもっていこうとした時だった 今まで見た、ひび割れや竹の格子を逆に見てゆく感じだった もう一度その感触を確かめるように視線を戻していった そして、最初の壁にまで行った時だったと思う 柱で仕切られた一枚の壁が、それまで一枚のものには見えなかったのに ひび割れも格子も含めて一つのものに見えた それが、じっとこちらを見ている 黙っている感じだった それは自分のように見えた 何も言わない、もう一人の自分がじっとこちらを見ている きれいでないその顔を自分のように感じた 目をゆっくりと左側の壁に移していってみると 壁の模様は違うのだが やはり自分がいるような感じだった 口をつぐんで黙っている自分がいる そしてまた右へ行っても同じだ 数回繰り返して見ても 暗く押し黙った自分の顔が現れる また 出たと思った 以前に見た光景とは違うが 垂直の平面に現れる怪物だ 前にもそれを錯覚だとは思わなかった 単に見間違いという代物ではない 深く見ていくと出てくる それは何となく重い感じがする 見ていた時間は分からない 今回もそうだった せいぜい10分ぐらいだったろうか たぶん実際の時間はそれよりもずっと短いはずだ 否定できない暗さ、というか そうしたものを訴えかけてくる感じだった それに対して、何とも言いようのない感じがした 怖さは少しあったと思う でも、それ以上に惹きつけられたような感じだった それから 何かを置いてゆくような感じもしたが 少し重くなった気持ちのまま 車を走らせた。 二日後 もう一度見に行った それは そこにまた自分が見えるのかどうか という事と 壁という縦の平面を、実際どう見ているのか という疑いからだった 絵画の鑑賞における見方の秘密みたいなものがあるのではないか という疑問だった 絵は目線に対して向きあう形で縦に置かれている、というごく当たり前が、実は当たり前ではない という感じがした 鑑賞の目線は対象の中央からではなく、少し上の右から始まっているのではないのか・・ いろいろな疑問が湧いてくる そのうち美術館に行ってみようと思う 誰か 視覚における平面の解釈を知っているなら教えてほしい たぶん化け物や幽霊の謎解きもそれでできるかもしれない 仰向けになって幽霊を見た話は聞かない・・からだ 上を見れば雲という大きな明暗の怪物は見ているんだが・・ 擬人的という怪物に出くわすのには、何らかの条件のようなものがあると思う 以上。
お礼
ありがとうございます。 >認識の深まりにより自己存在の 必要として、愛とその充足に満ちたものになり得るのです。 私自身の影を知り、私自身を愛しなさい という事でしょうか 私自身が たとえどのような私であっても 私に他ならない以上 私という自分を捨ててはいけない そうなんです 弱虫が弱虫を捨てようとしても 捨てきれない 捨てようとするから 捨てられない 弱虫でいいという優しさから この世界を おそるおそる もう一度眺めてみる 案外きれい だったりして・・
補足
見たものが 私を見ている 見たはずのものが 私を見返している 心を宿したつもりは無いのに いつの間にか 見られている 私の眼は誤っていたのだろうか 眼という手で 壁を触りすぎた 触ることが 触られる事でもあるように 異質な壁という存在は 私の一部になってしまった 絶望という絵を手に入れても まだ終わらない 記憶という平面の 現れては消えてゆく一部が そこにあったとしても まだ見つけなければならないものが 待っているのだろう 固く口をつぐんだ壁の顔が そう言っている 刻まれてゆく時の狭間に 意志の盲目を呼び覚ますかのように ごまかさず それは 暗いまま じっと 私を見て向いたままだった ひび割れて 崩れた壁の顔は きっと 何かに耐えていたのに違いない それを知っている私は だから 一言も言えなかった